Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

聖三位一体が私たちの霊魂に住んでおられるという、美しく慰めに満ちた現実について

2023年06月07日 | お説教・霊的講話

聖三位一体が私たちのうちに宿られることについての説教

ドモルネ神父 2023年6月4日

はじめに

今日は、聖三位一体の祝日です。私たちは、唯一の天主に三つのペルソナがあるという神秘的な現実を記念し、お祝いします。私たちは、第一存在を、「天主」と呼びます。すなわち、その存在や生命、完全性を、他の誰からも受けなかったお方、自ら存在するお方、自らの存在に限界のないお方、存在するすべてのものの存在の源であるお方です。天主がモーゼにご自分の名を啓示されたとき、天主はモーゼに、「私は『在るもの』である」(出エジプト3章14節)と言われました。これが意味するのは、天主がおられること、天主がこれまで常におられたこと、天主がこれからも常におられること、天主がおられないことは不可能なこと、天主が無限の存在でおられることです。天主は無限ですから、唯一無二です。おられるのは唯一の天主であり、唯一の天主でしかあり得ないのです。

しかし、イエズス・キリストは、この唯一の天主には、父なる天主、子なる天主、聖霊なる天主という三つのペルソナがあることを、私たちに啓示されました。三つの神々ではなく、三つのペルソナを持つ唯一の天主です。そして、この天主の三つのペルソナの間には、完全な知識と愛の交流があり、この交流が、それぞれのペルソナの絶対的な幸福の源なのです。天主は、私たちが幸福になることを必要としておられません。天主が孤独を感じられたために、私たちを創造なさったのではありません。聖三位一体は、ご自身で完全に幸福です。しかし、聖三位一体は、天主の命に入るように私たちを招いておられます。天主は、天主の三つのペルソナの間の知識と愛の交流にあずかるように、そしてその結果として、聖三位一体の絶対的な幸福にあずかるように、私たちを招いておられるのです。

私たちの天主の三つのペルソナとの交流は、私たちの死んだ後に始まるのではなく、私たちが望むなら、すでにこの地上での生活の間に始まるのです。今日は、聖三位一体が私たちの霊魂に住んでおられるという、美しく慰めに満ちた現実についてお話ししましょう。

1.被造物における天主の一般的な現存

天主は第一存在であり、万物にとっての存在の源です。ですから、天主はあらゆる場所におられます。すべてのものは天主の支配下にあるため、天主は、その力によって、あらゆる場所におられます。すべてのものが天主に知られていますから、天主は、その現存によって、あらゆる場所におられます。天主は、万物を絶えず存在させておられますから、その本質によって、あらゆる場所におられます。聖パウロが、このように天主があらゆる場所におられることを表現したのは、アテネの人々にこう語ったときでした。「私たちは天主の中に生き、動き、存在するものです」(使徒行録17章28節)。これは、詩篇作者が詩篇第138篇で、こう表現しているのと同じ現実です。「主の霊を、遠く離れられようか。み顔から、どこに逃げられようか。天にかけ上っても、主はそこにおられ、黄泉を床にしても、主はおられる」(詩篇138篇7-8節)。天主は、御自らの力によって、知識によって、そして万物の存在の源であることによって、あらゆるところ、つまり万物の中に、そしてあらゆる人間の中におられるのです。

