Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

天主は世の創造以前から、キリストにおいて聖母を選び、愛によって、ご自分に聖であるもの、汚れないものとするために、み旨のままに、イエズス・キリストによって聖母を聖子の母にしようと予定された

2019年09月18日 | お説教・霊的講話
2019年9月7日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 小野田神父説教

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2019年9月7日、初土曜日のミサを行なっています、聖母の汚れなき御心の随意ミサです。

今日は月の最初の土曜日ですから、ミサの後に、その信心をする為に御聖体降福式を行ないましょう。御聖体を皆と一緒に礼拝致しましょう。

次のミサは、9月29日、大天使聖ミカエルの祝日です。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


愛する兄弟の皆さん、今日は初土曜日で、マリア様の汚れなき御心の信心を行なう日ですが、特に明日はマリア様の御誕生日なので、一足先に、マリア様の御誕生について、

⑴何で一体、カトリック教会では、マリア様の御誕生日を祝うほど、マリア様は大切なのか?なぜ教会は、カトリック教会はマリア様を大切に思っているのか?一体、私たちにどんな関係があるのか?という事を黙想して、

⑵今日、では遷善の決心に何を考えたら良いか、という事を一緒に黙想致しましょう。


⑴聖書によると、新約聖書によると、マリア様の御告げ以前の事については、マリア様がどのように御誕生になったのか、という事は詳しく分かりません。しかし言い伝えられたところによると、マリア様のお父様は聖ヨアキム、マリア様のお母様は聖アンナ、二人は子供が無かったけれども、しかしとても信心深い、天主ヤーウェにいつも祈り、奉仕していた夫婦で、アブラハムとサラ、あるいはエルカナとアンナ、その他ヤコブとレベッカ、あるいはその他旧約時代のこの夫婦を更に超えた、熱心な、そして清い夫婦だった。

「おそらく新約聖書のルカの福音にある、『エリ』と言う名前が、『ヨアキム』の事だ」と、教父たちは言います。なぜかというと、『エリ』というのは、『エリアキム』の省略形だからです。エリアキムの中の『エリ』というのは、天主(エル)のことで、ヤーウェの別の言い方です。『エリアキム』というのは、「エル」が「ヤーウェ」に変わると、それが『ヨアキム』となる。だから『エリアキム』は、『ヨアキム』と同じ意味の名前だから、実は「エリ」(=エリアキム)はヨアキムの事なのだ、と教父たちは言うからです。

おそらく旧約聖書を見ると、その生まれるべき子供について、特別な任務を持ったものであれば、天主はヤーウェは、「その子供はどのような子であるか」という事を告げ知らせているので、おそらく聖ヨアキムと聖アンナも、この生まれるべき子供を身籠った時、マリア様が身籠った時に、おそらくどのような子供であるか、という事を知らされていたかもしれません。

そしてマリア様の名前を、『マリア』というのを決める時にも、特別な息吹が、特別に心を動かされて、「マリア様」という名前を付けたに違いありません。「ヘブライ語では“ミリアム”そして当時話されていたアラマイ語という言葉では“マリアム”という名前だ、そしてそれがマリア様だった」と。「意味は、『女主人』であり、『女王』であり、そして『女教師』である。」

「でもマリア様は実は、その名前の語源よりも、更に実際に、この世に創造主を、天主の聖子を、イエズス・キリストをお与えになる方として、更にこの王の母、天主の母となるべき方であったので、まさにこの『マリア』という名前は、相応しかった」と言います。

聖パウロによると、こう書かれています、「天主は世の創造以前から、キリストにおいて私たちを選び、愛によって、ご自分に聖であるもの、汚れないものとするために、み旨のままに、イエズス・キリストによって私たちをご自分の養子にしようと予定された。」

有名なエフェゾ人への手紙の最初です。
「主イエズス・キリストの父である天主をたたえよう。かれは、天上から、キリストにおいて、私たちを、霊のすべての祝福でみたされた。天主は世の創造以前から、キリストにおいて私たちを選び、愛によって、ご自分に聖であるもの、汚れないものとするために、み旨のままに、イエズス・キリストによって私たちをご自分の養子にしようと予定された。それは、愛する子によって、私たちに無償でさずけられた恩寵の光栄のほまれのためであった。」

ところで、もしも私たちの、罪を犯すような私たちが、罪人である私たちが、天主の子供として、永遠の昔から、天主の考えの中にあって、そのように定められたとしたら、天主は全くの自由意志を以て、何千何億何兆の色々な無限の可能性の中から、全能の力を以て、その全能の全知を以て、自由に、ある被造物を選びました。

