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煉獄とは何か?煉獄にいるあわれな人々をどのようにして助けるべきか?

2022年11月08日 | お説教・霊的講話

煉獄についての説教

2022年11月06日 ドモルネ神父

はじめに

11月に入りました。今月は、煉獄にいる人々のことを、特に思い起こして、その人々のために祈る月です。今日は、煉獄とは何か、そして、そのあわれな人々を、私たちがどのようにして助けるべきかについて、皆さんに思い起こしていただきたいと思います。

1.煉獄という概念

「煉獄」という言葉は、「清め」あるいは「浄化」という意味です。「煉獄」という言葉が意味するのは、成聖の恩寵の状態で死んだものの、自分の罪を完全に償いきれなかった人々の状態です。したがって、彼らは、天主の命と幸福にあずかることはできません。なぜなら、天主は絶対的に聖ですから、絶対的に聖である者以外は、誰も、天主の命にあずかることができないからです。私たちの主イエズスは、こう言われました。「あなたたちの天の父が完全であるように、あなたたちも完全な者になれ」(マテオ5章48節)。清めが終われば、煉獄にいる人々は、天国に行くのです。

ですから、そのような霊魂たちが清められる場所のことを、煉獄と呼ぶのです。その場所は、どこでしょうか? それは、私たちには分かりません。

2.煉獄の存在

煉獄は、本当に存在します。私たちは、簡単な推論によって、その存在を推測することができます。実際、大罪の状態、つまり天主の敵になった状態で死んだ人は、永遠に地獄で罰せられることを、私たちは知っています。また、人が完全に清くなければ、つまり、自分の罪を完全に償った人でなければ、誰も天主の命にあずかることはできないということを、私たちは知っています。それでは、成聖の恩寵の状態にありながら、自分の罪を完全に償いきれないまま死んだ人々は、どうなるのでしょうか? 彼らは、地獄に行くわけでもなく、天国に行くこともできません。ですから、そのような人々が死んだ後、自分の罪の償いを完うすることのできる場所が、存在しなければならないのです。

私たちは、啓示によって、煉獄が存在することを知っています。マカベ書の中で、聖霊は、こう言っておられます。「死者のために、彼らが罪から解放されるように祈ることは、聖にして信心深い考えである」(マカベ後書12章46節)。しかし、地獄にいる人々は、永遠にそこに留まり、そのみじめな状況を変えることはできませんから、彼らのために祈るのは無駄なことです。天国にいる聖人たちは、永遠の命と幸福に入ったのですから、その幸福を失わせるものは何もありません。また、そのため、彼らは、私たちの助けを必要としません。そこで、聖霊が、「死者のために、彼らが罪から解放されるように祈ることは、聖にして、信心深い考えである」と言っておられるのは、地獄にも天国にもおらず、自分の罪のために天国に入ることを阻まれた人々について、話しておられるのでなければなりません。

3.煉獄は牢獄であり苦しみの場所である

煉獄とは、私たちに罪を償わせるための牢獄であり、苦しみの場です。私たちが罪を犯すとき、私たちは、自分の自由を濫用して、天主のみ旨から自ら離れてしまいます。そのため、それを償うために、煉獄では、私たちは自分の自由を奪われ、天主から一時的に離れさせられるのです。煉獄は、牢獄です。私たちの主イエズスは、こう言われました。「まことに私は言う、一厘残らず返すまで、あなたはその牢獄を出られないだろう」(マテオ5章26節)。

私たちが罪を犯すとき、私たちは、高慢、貪欲、官能など、非合法な満足や慰めを、自分自身に与えています。そのため、煉獄で、私たちは自分の罪の数と重さに応じた苦しみを耐えることによって、これを償うのです。私たちの罪が重ければ重いほど、苦しみは酷くなり、私たちの罪の数が多ければ多いほど、苦しみは長く続きます。煉獄は、火による苦しみの場所です。なぜ、火によって、なのでしょうか? 天主は、聖書の中で何度も、人間の霊的な清めを、金や銀を火で清めることに例えておられます。例えば、箴言の書には、こうあります。「銀が火で試され、金が炉で試されるように、天主は人の心を試される」(箴言17章3節)。煉獄にいる人々は、成聖の恩寵を持っているため、金や銀のようなものです。しかし、自分の罪の贖いができていないため、金の中に汚れが混じっているようなものです。火によって、汚れが取り除かれ、金が純粋になるように、煉獄の火によって、人々は自分の罪を償い、完全に聖なる者となるのです。

