Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

教皇ヨハネ二十二世は、啓示された「質料的教義」に反する異端説を唱えたが、聖伝の教えを信じる人々が教皇に公に反対して抵抗した。

2019年09月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛するM君、

教皇ヨハネ二十二世の件についてお話をします。

これをみると、その当時も、聖伝主義者と「聖座忠誠派」(教皇信奉者)と教皇座空位論者が出てきました。

聖伝主義者とは、今までの正統な教えられ続けてきた教義(聖伝)を信じ、もしも教皇がそれを個人的に否定したとしても、聖伝を支持し続ける人々です。しかし、聖伝主義者は、個人の資格によって教皇を教皇ではないとは主張せず、ただ、間違った教えを説く教皇に抵抗する人々です。

「聖座忠誠派」とは、教皇の言うことなら、それが聖伝に反しても何でもその通りだと信じて、それを支持することがカトリックであるという態度の人々です。

教皇座空位論者とは、教皇が聖伝の教えを否定したとき、自分の個人の判断によって、教皇を教皇ではない、と断言する人々のことです。

さて、教皇ヨハネ二十二世(1316-1334)は、アヴィニョンにいた真の教皇でした。

ヨハネ二十二世は、信徒の霊魂は死後すぐに至福直観を得るのではなく、最後の審判の後でようやく至福直観を得る、と公に教えました。

この異端説を、教皇として、枢機卿たちや高位聖職者や神学者たちを前にして、何度も説教しました。この説によると、

*死せる信者の霊魂は、世の終わりの総審判の後にならなければ、善業の報いである至福直感(天主を顔と顔を合わせて完璧に見奉り天主を享受すること)や天国での至福を得られない。
*肉体のよみがえりがあり、肉身と霊魂とがもう一度合体して初めて、完全な至福が人間に与えられる。
*煉獄で浄められた後、霊魂は「祭壇の下 sub altare」(黙示録6:9)におかれ、肉体のよみがえりと最後の審判を待つ。
*この待っている間、霊魂たちはキリストの人生によって慰めを受け、保護されるが、至福直観は受けることが出来ない。

などと教えていました。

ヨハネ二十二世の説教は記録されて、出版されています。たとえば、次が参考になります。

Marc Dykmans, "Les sermons de Jean XXII sur la vision béatifique", Rome, Gregorian University, 1973
Sermon de Toussaint 1er novembre 1331Sermon du 15 décembre 1331

次の二冊は、情報としてあげておきます。

Fr. V. F. O’Daniel, "John XXII And The Beatific Vision", The Catholic University Bulletin. vol. VIII, Washington, D.C.: The Catholic University of America, 1912

Christian Trottmann, "La vision béatifique. Des disputes scolastiques à sa définition par Benoît XII, Ecole Française de Rome", Rome 1995.

ヨハネ二十二世は、この異端説を枢機卿であるときから、すなわち教皇になる前から唱えており、印刷物として出版しました。

教皇として、これを説教し、自説をパリ大学の神学部に強要しました。しかしこの説に反対する神学者たちは、ヨハネ二十二世の説を異端的だと非難しました。

これについては、Pope John XXII in Catholic Encyclopedia (1913)には次のようにあります。すこし引用しますが、詳しくはリンク先を見て下さい。

Before his elevation to the Holy See, he had written a work on this question, in which he stated that the souls of the blessed departed do not see God until after the Last Judgment. After becoming pope, he advanced the same teaching in his sermons. In this he met with strong opposition, many theologians, who adhered to the usual opinion that the blessed departed did see God before the Resurrection of the Body and the Last Judgment, even calling his view heretical. A great commotion was aroused in the University of Paris when the General of the Minorites and a Dominican tried to disseminate there the pope's view.(…)

歴史家のロベルト・デ・マテイ(Roberto de Mattei)は、A POPE WHO FELL INTO HERESY, A CHURCH THAT RESISTED: John XXII and the Beatific Vision という記事の中で次のように書いています。詳しくは、リンク先をお読み下さい。それによると、

*ヨハネ二十二世の異端説は古くからあったが十三世紀に聖トマス・アクィナスが論破していた。【聖トマス・アクィナス De veritate (q. 8, a. 1) や Summa Theologica ( I, q. 12, a. 1)など】