2.義人における天主の特別な現存

しかし、天主はもう一つの方法でも、霊魂の中に自ら現存することがおできになります。それは、天主がその霊魂にご自身を知らせ、愛させられるときです。私たちが誰かを愛するとき、私たちはその人を、霊的にかつ愛情をもって、私たちの中に存在させるのです。ですから、例えば、夫は愛する妻にこう言います。「君が離れていても、君はいつも僕の心の中で、僕と一緒にいる」。妻が夫の中に霊的に、愛情をもって存在する原因は、二人を結びつけている友情の愛です。ある意味で、天主と成聖の恩寵の状態にある人間の関係もそうです。私たちに愛徳があるとき、私たちは友情の愛で天主を愛します。そして、愛徳は、成聖の恩寵により、私たちに与えられます。ですから、私たちが成聖の恩寵の状態にあるとき、聖三位一体と私たちの間に、愛による結びつきが成り立つのです。この結びつきによって、聖三位一体は、私たちの霊魂の中に、自ら現存なさるのです。この現存は、夫の心の中に妻が存在するような単なる愛情によるものではなく、現実のものなのです。天主ご自身が、このことを断言しておられますし、天主は嘘をおつきにはなりません。聖書では、「知恵の書」で、天主はこう言っておられます。「知恵は悪い心に入らず、罪にふける体に住まない」。私たちの主イエズス・キリストは、こう言っておられます。「私を愛する者は私の言葉を守る。また父もその者を愛される。そして私たちはその人のところに行って、そこに住む」(ヨハネ14章23節)。また主はこう言っておられます。「私は父に願おう。そうすれば、父は、ほかの弁護者をあなたたちに与え、永遠にともにいさせてくださる。それは真理の霊である。世はそれを見もせず、知りもしないので、それを受け入れない。しかし、あなたたちは霊を知っている。霊はあなたたちとともに住んで、あなたたちの中にいますからである。(ヨハネ14章16-17節)。私たちの主のこれらの御言葉の意味することはあきらかです。つまり、信仰と愛のうちに天主と一致する者の霊魂の中には、天主の三つのペルソナが住まわれるのです。

3.霊魂に天主が宿られること

私たちが成聖の恩寵の状態にあるとき、私たちの中に天主が現存されることを、「宿り」と呼びます。なぜ、この「宿り」という言葉を使うのでしょうか。それは、人が友人の家に住むように、聖三位一体が私たちの霊魂に住まわれること、また、人が友人と交流するように、聖三位一体が私たちと交流されること、そして、私たちが大罪によって聖三位一体を追い出さない限り、聖三位一体が私たちの霊魂に現存し続けられることを表すためです。成聖の恩寵によって、私たちの霊魂は、聖三位一体が住まわれる生ける神殿となるのです。

聖三位一体は、私たちの中で、活動なさっていないわけではありません。私たちの中で、天主の三つのペルソナは、天主の命の最高の強さをもって、お互いを知られ、愛され、その活動によって、私たちと交わられるのです。天主は、時折、私たちにこの交わりを感じさせてくださいます。どのようにしてでしょうか。例えば、天主は、天主が絶対の真理にして善であること、私たちは自分のものは何も持っていないこと、この世の財物はむなしいものであることを、いくつかの証拠をもって、私たちに理解させられます。天主は私たちに、永遠の命への強い望みを、船の帆に吹く強い風のように与えてくださり、燃える火のように、天主への愛で私たちの心を広げてくださり、太陽に向かって飛ぶ鷲のように、祈りで私たちの霊魂を上げてくださり、川の流れがあふれるように、私たちがキリストの御国のために働くよう促してくださいます。エマオの弟子たちが、イエズスに聖書の意味を説明していただいた後に語った言葉を思い出してください。「途中で、聖書を説明されたとき、私たちの心の中は、燃えていたではないか」(ルカ24章32節)。この弟子たちは、どうやら、自分たちの霊魂の中に天主が現存しておられることを、体験したのです。

また、聖三位一体が霊魂に宿られることを、「聖霊の宿り」とも呼びます。これは同じものです。霊魂に聖三位一体が宿られることは、霊魂を天主に結びつける愛徳の結果です。ところで、愛徳は、特に聖霊によって私たちに与えられるものです。ですから私たちは、「聖三位一体の宿り」と「聖霊の宿り」を、等しいものとして語ります。聖パウロはコリント人にこう言っています。「あなたたちが天主の神殿であり、天主の霊はその中に住み給うことをあなたたちは知らないのか」(コリント前書3章16節)。