神学者のほとんどが、煉獄での苦しみは、この世で生きている間の最悪の苦しみよりも、もっとひどいものである、と、そろって言っています。「キリストにならいて」の著者であるトマス・ア・ケンピスは、こう言っています。「煉獄での一時間の苦しみは、ここ地上で行われる百年にわたる厳しい償いよりも、もっと恐ろしいものである」。また、聖ボナヴェントゥーラは、こう説明しています。「天主は、煉獄で強制される、より重い、義務的な償いよりも、地上で自ら進んで行う、より軽い償いの方を、もっとお喜びになるのです。ですから、地上で自ら進んで償いを行わないならば、それは、煉獄でのさらに激しい苦しみによって、補われなければならないのです。」

4.あわれな霊魂たちへの私たちの助け

煉獄にいる人々は、自分が煉獄にいる時間を短くすることが、全くできません。煉獄にいる人々は、功徳を積む期間がすでに終わっているため、自分の清めが終わるまで、耐えることしかできません。しかし、私たちには、彼らのためにできることがあります。私たちは、彼らの苦しみを和らげて、彼らが天国へ入るのを早めることができます。どうして、そのようなことができるのでしょうか? 煉獄にいる人々は、成聖の恩寵の状態にあります。もし私たちも成聖の恩寵の状態にあるならば、私たちは、彼らと霊的につながっていて、私たちの行う善業が、彼らのために役立ち得るのです。これは、パイプでつながった、いくつかの容器のようなものです。その容器の一つに水を注ぐと、その水は、他のすべての容器に行き渡ります。カトリック信仰が教えることは、こうです。「煉獄にいる霊魂は、地上の人間の祈り、償い、施し、また信者が彼らのために獲得する贖宥、特に彼らのために捧げられるミサの聖なる犠牲によって、助けられ、あるいは、救われる」。

結論

親愛なる信者の皆さん、もし誰かが、私たちの目の前で火に焼かれ、ひどい苦しみの中にいるとすれば、私たちはその人を救うために何もせず、ただ見ているだけでしょうか? いいえ、間違いなく、私たちは、その人をそのような拷問から解放するために、全力を尽くすことでしょう。しかし、煉獄にいる人々は、それをはるかに超える苦しみを受けているのです。彼らのあわれな状況に無関心でいるのではなく、彼らのために祈り、犠牲と愛徳のわざを増やし、その功徳を彼らに適用させることによって、彼らを助けましょう。

締めくくりに、聖ベルナルドの生涯にあった、こんな逸話を思い出していただきたいと思います。ある修道士が、規則を完璧には守れないまま、亡くなりました。彼は煉獄に行きました。彼は、天主のお許しを得て、聖ベルナルドのもとに現れ、助けを求めました。この聖なる修道院長は、熱心な弟子たちとともに、このあわれな修道士のために、熱心に祈りと断食とミサを捧げました。この修道士は、すぐに煉獄から解放されました。彼は再び、天主のお許しを得て、感謝の気持ちに満たされて、特に彼のために祈っていたこの共同体の老修道士のもとに現れました。老修道士は、亡くなった修道士に、何が一番役に立ったのかと尋ねました。亡くなった修道士は、それには答えず、老修道士の手を取って、ミサの捧げられていた教会に導きました。そして、祭壇を指さして、こう言ったのです。「私の鎖を断ち切った、偉大な贖いの力をご覧ください、私の囚われの代価をご覧ください、世の罪を除き給う救いのホスチアをご覧ください」。