*ヨハネ二十二世がこの誤謬を再提示すると、多くの神学者たちから公に批判を受けた。

*討論に参加して教皇に反対した人々のなかに、モー(Meaux)司教区の司教であった Guillaume Durand de Saint Pourcain (1270-1334)がいたが、彼は、教皇がカタリ派の異端を再提示していると告発した。

*教皇の説に反対した英国ドミニコ会士 Thomas Waleys (1318-1349)は、公に反論した結果、裁判を受けて投獄された。

*教皇に反論したフランシスコ会 Nicola da Lira (1270 -1349) と ジャック・フルニエ枢機卿 Cardinal Jacques Fournier (1280-1342)は、教皇庁の神学者たちであった。(フルニエ枢機卿は後に教皇ベネディクト十二世となる。)

*ヨハネ二十二世が自分の謬説をパリ大学の神学部に強要しようとすると、フランス王フィリップ六世はその教えを禁止し、ソルボンヌ大学の総長ジャン・ジェルソンの記述によると、ヨハネ二十二世がその教えを撤回しない限り、彼を火やぶりにすると脅しさえした(threatening John XXII with the stake)。

*聖アウグスティノ隠遁会の総長であるストラスブルクのトマス(Thomas of Strasburg)によると、ヨハネ二十二世の複数の説教は、全キリスト世界を混乱させた(totus mundum christianum turbaverunt)。

*ヨハネ二十二世の死の直前に、教皇は個人の神学者としてのみ発言して、教導権に結びつけることはしなかった(without any binding to the magisterium he held)と述べた。

*ジョヴァンニ・ヴィラ(Giovanni Villani)の年代史によると、ヨハネ二十二世は、自分の甥であったダル・ポジェット枢機卿(Cardinal Dal Poggetto)とその他の親戚の計らいによって、死ぬ前日(1334年12月3日)に自分の主張を撤回した。

*ヨハネ二十二世の死(1334年12月4日)の後、1334年12月20日、ヨハネ二十二世の異端に反対していた前述のフルニエ枢機卿が教皇に選ばれ、ベネディクト十二世(1335-1342)の名前を取った。

*後継者ベネディクト十二世は、1336年1月29日付けで勅令「ベネディクトゥス・デウス Benedictus Deus」によって、死せる信徒の霊魂は、もし必要なら煉獄で浄められた後、最後の審判の前に、すぐに至福直観を受ける、と不可謬的に定義した。

*この信仰箇条は、1439年7月6日に、フィレンツェ公会議の際に、勅令レテントゥル・チェリ(Laetentur coeli)で言及された。 (Denz-H, n. 1305)

*聖ロベルト・ベラルミンは、ヨハネ二十二世は異端的な説を、真理として信徒らに強制しようという意向を持って、それを支持したが、ドグマとして定義することが出来る前に死亡した、と書いている。従って、教皇の不可謬性の原則は揺るがされなかった。
(St. Robert Bellarmine who dealt amply with this issue in De Romano Pontifice (Opera omnia, Venetiis 1599, Book. IV, chap. 14, coll. 841-844) writes that John XXII supported a heretical thesis, with the intention of imposing it as the truth on the faithful, but died before he could have defined the dogma, without therefore, undermining the principle of pontifical infallibility by his behavior.)
【M君のために聖ベラルミンの書いた本をインターネット上で探しました。リンク先にあります。
http://cdigital.dgb.uanl.mx/la/1080015572_C/1080015573_T2/1080015573_10.pdf
P 117 の "Trigessimus sextus est Joannes XXII, Papa"という文章から始まるところです。

*ヨハネ二十二世の正統ではない教え(heterodox teaching)は、教会の信仰に関する通常の教導権(ordinary magisterium)の執行であったが、定義をするものではなかったので、不可謬ではなかった。


ベネディクト十二世の勅令のラテン語原文は、次にあります。
BENEDICTUS DEUS (29 Ian. 1336) -- Pontificia definitio dogmatis de visione beatifica Sanctorum ante iudicium universale in caelo fruentium

