アヴェ・マリア・インマクラータ!
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年2月5日、この巡回教会の守護の聖人である日本26聖殉教者の一級祝日として祝っています。典礼法規によると、教会の守護の聖人は一級で祝わなければならないという事ですので、それに従って今日は守護の聖人のミサをしております。
“Dico autem vobis amicis meis ne terreamini ab his qui vos persequuntur. ”
「私の友であるあなたたちに言う、迫害する者を恐れるな。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は日本26聖人の殉教の日であります。そこでその26聖人の殉教に、一体何で殉教する事になったのか、一体何が起ったのか、
ではその殉教の様子はどうだったのか、その殉教した人々の面子は誰だったのかという事を少し見て、
最後に私たちは、何をどんな事を遷善の決心と取らなければならないのか、この黙想からの実りを、どのような実りを取るべきかを黙想しましょう。この26聖人の御取り次ぎによって私たちも、彼らに倣った生活をする事ができる遷善の決心を取る事に致しましょう。
では第1の点は、一体何が起こったのか、という事です。このバックグランドを話させて下さい。
1534年8月15日の聖母被昇天には、聖イグナチオ・ロヨラとその同志たちは、その中に聖フランシスコ・ザヴェリオもいたのですけれども、パリのモンマルトルの大聖堂で集まって、そして誓願を立てました。これが将来教皇様によって認可されるイエズス会の始まりです。
それからたったの15年の後に、そのイエズス会の最初の創立の同志であった一人である聖フランシスコ・ザヴェリオは、何と日本にやって来ます。同じく8月15日、マリア様が聖フランシスコ・ザヴェリオをここに、日本の地に送って下さったとしか考えられません。
そのやはり8月15日に日本に到着した、という事を聖フランシスコ・ザヴェリオは非常に強く感動して、是非マリア様に、特に被昇天のマリア様に特別の信心を持っていました。そして「ぜひ京都に、被昇天のマリア様の、都にそのマリア様の教会を建てたい。そしてぜひ天皇陛下にも会って、都で布教をしたい。」
天皇陛下の所に京都に行くのですけれども、その時には応仁の乱で、京都は荒れ果てて、天皇陛下もタケノコ暮らしのように、何か持ち物を売っては食べ物を得ていたという程に、非常に権力の力の無い状態でした。聖フランシスコ・ザヴェリオは非常に清貧な姿で行ったのですけれども、「そのような姿では天皇と会う事ができない」と言われて、そして「何とかそれでは、平戸に残してきた贈り物とか全てを取り寄せるから、どうしても会わせてほしい」と言ったのですけれども、それも聞き入れてもらえずに、京の都を去らねばなりませんでした。
もしもその時に聖フランシスコ・ザヴェリオが天皇陛下と会っていたら、日本の歴史は、或いはカトリックの歴史は、全く違ったものとなっていたかもしれません。しかし天主様の御摂理は、違う方にそれをお許しになりました。
その時に将軍は足利義輝で、彼はやはり近江に逃げていましたが、この将軍が京都での宣教布教を許可し、居住も許可をしたので、これが1560年、聖フランシスコ・ザヴェリオが到着してから約10年の後には、公式に将軍によって日本からの宣教の許可が得られて、そしてキリシタンたちはパードレたちはキリストの教えを広めていました。
パードレの事は当て字で、伴侶の「伴」に、「天」に「連」れて行くと書いて、それを当て字をやっていました。そこでパードレの当て字が後に、パードレたちを司祭たちを呼ぶ呼び方として、伴天連(バテレン)という風に呼ばれるようになりました。まさに一緒に天国に連れて行くパードレたちには、素晴らしい当て字でありました。
多くの日本人たちが回心して、その中には大名や有名な武将や、織田信長の直々の親族、或いはこの度列福される高山右近、或いは毛利、或いは黒田、有馬など、有名な大名たちが続々キリシタンになりました。
そして1586年には、大阪にいた秀吉の元に、イエズス会の面々としたパードレたち、或いはキリシタン大名たちの勇士たちが、立派な貴族たちをキリシタンの貴族たちを連れて会見しています。約30名が連なって、秀吉は非常に喜んで、武器も持たずに侍者に持たせたまま、普通大名と話す時には何も話さず、無口で睨みつけているこの秀吉が、パードレたちのすぐ近くに寄って来て、にこにこ笑いながら話して、「この土地をあげよう。ああしよう」などと歓談していたのを見ると、「将来日本には、日本のキリスト教会はこれでバラ色の花のようだ」と一見すると思われるようでした。
しかし多くのキリシタン大名や、仏のお坊さんや、或いは神社の主や、或いは山伏などがキリスト教に続々回心していくのを見て、そしてお寺がそのような人たちが回心するのでそのまま管理されなくなるのを見て、一部の身分の高いお坊さんたちが恐れます。
特に豊臣秀吉は病がちであり、それに「加持祈祷を行なって、魔術をお祈りをしてその病を治す」と言っていた施薬院徳運というお坊さんは、このキリシタンの発展を非常に苦々しく思っていました。
そこで秀吉を説き伏かせて、「キリシタンを迫害するように。キリシタンをパードレたちを国外に追放するように。ただし貿易だけはやって、お金儲けはすれば良い。キリスト教はいらないけれども、お金儲けはしなさい」という禁令を出します。それが、秀吉とパードレたちがキリシタンたちが、キリシタン武士たちが会見したその1年の後でした。