結論

親愛なる信者の皆さん、私たちの中に聖三位一体が宿られるというこの現実から、私たちはどんな結論を導き出すべきでしょうか。自分を敬うことと、内的な祈りの二つです。

第一の結論は、自分を敬うことです。私たちの尊厳は、人間であるという単なる事実、知性や意志、自由意志を持っている、ということにあるのではありません。それらすべてをもってしても、私たちは、死んだ後に地獄に行くだけのものでしかないのです。なぜなら、私たちは、創造主のお怒りを招くために自分の自由意志を行使するのですから。私たちの尊厳は、成聖の恩寵の状態にあるキリスト教徒であるということにあります。私たちが成聖の恩寵の状態にあるとき、私たちは聖三位一体の生ける神殿となるのです。ですから、私たちは、自らを聖三位一体の神殿として敬い、大罪によって自らを冒涜してはなりません。時々、私たちは新聞で、ある教会が冒涜されたことを知ります。邪悪な人々が磔刑像のある十字架を壊し、御像の首を落とし、内陣を汚し、さまざまな方法で天主への憎しみを表します。もし、私たちがそのような冒涜行為に参加するよう誘われたとしたら、私たちは、それを受け入れるでしょうか。もちろん、そんなことはしませんし、それを防ぐために、力の及ぶ限りのことをするでしょう。しかし、私たちが大罪を犯すとき、特に情欲によって自分の体を乱用するとき、私たちは同じようなことをしているのです。私たちは、自分という神殿を冒涜し、そこから聖三位一体を追い出してしまうのです。これは、聖パウロがコリント人たちを非難した言葉です。「あなたたちの体は、そのうちにある天主から受けた聖霊の神殿であって、自分のものではないことを知らないのか。まことに、あなたたちは高値で買われたものである。だから、その体をもって天主に光栄を帰せよ」(コリント前書6章19-20節)。

第二の結論は、内的な祈りです。聖三位一体は、愛によって私たちの中に住まわれるため、私たちは聖三位一体に注意を払わなければなりません。頻繁に聖三位一体のことを考え、心の中で頻繁に聖三位一体に話しかけ、私たちのすべての行動を聖三位一体に奉献するのです。私たちは、内陣に入るように自分自身の中に入って、自分自身の中に聖三位一体を見いだして礼拝することを学ばなければなりません。聖三位一体が、私たちの存在の原理であり、目標です。私たちの永遠の命と幸福は、聖三位一体の中で生きることにあります。この命は、すでに地上において、私たち自身の中で始まっています。この命こそが、すでに地上における真の幸福の秘訣なのです。

聖ヨゼフと童貞聖マリアが、私たちがこのことを理解するのを助けてくださいますように。


2023年6月7日は、六月の初水曜日(月の初めての水曜日)です 聖ヨゼフ!我らのために祈り給え

2023年06月07日 | カトリック・ニュースなど

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日、2023年6月7日は初水曜日(月の初めての水曜日)です。聖母の汚れなき御心と聖ヨゼフとの取り次ぎを通して、私たちの主の御聖体に対する冒瀆的な取り扱いに対する償いを捧げましょう。

初水曜日ですからいつものように「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」について黙想することをご提案します。


聖ヨゼフはこの世で天主イエズス様と浄配なる聖母マリア様を最も良く知り、愛された御方であり、その隠れた徳ゆえに偉大なる御方、イエズス様とマリア様の最大の命の恩人であられました。

また、聖ヨゼフは、この世では、全てを天主の栄光のために、隠れてその生涯をささげられたが故に、天にて聖母の次に最大の栄光をあたえられていらっしゃいます。

聖伝では、水曜日は聖ヨゼフに捧げられた曜日であり、月の最初の水曜日を聖ヨゼフに捧げることで、聖ヨゼフを讃え、その御取次に信頼し、その御徳に倣って、聖ヨゼフを通して、天主イエズス様とマリア様をお愛しすることができますように。

初土曜日の「聖母の汚れ無き御心」への信心にならって、この「聖ヨゼフの七つの御喜びと御悲しみ」のどれかを「15分間黙想」することにいたしましょう。

聖ヨゼフの帯の信心については、下記リンクをごらんください。
聖ヨゼフの帯 cingulum Sancti Joseph

聖ヨゼフの御取次ぎにより、聖母の汚れ無き御心とイエズスの至聖なる聖心ヘの愛をますます与えてくださいますように!
聖ヨゼフの御取次ぎにより豊かな祝福がありますように!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ヨゼフの7つの苦しみと喜び

1 ああいと潔き御母マリアの浄配、栄えある聖ヨゼフよ、御身のいと清き妻を失なわんと心に思い煩いし時の苦しみはいと大いなるものなりき。
されど天使が御託身の玄義を御身に伝えられし時の喜びは、またひとしお大いなりき。この苦しみ、この喜びにより、今も臨終の時も我らの心を潔き良心の喜びと、イエズス、マリアのうちに自我を滅する尊き御身の心を示し、我らを慰め給え。