(…)hac imperpetuum valitura Constitutione, auctoritate apostolica diffinimus, quod secundum communem Dei ordinationem animae sanctorum hominum(…)mox post mortem suam et purgationem praefatam in illis qui purgatione huiusmodi indigebant, etiam ante resumptionem suorum corporum et iudicium generale, post ascensionem Salvatoris nostri domini Iesu Christi in caelum, fuerunt sunt et erunt in caelo, caelorum regno et paradiso caelesti cum Christo, sanctorum Angelorum consortio aggregatae; ac post domini Iesu Christi passionem et mortem viderunt, vident et videbunt divinam essentiam visione intuitiva et etiam faciali, nulla mediante creatura in ratione obiecti visi se habente, sed divina essentia immediate se nude clare et aperte eis ostendente; quodque sic videntes eadem divina essentia perfruuntur nec non quod ex tali visione et fruitione eorum animae qui iam decesserunt sunt vere beatae et habent vitam et requiem aeternam et erunt illorum, qui postea decedent, cum eandem divinam videbunt essentiam ipsaque perfruentur ante iudicium generale; ac quod visio huiusmodi divinae essentiae eiusque fruitio, actus fidei et spei in eis evacuant, prout fides et spes proprie theologicae sunt virtutes; quodque postquam inchoata fuit vel erit talis intuitiva et facialis visio et fruitio in eisdem, eadem visio et fruitio sine aliqua intervisione seu evacuatione praedictae visionis et fruitionis continuata extitit et continuabitur usque ad finale iudicium et extunc usque in sempiternum.(…)

ヨハネ二十二世のケースを見ると、次のことが言えます。

教皇は、信仰に反する誤謬を公に教えることが出来る、ということです。

ヨハネ二十二世の場合、教会による定義の直前だったとはいえ「ドグマの内容(質料的教義)に反する誤謬」を教えていました。

質料的教義(material dogma)とは、啓示の源泉の中に含まれているので、教会が信仰定義をすることができる真理ですが、教会によってまだ定義されていない真理のことを言います。(Ott, Fundamentals of Catholic Dogma, p. 6; Van Noort, The Sources of Revelation, p. 229.)

死せる義人の霊魂が至福直観を享受することについて、不可謬の定義宣言が彼の死の直後にあったとは言え、これは啓示された真理の信仰の遺産の一部でした。だからこそ、教皇の教えは、すぐに、しかも、強烈に反対を受けました。聖伝に反していたからです。

教皇アドリアノ四世はヨハネ二十二世のことを「異端者」であると呼びました。これについてはラテン語原文を引用して既に述べました。
「(…)実に、複数のローマ教皇らは異端者だった。彼らの最後は、教皇ヨハネ二十二世だった。煉獄の霊魂たちは最後の審判の前にはストラを持たない、つまり、明確な天主の顔と顔とを合わせる至福直観を持たないということを、彼は公式に教え、宣言し、すべての人に信じるように(teneri)命じた。」

教皇ベネディクト十二世によれば、ヨハネ二十二世は死の直前まで自分の意見を信仰定義しようとしていましたが、死によってそれが出来なくなりました。
"Cumque idem praedecessor, ad quem praedictorum determinatio pertinebat, ad decisionem concertationum huiusmodi se pararet in suo Consistorio publico, tam Fratribus suis, sacrosanctae Romanae Ecclesiae Cardinalibus, de quorum numero tunc eramus, quam Praelatis et magistris in Theologia, qui multi aderant tunc praesentes, iniungendo districtius et mandando, ut super materia de visione praedicta, quando requirerentur ab eo, deliberate unusquisque diceret quod sentiret, tamen morte praeventus, sicut Domino placuit, perficere id nequivit."[BENEDICTUS XII, BENEDICTUS DEUS]

ヨハネ二十二世が、自分の異端説を唱えつづけた時、ヨハネ二十二世を教皇と認めつつ、しかしその異端説に抵抗した「聖伝のカトリック」がいましたが、その反対に教皇のいうことであるなら、異端説でも何でも、その先棒担ぎとなって広める「聖座忠誠派」(教皇信奉者)もいました。

その先頭がフランシスコ会のジェラール・オルドン(Gerard Ordon)らです。パリのドミニコ会士らも含めて、オルドンらは教皇の異端説を宣伝し、擁護して、パリ大学では大きな問題となりました。

他方で、異端説を唱えるヨハネ二十二世を、教皇ではないと言う者も出てきました。M君のような人です。最初のプロテスタントと呼ばれたオッカムのウィリアム(William of Ockham)です。