あっという間の突然の変化に人々は、「これからどうなるだろうか」と心配しました。しかし秀吉は、ただお坊さんにそそのかされてこの禁令を出しただけで、それを実践するそれを実行するという訳ではありませんでした。パードレたちが宣教していても別にそのそれはそのままであったし、まぁ自分に加持祈祷をしてくれるお坊さんの気に入るように御触れは出したけれども、別にそれを守りたいという思いはないように思いました。
そうこうするうちに、その禁令の9年後、マニラからメキシコに向けていつもの定期船が、サン・フェリペ号が出る事になりました。そのサン・フェリペ号には莫大な富、生地、絹、或いは生きた猿、或いは香辛料、或いは金銭にしたらとても数え切れないほどの物凄い富が積まれて、そしてメキシコに行く途中でした。ところが残念ながら台風にもまれて、それが土佐の浦戸の港に座礁してしまうのです。
ちょうどその1ヶ月前、この座礁したのは10月19日の事でしたが、その8月30日と9月4日には京都で大きな地震があって、秀吉のお城も壊れていたし、お寺も壊れたり仏像も倒れたりなど被害が多かったのです。キリシタンたちはこの被害者の為に救援に行っていましたけれども、しかし心ない人たちは、特にキリスト教を思わないようなお坊さんたちは、「これはキリシタンのせいで起こった地震だ。だからキリシタンがこの償いに看護して救援するのは当り前だ。俺たちは何もしない、俺たちのせいではない」と言っていました。
四国の浦戸に座礁した、莫大な富を持ったそのサン・フェリペ号を見て、欲にくらんだその四国の城主が秀吉に提案します、「これを没収するがよい。」
その当時の日本の法律によれば、或いはそのような難船の荷を没収するのは全く違法でした。本来なら彼らを助けて、また逃がしてやらなければなりません。しかしこの財宝に目がくらんだ秀吉は、何とかして没収する手段を探しました。そこで思いついたのが、この10年前の、唯一の合法化する「キリシタン禁令」でした。「キリシタン禁令を使って、これを没収しよう。」
そこで京都の奉行の石田三成に言い渡して、「キリシタンたちを全て逮捕しろ。」
石田三成は非常にキリシタンに好意を持っていたので、何とかそれをやめさせようとしたのですけれども、それができなかったので、被害を最小限に留めようとしました、「何とかしてイエズス会の司祭たちはしないように、或いは何とかして、」しかしどうしても、名簿を作って24名が逮捕されました。その禁令を決行させる、絶対に行う、としたのが1596年12月8日の事でした。
第2のポイントは、ではこの逮捕連行から殉教まで、どのような事が起ったのか、です。
大阪で17名、京都ではフランシスコ会の天使の聖母(教会)に居た人たちが7名逮捕されて、全て京都にやられて、合計24名が捕まりました。フランシスコ会の神父様と修道士6名、フランシスコ会の教会によく通っていた信徒が14名、イエズス会の関係の方が3名でした。
当時、その24名の中で一番のリーダー格であった指導者であったのは、ペトロ・バプティスタ神父様でした。フランシスコ会の司祭で、フィリピンと日本の友好関係の為にフィリピンから特使として送られて来た方でした。1593年からずっと日本に来て、そして特に京都で貧しい人の為、病気の人の為、特に癩病の人の為、孤児の為に病院を作ったり、世話をして献身的に働いた、福祉と善の為に働いてきた方でした。一体何の悪事を働いたという事でしょうか。
しかしペトロ・バプティスタ神父様は、イエズス様の為にこうやって罪なく悪人とされて、逮捕されて、これで死を受けるという事を非常に喜び、栄光と考えました。唯一心残りだったのは、京都に残していかなければならない癩病の、病院に居る130人の患者さんたち、また別の病院に居た貧しい50人の病人たち、「一体、彼らの事はどのように面倒見るだろうか。彼らの為にはお米の蓄えがない。どうやって食べていけるだろうか。」それだけが心残りでした。しかし全て天主様の御摂理と御憐れみに委ねて、彼らに祝福を与えて、自分は殉教の道を進む事にしました。
こうして24人は、京都の一条戻橋で翌年1597年1月3日に連行されて、耳を1つ削がれます。ちょうどその時奉行の秘書だったのがキリシタンで、その耳を殉教者の耳を取って、そしてイエズス会の神父様に渡すと、「あぁ、何と美しい殉教の初穂であろうか」と、その彼らの勇敢さを讃えた、と伝えられています。
本来ならば秀吉は、「鼻も削げ、耳も両耳も削げ」と言われたのですけれども、しかし奉行は自分の情状酌量で、耳だけにしたとの事です。
そして辱しめと見せしめの為に、京のあらゆる大通りを馬の荷車に乗せて、そしてうねり歩かせました。京都だけではなく大阪にも行きました、堺にも連れて行きました。そして皆が見せしめで「どうだ!」とされました。その中には、12歳のルドヴィコ、或いは13歳のアントニオ、或いは14歳のトマスなどもいました。
しかし彼らは悲しいような様子を見せる事なく、ウキウキと快活に、微笑みを絶やさずに、その「これから殉教する」という事を待ち臨んでいるかのように思いました。
1月10日にはその見せしめが大阪で終わり、1月10日に大阪を長崎まで出発します。秀吉は「長崎にやって十字架に付けよ」と命令したからです。1ヶ月の徒歩の旅でした。800キロを雪の中、寒い冬、凍えながら、着の身着のまま歩かなければなりませんでした。なぜ歩いたかというと、やはりこれも見せしめの為です。
ところで備前では、護送の役人ではキリシタン武士が、明石掃部というキリシタン武士が護送の長に立っていたので、このキリシタンたち24人を助ける事ができました。
