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ケネディー・ホール著「SSPX: The Defence」まえがき:ガニョン枢機卿「彼らのシステムは世界中のすべての神学校でまねるに値します。模範的なものです」

2023年06月23日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

最近ケネディー・ホール著「SSPX: The Defence」が出版されました。

この本を、著名なマー神父(Father Charles Murr)がまえがきをかいて、推薦しています。マー神父は、ガニョン枢機卿の親友でした。ガニョン枢機卿は1987年に公式の教皇視察として、エコン神学校を訪問しました。枢機卿は、教皇ヨハネ・パウロ二世への公式報告の中で、聖ピオ十世会、特に聖ピオ十世神学校を次のように賞賛しています。「私がこれまで見てきた中で、最も素晴らしい哲学と神学の学習プログラムの一つです…思い出してください。私は何年も神学校の校長をしていたのですから」。

「彼らのシステムは、世界中のすべての神学校でまねるに値します。模範的なものです」。

マー神父の書いた「まえがき」foreword written by Fr. Charles Murr の日本語訳をご紹介いたします。

「SSPX: The Defence」で、私の友人であるケネディ・ホールが、困難ではあるものの崇高な仕事に取り組んでいます。彼はマルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会(SSPX)に関する多くの質問に答えることを思い切って行いました。驚くべきことに、この二つのテーマに関する問い合わせは、今日、以前よりもはるかに多くなっています。その理由は、極めて皮肉なことですが、教皇フランシスコが聖伝のラテン語ミサ(TLM)を、敵意を持って攻撃していることが大きいと思います。さて、尋ねられている多くの質問(中には鋭い批判の形もあります)は、実際には二つに集約されます。つまり、ルフェーブル大司教が聖ピオ十世会を設立したときに表明した意向はどんなものだったのか、そして、聖ピオ十世会の現実の状態と法的な(教会法上の)立場はどうなのか、ということです。

「ディスインフォメーション(Disinformation)とは、ロシア語のDezinformatsiyaを文字転写したもので、マルクス主義を作った者たちや発展させた者たちによって、世論を惑わすことを目的とした偽りの報道の流布(報道、ラジオなどで)と定義されます。この言葉は、今や私たちの辞書に欠かせないものとなりましたが、当初の鋭い点はかなり鈍化しています。ディスインフォメーションは、今や、私たちの中で「目覚めた」(woke)人々が不快に思うあらゆるニュースの総称となっているのです。(同様に、ディスインフォメーションのいとこである「ヘイトスピーチ」は、リベラル派が特に好まないものを意味します)。しかし、1968年の文化的反乱以前に生きていて物を考えることのできる年齢だった私たちの多くは、この矛盾した響きを持つ表現を初めて聞いたときのことを覚えています。私が初めて「ディスインフォメーション」という言葉を聞いたのは、リトアニア人の司祭が、1947年以来のヨージェフ・ミンゼンティ枢機卿の「見せしめ裁判」の詳細な内容を語る説教の中だったと記憶しています。1960年代初頭のことです。私は11歳か12歳でした。第二次世界大戦の終結(1945年)からソビエト連邦の解体(1991年)に至る、西洋文明とソビエト共産主義の間が強固に深く凍り付いた状態の「冷戦」の真っ最中でした。

では、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会に関する本のまえがきにおいて、「ディスインフォメーション」についての議論とは、何のことなのでしょうか。まあ、何でもありということです。

嘘をつくこと、すなわち、虚偽を流布する「技術」は、聖ピオ十世会の発足時から今日に至るまで、聖ピオ十世会を批判する者たちの「手口」(modus operandi)です(本書の読者なら、すぐに自分で発見するでしょう)。大司教とその弟子たちを中傷することは、1960年代から70年代にかけて、バチカンの二人の非常に著名で強力な高位聖職者の継続的な「務め」でした。ジャン=マリー・ヴィヨ枢機卿(バチカン国務長官)とガブリエル=マリー・ガロンヌ枢機卿(バチカン神学校・大学聖省長官)です。この二人のフランス人は、現実のものと来るべきものの「新秩序」を体現しているように見えました。彼らは間違いなく、近代(主義者)の教会権力の体現者であり、部下たちのために、歩むべき正しい方向、持つべき正しい態度、持つべき正しい選択肢を示しました。外交的に言えば、ヴィヨとガロンヌは、「政治的正しさ」(political correctness)が庶民的で俗なものになるずっと前から、「政治的正しさ」そのものでした。彼らは死ぬまで、兄弟である司教かつ同国人【ルフェーブル大司教】に激しく反対しました。アンニバーレ・ブニーニと彼の最新の典礼上の創作物からの十分な援助を受け、「新しい神学」(nouvelle théologie)の地平を広げるために、ヴィヨとガロンヌは、まさに「教会クーデター」(coupe-d’église)を引き起こすのに貢献し、その影響は今日でも感じられるものです。

