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聖伝のミサでは、なぜラテン語を使うのか?なぜ司祭は会衆の方を向かないのか?聖伝のミサの流れにどうやってついていくか?

2022年11月07日 | お説教・霊的講話

聖伝のミサに初めて参加する人を助ける方法についての説教

2022年10月16日 ドモルネ神父

はじめに

今日は、聖伝のミサに初めて参加する人を助ける方法について、少しお話ししたいと思います。実際、聖伝のミサに初めて参加することは、それに慣れていない人たちにとっては、かなり難しいことです。カトリック信者でない人は、カトリックの教えをほとんど、またはまったく知りませんから、ミサで何がおこっているのかが理解できません。新しいミサに慣れているカトリック信者は、通常、聖伝のミサの流れについていく方法が分かりません。経験から分かることは、聖伝のミサに初めて参加する人には、特に、次の三つの点を説明することが役に立つということです。それは、なぜラテン語を使うのか、なぜ司祭は会衆の方を向いていないのか、そして、聖伝のミサの流れにどうやってついていくかです。

1.ラテン語の使用

よく、「ミサはラテン語」と言われると、そのミサに参加するためには、ラテン語を知っていなければならないと思う人がいます。説教でさえ、ラテン語だと思っている人もいます。ですから、そういう人は、自分がラテン語を話せないなら、聖伝のミサに参加する意味がないと思ってしまうのです。司祭の中には、聖伝のミサを馬鹿にして、次のようなことを言って、参加したいという信者の気持ちをくじいてしまう人もいます。「あなたはラテン語が話せますか?ラテン語が理解できますか?いや、できないでしょう。それなら、なぜ理解できないミサに参加しようとするんですか」。このような理由から、人を初めて聖伝のミサに連れてくるときは、ミサでラテン語が使われることについて、簡単に説明するのがよいでしょう。

第一に、なぜラテン語を使うのでしょうか。それには、説明しやすくて、理解しやすい、二つの理由があります。ミサの間、私たちは、天地の創造主である天主に語りかけます。天主の大いなる尊厳のため、また天主への敬意から、私たちは、日常的な言葉ではなく、ラテン語という特別な言葉を使って語りかけるのです。このことは、日本人には非常に理解しやすいことだと思います。皆さんご存じのように、日本語では、目上の人に敬意を表すために、「いらっしゃる」、「おっしゃる」、「ご覧になる」、「召し上がる」などといった、特殊な言葉を使います。聖伝のミサでラテン語を使うのも、それに似た考えからです。日常生活で使う言葉とは違う言葉を使うことで、私たちは天主への敬意を表すのです。

聖伝のミサでラテン語が使われるのは、カトリック教会の一致を示すためでもあります。実際、同じ言葉を話すということは、同じ民に属しているというしるしです。カトリック信者は、世界中で、聖伝のミサをラテン語で行い、世界中で、同じ言葉を使って天主に犠牲を捧げます。このことは、世界のカトリック信者が、ミサの犠牲を通して、お互いに一致し、また天主と一致した一つの民であることを示しています。

聖伝のミサでなぜラテン語が使われるかを説明した後で、聖伝のミサに参加するには、ラテン語を自分の母国語のように話せる必要はないことを指摘することも、意義のあることです。ミサの祈りはすべて、日本語や他の諸言語に翻訳されています。ミサの中で信者が唱えるラテン語の言葉は、数多くはなく、通常短いので、すぐに意味を理解して、発音できるようになります。また、このようなラテン語の言葉を唱えることができなくても、あまり問題ではありません。ミサに参加する上で最も重要なことは、ラテン語を話すことではなく、心の中で、司祭とともにイエズス・キリストを捧げることなのです。

2.司祭が会衆の方を向いていないこと

聖伝のミサに初めて参加する人がよく質問するのは、ミサの間、司祭が会衆の方を向いていないのはなぜか、また、司祭が人に聞こえないような小さな声で祈ることが多いのはなぜか、ということです。新しいミサしか知らないカトリック信者は、司祭が自分たちの方を向き、大きな声で祈るのを聞くのに慣れているのです。

これらの質問に答えるには、司祭が天主と人との間の仲介者であることを説明すれば十分です。司祭は、いわば、天主と人の間に立っているのです。司祭は天主に犠牲を捧げますから、ほとんどの間、信者の方ではなく天主の方を向いています。司祭は、信者の代わりに天主に犠牲を捧げますから、信者の指導者、また代表者として、信者の前に立つのです。司祭は、天主の御名によって信者に教え、また、信者に天主の恩寵を伝えます。このため、ミサの間、司祭は定期的に信者の方を向くのです。ですから、司祭は、信者に背を向けているのではなく、天主に犠牲を捧げるために、信者とともに天主の方を向いているのです。