京都に居たオルガンティノ神父様はイエズス会の神父様ですけれども、何とかこの連れて行かされる24人を助けようと、ペトロという信者を送ります。フランシスコ会の神父様も、大工のフランシスコを送ります。そしてこの2人は24人の世話をして、道々800キロを歩くのですけれども、遂には自分たちも一緒に殉教の名誉を受ける事になります。名簿には載っていなかったのですけれども、この2人も付け加えられます。
800キロを1ヶ月間歩き通して、ただ長崎の湾に行く時の間だけ、ほんの少しだけ船に乗らなければなりませんでした。その船に乗って時津の湾に着いた時には、2月5日の事でした。その夜、寒い朝を船の中で凍えながら上陸するのを待たされました。
彼等はただ思っていたのは、「イエズス様の為に命を捧げて、天国に行きたい」という事だけでした。「ではここで。天国で会いましょう」と挨拶し合っていたとの事です。
上陸した後に、西坂の丘まで歩かされました。1ヶ月の間、着の身着のまま歩いていたので、もう足が痛くて歩けなかった年寄りの方もいたのですけれども、しかし西坂の丘に行く時は、今までの苦しみが何もなかったかのようにスタスタと歩いて行った、との事です。
特にルドヴィコは、子供のルドヴィコは「私の十字架はどこ!?」と言って、十字架にかかり、「ジェズス、マリア!」「ジェズス、マリア!」と叫びながら、或いは「パライソ!」「パライソ!」或いは、テ・デウムと感謝の祈りを皆で歌いながら、十字架に付けられました。
そして十字架に付けられた後に、一人一人の26の十字架の1つ1つに、2人の兵士が役人が立って、槍でバッテン状にクロス状に胸を突き刺して、そして殺していったのでした。
外出禁令が出ていたにもかかわらず、4000名がこの殉教を見る為に出て来ました。パードレたちもやって来ました。その日本の最初の信仰の証しを捧げた後に、その勲しは世界中に広まり、1862年6月8日にはピオ9世が、福者ピオ9世がこの26聖人を列聖しています。
どんな面影があったかというと、色んな業種の人、色んな立場の人、子供から老人まで色々ありました。国籍も色々でした。
例えば、いつも説教をして病院で働いていたパウロ鈴木。彼は49歳でした。
或いは、17歳で洗礼を受けて、公教要理をよく学び、カテキスタとして働いていたガブリエル、聖ガブリエル。受洗してたった2年で殉教しています。
少しちょっと前に信者となったばかりの、絹を売っていたヨハネ絹屋。28歳で殉教しています。
或いは、薬屋で賄を立てていて、フランシスコ会の天使の聖母の修道院のすぐ隣で薬屋をやっていたのですけれども、フランシスコ会の神父様の影響を受けて洗礼を受けて、薬を入れながら天国への道も教えていた、というトマス談義。彼はその洗礼を受けるまで非常に短気で怒りっぽくて、いつもカッカしていたのですけれども、洗礼を受けてからは非常に温厚になって、36歳で殉教します。
或いは、やはり医者であった48歳の聖フランシスコ。
或いは、元々武士だったのですけれども病気になって、その病気になった時に神父様から洗礼を受けて、洗礼を受けると病気が治り、それから次にはフランシスコ会の修道院で手伝いをして、料理を特にやっていたヨアキム榊原。40歳で殉教しています。
或いは、14歳の子供トマス小崎。これはお父さんでミゲル小崎のその子供で、一緒に殉教しています。お父さんのお手伝をして大工の手伝いをしていました。フランシスコ会の修道院を造る為に一生懸命働いていて、そして全てイエズス様の奉仕の為に捧げていた子供でした。
中には、幼児洗礼を受けたまま、お母さんと一緒に幼児洗礼を受けたままお母さんが亡くなってしまったので孤児になって、そして寺に預けられて、寺に預けられたままお坊さんになって、20年暮らしたのですけれども、「キリシタンが居る」という事を聞いて、実は自分もキリシタンだったという事を知っていて、それでキリシタンの教えをまた聞いて改宗したボナベントゥラ。
或いは、癩病の人の為に一生懸命働いていたレオ烏丸。この殉教者の中で指導的な、平信徒の中では非常に指導的な立場でした。
本当はフランシスコ会の中で料理をやっていた「マチアス」という男を探していたのですけれども、役人が「マチアスはいるか!?料理人のマチアスはいるか!?」と、誰もいないのです。するとこの26聖人の1人のマチアスは、「私がマチアスだ!料理人のマチアスだ!」「違う。」「しかし、でも私が行く!」「あぁそうか、よし。」と役人に受け入れられた、そして殉教したマチアスもいます。天主様もこの殉教を受け入れました。
スペインから来たフランシスコ・デ・サン・ミゲル。53歳。
スペインから来たフランシスコ・ブランコ。30歳。彼は日本語が非常に上手でした。
ポルトガル人のお父さんを持ってインド人のお母さんを持っていた、インドから来たゴンサロ・ガルシア。16歳の時に日本にやって来て、日本語とポルトガルをペラペラ話していたのです。でも、どもりで聞く人は少し大変だったようです。しかしイエズス様の話しをする時には、或いは宗論をする時には、日本語を非常にはっきり話した、と記録が残っています。
或いは、メキシコの裕福な家で生まれた、フィリッポ・デ・ヘスス。彼はフィリピンでフランシスコ会に入り、それからメキシコのお父さんとお母さんの元に行って、そして司祭に叙階になる予定でした。ところが難船で日本に来て、司祭になる代わりに聖人になりました。
スペイン人のマルチノ・デ・ラ・アセンシオン。30歳で、日本語が非常に上手でした。祈りの人でした。いつも夜、お祈りとお祈りとお祈りと苦行をしていました。スペインの貴族の生まれの人です。
ペトロ・バプティスタ。これもスペインの方で、日比友好特使として日本に来た指導者でした。特に貧しい人や、病気の人に特別の愛情を以て捧げた人でした。48歳。