永遠の昔から、この被造物を、たった一人の被造物を選んで、「この被造物こそが、天主三位一体の、天主聖父の特別の愛を受ける被造物だ」として、選ばれたのです。

そして、この全くの自由意志を以て選ばれたこの被造物から、被造物から、天主三位一体の聖子が生まれる事を望まれました。全くの自由意志を以て、自由に、永遠の昔から、この被造物に、聖霊は全く注がれて、「この被造物と一致合体しよう」と、「聖寵の満ち溢れを与えよう」と望まれました。

この特別に選ばれた被造物というのが、天主様が全く自由に選んだ方で、それが明日誕生日を祝う、マリア様です。

「永遠の昔から、私たちを天主の子供として、」聖パウロが言うには、「私たちを選んだ。」その自由を以て、天主はマリア様を特別な女性としてお選びになりました。聖子を全て与える方として、その方を選びました。

聖父・聖子・聖霊、三位一体全ては、この女性を、明日私たちが誕生日を祝うその女性を、特別に愛されて、特別の選みを与えました。

私たちは、永遠の昔から天主の子供として選ばれたとしても、残念ながら、どれほど罪を、あるいは天主の御旨に100%応える事ができなかった事が多かった事でしょうか。

天主からの与えられた務めを果たせなかったその代わりに、自分のやりたい事をしてしまった。天主を愛する事を、100%、全て尽くして、心を尽くして、力を尽くして、霊魂を尽くして、愛する事ができなかった。自分の利益の為に、あるいは自分の為に、天主への愛が純粋ではなかった。

あるいは残念ながら、与えられた時間や能力を、天主に対して罪を犯す為に使ってしまった。被造物を良く使う事ができなかったのみならず、天主を侮辱する為に使ってしまった。

そのような事を経験しますが、しかし、永遠の昔から選ばれたこの女性については、違っていました。マリア様は最初の瞬間から、全て聖寵に満ち溢れてる御方でした。旧約聖書の中には、はっきりと「マリア様」とは書かれていなくても、暗示的に、マリア様の事について書かれている所がたくさんあります。

例えば、時の始めにおいて、アダムとエヴァが罪を犯した時に、天主はある女性について予言をしました、「私は、(蛇)お前と女性の間に、ある女性の間に、敵対を置く。この女性は、お前の頭を踵で踏み砕くだろう」と予言しました。

この「女性」というのは、はっきりと聖書で名前を載せていませんが、聖母マリア様の事です。これは東方教会、西方教会の、2000年の伝統がそう指し示しています。

あるいは知恵の書で、例えば今日読んだ所、あるいはその他の所で、「永遠の昔から、天主の中において考えられていたものがある。」

教父たちは、教会の立派な学者たちは、「これはマリア様の事を意味している」と口を揃えて、声を揃えて言います。

聖書の旧約聖書の所には、多くの所には、暗示的に、マリア様の事が深く書かれていて、そして天主からの啓示として、暗示された啓示として、私たちに伝えられています。

マリア様はなぜ、それほどまで愛されたのでしょうか?

なぜかというと、天主の聖子イエズス・キリストを、御自分の胎内に宿す、生ける神殿となるべき方であったからです。イエズス・キリストの従順に従うべき、御母となるべき方であったからです。

もちろん天主は成人として、完成された人間としてこの世にいきなり現れる事もできました。しかし永遠の知恵を以て、そうではなく、女性から御生まれになる事を望みました。そしてこの女性が、天主の母として、イエズス・キリストを産み育てる方として、最高のものであるように、特別な準備と、御恵みを与えました。

預言で、聖書にも言われている通りです、「代々、私の事を幸いな者と言うでしょう。」あるいは今日、知恵の書で読まれたように、「私のこの記憶は、代々に渡る。」

ですから、使徒信経にもありますように、イエズス様は「童貞マリアより生まれ」とありますが、このイエズス様が、私たちの救い主が生まれたのは、まさにこの童貞女であり、同時に母であるマリア様の事であって、このマリア様から生まれる為に、天主は何をしたかというと、「そうしても良いですか?」と、聞く事さえしたのです。

