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「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第一章 司教シノドス と 第二章 シノダリティに関するシノドス

2024年01月23日 | カトリック・ニュースなど

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

目次

まえがき(レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

序章

「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

第一章 司教シノドス
1.司教シノドスとは何ですか。
2.シノドスの結論は拘束力を持ちますか。
3.教皇や司教シノドスはカトリック教会の教理や構造を変えることができますか。
4.教皇フランシスコは司教シノドスでいかなる変更を導入したのですか。
5.教皇フランシスコは司教シノドスにおけるこの急激な変化をどのように正当化しているのですか。

第二章 シノダリティに関するシノドス
6.今回のシノドスのテーマとプログラムは何ですか。
7.このシノドスの目的は、具体的な結論を得ることなのでしょうか、それとも過程を始めることなのでしょうか。
8.教皇フランシスコはなぜ集会を2回開催することを決めたのでしょうか。
9.相当数の信者がシノドスや教皇の決定に反対し、拒否したらどうなりますか。

第一章 司教シノドス

1.司教シノドスとは何ですか。

司教シノドス(Synod of Bishops)とは、カトリック教会の常設機関で、ローマ教皇庁の外部にあり、司教団を代表します。1965年9月15日、教皇パウロ六世が自発教令「Apostolica sollicitudo」によって創設しました。

シノドスは教皇によって召集され、教皇がテーマを設定します。シノドスには三つの形式があります。普遍教会の利益に関する事項のための通常総会、緊急の問題のための臨時総会、一つまたは複数の地域に関する事項のための特別総会です。総会は単なる諮問機関としての性格しか持ちませんが、教皇が許可した場合には意思決定機能を行使することができるとされています。これまで、司教シノドスの通常総会は15回ありました。今年、2023年には16回目を迎えます。

2.シノドスの結論は拘束力を持ちますか。

いいえ。かつて、司教シノドスの最終文書とは、教皇に提案する役割を担っているだけだったため、教導権としての価値はありませんでした。教皇はシノドスの考えをまとめ、シノドス後の使徒的勧告を発表し、シノドスの結論を全教会に提案しました。この教皇文書が教導権に当たります。しかし、2015年に教皇フランシスコによって導入された改革の後、ローマ教皇によって明示的に承認された場合、最終文書は直接的に通常の教導権の一部となるとされています。また、教皇が前もってシノドスに決定権を与えた場合、教皇によって批准され公布されれば、その最終文書は通常の教導権の一部となるとされます。

3.教皇や司教シノドスはカトリック教会の教理や構造を変えることができますか。

いいえ。教皇も、司教シノドスも、他のいかなる教会的、世俗的機関も、天主なる創立者によって遺産として定められ、委託された教会の教理や構造を変更する権限を持ちません。第一バチカン公会議はこう教えています。
13.天主が啓示された信仰の教理は、以下のようなものとして私たちに提示されている。
・人間の知性によって完成することが可能な哲学的発見としてではなく、
・忠実に守られ、不可謬的に公布されるようキリストの浄配に託された天主の遺産として。
14.それゆえまた、その聖なる教義の意味も、聖にして母なる教会によってかつて宣言されたように、常に維持されるべきであり、また、さらに深く理解するという口実の下に、あるいはその名の下に、この意味を放棄することは決してあってはならない(12)。

教理省はこう述べています。「すべての信者と同様に、ローマ教皇は、天主の言葉、カトリックの信仰の下にある。…教皇は自分の意志で決定するのではなく、聖伝によって生かされ、解釈される聖書の中で人に語りかける主のご意志を言葉にする。言い換えれば、総司教(Primate 首席司教)の「監督権」(episkopè)は、天主の法と啓示に含まれる教会の侵すことのできない天主由来の統治形態(constitution)によって定められた限界を持っている」(13)。

4.教皇フランシスコは司教シノドスにいかなる変更を導入したのですか。

2015年、教皇フランシスコは司教シノドス設立50周年を機に、このシノドス組織の大幅な変更を発表しました。

教皇は、シノドスの集会の準備において、天主の民全体の意見を求めるという望みを表明し、次の前提に基づく新しい「シノドスの教会」を創設する計画を提案しました。その前提とは、天主の民が超自然の信仰の感覚(sensus fidei)を持つために、天主の民全体は誤ることができず(天主の民全体は「信仰するにおいて」[in credendo]不可謬)、主が教会に対して開かれた道を見いだす「天賦の才能・直観的識別力」を持っている、という前提です。

シノドスの教会は、聖霊が「諸教会に言われる」(黙示録2章7節)ことを知るために、信者と司教団とローマ司教の間で相互に耳を傾ける一つとなります。この目的のために、すべての教会機関(小教区、教区、ローマ教皇庁)は、基底(=民)とのつながりを保ち、常に「人々と彼らの日々の問題から」出発しなければなりません(14)。