どうしてそんなことが私に分かるのでしょうか。しかも、そんなことを言うとは、私は何者なのでしょうか。

73年間、天主のご寛容と御あわれみにより、天主は、私に最も魅力的で退屈しない人生を与えてくださいました。真の友や偽の敵から、偽の友や真の敵、そしてもちろん、どこにでもいる中間的な人々まで、常に多彩な人物に囲まれながら、天主は、何度も素晴らしい場所に私を植えられ、根を抜かれ、再び植えられました。しかし、私がこの世で過ごしたすべての時間の中で、最も輝いていたのは20代の10年間でした。1971年から1980年まで、私はローマに住んでいました。そのうちの後半の5年間は、大学院で勉強を続けながら、バチカン広報局で働いていました。

1974年、私は、私の人生の行く道を形成することになる、二人の傑出した紳士と友人になりました。ラヴェンナ出身の司祭マリオ・マリーニは、バチカン国務省の「書記」(minutante)でした。(彼は後に、典礼秘跡省長官となり、同時にエクレジア・デイ委員会の委員長となります。)マリーニはすぐに、教皇庁家庭評議会議長のフランス系カナダ人、エドゥアール・ジョゼフ・ガニョン大司教を私に紹介してくれました。(ガニョンは枢機卿となり、1987年には教皇ヨハネ・パウロ二世から派遣されて、エコンでマルセル・ルフェーブル大司教と会見する[1984年]ことになります。)1977年、マリーニ、ガニョン、私の3人は、ジャニコロの丘に近いレバノン人居住区に一緒に住むことに決めました。私は、天主がこの2人の偉大な人物をご自分のもとに召されるまで、2人の近くにいました。ガニョン枢機卿は2007年、モンシニョール・マリーニは2009年のことでした。

私の友人マリオ・マリーニが怒っているのを見ることはめったにありませんでしたが、私の心に強く残ったのは、聖マリア大聖堂での私の初ミサのときのことでした。私はボルゲーゼ礼拝堂にある、エウジェニオ・パチェリが初ミサを捧げた祭壇で初ミサを捧げることになりました。マザー・パスカリーナは、私がミサのローマ典文用に使うことのできる教皇ピオ十二世の白いミサ典礼書を私に貸してくれると申し出てくれました。しかし、メキシコ学院の校長(当時の私の法的な長上)が抗議してきました。彼は「ルフェーブル的・異端的」な儀式には、一切参加しないつもりでした。この小心者は、その貴重なミサ典礼書を使うと私の初ミサは無効になる、と主張しました。

マリーニは憤慨しました。「ピオ十二世のミサ典礼書が異端の烙印を押されるなんて、誰が想像できるでしょうか。これはまさしく狂気です」。

ジャン=マリー・ヴィヨ枢機卿とガブリエル=マリー・ガロンヌ枢機卿が流したルフェーブルのディスインフォメーションの一部を知ったのは、ガニョンとマリーニを通じてでした。この2人のフランス人、特にヴィヨ枢機卿は、親仏派の教皇パウロ六世に話を聞いてもらえることから、フランス司教団に大きな圧力をかけていました。さらに、ヴィヨがもう一人の「気の合う」バチカンの高位聖職者である司教省長官セバスティアーノ・バッジョ枢機卿と目と目を合わせていたことも気になりました。バッジョは、フランス司教区の司教候補者はすべて、ヴィヨの支持を受ける現代思想の持ち主であることを特に確認しました。フランスのカトリックを解体するのに数年かかりましたが、ついには、フランスで統治するすべての司教は、「自由思想の」進歩派となったのであり、彼らは、ルフェーブルと聖ピオ十世会を、やがて――できればすぐにでも――ただ消えてなくなる宗教的・社会的反動派とみなしていたのです。

ヴィヨ国務長官は、バチカンのすべての省、部署、評議会、委員会が「エキュメニズム」に関心を持ち、第二バチカン公会議の新しい精神に心を開くかもしれないカトリック以外のあらゆる団体と「対話」していることを確認しましたが、バチカンとエコンの間の対話を進めることは何もしませんでした。それどころか、彼はそれに反対していました。国務省「書記」のモンシニョール・マリオ・マリーニと国務省人事部のトップ、モンシニョール・グリエルモ・ザンモーニによると、誰かがルフェーブル大司教の話題を持ち出すことほど、ジャン=マリー・ヴィヨ枢機卿の怒りを迅速かつ明白に買うことはありませんでした。1979年に亡くなるまで、このフランス人国務長官は、ルフェーブル大司教がフランスの司教団から排斥され、聖職(a divinis)の停止処分を受けたことに満足していたようです。ヴィヨに関する限り、「ルフェーブル事件」は終わったこと、済んだこと、対処すべき頭痛の種が一つ減ったこと、そして、それは「彼らが言うように」(comme on dit)でした。