アントニオ君は13歳ですけれども、中国人のお父さんと日本人のお母さんを持っていました。殉教の時に、お母さんがその十字架、自分の十字架のそばで涙を流して、もう嗚咽で言葉が出なかったのを見たのが唯一心残りだった、といいます。聖アントニオはマニフィカトを歌いながら、マリア様を歌いながら殉教していきました。
12歳のルドヴィコ茨木は明るい子で、1年前に洗礼を受けたばかりでした。十字架に付ける前に「自分の十字架はどこですか!?早く付けられたい!」と言って、朗らかに殉教していきました。
19歳のヨハネ草庵。
或いは、元武士であった54歳のパウロ茨木。子供も、ルドヴィコ茨木と共に殉教しています。
イエズス会の33歳のパウロ三木。安土で造られたセミナリオの第1回生でした。高山右近をよく知っていました。
64歳で最年長のディエゴ喜斎。
或いは、弓を打っていて、心が天主様に向かう弓のようだったミカエル小崎。46歳。このミカエル小崎は、自分の宝を全て天主様に捧げました。子供トマス小崎も捧げました。もうこれ以上捧げるものはありませんでした。
ペトロ助四郎は、オルガンティノ神父様から殉教者を助ける為に送られた30歳の男でした。
伝道師のコスメ竹屋。38歳。
そして9ヶ月前に洗礼を受けたばかりで、大工をやっていた、そしてフランシスコ会の神父様によってこの殉教者を助けるように、24人を助けるように送られた、フランシスコ吉。彼も受洗後9ヶ月にして、殉教の冠を得る事になりました。
そのような色々な人々がいますけれども、私たちは今日どのような決心を取らなければならないでしょうか。
まず私の提案するのは、このような殉教者は実は、殉教を避けようと思えば逃げたり避けたりする事は実はできたのです。しかし進んで、「私こそ殉教者だ、私がマチアスだ、私が行く」と。或いは24人に一緒に行ったが為に、逃げようと思えば逃げられたのにもかかわらず、一緒に殉教する事になった2人などいます。
それに比べて私たちは、この世の辛い事、悲しい事、十字架を、或いは誘惑を、どれほど簡単にギブアップしてしまう事でしょうか。少し電話の「新しい電話を買おうと何とかショップに行くと何時間も待たされて、店員の態度は悪い。不親切だ。説明もない」などと少しの事で怒ったり、或いは「自分がお金がないと言ったら店員の顔が変わった。馬鹿にしているのではないか。何か金持ちにはへらへらするくせに、貧しい人にはこんなに冷たい態度を取るのか」、或いは「電車が遅れた」、或いは「飛行機の連結ができなかった」、或いは「乗り遅れた」、或いは「友達から何か嫌な事を言われた」、或いは「意地悪をされた」、或いは「病気になった」、或いは「テレビをこれを見たい、本当はこれを見ちゃいけないのだけれども」、或いは何か友達から「一緒に悪い事をしよう」、「この今の流行はこうだ」、「今はこれをしなければ遅れちゃうよ」などと言うと、私たちは簡単な事で、「あぁ、」イエズス様の十字架、イエズス様の苦しみ、或いはイエズス様の教えをコロッと忘れてしまって、本来なら担うべき十字架を、本来なら天主様から送られた十字架を、あっというまに捨て去ってしまっているのではないのでしょうか。
私たちの日常の生活は殉教の生活というよりは、「殉教からどうして逃げようか、十字架からどうして逃げようか、何とか面白楽しく過ごす事はないだろうか」と探しているのではないでしょうか。
26聖人は、祈って、祈って、そして「全て天国の為にこの短い命を捧げたい」と思いました。
子供に役人が聞くのです、役人がパウロ三木の友達であった役人は、この幼い子供が十字架に付けられるのを見てあまりにも不憫でならず、「お前、許してあげるからこの口先だけでも、『キリシタンを捨てる』と言えばいいから、そしたら助けてあげる。」するとこの子供は、「この儚い短い命と、永遠の命をどうして換える事ができるでしょうか。嫌です!」と答えたのです。
それに引き換え私たちは、永遠の命との引き換えに大罪を犯してしまったり、この罪を犯してしまったり、イエズス様の教えを否んでしまったり、この恥ずかしがったり、何と卑怯な事をしてきてイエズス様の心を悲しませてきた事でしょうか。
第2のポイントは、殉教者たちはいつも、永遠の命や、パライソや、イエズス様、マリア様の事を考えていました。ですから最後の最後まで「ジェズス、マリア!」「ジェズス、マリア!」とか「パライソ!」「パライソ!」と「天国!」「天国!」と言ってきました。
まさにカトリックの教えというのは、私たちの来世の永遠の命の為にあるものです。そして私たちが永遠の命を受ける為にこそ、この世を清く正しく誠実に生きなければなりません。この世が目的ではなくて、来世が目的であるが為に、手段であるこの世が良くなければなりません。
ところが私たちは、その「永遠の命」という事をコロリと忘れてしまって、この地上の事だけに、この地上の事だけを考えて、その利益だけを求めてきたのではないでしょうか。
愛する兄弟の皆さん、では今日この26聖人の祝日に、私たちも是非その精神を、罪を忌み憎み、そして罪を犯すようであれば、「イエズス様を、罪を犯して悲しませてしまう事であれば、むしろ命を失った方がマシだ!」という決心が立てる事ができますように。殉教者のこの勲しに倣う事ができますように。私たちはそれから遠いものですけれども、26聖人の、また日本の全てのいと尊い殉教者の御勲しとその取り次ぎによって、私たちにその精神が与えられますように。信仰の、堅固な信仰が与えられますように。そしてイエズス様から、「あぁ、友よ」と言われるその日まで、それを守る事ができますように。
“Dico autem vobis amicis meis ne terreamini ab his qui vos persequuntur.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
2017年2月5日(主日) 日本二十六聖人殉教者のミサ