この仕事に取り掛かった教皇フランシスコは、使徒的憲章「エピスコパリス・コムニオ Episcopalis communio」(2018年9月15日)をもって、信者を参加させるように司教シノドスを変更しました。シノドスは現在、三つの段階に分けられています。それは、天主の民に意見を求める準備段階、司教の集会での会議である祝祭段階、そして教皇によって承認された集会の結論を全教会が受け入れる実施段階です。

5.教皇フランシスコは司教シノドスにおけるこの急激な変化をどのように正当化しているのですか。

教皇フランシスコによれば、司教は教師であると同時に弟子でもあるとされています。「かしらであり牧者であるキリストの御名において真理の言葉」を宣べ伝えるとき、司教は教師であるとされます。しかし、「洗礼を受けたすべての人に聖霊が授与されていることを知り、天主の民全体を通して語られるキリストの声に耳を傾ける」(15)とき、司教は弟子でもあるとされています。このように、シノドスは、司教を通して天主の民全体に発言力を与える道具となるとされています。


第二章 「シノダリティに関するシノドス」

6.今回のシノドスのテーマとプログラムは何ですか。

2021年4月24日、教皇フランシスコは、司教シノドス事務局長のマリオ・グレック枢機卿の謁見に際し、司教シノドス第16回通常総会のテーマとプログラムを承認しました。

こうして天主の民から意見を聞く地方あるいは国内ステージ【教区ステージ】が始まり、2022年に終了しました。その後、大陸ステージが始まり、2023年2月から3月にかけて大陸総会が開催され、「大陸統合」と呼ばれる結論がバチカンに提出されました。そこからシノドスは全世界的な段階へと進み、2023年10月に第1回、2024年10月に第2回の総会がローマで開催されます。2023年の総会に先立ち、参加者全員を対象とした霊的黙想会が開催されます。

選ばれたテーマは「シノドス教会のために:交わり、参加、そして宣教」です。教皇によれば、それは「信者、司牧者、ローマ司教が共に旅すること」(16)です。克服すべき最大の困難は、「司祭や司教を人々から切り離す聖職者主義です」。なぜなら、「指導者と従う者、教える者と教えられる者とに厳密に分けられた教会というイメージを超えていくことへのある種の抵抗があるからです。マリアが、『権力ある者をその座より降ろし、卑しき者をば高められた』(ルカ1章52節)と言ったように。共に旅をすることは、垂直よりも水平にしてくれます」(17)。

従って、次のシノドスで議論されるのは、通常このような集会で議論されるような特定の司牧的テーマではなく、教会の構造そのものなのです。この理由で、シノドスは「シノダリティに関するシノドス」とも呼ばれているのです。

7.このシノドスの目的は、具体的な結論を得ることなのでしょうか、それとも過程を始めることなのでしょうか。

他の一般的なシノドスとは異なり、この「シノダリティに関するシノドス」は、教理的あるいは司牧的な問題を議論し、具体的な結論を出すために開催されるのではなく、教会を改革するための過程を開始するために開催されます。その準備文書は、「参加的かつ包括的な教会的過程」(18)を開始することを提案しています。後述するシノドス準備文書では、「過程」(process)という用語が23回も使われており、それに「道」(path)、「旅程」(itinerary)、「経路」(route)などの似た言葉が伴っています。

この流動的なアプローチは、現教皇職の考えている広い視野のもとで理解されなければなりません。
つまり、現教皇は、「である」(being)ではなく「となる」(becoming)を、安定ではなく変化を、確実ではなく探求を尊んでいます。「私たちは、単にスペースを占有する【ずっしりと存在する】のではなく、過程を開始する【変化する】必要があります」(19)。

シノドス総代表のジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿は、「座って話すことだけでシノドスになるのは、話すのが旅についてである場合です。そうでなければ、シノドスは、概念の戦いになってしまいます」【=シノドスとは、変化を求めるためにあり、何が信仰の真理であるかと議論するところではない】(20)と述べました。

8.教皇フランシスコはなぜ集会を2回開催することを決めたのでしょうか。

当初の計画では、シノドス総会は2023年10月にローマで開催されることになっていました。しかし、2022年10月16日(日)のお告げの祈りの終わりに、教皇フランシスコは、総会を1年を隔てて2回開催すると発表しました(21)。

その理由は、「シノドスの教会のテーマは、その広さと重要性から、シノドス総会のメンバーだけでなく、教会全体が長期にわたって熟慮を重ねる対象となる可能性があります」というものでした(22)。ローマで代表団が話し合った内容について天主の民に耳を傾ける新たな段階が、第1回総会の後に続くことになります。