ヴィヨが永遠の眠りについたことで、彼の長年の部下だったアゴスティーノ・カサローリ大司教は、彼の脱いだ靴を履こうと躍起になっていました。カサローリは、長年にわたって沈黙を守り、事務職を務め、臭い灰皿からゴロワーズ【フランスのたばこの銘柄】の吸い殻を空にする作業を続けましたが、自分の考えを話し、自分なりの「東方外交」(Ostpolitik)の解釈を広め、ソ連とその衛星国との対話神話に真の弾みをつけようと懸命になっていました。そして今や、新しいポーランド人教皇の支持を得て、この小さな事務職員が征服できないほど高い山はないように思えました。

というわけです。カサローリは、元の長上と同様、「ルフェーブル派」(Lefebvristi)との間にある物事を解決することに興味はありませんでした。全くなかったのです。

しかし、新教皇ヨハネ・パウロ二世は、ルフェーブル大司教と合意(a meeting of the minds)を得たいと思いました。教皇は和解を望んでいました。キリスト教の一致を維持(または再確立)することを望むのは当然ですが、聖ピオ十世会ほど、力と数を増しているカトリック共同体は他になかったのです。

私の非常につまらぬ意見では、教会の中には、また当時は、ジョバンニ・ベネリ枢機卿以上に、教皇ヨハネ・パウロ二世が実現したいと望んでいた、この崇高な目標を、また他の多くの崇高な目標を教皇が達成するのを助けることのできた人はいなかったでしょう。そして、このことを、教皇ヨハネ・パウロ二世以上に、そしてもちろんジョバンニ・ベネリ自身以上によく知っていた人はいませんでした。しかし、フィレンツェを離れ、国務長官としてバチカンに戻るという教皇の要請を受け入れてから2週間もたたないうちに、一見元気そうな61歳のジョバンニ・ベネリは致命的な心臓発作を起こし、1982年10月26日、フィレンツェで死去したのです。

沈痛な面持ちの国務長官代理アゴスティーノ・カサローリ枢機卿は、教皇ヨハネ・パウロに悲報を伝えました。数日後、教皇は彼を国務長官として承認しました。

1987年11月上旬、私のもとに1通の特別送達の手紙が届きました。バチカン市国からのものであることは、郵便局員が切手収集のために封筒の右上隅を破っていたので、すぐに分かりました。(メキシコではよくあることです。)エドゥアール・ガニョン枢機卿の手書きの手紙はまず、特別に祈ってほしいというものでした。彼は、自分とヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、教皇と何度も会っていると書いていました。話し合いの話題は、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の不安定な状況についてでした。その結果、教皇ヨハネ・パウロ二世は、ガニョン枢機卿に、スイスに行ってルフェーブル大司教と話し、聖ピオ十世会を、特にその神学校を調査するように命じました。

ガニョン枢機卿は、後にニューヨークで私に説明してくれたように、11月11日(1987年)にエコンに到着し、12月9日までそこに留まりました。彼はルフェーブルに聖座の提案、すなわち、第一に、聖ピオ十世会の存続を保証するためにルフェーブルが1人だけ新司教を聖別するよう説得することに失敗しました。4人ではありません。しかし、彼(ガニョン)はこのミッションを完全に失敗だとは考えていませんでした。教皇ヨハネ・パウロ二世への公式報告の中で、彼は聖ピオ十世会、特に聖ピオ十世神学校を次のように賞賛しています。「私がこれまで見てきた中で、最も素晴らしい哲学と神学の学習プログラムの一つです…思い出してください。私は何年も神学校の校長をしていたのですから」。彼は聖ピオ十世会の神学校をさらに詳しく評価しました。「彼らのシステムは、世界中のすべての神学校でまねるに値します。模範的なものです」。

率直に言えば私は、マルセル・ルフェーブル大司教という人物自身に対する枢機卿の意見には驚かされました。「彼(ルフェーヴル)はバチカンを信用していません。誰が彼を責めることができるでしょうか。あなたならどうしますか。彼は何年もの間、(国務長官)ヴィヨと(カトリック大学・神学校担当長官)ガロンヌと取引しようと試みました。しかし、二人は何年も、教皇と直接話をし、説得しようとする彼の努力を妨害するばかりでした。あなたもバチカンに不信感を抱いていることでしょう。いや、彼が行ったこと(1人ではなく4人の司教を聖別したこと)は許せませんが、なぜそうしたのかは理解できます。彼ら(聖座)は、彼が司教を聖別することを許可しているのです。1人の司教を。彼(ルフェーブル)は死にます。やがて、その一人の司教も死にます。そしてバチカンは聖ピオ十世会に後任として近代主義者を送り込むのです。そうして(指を鳴らして)すべてが終わった、と言うように」。