小野田神父説教
小野田神父説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年2月5日、この巡回教会の守護の聖人である日本26聖殉教者の一級祝日として祝っています。典礼法規によると、教会の守護の聖人は一級で祝わなければならないという事ですので、それに従って今日は守護の聖人のミサをしております。
“Dico autem vobis amicis meis ne terreamini ab his qui vos persequuntur. ”
「私の友であるあなたたちに言う、迫害する者を恐れるな。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、今日は日本26聖人の殉教の日であります。そこでその26聖人の殉教に、一体何で殉教する事になったのか、一体何が起ったのか、
ではその殉教の様子はどうだったのか、その殉教した人々の面子は誰だったのかという事を少し見て、
最後に私たちは、何をどんな事を遷善の決心と取らなければならないのか、この黙想からの実りを、どのような実りを取るべきかを黙想しましょう。この26聖人の御取り次ぎによって私たちも、彼らに倣った生活をする事ができる遷善の決心を取る事に致しましょう。
では第1の点は、一体何が起こったのか、という事です。このバックグランドを話させて下さい。
1534年8月15日の聖母被昇天には、聖イグナチオ・ロヨラとその同志たちは、その中に聖フランシスコ・ザヴェリオもいたのですけれども、パリのモンマルトルの大聖堂で集まって、そして誓願を立てました。これが将来教皇様によって認可されるイエズス会の始まりです。
それからたったの15年の後に、そのイエズス会の最初の創立の同志であった一人である聖フランシスコ・ザヴェリオは、何と日本にやって来ます。同じく8月15日、マリア様が聖フランシスコ・ザヴェリオをここに、日本の地に送って下さったとしか考えられません。
そのやはり8月15日に日本に到着した、という事を聖フランシスコ・ザヴェリオは非常に強く感動して、是非マリア様に、特に被昇天のマリア様に特別の信心を持っていました。そして「ぜひ京都に、被昇天のマリア様の、都にそのマリア様の教会を建てたい。そしてぜひ天皇陛下にも会って、都で布教をしたい。」
天皇陛下の所に京都に行くのですけれども、その時には応仁の乱で、京都は荒れ果てて、天皇陛下もタケノコ暮らしのように、何か持ち物を売っては食べ物を得ていたという程に、非常に権力の力の無い状態でした。聖フランシスコ・ザヴェリオは非常に清貧な姿で行ったのですけれども、「そのような姿では天皇と会う事ができない」と言われて、そして「何とかそれでは、平戸に残してきた贈り物とか全てを取り寄せるから、どうしても会わせてほしい」と言ったのですけれども、それも聞き入れてもらえずに、京の都を去らねばなりませんでした。
もしもその時に聖フランシスコ・ザヴェリオが天皇陛下と会っていたら、日本の歴史は、或いはカトリックの歴史は、全く違ったものとなっていたかもしれません。しかし天主様の御摂理は、違う方にそれをお許しになりました。
その時に将軍は足利義輝で、彼はやはり近江に逃げていましたが、この将軍が京都での宣教布教を許可し、居住も許可をしたので、これが1560年、聖フランシスコ・ザヴェリオが到着してから約10年の後には、公式に将軍によって日本からの宣教の許可が得られて、そしてキリシタンたちはパードレたちはキリストの教えを広めていました。
パードレの事は当て字で、伴侶の「伴」に、「天」に「連」れて行くと書いて、それを当て字をやっていました。そこでパードレの当て字が後に、パードレたちを司祭たちを呼ぶ呼び方として、伴天連(バテレン)という風に呼ばれるようになりました。まさに一緒に天国に連れて行くパードレたちには、素晴らしい当て字でありました。
多くの日本人たちが回心して、その中には大名や有名な武将や、織田信長の直々の親族、或いはこの度列福される高山右近、或いは毛利、或いは黒田、有馬など、有名な大名たちが続々キリシタンになりました。
そして1586年には、大阪にいた秀吉の元に、イエズス会の面々としたパードレたち、或いはキリシタン大名たちの勇士たちが、立派な貴族たちをキリシタンの貴族たちを連れて会見しています。約30名が連なって、秀吉は非常に喜んで、武器も持たずに侍者に持たせたまま、普通大名と話す時には何も話さず、無口で睨みつけているこの秀吉が、パードレたちのすぐ近くに寄って来て、にこにこ笑いながら話して、「この土地をあげよう。ああしよう」などと歓談していたのを見ると、「将来日本には、日本のキリスト教会はこれでバラ色の花のようだ」と一見すると思われるようでした。
しかし多くのキリシタン大名や、仏のお坊さんや、或いは神社の主や、或いは山伏などがキリスト教に続々回心していくのを見て、そしてお寺がそのような人たちが回心するのでそのまま管理されなくなるのを見て、一部の身分の高いお坊さんたちが恐れます。
特に豊臣秀吉は病がちであり、それに「加持祈祷を行なって、魔術をお祈りをしてその病を治す」と言っていた施薬院徳運というお坊さんは、このキリシタンの発展を非常に苦々しく思っていました。
そこで秀吉を説き伏かせて、「キリシタンを迫害するように。キリシタンをパードレたちを国外に追放するように。ただし貿易だけはやって、お金儲けはすれば良い。キリスト教はいらないけれども、お金儲けはしなさい」という禁令を出します。それが、秀吉とパードレたちがキリシタンたちが、キリシタン武士たちが会見したその1年の後でした。