囚われ、すなわち贖虜の聖母が、煉獄のあわれな霊魂たちのために、とりなしてくださいますように。


第二バチカン公会議によれば、信教の自由とは何か?しかし人間には偽りの宗教を実践する「権利」はない

2022年11月08日 | お説教・霊的講話

信教の自由という偽りの教理についての説教

2022年10月30日 ドモルネ神父

はじめに

現在、カトリック教会が大きな危機で揺れていることは、皆さんもおそらくお聞きになっているかと思います。一部の教皇たちや司教たちが、カトリックの信仰、つまり私たちが私たちの主イエズス・キリストから受けた教えを変えようとしてきたのです。とりわけ、これらの教皇たちや司教たちは、第二バチカン公会議を通して、「信教の自由」という名前の新しい教理を推し進めてきました。この誤った教理は、霊魂に対する毒であり、すべての国の王である、私たちの主イエズス・キリストに対する重大な侮辱です。

今日は、王たるキリストの祝日をお祝いしていますから、信教の自由が何を意味しているのか、そして、なぜ、これが有害な教理であるのかを、皆さんに思い起こしていただきたいと思います。

信教の自由という概念

第二バチカン公会議によれば、信教の自由とは何でしょうか? 第二バチカン公会議の文書「信教の自由に関する宣言」(Dignitatis Humanae)は、次のように述べています。「信教の自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある」。そして、この文書は、こう付け加えています。「信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである」(信教の自由に関する宣言2条)。

一見すると、おそらく、この信教の自由は、良いことのように思われるでしょう。すべての人は自分の良心に従わなければならず、すべての人はあれやこれやを信じることを強制されえない、というのは、その通りです。しかし、信教の自由という概念は、はるかにそれ以上のことをいっているのです。信教の自由とされているのは、すべての人には、いかなる宗教であっても、それを公に実践する権利があり、世俗の政府は、その権利を、すべての人に与えて、それを保護しなければならない、ということなのです。これは、とんでもないことです。説明しましょう。

偽りの宗教を実践する権利はない

信教の自由の教理によれば、すべての人には、いかなる宗教であっても、それを実践する権利があります。これが意味するのは、すべての人には、どんな間違った宗教でも、つまり天主についての真理を教えない宗教でも、それを実践する権利がある、ということです。しかし、そのような権利は存在しません。すべての人は、宇宙の支配者としての天主を礼拝しなければなりません。そして、すべての人は、天主ご自身が定められた方法で、天主を礼拝しなければなりません。さて、天主は、私たちの主イエズス・キリストを、天主と人間との間の唯一の仲介者として任命なさいました。したがって、すべての人には、イエズス・キリストとその教えを知る義務があり、すべての人には、イエズス・キリストの教えを実践する義務があり、すべての人には、イエズス・キリストが建てられた教会であるローマ・カトリック教会のメンバーとなって、私たちの主と一致する義務があります。したがって、すべての人には、カトリック信者になる権利があります。徳川の将軍たちが日本人に対して行ったように、これに反対することは、非常に重大な不正義です。逆に、誰も、偽りの宗教に従うこととはされていません。したがって、誰も、偽りの宗教を実践する権利は有していないのです。

真の宗教は客観的な科学であり、選択肢の一つではない

この問題の、第二の側面を見てみましょう。信教の自由の教理によれば、すべての人には、いかなる宗教でも実践する権利があります。これが意味するのは、宗教は、物理、化学、数学、歴史、地理などのような科学ではなく、単に自分自身の感情に基づいた個人的な信念であり、自分がそれに与えたいと思う以上の重要性は持っていない、ということです。信教の自由によれば、すべての人には、自分の好みや気分にしたがって、スーパーマーケットで自分の欲しい商品を選ぶ権利があるように、自分の個人的な好みにしたがって、いかなる宗教でも、それを選んで実践する権利があることになります…。しかし、そんな権利は存在しません。物理学、化学、数学、天文学、歴史学、地理学、経済学などが、科学、つまり宇宙の事物とそれを支配する法則に関する確かな知識であるように、宗教もまた、科学、つまり天主とその法に関する確かな知識なのです。すべての人には、自分の望む宗教を実践する権利があるということは、日本の公立大学で、教授たちが、次のようなことを教える権利があるというのと同じくらい、ばかげていて、不条理なことです。「2+2は、その人の望みに応じて、4でも5でも6でも10でもある」、「地球は、その人の望みに応じて、平らでも、丸くも、三角でもある」、「地震の原因は、その人の望みに応じて、構造プレートの動きでも、クジラのくしゃみでもある」、「サハラは、その人の望みに応じて、砂漠でも、氷河でも、ジャングルでもある」、「日本には、その人の望みに応じて、武士がいたかもしれないし、いなかったかもしれない」などということです…。このようなことは、すべて不合理です。しかし、数学、地理、物理、歴史などで、無意味なことを教える権利を、誰も持っていないように、宗教で無意味なことを教える権利は、誰も持っていないのです。