イングランド出身のフランシスコ会士であるオッカムのウィリアムは、異端の嫌疑がかけられていましたが、正式に(formally)異端者として排斥されたことはありません。

Franciscan Institute Publications: Philosophy series, No 1. p. 12 にオッカムのウィリアムが1334年にフランシスコ会総長に宛てて書いた手紙の英語訳が載っています。

あるいは、The Tractatus de successivis, William (of Ockham), The Franciscan institute, St. Bonaventure college, 1944, p. 12 にもあります。

オッカムのウィリアムの手紙を引用します。

At the end of his letter to the General Chapter in Assisi in the spring of 1334, he wrote:
"Because of the errors and the heresies mentioned above and countless others, I turned away from the obedience of the false Pope and all who were his friends to the prejudice of the orthodox faith. For men of great learning showed me that because of his errors and heresies the same pseudo-pope is heretical, deprived of his papacy and excommunicated by Canon Law itself, without need of further sentence ... "

"If anyone should like to recall me or anyone else who has turned away from the obedience of the false pope and his friends, let him try to defend his constitutions and sermons, and show that they agree with Holy Scripture, or that a Pope cannot fall into the wickedness of heresy, or let him show by holy authorities or manifest reasons that one who knows the Pope to be a notorious heretic is obliged to obey him."

あるいは、William of Ockham: 'A Letter to the Friars Minor' and Other Writingsにもあります。

つまり、十四世紀に、オッカムのウィリアムは、ヨハネ二十二世の誤謬と異端のために、偽りの教皇への従順を拒む、ヨハネ二十二世の誤謬と異端のために偽教皇は異端者であり、教会法によって判決の必要もなく、教皇職を失い、破門された、と主張しています。

もちろん、カトリック教会は、オッカムのウィリアムのこの主張に決して同意しません。しかし、教皇が公に誤謬を教えたことがあり、そのために教会が大混乱に陥ったという事実があることを教えています。

歴史は、教皇が誤謬や異端を教えるとき、オーバーな反応をする人々がいたことも教えています。教皇座空位論者です。自分の判断で教皇が教皇職を失ったと宣言する人々です。ただしオッカムのウィリアムの名誉のために少し付け加えると、彼は現代の教皇座空位論者らのように、世界中のすべての司教区を持っている司教らが信仰から離れているので司教職を失ったとは主張していませんでした。

【この項は続きます】

シュナイダー司教はアマゾン地域のための特別シノドスの討議要綱に反対する:十字架の福音の代わりに、地上の生活の福音、胃袋の福音、自然の礼拝、森の礼拝、水と太陽を礼拝する福音を宣教している

2019年09月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics’ Spotlight (2)の日本語訳をご紹介します。

Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics' Spotlight (2)
アマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱(2)

AUGUST 14, 2019 SOURCE: FSSPX.NEWS

近く行われる予定のアマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱(working documents)に関するヴァルター・ブラントミュラー枢機卿による批判がなされたのち、この7月に新たに三つの批判が出されました。

第二の批判は、カザフスタンにあるアスタナの補佐司教であるアタナシウス・シュナイダー司教からのものです。

シュナイダー司教の批判は、2019年7月17日にオーストリアのウェブサイトKath.netにドイツ語による8ページの文書で、翌日にはLifeSiteNewsに英語で発表されました。

アマゾン・カトリックというセクトに向けて

ミュラー枢機卿と同様に、シュナイダー司教は、このシノドスは、自然を崇拝し女性司祭職を持とうとする「アマゾン・カトリック」というセクトをつくろうと望んでいるヨーロッパの聖職者の偽エリートによって準備されていると主張しています。主にヨーロッパ出身であるこれらの改革者たちは、「新しいキリスト教を本当に欲している」と。

シュナイダー司教は、エルヴィン・クロイトラー司教の最近の発言を告発します。エルヴィン・クロイトラー司教は、以前はブラジルのシング司教区の司教であり、来るシノドスの主要な文書作者の一人です。クロイトラー司教は、オーストリアのテレビネットワークORFで、アマゾン地域での司祭不足を理由に、結婚した司祭と「最低でも女性助祭職」を要求しました。
シュナイダー司教は、この同僚司教に反対して、【その人々には】「御聖体への権利」などというものはなく、また「御聖体の秘蹟は、天主からの究極の賜物である」と断言しました。シュナイダー司教は、本当の問題点は、「アマゾン地域では最近何十年もの間、召命を養成する強い司牧的行動が起こされなかった」ことだと宣言しました。