あっという間の突然の変化に人々は、「これからどうなるだろうか」と心配しました。しかし秀吉は、ただお坊さんにそそのかされてこの禁令を出しただけで、それを実践するそれを実行するという訳ではありませんでした。パードレたちが宣教していても別にそのそれはそのままであったし、まぁ自分に加持祈祷をしてくれるお坊さんの気に入るように御触れは出したけれども、別にそれを守りたいという思いはないように思いました。
そうこうするうちに、その禁令の9年後、マニラからメキシコに向けていつもの定期船が、サン・フェリペ号が出る事になりました。そのサン・フェリペ号には莫大な富、生地、絹、或いは生きた猿、或いは香辛料、或いは金銭にしたらとても数え切れないほどの物凄い富が積まれて、そしてメキシコに行く途中でした。ところが残念ながら台風にもまれて、それが土佐の浦戸の港に座礁してしまうのです。
ちょうどその1ヶ月前、この座礁したのは10月19日の事でしたが、その8月30日と9月4日には京都で大きな地震があって、秀吉のお城も壊れていたし、お寺も壊れたり仏像も倒れたりなど被害が多かったのです。キリシタンたちはこの被害者の為に救援に行っていましたけれども、しかし心ない人たちは、特にキリスト教を思わないようなお坊さんたちは、「これはキリシタンのせいで起こった地震だ。だからキリシタンがこの償いに看護して救援するのは当り前だ。俺たちは何もしない、俺たちのせいではない」と言っていました。
四国の浦戸に座礁した、莫大な富を持ったそのサン・フェリペ号を見て、欲にくらんだその四国の城主が秀吉に提案します、「これを没収するがよい。」
その当時の日本の法律によれば、或いはそのような難船の荷を没収するのは全く違法でした。本来なら彼らを助けて、また逃がしてやらなければなりません。しかしこの財宝に目がくらんだ秀吉は、何とかして没収する手段を探しました。そこで思いついたのが、この10年前の、唯一の合法化する「キリシタン禁令」でした。「キリシタン禁令を使って、これを没収しよう。」
そこで京都の奉行の石田三成に言い渡して、「キリシタンたちを全て逮捕しろ。」
石田三成は非常にキリシタンに好意を持っていたので、何とかそれをやめさせようとしたのですけれども、それができなかったので、被害を最小限に留めようとしました、「何とかしてイエズス会の司祭たちはしないように、或いは何とかして、」しかしどうしても、名簿を作って24名が逮捕されました。その禁令を決行させる、絶対に行う、としたのが1596年12月8日の事でした。
第2のポイントは、ではこの逮捕連行から殉教まで、どのような事が起ったのか、です。
大阪で17名、京都ではフランシスコ会の天使の聖母(教会)に居た人たちが7名逮捕されて、全て京都にやられて、合計24名が捕まりました。フランシスコ会の神父様と修道士6名、フランシスコ会の教会によく通っていた信徒が14名、イエズス会の関係の方が3名でした。
当時、その24名の中で一番のリーダー格であった指導者であったのは、ペトロ・バプティスタ神父様でした。フランシスコ会の司祭で、フィリピンと日本の友好関係の為にフィリピンから特使として送られて来た方でした。1593年からずっと日本に来て、そして特に京都で貧しい人の為、病気の人の為、特に癩病の人の為、孤児の為に病院を作ったり、世話をして献身的に働いた、福祉と善の為に働いてきた方でした。一体何の悪事を働いたという事でしょうか。
しかしペトロ・バプティスタ神父様は、イエズス様の為にこうやって罪なく悪人とされて、逮捕されて、これで死を受けるという事を非常に喜び、栄光と考えました。唯一心残りだったのは、京都に残していかなければならない癩病の、病院に居る130人の患者さんたち、また別の病院に居た貧しい50人の病人たち、「一体、彼らの事はどのように面倒見るだろうか。彼らの為にはお米の蓄えがない。どうやって食べていけるだろうか。」それだけが心残りでした。しかし全て天主様の御摂理と御憐れみに委ねて、彼らに祝福を与えて、自分は殉教の道を進む事にしました。
こうして24人は、京都の一条戻橋で翌年1597年1月3日に連行されて、耳を1つ削がれます。ちょうどその時奉行の秘書だったのがキリシタンで、その耳を殉教者の耳を取って、そしてイエズス会の神父様に渡すと、「あぁ、何と美しい殉教の初穂であろうか」と、その彼らの勇敢さを讃えた、と伝えられています。
本来ならば秀吉は、「鼻も削げ、耳も両耳も削げ」と言われたのですけれども、しかし奉行は自分の情状酌量で、耳だけにしたとの事です。
そして辱しめと見せしめの為に、京のあらゆる大通りを馬の荷車に乗せて、そしてうねり歩かせました。京都だけではなく大阪にも行きました、堺にも連れて行きました。そして皆が見せしめで「どうだ!」とされました。その中には、12歳のルドヴィコ、或いは13歳のアントニオ、或いは14歳のトマスなどもいました。
しかし彼らは悲しいような様子を見せる事なく、ウキウキと快活に、微笑みを絶やさずに、その「これから殉教する」という事を待ち臨んでいるかのように思いました。
1月10日にはその見せしめが大阪で終わり、1月10日に大阪を長崎まで出発します。秀吉は「長崎にやって十字架に付けよ」と命令したからです。1ヶ月の徒歩の旅でした。800キロを雪の中、寒い冬、凍えながら、着の身着のまま歩かなければなりませんでした。なぜ歩いたかというと、やはりこれも見せしめの為です。
ところで備前では、護送の役人ではキリシタン武士が、明石掃部というキリシタン武士が護送の長に立っていたので、このキリシタンたち24人を助ける事ができました。