あることがきっかけで、皆さんが別のことが思い出すとは、面白いものです。

2022年、教皇ベルゴリオは、オプス・デイの顕著な影響力と法的地位を削り取ることを開始しました。教皇ヨハネ・パウロ二世と最も幸福に合意した(1982年の)「属人区」は、現在このアルゼンチン人の監視の目の下で、「修正」を受け始めていました。最初にすることは、属人区専属の高位聖職者でした。オプス・デイは今、司教不在です。しかも、もう司教省の下にはなく、聖職者省によって常に監視されています。このアルゼンチン人のオプス・デイへの命令はこうです。「あなたたちには、司教も、司教の権利に似たものもありません」。

私がこのことを知るやいなや、またしても、私はその独特のフランス系カナダ人【ガニョン枢機卿】のアクセントが私の耳でささやくのを聞きました。「ルフェーブルはバチカンを信用していません。誰が彼を責めることができますか。あなたならどうしますか」。

本書「SSPX: The Defence」の中で、ケネディ・ホール氏は、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会について、一部のカトリック信者がまだ抱いているかもしれない誤解に答えています。私としては、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会がこの半世紀、近代主義のローマと数多くのかたくなな「進歩主義者」によってどのように扱われてきたかについて、私自身の懸念を少し付け加えておこうと思います。

Fr. Charles Theo. Murr
チャールズ・セオドア・マー神父
2023年2月23日
ニューヨーク州ニューヨーク市にて


【参考資料】ヴィガノ大司教による御昇天の祝日の説教 インサイド・ザ・バチカン 手紙99号

2023年06月23日 | カトリック・ニュースなど

【参考資料】ヴィガノ大司教による御昇天の祝日の説教

インサイド・ザ・バチカン 手紙99号 2023年5月22日(月) ヴィガノ大司教

私の同僚や多くの司祭は、ソフト版のキリスト教、つまり人道主義、環境主義、グローバリズムを推進する方が簡単だと考えています。なぜなら、キリスト教の「完全版」はこの世のメンタリティーには適さないとみなされているからです。(…)罪への言及はなく、したがって原罪も贖いもなく、ただ奈落の底に向かって「共に歩む」【シノダリティー】だけなのです。

【解説】ヴィガノ大司教は、バチカンの頂点で働く高位聖職者で、ベネディクト十六世によって在米教皇大使として任命されました。今は現役を退いていますが、引退してからは、新しいミサや第二バチカン公会議についての厳しい口調で批判をしておられます。

ルフェーブル大司教(と大司教にならう聖ピオ十世会)は、確固としつつも、いつも穏やかなトーン(口調)を保っていました。ルフェーブル大司教とヴィガノ大司教とは、その意味で大きな違いがあります。

ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会は、聖伝を守っていたがために不当な取り扱いを受け続けていますが、それにもかかわらず、教皇と全カトリック教会の利益のために祈り、働き続けています。聖ピオ十世会の50年以上にわたる存在とその成長の実りそれ自体が、カトリック教会が聖伝に忠実でなければならないことを雄弁に物語っています。

Letter #99, 2023 Mon, May 22: Viganò

「テオフィロよ、前の本の中で、私は、イエズスがはじめから行ない、また教えられたすべてのことについて話した。それは、ご自分で聖霊によってお選びになった使徒たちに、訓戒をしてのち、天に昇られた日までのことである。また、イエズスは、ご受難ののち、ご自分の生きていることを彼らに知らせ、四十日間のご出現によって、その数多い証拠を示し、天主の国のことについてお話しになった。食事をともにしているとき、イエズスは『エルザレムを離れずに、私があなたたちに知らせた、御父の約束を待て』と彼らに命じ、『ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたたちは、まもなく、聖霊で洗礼を受けるだろう』と仰せられた。彼らが集まっているとき、『主よ、あなたが、イスラエルのために国を再興されるのは、このころですか?』と彼らはたずねた。主は、『御父が、ご自分の権威によってお定めになった時と時期とは、あなたたちの知るところではない。しかし、聖霊があなたたちの上にくだり、力をお与えくださる。あなたたちは、エルザレム、全ユダヤ、全サマリア、地の果てまで私の証人となるであろう』と仰せられた」。