アスタナ司教区の補佐司教であるシュナイダー司教は、この期間[=最近何十年]に「アマゾン地域の宣教師たちの中には、イエズス・キリストの真の精神から離れ、使徒たちの精神から、また聖なる宣教師たちのまことの精神から離れ、代わりに、この世の精神に向かった人々がいる」と強調しました。
また、「クロイトラー司教や彼の同僚の多くの同伴者ら[思想に共鳴して協力をする人々]が要求しているものは、いわば、司祭の猿まね(カリカチュア)であり、援助活動家、NGO職員、社会主義的サンディカリスト、環境保全専門家の形を取っている」と述べます。

シュナイダー司教は、現在アマゾン・シノドスの準備作業に参加している教会関係者を酷評しました。彼は何度も述べます。
「イエズスの名前と聖なる司教職・司祭職を乱用して、宣教師たち、さらに司教たちさえもが、アマゾン地域で地上の生活の福音を、いわば胃袋の福音を宣教し、十字架の福音を宣教したのではなかった。それは、自然の礼拝、森の礼拝、水と太陽を礼拝する福音であり、この非常に短い地上の物質的生活を礼拝する福音だ。」

このシノドスの議長を務める教皇の問題について、シュナイダー司教は、教皇には「司祭の独身性という使徒からの遺産を保存し(…)自分の後継者と次の世代」へ伝達する「天主によって彼に与えられた厳しい義務がある」ことを思い起こさせます。

なぜなら「教皇は、沈黙によっても、あるいは、あいまいな対応によっても、どのようなやり方でも、討議要綱の一部にある明らかにグノーシス主義的かつ自然主義的な内容を支持することが許されないし、司祭の独身性という使徒からの義務を廃止することを支持してはならない」からだ。

しかし、このカザフスタンの司教は、現実的にこう付け加えています。
「もし教皇が来るアマゾン・シノドスでこのような支持を行ったとすれば、彼はペトロの後継者、キリストの代理者として、自分の義務に重大な違反を犯すことになり、教会に霊的な失墜をもたらすことになるだろう。しかし、無敵の真理の太陽であるキリストは、聖にして勇敢で忠実な教皇たちを教会に遣わされて、この短い失墜を消してくださるだろう。なぜなら、地獄の門はペトロの岩に打ち勝つことはできない(マテオ16章18節参照)からだ。」

この心配は、LifeSiteNewsのジャーナリスト、Maike Hicksonによって表明されています。シュナイダー司教の批判をまとめて、最後に、彼女はこう書いています。

「汎アマゾン・シノドスはローマで開催されるが、シノドス参加者の教父らのほとんどはアマゾン地域に由来する教父たちであり、アジア、東ヨーロッパ、アフリカのような地域出身のより保守的な何らかの司教たちは[参加できず]、アマゾンから来る進歩的な思想に対して反対することが出来ないだろう」と。


Photo Credit

(Sources : LifeSiteNews/Dici n° 387 - FSSPX. Actualités)

アマゾンの特別シノドスの討議要綱に反対する前教理省長官ミュラー枢機卿:キリスト教を、宇宙と生物多様的自然とエコロジーを神聖化することによる救いの学問に変えようとする無駄な試み

2019年09月19日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

Working Document for the Synod on the Amazon: In the Critics’ Spotlight (1)の日本語訳の続きをご紹介します。

アマゾン周辺地域のための特別シノドスの討議要綱
様々な批判を受けて(1)続き



アマゾン川がライン川を源泉として流れている

ミュラー枢機卿は、進歩主義的ドイツ人たちが、次のシノドスの討議要綱に書かれた内容に及ぼした影響を忘れませんでした。
「Rete Ecclesiale Panamazzonica (=REPAM)(汎アマゾン教会ネットワーク)という団体、これは討議要綱の準備を課され、まさにその理由のために2014年設立されたものですが、この団体と討議要綱の作者たちは、いわゆるTheologia india[インド神学]のグループに属している人々で、極めて頻繁に自分が書いた言葉を引用しています。」