2 ああいと幸いなる保護者聖ヨゼフよ、御身は人となり給いし御言葉の潔き養父の位にあげられたれども、御身は幼きイエズスがいと貧しき中に生まれ給うを見て大いに悲しみ給いしが、
天使らのたえなる歌声を聴き、その輝ける夜の栄えを見給うや、その悲しみは天的の喜びと変じたり。御身のこの悲しみ、この喜びによりて、我らもまたこの世の歩みを終えたる後、天使らの賛美の歌声を聴き、天的光栄の輝きを受け得んことを願い奉る。



3 ああ御摂理にいと従順なしもべなる、栄えある聖ヨゼフよ、幼きイエズスが割礼にて流されたる尊き御血は御身の心を苦痛もて貫きたれども、
イエズスと命名されるや御身の心は喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らをこの世の悪徳より離れしめ、イエズスのいと尊き御名を心から唱えつつ心満たされてこの世を去るを得しめ給え。



4 ああいと忠誠なる聖ヨゼフよ、御身は救世の玄義の成就に身をもって大いなる役を果たされしが、シメオンの預言によりイエズスとマリアが受け給うべき苦難を予知せられ苦しみ給いたれど、
数限りなき人々の霊魂がこれによって救わるるとの預言によりて、天的喜びに満たされたり。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らがイエズスの功徳と聖母マリアの御取次ぎにより、終わりなき栄えを得てよみがえる人々のうちに数えられる御恵みをとりなし給わんことを願い奉る。



5 ああ人となり給いし天主の御子のいとも注意深き保護者なる栄えある聖ヨゼフよ、御身はいと高きものの御子を養い給い、これに仕えるために多くの辛酸をなめられたり。わけてもそのエジプトへの逃避はいと苦しきものなりしが、
御身が常に天主御自身と共におられし喜び、またエジプト人らの諸々の偶像が地に落とされしを目の当たりに見られし時の安心はいと大いなりき。この御身の辛酸と喜びとによりて、我らが地獄的暴君より免れて、わけても危険なる機会より逃避する事を得しめ、我らの心のうちに地上的執着が落とされ、ひたすらイエズスとマリアに仕え奉りつつ日々の生活を送り、この世を幸いに終わる事を得しめ給え。



6 ああこの地上の天使なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の心を天の王に全く捧げられたり。御身がエジプトより戻られる喜びは、アルケラウスに対する憂慮にて不安の闇となりしが、
天使は再び御身にイエズスとマリアと共にナザレトにて楽しく住み給う事を約束せられたり。御身のこの苦しみ、この喜びによりて、我らの心を深い恐怖より免れしめ、潔き良心の平和を楽しみ、イエズスとマリアと共につつがなく世を送り、臨終においてはイエズスとマリアの御手に我らの霊魂を捧ぐる事を得しめ給え。



7 ああ全ての徳の鑑なる栄えある聖ヨゼフよ、御身は御身の誤りにあらずして幼きイエズスを見失い、三日の間苦しみもて捜し求められたり。
されど神殿の中に博士らに取り巻かれたるイエズスを見出されし時の喜びはいかに大いなりや。御身のこの苦しみ、この喜びにより、我らが大罪を犯しイエズスを失いたりせば、たゆまず彼を捜し求め、遂に再び巡り会えるよう、わけても臨終の時に彼と共にありて天国に至り、御身と共に天主の終わりなき御恵みを賛美し奉るようとりなし給わんことを心から願い奉る。



交唱 イエズスが教えをはじめたりしは三十歳ごろなり、人々、イエズスをヨゼフの子なりと思いたり。(ルカ3:23)

V 聖ヨゼフ、我らの為に祈り給え。
R キリストの御約束に我らをかなわしめ給え。

祈願 天主、御身のかしこき御摂理のうちに祝せられたヨゼフを至聖なるマリアの浄配に選び給いたれば、願わくはこの世の我らの保護者として崇め奉る彼が、我らの天のとりなし手となり給わんことを。 アーメン。

参考リンク
サンタフェ~奇跡の階段 コラレス通り1丁目 この記事に昔の階段の様子の写真があります。

聖ヨゼフの階段(アメリカのニューメキシコ、サンタ・フェにあるロレット・チャペル)