京都に居たオルガンティノ神父様はイエズス会の神父様ですけれども、何とかこの連れて行かされる24人を助けようと、ペトロという信者を送ります。フランシスコ会の神父様も、大工のフランシスコを送ります。そしてこの2人は24人の世話をして、道々800キロを歩くのですけれども、遂には自分たちも一緒に殉教の名誉を受ける事になります。名簿には載っていなかったのですけれども、この2人も付け加えられます。
800キロを1ヶ月間歩き通して、ただ長崎の湾に行く時の間だけ、ほんの少しだけ船に乗らなければなりませんでした。その船に乗って時津の湾に着いた時には、2月5日の事でした。その夜、寒い朝を船の中で凍えながら上陸するのを待たされました。
彼等はただ思っていたのは、「イエズス様の為に命を捧げて、天国に行きたい」という事だけでした。「ではここで。天国で会いましょう」と挨拶し合っていたとの事です。
上陸した後に、西坂の丘まで歩かされました。1ヶ月の間、着の身着のまま歩いていたので、もう足が痛くて歩けなかった年寄りの方もいたのですけれども、しかし西坂の丘に行く時は、今までの苦しみが何もなかったかのようにスタスタと歩いて行った、との事です。
特にルドヴィコは、子供のルドヴィコは「私の十字架はどこ!?」と言って、十字架にかかり、「ジェズス、マリア!」「ジェズス、マリア!」と叫びながら、或いは「パライソ!」「パライソ!」或いは、テ・デウムと感謝の祈りを皆で歌いながら、十字架に付けられました。
そして十字架に付けられた後に、一人一人の26の十字架の1つ1つに、2人の兵士が役人が立って、槍でバッテン状にクロス状に胸を突き刺して、そして殺していったのでした。
外出禁令が出ていたにもかかわらず、4000名がこの殉教を見る為に出て来ました。パードレたちもやって来ました。その日本の最初の信仰の証しを捧げた後に、その勲しは世界中に広まり、1862年6月8日にはピオ9世が、福者ピオ9世がこの26聖人を列聖しています。
どんな面影があったかというと、色んな業種の人、色んな立場の人、子供から老人まで色々ありました。国籍も色々でした。
例えば、いつも説教をして病院で働いていたパウロ鈴木。彼は49歳でした。
或いは、17歳で洗礼を受けて、公教要理をよく学び、カテキスタとして働いていたガブリエル、聖ガブリエル。受洗してたった2年で殉教しています。
少しちょっと前に信者となったばかりの、絹を売っていたヨハネ絹屋。28歳で殉教しています。
或いは、薬屋で賄を立てていて、フランシスコ会の天使の聖母の修道院のすぐ隣で薬屋をやっていたのですけれども、フランシスコ会の神父様の影響を受けて洗礼を受けて、薬を入れながら天国への道も教えていた、というトマス談義。彼はその洗礼を受けるまで非常に短気で怒りっぽくて、いつもカッカしていたのですけれども、洗礼を受けてからは非常に温厚になって、36歳で殉教します。
或いは、やはり医者であった48歳の聖フランシスコ。
或いは、元々武士だったのですけれども病気になって、その病気になった時に神父様から洗礼を受けて、洗礼を受けると病気が治り、それから次にはフランシスコ会の修道院で手伝いをして、料理を特にやっていたヨアキム榊原。40歳で殉教しています。
或いは、14歳の子供トマス小崎。これはお父さんでミゲル小崎のその子供で、一緒に殉教しています。お父さんのお手伝をして大工の手伝いをしていました。フランシスコ会の修道院を造る為に一生懸命働いていて、そして全てイエズス様の奉仕の為に捧げていた子供でした。
中には、幼児洗礼を受けたまま、お母さんと一緒に幼児洗礼を受けたままお母さんが亡くなってしまったので孤児になって、そして寺に預けられて、寺に預けられたままお坊さんになって、20年暮らしたのですけれども、「キリシタンが居る」という事を聞いて、実は自分もキリシタンだったという事を知っていて、それでキリシタンの教えをまた聞いて改宗したボナベントゥラ。
或いは、癩病の人の為に一生懸命働いていたレオ烏丸。この殉教者の中で指導的な、平信徒の中では非常に指導的な立場でした。
本当はフランシスコ会の中で料理をやっていた「マチアス」という男を探していたのですけれども、役人が「マチアスはいるか!?料理人のマチアスはいるか!?」と、誰もいないのです。するとこの26聖人の1人のマチアスは、「私がマチアスだ!料理人のマチアスだ!」「違う。」「しかし、でも私が行く!」「あぁそうか、よし。」と役人に受け入れられた、そして殉教したマチアスもいます。天主様もこの殉教を受け入れました。
スペインから来たフランシスコ・デ・サン・ミゲル。53歳。
スペインから来たフランシスコ・ブランコ。30歳。彼は日本語が非常に上手でした。
ポルトガル人のお父さんを持ってインド人のお母さんを持っていた、インドから来たゴンサロ・ガルシア。16歳の時に日本にやって来て、日本語とポルトガルをペラペラ話していたのです。でも、どもりで聞く人は少し大変だったようです。しかしイエズス様の話しをする時には、或いは宗論をする時には、日本語を非常にはっきり話した、と記録が残っています。
或いは、メキシコの裕福な家で生まれた、フィリッポ・デ・ヘスス。彼はフィリピンでフランシスコ会に入り、それからメキシコのお父さんとお母さんの元に行って、そして司祭に叙階になる予定でした。ところが難船で日本に来て、司祭になる代わりに聖人になりました。
スペイン人のマルチノ・デ・ラ・アセンシオン。30歳で、日本語が非常に上手でした。祈りの人でした。いつも夜、お祈りとお祈りとお祈りと苦行をしていました。スペインの貴族の生まれの人です。
ペトロ・バプティスタ。これもスペインの方で、日比友好特使として日本に来た指導者でした。特に貧しい人や、病気の人に特別の愛情を以て捧げた人でした。48歳。