「話し終えたイエズスは、彼らが見ている前で、天にあげられ、一むらの雲が、それを覆いかくした。弟子たちが、天に昇っていかれる主を見送っていると、二人の白衣の人が現れて言った。『ガリラヤ人よ、なぜ、天を見つめて驚いて立っているのか。今、あなたたちを離れて天に昇られたあの同じイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにしておいでになるであろう』」。

使徒行録1章1~11節、御昇天の主日の第一朗読。聖伝では、復活祭の40日後の御昇天の木曜日(今年は5月18日)に行われてきましたが、司牧上の理由から、多くの国で御昇天の木曜日の次の主日(今年は5月21日)に移されました。

手紙98号 2023年5月22日(月) ヴィガノ

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教(82才)が今年の御昇天の祝日のために書いた説教の訳を同封します。―RM

ヴィガノ大司教「主の御昇天の祝日についての説教」

2023年5月18日、マルコ・トサッティによって、このリンク先にイタリア語で投稿されました。

§§§

私たちの主の御昇天の説教
カルロ・マリア・ヴィガノ大司教
2023年5月17日
御昇天の祝日

“Quid admiramini aspicientes in caelum?”
「なぜ、天を見つめて驚いて立っているのか」
使徒行録1章11節

今日のミサの入祭誦で、私たちはこう歌います。「Viri Galilæi, quid admiramini aspicientes in cælum?」「ガリラヤ人よ、なぜ、天を見つめて驚いて立っているのか」。

この問いかけは、主が御昇天になるのを見るのに夢中になっている使徒たちに、2人の天使が尋ねたものです。

天の使者たちの問いかけは誇張です。自然の法則を逸脱した驚くべきことは、彼らが殉教するまで証しすることになる復活の奇跡に比べれば、何でもありません。

「あなたたちは主が天に昇られるのを見て、なぜ驚くのか。主が奇跡的に天に昇られて雲の中に消えるのを見て驚いているのか。それとも、主が復活して『イスラエルの国を再興する』ことができるようになったまさに今、あなたたちだけを残して行くことに驚いているのか」(使徒行録1章6節参照)。

しかし、主はすでにあなたたちにこう告げられませんでしたか。「私はあなたたちのために場所を準備しに行く。そして、行って場所を準備したら、あなたたちをともに連れていくために帰ってくる。私のいる所にあなたたちも来させたいからである」(ヨハネ14章2-3節)。

なぜ主は私たちと一緒にいてくださらなかったのでしょうか。もし主がすぐに天に昇られなかったら、あるいは実際、まだ地上におられたなら、人となられ、死なれて、復活なさった天主の権威をもって、旅をして、福音を知らせることがおできになったことでしょう。キリスト教はもっと早く、もっと成功裏に広まり、多くの殉教者の命も救われたことでしょう。もし主がこの地上にとどまっておられたら、主はカトリック教会において、イスラエルの国を本当に再興させることがおできになったことでしょうし、ご自身が教皇として、また王として統治されるお方であったことでしょう。主は老いることなく数世紀を過ごされ、この世を主へと回心させるのに十分だったことでしょう。

このため、使徒たちは驚いているのです。なぜなら、使徒たちがまだこの世のメンタリティーに従って行動し、考えているからです。

私たちの主は、30年間の「隠れた」生活と3年の宣教の後、3日間で自らのご受難と死によっていにしえの蛇を打ち負かし給い、アダムの罪によって永遠の救いから奪われたすべての霊魂を、主のいと尊き御血の代価として取り戻されたのです。

彼は私たちを贖われ、悪魔の奴隷であった私たちを買い取られ、もうしもべではなく友人(ヨハネ15章15節)となる自由を与えてくださったのです。

復活後の40日間、主は使徒たちに信仰の真理を教えられ、また秘跡を執行することを教えられました。主ご自身以外の誰にも主宰できないこの速度を速めた「セミナー」の終わりには、高間の部屋を離れられる時が来ました。「あなたたちは全世界に行ってすべての人々に福音を宣べ伝えよ。信じて洗礼を受ける者は救われ、信じない者は滅ぼされる」(マルコ16章15-16節)。これが、主がこの地上を去られる前の最後の命令であり、遺産です。

主の御昇天から聖霊の降臨まで、わずか10日しかありません。「聖霊があなたたちの上に下り、力をお与えになる。あなたたちはエルザレム、全ユダヤ、全サマリア、地の果てまで私の証人となるであろう」(使徒行録1章8節)。