信教の自由は、世俗主義という大きな不正義の原因である

さて、信教の自由の問題の、第三の側面を見てみましょう。信教の自由の教理によれば、すべての人には、いかなる宗教であっても、それを実践する権利があり、世俗の政府は、この権利を、すべての市民に保証しなければなりません。これは、世俗の政府が、すべての宗教に、同じ市民権を与えなければならない、ということを意味します。これは、政府自身が、いかなる宗教も持ってはならない、ということを意味します。これは、天主や、イエズス・キリストとその法や、カトリック教会についての言及が、すべて、政府、市民法、そしてすべての公共施設から排除されなければならない、ということを意味します。これは、政府が、天主の法とは無関係に、みずから、その国民にとっての善と悪を決定する存在となる、ということを意味します。そうなると、例えば、政府は、離婚や中絶の許可を宣言することになるでしょう。これが、信教の自由というものなのです。つまり、すべての国の公的生活から、私たちの主イエズス・キリストを排除することなのです。このように、天主とイエズス・キリストを排除することは、世俗主義と呼ばれます。これは、明らかに、天主と私たちの主に対する非常に重大な不正義であり、各国民にただ大きな不幸をもたらすだけのものなのです。

結論

親愛なる信者の皆さん、信教の自由という教理は、それ自体が不条理であり、天主に対する大きな不正義であり、霊魂に対する毒です。信教の自由は、私たちの主イエズス・キリストの敵どもが、私たちの社会から主を排除するために用いる武器なのです。私たちは、この有害な信教の自由を望んではいません。

私たちが望むのは、すべての人と社会に対する、天主と私たちの主イエズス・キリストの権利が、公式に認められ、尊重されることです。私たちが望むのは、ローマ・カトリック教会が、その本来の姿として、つまり、天主とイエズス・キリストのこれらの権利の真正な解釈者として、公式に認められることです。私たちが望むのは、カトリック教会のメンバーとして、天主と私たちの主イエズス・キリストを礼拝する完全な自由が、すべての人に与えられることです。私たちが望むのは、永遠の生命に到るために必要なすべてのものを、カトリック教会から受ける完全な自由が、すべての人に与えられることです。私たちが望むのは、私たちの主イエズス・キリストが、私たちの政府、法律、裁判所、学校、大学、病院、老人施設、公共交通機関や、工場に、いてくださることです。要するに、私たちが望むのは、私たちの主イエズス・キリストが、その本来の姿として、つまり、私たちの王として、認められることなのです。

【参考文献】

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天主はなぜ私たちが病気やその他の試練で苦しむのをお許しになるのか?そのような状況の中で私たちはどのような態度を取るべきか?