3.聖伝のミサの流れについていく具体的な方法

聖伝のミサに初めて参加する人は、一般的に、聖伝のミサの流れについていく方法が分かりません。ミサ小冊子の使い方が分かりませんし、いつひざまずいて、いつ立つのか、いつ座るのかが分かりません。ご聖体を舌で受ける方法も分かりません。ですから、少なくとも初めてミサに参加するときには、通常、少し助けが必要です。

皆さんが誰かを初めてミサに連れて来たとき、あるいは、聖堂で初めてミサに参加する人を見たときは、その人を一人で放っておかずに、その人がミサに参加するのを助けてあげてください。例えば、ミサ小冊子を渡して、ミサの間、定期的に、司祭が、今どの祈りを唱えているかを教えてあげましょう。ミサ小冊子を渡すだけでは十分ではありません。なぜなら、普通、その人は、その小冊子の使い方が分からないので、ミサが始まるとたちまち、流れについていけなくなるからです。そのような人には、ミサの間、助けが必要です。また、ミサの途中に、ひざまずいたり、座ったり、立ち上がったりするのがいつなのか、教えてあげるのも、役に立ちます。もしその人がカトリック信者で、ご聖体を受けたいのであれば、いつ聖体拝領台に行けばいいのかを教えてあげてください。

注意していただきたいのは、ミサ小冊子の祈りを読むよりも、ミサに注目するほうが好きな人がいることです。その場合は、その人にそうさせてあげて、小冊子のミサの祈りを見せることにこだわらないでください。

ミサで一番大切なのは、霊と愛において、自分を、十字架上のイエズスの犠牲と一致させ、司祭とともに、その犠牲を聖三位一体に捧げることです。ミサの祈りを読むことは、教皇聖ピオ十世が推奨する非常に良いミサ参加の方法ですが、それは義務ではないのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、この説教の締めくくりに、一つ付け加えておきたいことがあります。イエズス・キリストから今日に至るまで伝えられてきたカトリックの信仰の中に、真理と永遠の命があることを理解し、また聖伝のミサが、私たちを永遠の命に導く手段であることを理解するためには、このような霊魂たちに、天主の恩寵が注がれることが必要です。ですから、そのような人たちが聖伝のミサを発見して理解するのを皆さんが助けるのと同時に、皆さんの心の中で、至聖なる童貞マリアが、その恩寵をその人たちに与えてくださるよう、熱心に祈ることを忘れないでください。

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私たちは、外的な態度において聖なる者でなければなりませんが、特に心の中では、一層、聖なる者でなければなりません。

2022年11月07日 | お説教・霊的講話

内的な罪についての説教

2022年10月9日 ドモルネ神父

はじめに

今日の福音には、イエズスが、中風の人の罪を赦されたことが書かれています。そのとき、「ある律法学士たちは、『この人は冒涜の言葉を吐いた』と思った。イエズスは、その人たちの考えを見抜き、『なぜあなたたちは、心の中で、よからぬことを考えているのか』…と言われた」(マテオ9章3-4節)。私たちの主イエズスの、このみ言葉は、言葉や行いで罪を犯さないようにするだけでは不十分であり、心の中でも罪を犯さないようにしなければならないことを、私たちに思い起こさせます。なぜなら、すべての罪は、心から出るからです。「悪意、殺人、姦淫、淫行、窃盗、偽証、讒言などは心から出る」(マテオ15章19節)。私たちは、外的な態度において聖なる者でなければなりませんが、特に心の中では、一層、聖なる者でなければなりません。今日は、内的な罪についてお話しします。

1.内的な罪の本質

内的な罪とは、私たちが外的な行動を取らずに、思いだけで犯す罪のことです。最も一般的な内的な罪は、天主とその教会を冒涜する思いや、貞潔、正義、愛徳に反する思いや望みです。

この罪には、過去についての罪が含まれます。つまり、例えば、酒に酔ったという事実など、過去の悪い行いを、満足して思い出すことです。この罪には、現在についての罪も含まれます。つまり、例えば、だれかに対して復讐するという思いなど、実際のことについて悪い想像を働かせることです。この罪には、将来についての罪も含まれます。つまり、例えば、不潔な行いなど、機会があれば悪い行いをしたいと望むことです。「私は言う、色情をもって女を見れば、その人はもう心の中で姦通した」(マテオ5章28節)と、私たちの主は警告なさいました。