「このグループは、まったく同じ世界観を持つ人々による閉ざされた組織です。ワシントンとローマで行われたシノドス準備会合にいた名前のリストに簡単に見られるように、不釣り合いなほど大勢のドイツ語圏のヨーロッパ人が含まれています。」

「[この閉ざされた組織には]真剣な反対意見が免除されています。なぜなら[彼らの世界観においては]反対意見は、一枚岩の教理主義と教条主義、あるいは儀式主義(IL 38; 110; 138)に基づくもの、さらに、対話をすることが不可能な聖職者主義(IL 110)や、ファリザイ人の堅苦しい考え方や、律法学士たちの側の理性の傲慢に基づくもの、でしかあり得ない[とされる]からです。そのような人々と議論をしたとしても、時間の無駄、徒労に過ぎないとされるからです。」

このドイツ人枢機卿は続けます。
「彼ら[シノドスを準備した人々]の全てが南米を経験した訳ではありません。彼らは、それ[自分の意見]が公式路線に一致していると思っているという理由で、またドイツ司教協議会とドイツ・カトリック中央委員会の"シノドスの道"において議論のテーマをコントロールしている(司祭独身性の廃止、女性司祭、女性を鍵となる権力のある地位につけて聖職者主義と原理主義に反対する、啓示された性道徳をジェンダー・イデオロギーやまた同性愛の実践に対する評価へ適用する)という理由でのみ、参加しているのです。そしてこのシノドスの道は、今現在、ドイツで行われています。」

前教理省長官は、この文書の根本において、ヨーロッパ的ニューエイジによって現代化されたアニミズム的汎神論を激しく非難しています。
「神話と、母なる"自然"の儀礼的魔術とのある世界観、また、私たちを深く怯えさせ、あるいは偽りの約束で私たちを誘うような、神々や霊へのいけにえのある世界観は、み言葉と聖霊における三位一体の天主が来られたことへの適切なアプローチにはなり得ません。
このアプローチは、道徳的価値と市民社会と宗教的儀礼の安逸な遺物しかキリスト教から受け入れないリベラルなブルジョワジーに固有の科学的・実証的な世界観にまとめられることもありえません。(…)宇宙(コスモス)は、天主として礼拝されてはなりません。創造主御自身だけが礼拝されるべきです。
私たちがひざをかがめるのは、自然の大きな力の前でもなく、『世のすべての国とその栄華』(マテオ4章8節)の前でもなく、天主の御前でのみです。何故なら、『汝の天主なる主を礼拝し、ただ天主にのみに仕えねばならぬ、と書かれている』(マテオ4章10節)からです。イエズスが砂漠で悪魔の誘惑を退けられたのは、このようにしてです。」

ミュラー枢機卿は、締めくくりに当たって、
人間の完全性が自然生物との一致だけから成るのではなく、天主の子供であること聖なる三位一体との聖寵に満ちた一致において完全となる、さらには、永遠のいのちとは、天主への回心への報酬であり、天主との和解への報いであって、環境や私たちの分かち合う世界との和解ということだけではない、という聖寵の超自然的な性格」を再確認する必要があると言います。

「完全な(integral)発展ということを、単なる物質的な資源の分配に矮小化することはできません。なぜなら、人は、恩寵における完徳の道によってのみ、その新しい完全性を受けるからです。ここで、今、洗礼によって、私たちは天主の新しい被造物、天主の子となることによって、その完全性を受け、そしていつの日か、聖父と聖子と聖霊とのまどいにおいて、また天主の聖人たちとの通効において、至福直観おいてこの完全性を受けるのです(ヨハネ第一1章3節、3章1節以下参照)。」

漠然とした宗教性を持つあいまいなアプローチを提示する代わりに、また、キリスト教を、宇宙と生物多様的自然とエコロジーを神聖化することによる救いの学問に変えようとする無駄な試みを提示する代わりに、私たちの信仰の中心と起源を見つめることが重要です。

天主の善と知恵において、天主はご自身を啓示し、天主の御旨の隠された目的を私たちに知らせることを選択されました(エフェゾ1章9節参照)。これによって、肉となられたみ言葉であるキリストを通して、人間は聖霊において、聖父へと近づくことが出来、天主の本性を共にすることができるようになるのです。」

(Sources : Tagespost/lifesitenews - FSSPX.Actualités - 12/08/2019)

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