聖霊降臨の日に使徒と聖母の頭上に降った聖霊の炎は、キリストの神秘体である聖なる教会を生み出し、その瞬間から、それまで「ユダヤ人たちを恐れて」(ヨハネ20章19節)閉じられていた高間の部屋の扉が開かれ、新しい民が現れます。彼らは聖霊において生まれ変わり、もはやこの世の精神に従って考えるのではなく、天主に従って考えるのです。私たちは数日後、こう歌います。「Emitte Spiritum tuum, et creabuntur; et renovabis faciem terræ.」(御身の霊を送り給え。彼らは創造され、御身は地の面は新たにし給う)。

彼らは恩寵に触れられるようになった瞬間、考え方が変わりました。

そして、そのおかげで、彼らは御昇天が必要であることを理解したのです。

教会が生まれたのは、師に忠実にとどまった11人が、以下のことを理解したときです。それは、主がこの地上に残されたその空白の時間、すなわち主が昇天されてから時の終わりに栄光のうちに戻って来られるまでの時間は、キリストのご受難の功徳による無限の宝を開花させるために、すべての国に福音を宣教し、私たちの信仰を証しし、霊魂たちを一つの折り、一つの洗礼、一つの信仰告白において一人の牧者に回心させるために使わなければならない、ということです。

聖なる教会は、世の終わりまで、その天主なるかしらの現存を継続するのです。

ミサの聖なる犠牲において、ご聖体のベールの下で、主が栄光ある御体と御血、御霊魂と御神性をもって降られるところは、教会の至聖なるふところの中、すなわち天主の祭壇という至聖所なのです。

そして、この言いようのない奇跡を起こすのは人間です。彼らの司祭職のおかげで、私たちの主イエズス・キリストは、この地上にとどまられ、信仰の目には、ご聖櫃の囚人として現存なさっているのです。それは、聖トマスとともに私たちが、主の聖なる御傷に指を入れずとも、主を認識し、主を私たちの主かつ天主として礼拝することができるようにするためです。

聖なる教会の鼓動する心臓である祭壇の至聖なる秘跡は、主の神聖な賜物であり、天に昇られる主が、このちくたくの地に、この涙の谷に、休むことを知らないこの戦場に残された信者にお与えになるものなのです。

そして、私たちが福音を歌い象徴として復活ろうそくを消しながら、御昇天の神秘を思い起こす一方で、もう一つの炎が灯り続けています。それは、ご聖櫃の隣に灯っている赤いランプの炎です。その炎は、王の中の王の現存をたたえるものであり、このお方は、不遜、冒涜、悪人の冒涜にさらされながらも、その無限の偉大さを隠してへり下られておられます。

それは、私たちが主の御前にひれ伏し、主に祈り、与えられたご好意を主に感謝し、主に恩寵を懇願し、至らぬ点の赦しを求め、至聖なるご聖体にまします主をお受けし、私たちの霊魂を至聖なる三位一体の神殿とするのをご覧になって慰めを得ていただくためなのです。私たちのすべての信仰、すべての希望、すべての愛を主に捧げるためです。fac me tibi semper magis credere, in te spem habere, te diligere.(われをして常に御身を信じさせ、御身に希望を置かせ、御身を愛させ給え)

もし、私たちの主が「この世のメンタリティーに従って」ご自身の凱旋を望まれたのであれば、自由意志のない私たちを創造され、功徳も罪もなく、ご自身のご意志だけを実現するようにプログラムなさったことでしょう。また、罪を犯すことのできる天使たちをも創造されなかったし、ご自身に反抗する各階級の霊も避けられたことでしょう。そして、私たちをすべて平等に造られたことでしょうし、私たちは地球上に等しく配置され、最低必需品を用意され、私たちのすべての行動を思い通りになさったことでしょう。要するに、主はクラウス・シュワブが行ったようにしたことでしょう。すなわち、私たちを奴隷にし、私たちを「人間」にしているもの、そして創造主を「素晴らしく神聖」にしているもの、つまり私たちの唯一無二性、主を愛する自由、主の恩寵の素晴らしさに私たちのみじめさをお返しするという自由を消し去ろうとなさったことでしょう。

主の「成功」は、この世のメンタリティーに従って成し遂げられるものではありません。なぜなら、もしそうであれば、それは幻想に過ぎず、天主からもたらされないすべてのこの世のもののように、はかない花火になってしまうからです。キリストの「成功」は、父親に対して自分の能力を証明するという満足感、つまり父親の教えから引き出された実を証明するという満足感を息子に与える父親の繊細さをもって行われます。まるで、職人が不在しなければならないとき、最も熟練した者に工房を任せ、その者が適切な地位にいるという信頼を確認する好機を与えるようなものです。そして、職人は、戻ってきたときに、失望することはないことを知っているのです。