英語ではこちら。
THE SEVEN DOLOURS AND SEVEN JOYS.

i. St. Joseph, pure spouse of most holy Mary, the trouble and anguish of thy heart were great, when, being in sore perplexity, thou wast minded to put away thy stainless spouse: but this joy was inexpressible when the archangel revealed to thee the high mystery of the Incarnation.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee comfort our souls now and in their last pains with the consolation of a well-spent life, and a holy death like unto thine own, with Jesus and Mary at our side.
Pater, Ave, and Gloria.

ii. St. Joseph, Blessed Patriarch, chosen to the office of Father of the Word made Man, the pain was keen that thou didst feel when thou didst see the Infant Jesus born in abject poverty; but thy pain was changed into heavenly joy when thou didst hear the harmony of angel-choirs, and behold the glory of that night when Jesus was born.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee obtain for us, that, when the journey of our life is ended, we too may pass to that blessed land where we shall hear the angel-chants, and rejoice in the bright light of heavenly glory.
Pater, Ave, and Gloria.

iii. St. Joseph, who wast ever most obedient in executing the law of God, thy heart was pierced with pain when the Precious Blood of the Infant Saviour was shed at His Circumcision; but with the Name of Jesus new life and heavenly joy returned to thee.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, being freed in our life from every vice, we too may cheerfully die, with the sweet Name of Jesus in our hearts and on our lips.
Pater, Ave, and Gloria.

iv. St. Joseph, faithful Saint, who wast admitted to take part in the redemption of man; the prophecy of Simeon foretelling the sufferings of Jesus and Mary caused thee a pang like that of death; but at the same time his prediction of the salvation and glorious resurrection of innumerable souls filled thee with a blessed joy.
By this thy sorrow and thy joy, help us with thy prayers to be of the number of those who, by the merits of Jesus and his Virgin Mother, shall be partakers of the resurrection to glory.
Pater, Ave, and Gloria.

v. St. Joseph, watchful Guardian, friend of the Incarnate Son of God, truly thou didst greatly toil to nurture and to serve the Son of the Most High, especially in the flight thou madest with Him unto Egypt; yet didst thou rejoice to have God Himself always with thee, and to see the overthrow of the idols of Egypt.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us grace to keep far out of the reach of the enemy of our souls, by quitting all dangerous occasions, that so no idol of earthly affection may any longer occupy a place in our hearts, but that, being entirely devoted to the service of Jesus and Mary, we may live and die for them alone.
Pater, Ave, and Gloria.

vi. St. Joseph, angel on earth, who didst so wonder to see the King of heaven obedient to thy bidding, the consolation thou hadst at His return was disturbed by the fear of Archelaus, but nevertheless, being reassured by the angel, thou didst go back and dwell happily at Nazareth, in the company of Jesus and of Mary.
By this thy sorrow and thy joy, obtain for us, that, having our hearts freed from idle fears, we may enjoy the peace of a tranquil conscience, dwelling safely with Jesus and Mary, and dying at last between them.
Pater, Ave, and Gloria.

vii. St. Joseph, example of all holy living, when, though without blame, thou didst lose Jesus, the Holy Child, thou didst search for Him for three long days in great sorrow, until with joy unspeakable thou didst find him, who was as thy life to thee, amidst the doctors in this Temple.
By this thy sorrow and thy joy, we pray thee with our whole heart so to interpose always in our behalf, that we may never lose Jesus by mortal sin; and if (which God avert) we are at any time so wretched as to do so, that we pray thee to aid us to seek Him with such ceaseless sorrow until we find Him, particularly in the hour of our death, that we may pass from this life to enjoy Him for ever in heaven, there to sing with thee His divine mercies without end.
Pater, Ave, and Gloria.

Ant. Jesus Himself was about thirty years old, being, as was supposed, the son of Joseph.

V. Pray for us, holy Joseph.
R. That we may be made worthy of the promises of Christ.

Let us pray.
O God, who in Thine ineffable providence didst vouchsafe to choose blessed Joseph to be the husband of Thy most holy Mother; grant, we beseech Thee, that we may have him for our intercessor in heaven, whom on earth we venerate as our holy protector. Who livest and reignest world without end. Amen.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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