大天使聖ガブリエルをお送りになって、そして、「めでたし、聖寵に充ち満てる御方、主は御身と共に在す…」そしてマリア様が、「一体これは何の挨拶だろう?」と考えている時に、「聖霊の力があなたに宿った。あなたから生まれるべき者は、偉大なる者であって、『天主のいと高き者の子』と呼ばれる。ダヴィドの末の王座を持つ者であって、その御国は終わる事がない。」
「あなたは、この子供を産む事に、同意するのか?しないのか?あなたが、『はい』と言えば、この世に救い主が与えられるし、しかしもしも断るならば、もうそれで終わりだ。」

マリア様は言います、「私は主の婢女です。主の女奴隷です。私は主の御旨のままに、御旨を果たす事だけを望んでいます。御言葉の通りに私になりますように。」

その瞬間、天主聖子はマリア様の御胎内に孕り、そして、救い主の母となりました。

ですから教父たちは言います、「マリア様は、肉体によって聖子を産んだのみならず、その同意によって、その愛によって、その従順によって、お産みになった。」

ですから教父たちによると、「天主は、人間となる為に人間の本性を盗んだのではなく、そうではなく、マリア様から特別な贈り物として、プレゼントとして、『使って下さい』と言われたので、それを受け取った。マリア様が『どうぞ』と言ったので、私たちは救い主を受ける事ができた。」

天主が私たちになさった、ものすごい御業が2つあります。1つは、人間を創った、この「天地の創造」と、第2は、私たちを贖った、「贖いの御業」です。

第1の創造の時に、天主はアダムを土の塵から創りました。そしてアダムが脱魂状態にいた時に、そのアダムから、第1の女性を創りました。

そして、このアダムとエヴァが犯した罪を償う為に、そして蛇の頭を砕く為にも、新しいアダムは、つまりイエズス・キリストは、新しいエヴァから生まれました。新しいエヴァ、マリア様が、祈りの脱魂状態、愛の脱魂状態にいる間に、そのエヴァの体から、第2の新しいアダムが造られる事を望まれました。

天主が第1のアダムを創った時に、その前に準備をしたのが、エデンの園でした。エデンの園には美しい花が咲いていて、木々があり、4つの川があり、生命の木と、そして善と悪を知る木があり、そしてその特別の庭において、アダムとエヴァが創られて、そしてアダムとエヴァの婚姻の神秘が祝われました。

ところで、贖いの神秘の為に、第2のアダム、新しいアダムを造る時には、天主は特別の、別の、秘密の、天主のみに知られる、第2のエデンの園を作りました。それがマリア様です。そしてマリア様の元において、イエズス様が、イエズス・キリストが造られました。この時には、人性と人間の本性と、天主の本性が合体する、という神秘的な婚姻が祝われました。

マリア様というエデンの園には、聖寵の充ち満てる川が流れて、そしてそれが、その「マリア様を通して、全世界に流されるように」と望まれました。

マリア様はちょうど、第1のアダムと第1のエヴァが、善と悪の知識の木の実を盗んで、罪を犯したのを償う為に、新しいアダムと新しいエヴァは、十字架の木に、イエズス・キリストという第2のエヴァの木の実を付けて、罪の償いをします。

罪の償いをしたその第2のアダム、つまり新しいアダムであるキリストが、十字架の上に付けられた時の言葉を聞いて下さい、今日福音で読みました、「子よ、全人類よ、汝の母を見よ。」

イエズス様は、贖い主として、第2のアダムとして、贖われた人類を創造する頭として、私たちに呼びかけています、「汝の母を見よ。」

「私たちは聖寵によって、新しい天主の命によって生きるべき、生まれるべき者であって、私たちの母は、マリア様だ」と教えています。

ですから教会は、マリア様の事を特別に祝っています。この御誕生を、私たちに与えられた特別の御恵みとして、もしもこの方がいなければ、生まれてこなければ、私たちに救いが与えられなかったその方として、そして第2のエヴァとして、イエズス・キリストと共に一緒に、十字架の下で、私たちの贖いの為に協力して下さった方として、この御誕生日を祝っています。

⑵では私たちは今日、どのような遷善の決心をすれば良いでしょうか?