あらゆる罪に共通する通常の三つの条件がそろえば、内的な罪は存在します。その条件とは、それが悪いことであって、私たちがそれに対する十分な注意を払っていて、かつ、それに完全に同意することです。言い換えれば、私たちが明らかに悪いと知っているような記憶、思い、あるいは望みを、自発的に、かつ喜んで、長く思い続けるとき、私たちは内的な罪を犯しているのです。内的な罪は、人を憎んだり、多額のお金を盗んだり、姦淫したりといったように、重大なことに関するものであれば、大罪になります。もしそれが、しびれを切らしたり、成し遂げたことを誇ったりするように、軽微なことに関するものであれば、小罪となります。

2.避けるべき二つの誤謬

内的な罪について、避けるべき二つの誤謬があります。

第一の誤謬は、きちょうめんで内気な人々によくみられるものです。この誤謬は、心に浮かぶ悪い思いの一つ一つが罪であると信じることです。その結果、これらの人々は、自分が大罪の状態にあると常に考えており、そのため内的な平和を見いだせません。これは間違っています。罪となるものは、悪い思いが頭に浮かぶことではなく、それに同意することです。聖フランシスコ・サレジオは、この真理を次のように要約しています。「感じることは、同意することではない」。私たちは、非常に強くて心をかき乱すような、内的な誘惑を感じるかもしれませんが、それに同意しない限り、それを楽しまない限り、それを追い払おうと努力する限り、罪を犯しているのではありません。ですから、私たちは、このような誘惑が消えるまで、勇気をもって戦わなければなりません。最も偉大な聖人たちでさえも、時には激しい誘惑にさらされることがありました。彼らは、それをどのように拒むかについての美しい例を、私たちに示してくれました。たとえば、ある日、聖ベネディクトは、不潔な誘惑に激しく襲われました。彼は、その誘惑に一切同意したくないことを明確にするために、裸で茨の茂みに入り、体があまりに痛くなり、すべての誘惑が消え去るまで、そこで転がり続けたのです。

第二の誤謬は、信仰をほとんど知らない霊魂、あるいは、堕落して、すでに罪に凝り固まった霊魂によくみられるものです。この誤謬は、内的な罪は、たとえそれが故意に、また喜んで受け入れたものだとしても、外的に行わない限り、問題ないと考えることです。ファリザイ派の人々が、そうでした。彼らは、外的には自分たちが天主の律法に完全に忠実であるように見せることで、自らを聖であるとしていましたが、実際、内的には、罪に満ちていたのです。そのため、私たちの主は、彼らをこう強く非難なさったのです。「のろわれよ、偽善者の律法学士、ファリザイ人よ。あなたたちは白く塗った墓のようだ。外はきれいでも、内は死人の骨とさまざまな汚(けが)れに満ちている」(マテオ23章27節)。

3.内的な罪の危険性

内的な罪は、私たちの霊魂にとって、非常に危険なものです。なぜ、そうなのでしょうか。第一に、内的な罪を犯すのは、非常に簡単だからです。外的な罪を犯すには、時間、場所、都合のよい機会などが必要です。ところが、内的な罪は、いつ、どこででも犯すことができ、それを自分の意志だけで決められるからです。

第二に、内的な罪を犯すのは非常に簡単であるため、際限なく多くの罪を犯すことができるからです。例えば、不潔な愛の影響の下にある人のことを考えてみてください。その人は、一日に何千もの不潔な思いや望みなどの罪を犯すかもしれません。妬みや憎しみに苛まれている人のことを考えてみてください。その人は、数えきれない数の怨みや復讐の思いや望みを、すすんで持つかもしれません。

最後に、内的な罪を犯すのは、非常に簡単で、すぐにできるため、その性質、悪意の程度や数を判断するのが難しいことがあります。そうすると、不完全な告解をするという大きな危険があります。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの心は聖域かつ要塞であるべきです。聖域とは、すなわち、完全に天主に奉献された聖なる場所であり、要塞とは、すなわち、敵の攻撃に対して、私たちが懸命に守る場所です。悪い思いというのは、私たちの心に入り込んでその神性を汚し、そこから天主を追い出して、私たちを悪魔の奴隷にしようとする敵のようなものです。

内的な罪と戦ってそれを避けるには、どうしたらよいのでしょうか。しばしば痛悔の祈りをし、定期的に告解に行き、自分の悪意に気づいたら、祈りを唱えたり、何か良いことに集中したりすることで、その悪い思いに対して、すぐに対抗することです。また、あらゆる罪の機会、つまり、私たちに悪い思いや望みを起こさせる人、物、メディア、場所や活動を避けることです。ですから、聖なる人ヨブは、自分の目をよく監督するという例を私たちに示したのです。「私は、自分の目と、契約を結んだ。どんな娘にも、目をとめないと」(ヨブ31章1節)。

ロザリオの聖母が、私たちの心を、あらゆる内的な罪から清く保つことができるよう、助けてくださいますように。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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