アントニオ君は13歳ですけれども、中国人のお父さんと日本人のお母さんを持っていました。殉教の時に、お母さんがその十字架、自分の十字架のそばで涙を流して、もう嗚咽で言葉が出なかったのを見たのが唯一心残りだった、といいます。聖アントニオはマニフィカトを歌いながら、マリア様を歌いながら殉教していきました。
12歳のルドヴィコ茨木は明るい子で、1年前に洗礼を受けたばかりでした。十字架に付ける前に「自分の十字架はどこですか!?早く付けられたい!」と言って、朗らかに殉教していきました。
19歳のヨハネ草庵。
或いは、元武士であった54歳のパウロ茨木。子供も、ルドヴィコ茨木と共に殉教しています。
イエズス会の33歳のパウロ三木。安土で造られたセミナリオの第1回生でした。高山右近をよく知っていました。
64歳で最年長のディエゴ喜斎。
或いは、弓を打っていて、心が天主様に向かう弓のようだったミカエル小崎。46歳。このミカエル小崎は、自分の宝を全て天主様に捧げました。子供トマス小崎も捧げました。もうこれ以上捧げるものはありませんでした。
ペトロ助四郎は、オルガンティノ神父様から殉教者を助ける為に送られた30歳の男でした。
伝道師のコスメ竹屋。38歳。
そして9ヶ月前に洗礼を受けたばかりで、大工をやっていた、そしてフランシスコ会の神父様によってこの殉教者を助けるように、24人を助けるように送られた、フランシスコ吉。彼も受洗後9ヶ月にして、殉教の冠を得る事になりました。
そのような色々な人々がいますけれども、私たちは今日どのような決心を取らなければならないでしょうか。
まず私の提案するのは、このような殉教者は実は、殉教を避けようと思えば逃げたり避けたりする事は実はできたのです。しかし進んで、「私こそ殉教者だ、私がマチアスだ、私が行く」と。或いは24人に一緒に行ったが為に、逃げようと思えば逃げられたのにもかかわらず、一緒に殉教する事になった2人などいます。
それに比べて私たちは、この世の辛い事、悲しい事、十字架を、或いは誘惑を、どれほど簡単にギブアップしてしまう事でしょうか。少し電話の「新しい電話を買おうと何とかショップに行くと何時間も待たされて、店員の態度は悪い。不親切だ。説明もない」などと少しの事で怒ったり、或いは「自分がお金がないと言ったら店員の顔が変わった。馬鹿にしているのではないか。何か金持ちにはへらへらするくせに、貧しい人にはこんなに冷たい態度を取るのか」、或いは「電車が遅れた」、或いは「飛行機の連結ができなかった」、或いは「乗り遅れた」、或いは「友達から何か嫌な事を言われた」、或いは「意地悪をされた」、或いは「病気になった」、或いは「テレビをこれを見たい、本当はこれを見ちゃいけないのだけれども」、或いは何か友達から「一緒に悪い事をしよう」、「この今の流行はこうだ」、「今はこれをしなければ遅れちゃうよ」などと言うと、私たちは簡単な事で、「あぁ、」イエズス様の十字架、イエズス様の苦しみ、或いはイエズス様の教えをコロッと忘れてしまって、本来なら担うべき十字架を、本来なら天主様から送られた十字架を、あっというまに捨て去ってしまっているのではないのでしょうか。
私たちの日常の生活は殉教の生活というよりは、「殉教からどうして逃げようか、十字架からどうして逃げようか、何とか面白楽しく過ごす事はないだろうか」と探しているのではないでしょうか。
26聖人は、祈って、祈って、そして「全て天国の為にこの短い命を捧げたい」と思いました。
子供に役人が聞くのです、役人がパウロ三木の友達であった役人は、この幼い子供が十字架に付けられるのを見てあまりにも不憫でならず、「お前、許してあげるからこの口先だけでも、『キリシタンを捨てる』と言えばいいから、そしたら助けてあげる。」するとこの子供は、「この儚い短い命と、永遠の命をどうして換える事ができるでしょうか。嫌です!」と答えたのです。
それに引き換え私たちは、永遠の命との引き換えに大罪を犯してしまったり、この罪を犯してしまったり、イエズス様の教えを否んでしまったり、この恥ずかしがったり、何と卑怯な事をしてきてイエズス様の心を悲しませてきた事でしょうか。
第2のポイントは、殉教者たちはいつも、永遠の命や、パライソや、イエズス様、マリア様の事を考えていました。ですから最後の最後まで「ジェズス、マリア!」「ジェズス、マリア!」とか「パライソ!」「パライソ!」と「天国!」「天国!」と言ってきました。
まさにカトリックの教えというのは、私たちの来世の永遠の命の為にあるものです。そして私たちが永遠の命を受ける為にこそ、この世を清く正しく誠実に生きなければなりません。この世が目的ではなくて、来世が目的であるが為に、手段であるこの世が良くなければなりません。
ところが私たちは、その「永遠の命」という事をコロリと忘れてしまって、この地上の事だけに、この地上の事だけを考えて、その利益だけを求めてきたのではないでしょうか。
愛する兄弟の皆さん、では今日この26聖人の祝日に、私たちも是非その精神を、罪を忌み憎み、そして罪を犯すようであれば、「イエズス様を、罪を犯して悲しませてしまう事であれば、むしろ命を失った方がマシだ!」という決心が立てる事ができますように。殉教者のこの勲しに倣う事ができますように。私たちはそれから遠いものですけれども、26聖人の、また日本の全てのいと尊い殉教者の御勲しとその取り次ぎによって、私たちにその精神が与えられますように。信仰の、堅固な信仰が与えられますように。そしてイエズス様から、「あぁ、友よ」と言われるその日まで、それを守る事ができますように。
“Dico autem vobis amicis meis ne terreamini ab his qui vos persequuntur.”
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。