私たちは、このような贖いの深い神秘を、まず讃美致しましょう。私たちの人間の知識や知恵をはるかに超える、天主の深いその知識の広さと、深さと、高さの前に、礼拝し、それを讃美致しましょう。そしてそのような深い神秘を以て、私たちを永遠の命へと導いて下さるその天主の愛に、私たちを深く愛して下さる愛に、感謝致しましょう。

マリア様は、私たちに対するイエズス様の愛を弱めるどころか、更に深めて下さいます、更に大きくして下さいます。そしてマリア様は私たちを、イエズス様に行く為に助けて下さいます。

今日は既に、マリア様の誕生日の御降誕の中に入って、そしてマリア様の汚れなき御心を讃美致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖ピオ十世会総長のインタビュー:受けた聖伝を伝える、アモーリス・レティチアやアマゾンのシノドスなどは、第二バチカン公会議の論理的結果にすぎない

2019年09月18日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

9月17日付で聖ピオ十世会総長のインタビューが公開されました。英語訳は次です。
Transmitting What We Have Received: An Interview with the SSPX Superior General
フランス語
Une Eglise qui marche sur la tête: Entretien avec l’abbé Davide Pagliarani, Supérieur général de la Fraternité Saint-Pie X



これの日本語訳は準備中です。しかし、その要点をご紹介いたします。

*第二バチカン公会議は、公会議開催直前の教会を苦しめていた規律の弛緩の結果にすぎなかった。一部においてもはや既成事実となっていた違反状況に、承認の判を押したにすぎない。典礼改革も、多くの聖職者たちに浸透していた実験的発展の頂点にすぎない。

*それと同様に、アモーリス・レティチアは、不幸なことに既に教会に存在している違反状況を合法化しようとする試みにすぎない。現代の状況は、さらなる改革を承認するに熟している。

*アモーリス・レティチアは、原子爆弾のようにカトリック教会に計り知れない損害を与えるだろう。しかしこれが、現教皇の奇抜で挑発的な人柄から由来する仕業だというのは間違った捉え方だ。教皇フランシスコだけに、これを帰するのは正しくない。

*教皇が誰であろうと、第二バチカン公会議によって敷かれた原理に従う結果として遅かれ早かれ、起こるべくして起こったことの一つが、アモーリス・レティチアだ。ヴァルター・カスパー枢機卿は、第二バチカン公会議の新しい教会論には、キリスト教家族の新しい概念が対応すると既に認めている。

*第二バチカン公会議は、教会に関する新しい概念を提示している。公会議によれば、私たちの主が創立した教会イコール、カトリック教会ではない。それよりも広い。すなわち正教徒やプロテスタントの共同体を含む。公会議の新しい教会論によると、キリストの建てた教会に色々なやり方で所属することが出来ることになる。

*キリストの教会に所属する新しい仕方は、伸縮性があり多様性がある。すべてのキリスト者がキリストの同じ教会において一つとなることを許している。これが現代のエキュメニズムの混乱の原因だ。

*教会に関する間違った教えは、遅かれ早かれ、キリスト者の家庭にも影響を及ぼす。何故なら、キリスト者の婚姻は、キリストとその教会との一致にかたどりだからだ。従って、婚姻の契りによる家庭は、伸縮性のある別の絆によって変わられようとしている。

*カトリック教会の一致の外にある「汎キリスト教」に、公会議が肯定的要素を与えたように、秘蹟による婚姻の一致の外にある、どのような結合においても、肯定的要素を与えるようになるだろう。エキュメニズムによって、真の教会と偽りの教会との区別が無くなった(カトリック以外の教会も、完全ではないが良い教会とされるから)ように、すべての結合は、愛があるなら、いつも良いものがあるとされるだろう。

*今までカトリック教会では、良い行為と悪い行為、聖寵の生活と罪、という言い方をしてきた。これからは、良い行為とより少なく良い行為だけになる。

*エキュメニカルな教会は、エキュメニカルな家庭である。人間の必要と感受性に従って再構成されうる家庭である。

*アモーリス・レティチアは、第二バチカン公会議の教会憲章による新しい教会論と、現代世界憲章による世界に開かれた教会との不可避的な結論だ。教皇フランシスコの教えは、第二バチカン公会議に敷かれた原理の論理的結論にすぎない。

*第二バチカン公会議後、「キリストの神秘体」という概念は「天主の民」という概念に代わった。これによって解放の神学や共産主義へと流されることが可能になった。また、「まじわり・コムニオ」という概念によっても代わられた。それによってエキュメニカルな対話は、バベルの塔での会話のようになった。

*アマゾンのシノドスにおいても、教会に関する誤った概念が影響を及ぼしている。「聞く教会」「シノドスの教会」「人々の文化、期待、要望に注意を払う教会」など。信仰も典礼も教会統治機構も、これに適応させるべきである、と。