主が天に昇られたのは、この瞬間から、私たち一人一人、特に使徒の後継者が、反抗的で背教的なこの世に天主の救いを宣言し、罪と死という闇にキリストの光をもたらす使命を負っているからです。主は、「私はあなたたちを送るのは、羊を狼の中に入れるようなものだ」(マテオ10章16節)と語られ、「弟子は先生にように、下男は主人のようになれば足りる」(マテオ10章25節)と予言されました。これこそ、試練の時であり、これは混ざり合った結果となって、二千年の間長く続きます。教会は、キリストを地上に現存させ、キリストを神秘的に御父に捧げることを続けているのです。しかし、小羊を装う狼だけでなく、牧者を装う狼が、何と多いことでしょうか。主人が帰ってくる前に主人をだますことできると思い込んでいる堕落した傭い人が、何と多いことでしょうか。天主の現存を消し去り、霊魂の救いを妨げるために、まさに教会を破壊しようとする裏切り者が、何と多いことでしょうか!

弟子たちに対する二人の天使の問いかけには、一つの警告があります。「あのイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにして来られるであろう」(使徒行録1章11節)。

これは時の終わりのことを指しており、そのとき主は、死と罪に対する勝利を得て、生ける人と死せる人を裁くために戻って来られ、ご托身で始まり、ご受難と十字架上の死で成し遂げられたものの、サタンとそのしもべに対する公の断罪がなかったためにまだ不完全なままである、原福音で告知されたいにしえの蛇に対するあの勝利(創世記3章15節)を、公審判をもって終結させられます。その断罪は、すでに書かれていますが、まだ宣告されてはならないのです。Liber scriptus proferetur, in quo totum continetur, unde mundus judiceturと、私たちは「ディエス・イレ」(Dies iræ)で歌います。すなわち「すべてのことを書き記されている書物が読まれ、世は裁かれるであろう」と。

「とはいえ、人の子が来るとき、地上に信仰を見いだすだろうか」(ルカ18章8節)。私たちの周りを見渡せば、「はい、そうです」と言うべきでしょう。なぜなら、私たちが経験する苦難によって、多くの霊魂が回心し、天主に立ち返ることができるからです。このミサはその証拠です。

しかし、私たちがこの世に目を向けるならば、カトリックの位階階級が陥っている背教、腐敗、不道徳をはじめとして、恐怖を引き起こすものを目にします。

私の同僚や多くの司祭は、ソフト版のキリスト教、つまり人道主義、環境主義、グローバリズムを推進する方が簡単だと考えています。なぜなら、キリスト教の「完全版」はこの世のメンタリティーには適さないとみなされているからです。商人のメンタリティーをもった彼らは、顧客の嗜好に合った新しい「商品」を提案することで、「倉庫の鮮度を上げる」ことができると考えています。その商品とは、多くを要求しないもの、連帯、受容、包摂(inclusion)、シノダリティー、回復力、環境持続性など、自分の生活を何も変えたくない人にとって安心させる一般的なものです。そして何よりも、罪への言及はなく、したがって原罪も贖いもなく、ただ奈落の底に向かって「共に歩む」【シノダリティー】だけなのです。主のご受難と死は、負担となり、分裂を招くものであり、包括的なものではない、それは橋を架けるのではなく、壁を作る、とされているのです。

しかし、これは、主が3年間の公生活の間、そして御復活後、御昇天の瞬間まで使徒たちに教えられた信仰なのでしょうか。

主が聖なる品級とすべての秘跡を制定されたのはそのためだったのでしょうか。

これが、主がすべての国々に教えるように命じられたものなのでしょうか。

殉教者たちが残虐な苦しみの中で死んだのはこのためだったのでしょうか。諸国民を改宗させるという教会の神聖な使命が「荘厳な無意味(solemn nonsense)」であると言われるためでしょうか。

教会の聖なる教父たちや博士たちが教理を説くことに生涯を捧げたのは、このためだったのでしょうか。つまり、聖伝に忠実であり続ける――「後戻り主義者」とか「病的な懐古趣味の者」として疎外されている――人々に反対するような妄言や放言に耳を傾けるためだったのでしょうか。

ヘンリー八世の英国や恐怖政治のフランスで、カトリックの司祭が迫害されたのはこのためだったのででしょうか。全時代の異端者たちによって憎悪されているあのミサが禁止されるのを見るために迫害されたのでしょうか。

二位の天使は、弟子たちに前もって諭しただけでなく、私たち一人一人にもこう諭しています。「あなたたちを離れて天に昇られたあのイエズスは、天に行かれるのをあなたたちが見たように、またそのようにして来られるであろう」(使徒行録1章11節)。

そして、彼が戻ってくるとき、彼は管理人たちに、聖なる教会の金庫に残した貴重なタラントン(タレント)をどうしたかと問われるでしょう。「会計の報告を出せ【管理責任の説明をせよ】」(ルカ16章2節)。