2022年11月08日 | お説教・霊的講話

天主の御摂理、病気、その他の試練についての説教

2022年10月23日 ドモルネ神父

はじめに

今日の福音には、ある王官の息子が、奇跡的に癒やされたことが書かれています。この子どもの病気は、偶然に起きたのではありませんでした。天主は宇宙の統治者であり、天主のご命令もしくはご許可なしにこの地上で起こることは、何もありません。天主は、無限の知恵と、誰も逆らうことのできない力と、父としての比類なき善良さで、すべてを司っておられるのです。この天主による支配は、天主のお許しがなければ、私たちの頭から髪の毛一本さえも落ちることができないほどのものです。ですから、天主が病気や苦悩で私たちを試されるとき、なんらかの、良い賢明な理由のために、そうされるのです。天主はなぜ、今日の福音のなかで、この子どもが病気になるのを許されたのでしょうか?それは、この子どもの父親と家族が、イエズス・キリストの神性を信じ、多くの恩寵を受ける機会となるためだったのです。

まず、私たちが病気やその他の試練で苦しむのを、天主はなぜ、お許しになるのかについて、その後、そのような状況の中で、私たちはどのような態度を取るべきかについて、お話ししたいと思います。

1.私たちが病気やその他の試練で苦しむのを、天主がお許しになる理由

私たちが病気やその他の試練で苦しむのを、天主はなぜ、お許しになるのでしょうか。

第一の理由は、天主が存在し、宇宙と私たちの健康や生命の統治者であることを、私たちに思い起こさせるためです。実際、私たち人間は、この基本的な現実を、あまりにも忘れがちです。私たちは、まるで天主が存在しておられないかのように生きているか、あるいは、自分の人生における天主の重要性を、いささか二次的なものとしてしか、認めないのです。試練や苦しみは、私たちに、自分の弱さや限界を思い起こさせ、助けを求めるよう強制します。そして、人間からの助けが得られないとき、やっと私たちは天主とその全能および善意を思い出し、天主の方を向くのです。この真理は、聖書の中で、次のような逸話(サムエル下14章29-32節)を通して示されています。ダヴィド王の息子アブサロムは、軍の総司令官であるヨアブを二度呼び出しました。ヨアブは行くのを拒みます。すると、アブサロムは何をしたでしょうか?ヨアブの収穫物に火をつけたのです。そこですぐ、ヨアブは、その行為について苦情を言うために、アブサロムのところにやって来ました。するとアブサロムは、ヨアブを無理やり自分のところに来させるためにそうしたのだ、と言いました。天主も、それに少し似ておられます。天主は、私たちに、罪の道を離れてご自分のもとに来るようにと、何度も呼びかけられます。しかし、私たちは、それを聞き入れません。そこで、天主は、私たちになんらかの病気や苦悩を送って、私たちが天主の方に向くよう、強制されるのです。このように、福音のなかで、父親が子どもの癒しを求めるためにイエズスのところに行き、ついには、父親とその家族全員が救われるよう、天主が、まず子どもの病気をお許しになったのも、このような理由からだったのです。

天主が私たちの病気や苦悩をお許しになる第二の理由は、ご自分の正義を行い、私たちに、私たちの罪を償わせるためです。ベザダの池で、体の不自由な人が癒やされたときのことを思い出してください。私たちの主イエズスは、その人を癒やされ、そして、その人の病気の原因が、その人の罪であることを明らかにされました。「どうだ、あなたは治った。さらに悪いことが起こらぬように、もう二度と罪を犯すな」(ヨハネ5章14節)。ですから、私たちが、病気や試練に悩まされるとき、私たちは罪人であるため、苦しむに値する、ということを思い出しましょう(創世記42章21節参照)。聖ヨハネ・クリゾストモは、私たちが苦悩の中にあるとき、私たちは天主の御前にへりくだり、天主が、私たちの現在あるいは過去の大罪あるいは小罪を、償う機会を与えてくださっていると考えるよう、勧めています。