*現在では、異教主義と戦うかわりに、この異教を自分の一部に取り入れようとしている。第二バチカン公会議の教会論による、ローマ・クリア(バチカンの行政機構)の現代化(アジョルナメント)、「健全な非中央集権化」「管理でも決定のためでもない交わりのプラットフォーム」が議論されている。しかしこれは、私たちの主の建てた教会の崩壊である。イエズス・キリストは情報交換のためのフォールムを開いたのでもなければ、意見交換のためのプラットフォームを作ったのでもない。主は、ペトロと使徒たちに、自分の群れを委託し、真理と聖徳との柱となることを求めた。

*新しいミサの構造は、民主主義的な教会に対応している。シノドス的教会は民主主義的だ。逆さまになったピラミッド型だ。頭が底辺に来る教会だ。しかしこれは実りであって、この種は第二バチカン公会議に蒔かれている。

*多くの信徒の方々や一部の高位聖職者らが、カトリック教会の直面しつつある劇的な状況に気が付きつつある。彼らは、これらの誤謬はキリストの教えでも、教会の教導職による教えでもありえないと反応している。

*しかしこれらの反応は、体系的に壁にぶつかっている。アモーリス・レティチアに反対して4名の枢機卿が声を上げたが、返事はなかった。アモーリス・レティチアに対する戦いは忘れられ、事実上これは受け入れられた。教皇は沈黙を守った。第二バチカン公会議後の教会は、多元的だからだ。もはや永遠の啓示された真理に基礎をおく教会ではないからだ。権威によって上から教えられる教会ではないからだ。

*民主主義的な教会においては、誤謬は自由に教えられうるべきであり、構造的に真理が誤謬に取って代わるということが出来なくなっている。教会が多元的教会となったその根源は、第二バチカン公会議である。

*第二バチカン公会議後の教皇らの教えは、第二バチカン公会議の結果でありその続きである。だから、教皇フランシスコの教えに反対するために、ヨハネ・パウロ二世の教導権を使うのは、結局失敗に終わる試みである。傷を直すためには、傷の中の毒を消毒しなければならない。病症だけではなく、その原因まで突き止めなければならない。

*聖ピオ十世会は、オープンに発言する自由を持っている。聖ピオ十世会は、とりわけカトリック教会への愛と霊魂への愛に燃えている。現代教会は、神学校が閉校し、教会は空になり、秘蹟は尊重されていなくなっている。私たちはただ傍観者でいることが出来ない。

*守られた信仰の原理にかなう司牧的・霊的・典礼的生活が伴っていないのなら、健全な教義的に立場だけでは足りない。何故なら、第二バチカン公会議は新しい教えにマッチした新しいキリスト教生活を開始したからだ。

*カトリック信仰宣言に、本物のカトリック生活が伴わないなら、この宣言はマスメディアのイベントに終わる。数週間後には忘れ去られる。具体的に言うなら、聖伝のミサだけを捧げなければならない。そしてそこから帰結するすべてを受け入れなければならない。つまり、非エキュメニカルなミサだけを捧げなければならない。永遠のミサだけを。ただ聖伝のミサを捧げるだけではなく、それを生きること、これを殉教までも守ること、何故なら私たちの主の十字架だけが教会を救うことが出来るからだ。

詳しくは、日本語の全訳をお待ち下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

アマゾン地域のための特別シノドスの討議要綱に反対する前教理省長官ミュラー枢機卿:使われている諸表現の不正確さ、以前の教導職への参照がほとんどない

2019年09月18日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics’ Spotlight (1)の日本語訳をご紹介します。

アマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱
様々な批判を受けて(1)

2019年8月14日 FSSPX.NEWSサイト

ヴァルター・ブラントミュラー枢機卿(Cardinal Walter Brandmüller)が、近く行われる予定のアマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱(Instrumentum laboris)に関して批判をなしたのち、7月には新たに三つの批判が出されました。その第一の批判は、前教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿(Cardinal Gerhard Ludwig Müller)からのものです。

ミュラー枢機卿は、7月16日付のドイツの新聞「ディー・ターゲスポストDie Tagespost」紙の中で、意見のコラム欄に、このローマの文書に対する批判を発表しました。この発表の仕方は、現在ローマを支配している雰囲気を明らかにしています。つまり、枢機卿たちは発言しないという条件の下でのみ、その意見が聞き届けられる、ということです…。