天主が、教皇と司教を権威において確立なさったのは、彼らが「もう一人のキリスト」となって諸国の民に福音を宣教することができるようにするためでした。この天主の審判のことを考えると、私は震えてしまいます。今日では、教会は、偽善者、異端者、背教者の最高法院(サンヘドリン)によって汚染されて、彼らは、主の縫い目のない衣を地上の強者たちと分けようという意向を持っているのです。

秘跡と聖なるミサとからなるキリストの遺産は、どのようにして開花し、実を結ぶようになったのでしょうか。プロテスタントの「晩餐」を模倣し、使徒継承の典礼を禁ずることによってだったのでしょうか。

説教と使徒職のタレント、聖なる神学者たちの教理という宝は、どのように増やされたのでしょうか。異端主義的エキュメニズムを推進し、アブダビの「アブラハムの宗教」のパンテオンに冒涜的に参加することによってでしょうか。バチカンでパチャママという地獄の偶像を崇拝させることによってでしょうか。悪徳を奨励し、美徳を嘲笑することによってでしょうか。ふさわしくない高位聖職者を昇進させ、良き司祭を迫害することによってでしょうか。

このようなミトラ【司教冠】をかぶった腐敗した官僚は、【審判者なる主を前にして】天主なる小羊【イエズス・キリスト】の御血によって勝ち取られた宝で何の利益も得ようともせずに【土の中に埋めて隠しておきながら】、罰を受けずに平然と返すことができると考えて、自分たちが埋めた宝を発掘しようと躍起になることでしょう。

主の御昇天は、私たちが救いの御業に協力することが御旨であることを示しています。なぜなら、私たちは、教会という主の体の生ける肢体であり、天主なるかしらに素直に従わなければならないからです。

福音を宣教し、諸国の民に洗礼を授けるようお命じになった牧者たちに対して、主は、回心しない人や福音を宣教しない人を待ち受ける断罪について、誤解を残さないようにと求めておられます。

なぜなら、牧者の権威は代理としてのものであり、つまり、教会の唯一の長である私たちの主が物理的に不在のときに行使されるものとしてこそ存在するのです。「あなたたちの言うことを聞く人は、私の言うことを聞く人であり、あなたたちを軽んじる人は、私を軽んじる人である」(ルカ10章16節)。この言葉は、キリストを宣教するがゆえにこの世から軽んじられる人を安心させ、キリストの御名によって他の福音を宣教するがゆえにこの世から受け入れられる人を必ず恐れさせるものです。そして、キリストの権威をもって、誤謬を広め、罪と悪徳を正当化し、自分自身の生き方でつまずきを引き起こすがゆえに、キリストを軽んじる人にはのろいあれ。

主は、沈黙のうちに復活されたように、音もなく去って行かれます。

主はお一人で、弟子たちにご自身の姿を見せ、天に昇られたことの証拠に、教会が守る至聖なるご聖体における主の秘跡的現存への信仰、天上の栄光の中で主と再一致する希望、主のために主と隣人を愛するという熱烈な愛徳が続くようにされます。

これこそ、キリストの教会が二千年の間、変えることなく受けたまま伝えてきた遺産であり、誰も修正したり、不純物を入れたりして、罰を逃れられると自分を欺くことはできません。「Deus non irridetur.」(天主はあざむかれない)。なぜなら、主が戻られるとき、主がご自分の役務者たちに執行のためにお与えになった貴重な霊的財産の所有権を取り戻すことを望まれ、役務者たちはそれについて説明しなければならないからです。

ですから、私たちは皆、教会の指導者からただの信者に至るまで、自分に残された時間を大切にしましょう。

私審判のために天主の御前に出る前に、私たちにこの世で残された時間を。

時の終わり、最後の審判の前に、この世と教会に残された時間を。

私たちの宣教によって、私たちの模範によって、私たちの良い言葉の一つによって、たった一人の霊魂でもキリストのために勝ち取るなら、私たちは受けたタレントを増やしたことを穏やかに主にお示しして、次のお答えをお聞きすることができるでしょう。「よしよし、忠実なよいしもべだ。…おまえの主人の喜びに加われ」(マテオ25章23節)。

この希望が、主が教会の権威ある立場に置かれた人々にとって何よりも確かなものでありますように。これこそが、私たちが、使徒の元后にして教会の母である至聖なるマリアの足元に置く祈りの意向なのです。アーメン。

(ヴィガノ大司教による御昇天の祝日の説教、終わり)

英語版 Letter #99, 2023 Mon, May 22: Viganò

イタリア語版 Mons. Viganò. Omelia nella Festa dell’Ascensione del Signore.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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