天主が私たちの病気や試練をお許しになる第三の理由は、私たちに対する天主の善意と御あわれみによるものです。病気や試練は、防腐剤のようなものだからです。それによって、私たちが罪を犯す機会や手段がより少なくなり、私たちはこの世の快楽や財物のむなしさをさらによく理解し、天国を求める望みをもっと育み、天国で、より大いなる栄光をうけるべきものとなるのです。例えば、私たちは、自分が病気であることに不平を言いますが、この病気がなければ、もしかしたら私たちは肉欲にまみれた人間か、あるいは酔っぱらいか、あるいは犯罪者になっていたかもしれません。私たちは、自分が貧乏だと不平を言いますが、もし金持ちだったら、もしかしたら非常に高慢になり、天主に対する義務を怠っていたかもしれません。ある日、ある金持ちが、慈善家聖ヨハネに、貧しい人々に与えるための大金を渡して、それによって、自分の一人息子の癒やしを天主から得ようとしました。しかし、その子は死んでしまいました。聖ヨハネは、それについて、私たちの主に対して、いささか不満を表しました。しかし、イエズスは、この子の死は、実際には、聖ヨハネの祈りとその人の施しによって得られた恩寵である、と答えられました。なぜなら、もしその子どもが生きたなら、その父親は息子のためにもっともっと財産を得ることばかり考えることとなって、その結果滅びていたはずであり、また他方、その息子も、世俗的で罪深い生活を送ることとなって、その結果やはり滅びていたはずだからです。

天主が私たちの病気や試練をお許しになる第四の理由は、私たちに対する天主の愛です。実際、天主が私たちを愛されれば愛されるほど、天主は、私たちが御子イエズス・キリストに似た者となることを望まれます。ですから、天主は、私たちも主の御苦しみにあずかるように、なさるのです。この苦しみは、私たちを押しつぶすためではなく、私たちに、天主と隣人への愛を深め、育ませるためのものです。大天使ラファエルが、トビアに言った言葉を思い出してください。「あなたは天主の目にかなったので、誘惑の試練を受けて、それを証さねばならなかった」(トビア12章13節)。愛する者のために苦しみ、死ぬことほど、おおきな愛の証しはありません。

2.病気や苦悩のときに取るべき態度

さて、病気や苦悩のとき、私たちは、どのような態度を取ればよいのでしょうか。一般的に言えば、キリスト教的な精神で、それを受け入れるべきです。つまり、その試練や苦悩を通して、天主が成し遂げることを望んでおられることが実現するよう、可能な限り、私たちは天主に協力すべきです。

天主が病気や苦悩をお許しになるのは、私たちの人生と存在に対する天主の絶対的な支配力を、私たちに思い起こさせるためです。ですから、試練の時には、私たちに対する天主の統治権を崇め、寛大に、そして愛をもって、天主の御旨に従いましょう。聖なる人ヨブが、その大きな苦悩のときにそうしたように、天主を讃美しましょう。「主は与え、主は奪われた。主の思し召しの通り、それはなされた。主の御名は祝されよ」(ヨブ1章21節)。

第二に、天主が病気や苦悩をお許しになるのは、それを私たちの罪の償いとするためです。ですから、試練のときには、天主の正義を崇めましょう。自分の罪を悔い、生き方を改め、自分の過去の罪の贖いとして、私たちの苦しみをお捧げしましょう。

そしてまた、天主が病気や苦悩をお許しになるのは、私たちを、より確実に、天国へ導くためです。ですから、試練のときには、天主の御摂理を崇め、その導きを信じましょう。私たちには、天主の道が十分に理解できないことがよくあります。しかし、善きお方である天主は、私たちを天国に導く方法を、私たちより、はるかによくご存じです。ですから、私たちは、天主を完全に信頼し、可能な限り、天主の御旨に沿うべきです。

最後に、天主が病気や苦悩をお許しになるのは、私たちを、私たちの主イエズス・キリストにさらに似た者とするためです。ですから、試練のときには、私たちの主のご受難をしばしば黙想し、主の愛徳と、主がそのときに示されたすべての聖徳に倣いましょう。

結論

親愛なる信者の皆さん、この説教の締めくくりに、皆さんに、トビア書にあるラグエルの娘サラの美しい祈りを思い起こしていただきたいと思います。「主を尊ぶ者は皆、その命が、試練にあって、栄冠を受けることを知っている。苦難にあえば、解放され、懲らしめを受ければ、あわれみを受ける。あなたは、われらのほろびを喜ばず、嵐の後に、静寂をおくり、涙と嘆きの後に、喜びをまかれる。イスラエルの天主よ、御名は永遠に祝福されよ。アーメン」。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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