宇宙と自然と生物多様性のエコロジーとの神聖化

このドイツのミュラー枢機卿は、アマゾン地域という特別なケースに、世界への模範となる価値を与えているこの討議要綱「インストゥルメントゥム・ラボーリス」(IL)を告発しました。
「アマゾン地域は、教会にとって、そして世界にとって、『全体のための一部 pars pro toto として、一つのパラダイムとして、全世界のための希望として』奉仕するべきである(IL 37)。すでに、まさにこの達成すべき役割が定められていること自体が、地球という一つの家の中ですべての人間の『完全なintégral』発展という思想を示しており、教会がそれに対して自らに責任があると宣言しているのです。この思想は、何度も何度も討議要綱に見られます。」

枢機卿は、使われている諸表現の不正確さを強調しました。
「鍵となる諸用語(キーワード)が明確に定義されておらず、また過度に使われています。例えば『シノドスの道』とは何でしょうか?『完全なintégral発展』とは何でしょうか?『サマリア人的・宣教師的・シノドス的・開かれた教会une Eglise samaritaine, missionnaire, synodale et ouverte』とは何を意味するのでしょうか?あるいは『手を差し伸べる教会』とは?『貧しい者の教会』は?『アマゾンの教会』などなどは?」

ミュラー枢機卿はまた、以前の教導職への参照がほとんどないことも指摘しました。
「思考の道筋全体は、確かにほんの少しヨハネ・パウロ二世とベネディクト十六世を参照しつつ、フランシスコ教皇の最新の複数の文書の周りを、自己参照しながらぐるぐる回っています。聖書はほとんど引用されておらず、教父たちもほとんどなく、あるのはそれらの挿絵的な方法によるものだけで、他の理由のために既に持っている確信を補強するためです。

おそらく、これによって現教皇に対する特別な忠誠を示したいと望んでいるか、あるいはこうすることで、教皇のよく知られ、かつ繰り返されているキーワード(これを討議要綱の著者たちは ― 混乱した言い方で ― 『彼の呪文(マントラ)』(IL 25)と呼んでいますが)を常に参照するなら、神学的著作の挑戦を避けることができると信じているからです。

討議要綱の作者らが、『インカルチュレーションの活動的主体は、先住民たち自身である』(IL 122)と書いた後、次のような奇妙な定式、すなわち『教皇フランシスコが確認したように、“恩寵は文化を前提とする”la grâce suppose la culture』と付け加えるなどする時、彼らの追従(ついしょう)はその頂点に達するのです。まるで教皇自身がこの原理を発見したかのようにです。もちろん、これはカトリック教会自身の基本的な原理です。もともとは、ちょうど信仰が理性を前提としているように、恩寵は、自然を前提とする、です(トマス・アクィナス「神学大全」第1部第1問第8項参照)」。

この枢機卿はまた、アマゾン地域が「神学的場所」【訳注】として提示されていることにも驚きます。
【訳注】「神学的場所」というのは、Loci Theologiciという神学専門用語の日本語直訳である。Locus(場所)は、ギリシャ語のトポス(場所)[トポスは、例えばトピック(話題)の語源] から由来し、カトリックでは、神学の基礎的原理や源泉についで「神学的場所」という用語が使われる。

「一方で、教導職の役割、他方で聖書の役割、これら両者の混乱の次に、討議要綱は新しい啓示の源泉があるとまで主張しています。討議要綱19は、こう述べます。
『さらに、私たちは、アマゾン地域は、または別の先住民地域あるいは共有地域は、ubiすなわち「どこ」(地理的な場所)のみならず、quidすなわち「何か」であり、すなわち "信仰にとって意味を持つ場所" または "歴史の中での天主についての経験"である、と言うことができる。従って地域は、信仰を生きた神学的な地であり、また天主の啓示の特定の源泉でもある。つまり、いのちの保存とこの惑星のための知恵、天主について語るいのちと知恵が明らかにされる啓示的な地である。』
ここで、もしある地域が『天主の啓示の特定の源泉』と宣言されるのなら、これは、誤った教えだと言わねばなりません。何故なら、2000年の間、カトリック教会は、聖書と使徒的聖伝が啓示の唯一の源泉であって、歴史の流れの中で他の啓示は付け加えられ得ない、と不可謬的に教えてきたのですから。」

―これは正しいことですが、彼ら【ミュラー枢機卿を含む教会の指導者たち】は、第二バチカン公会議以降、対話と「出会いの文化」を通して、現代人の願望と世界の必要性に耳を傾けることによって、教会は「時のしるし」を調べねばならない、とは言ってきたのではないでしょうか?

【この項続く】

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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