9.相当数の信者がシノドスや教皇の決定に反対し、拒否したらどうなりますか。

教皇フランシスコが司教シノドスを変更した使徒憲章「エピスコパリス・コムニオ」には、内部矛盾があるようです。5番は、すべての司教は「洗礼を受けたすべての人に聖霊が授けられていることを知りながら、天主の民全体を通して語られるキリストの声に耳を傾け、それを『〈信ずるにおいて〉不可謬のもの』とするとき」弟子であると宣言しています。この考えは、「シノドスの過程は、その出発点だけでなく、その到着点も天主の民の中にある」と主張する7番で補強されています。そして、シノドス事務局のウェブサイトが「シノドスの結論は、ローマ教皇によって承認された後、地方教会によって受け入れられる」(23)と示唆するように、シノドスの決定の実施は、信者がそれをうまく受け入れるかどうかにかかっているように思えます。

しかし、同じ「エピスコパリス・コムニオ」の第4章は、まさにシノドスの実施段階を扱っており、教区司教は「シノドス総会の結論がローマ教皇に受け入れられれば、その受け入れと実施を見守る」(第19条第1項)のであり、司教協議会は「その領域内で前述の結論の実施を調整する」(第19条第2項)と規定しています。

シノドスの方向性の具体的な適用に関して、天主の民と司牧者との間に意見の相違が生じた場合にどうなるかについては、何も書かれていません。もし司牧者たちの意志が勝れば、耳を傾けることの過程全体がむなしく見え、シノドスのレトリックはほとんど不誠実に見えるでしょう。もし天主の民の意志が勝れば、教会は事実上の(de facto)民主主義に変貌してしまうでしょう。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」まえがき(バーク枢機卿)と 序章

2024年01月23日 | カトリック・ニュースなど

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

2023年8月22日

カトリック教会内の異端的な声が変化を叫んでいます。「シノダリティに関するシノドス」おける彼らの急進的な行動計画(アジェンダ)は明らかです。それは、教理を歪め、聖伝を転覆させ、教会の位階的な性質を解体することです。

著者のホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエは、新著「シノドスの過程はパンドラの箱。100の質問と回答」の中で、現在の危機をすがすがしい明快さで説明しています。どのページも知恵、洞察、真理を与えています。どの回答も、シノドスの背後にある詭弁、意図的な混乱、異端を暴いています。

レイモンド・バーク枢機卿は、まえがきで次のように述べています。「シノダリティ」(Synodality、共に歩むこと)とその形容詞である「シノドスの」(synodal)は、今やスローガンとなっており、そのスローガンの背後では、教会が常に教え実践してきたことの多くを否定する現代のイデオロギーに合わせて、教会の自己理解を根本的に変えようとする一つの革命がうごめいているのです」。

「シノドスの過程はパンドラの箱」は警告の叫びです。自然に反する罪の常態化、女性の叙階、姦淫状態にある「再婚した」離婚者による聖体拝領の受け入れ、カトリック教会内の平等主義の民主的平準化などに抵抗し、断固として立ち向かう道徳的義務が、なぜ忠実なカトリック信者にあるのかを知ってください。

もしあなたが、カトリック教会と、私たちの主イエズス・キリストによって永遠に確立された教会の位階的な統治形態を愛しているならば、この本はあなたのためのものです。

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目次

まえがき(レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

序章
「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

まえがき (レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

2023年6月16日
至聖なるイエズスの聖心の祝日

今日の教会における最も深刻な状況を明確かつ包括的に取り上げている「シノドスの過程はパンドラの箱 Il processo sinodale, un vaso di Pandora」が出版されたことを、心からお祝い申し上げます。この状況は、すべての思慮深いカトリック信者と、キリストの神秘体に与えている明白で重大な害悪を観察する善意の人々に、当然のことながら関心を抱かせるものです。

私たちは、使徒たちの時代からの信仰の先祖たちとの交わりの中で、私たちが一、聖、公(カトリック)、使徒継承であると告白してきた教会が、今や、教会の教理の中に歴史を持たず、合理的な定義もない用語であるシノダリティ(synodality)によって定義されると言われています。シノダリティとその形容詞である「シノドスの」(synodal)は今やスローガンとなっており、そのスローガンの背後では、教会が常に教え実践してきたことの多くを否定する現代のイデオロギーに合わせて、教会の自己理解を根本的に変えようとする一つの革命がうごめいているのです。なぜなら、このイデオロギーはすでに何年か前からドイツの教会で実践され、混乱と誤謬、そしてその果実である分裂――まさに離教――を広範囲に広め、多くの霊魂に重大な害を及ぼしているからです。「シノダリティに関するシノドス」が間近に迫っている今、同じ混乱と誤謬と分裂が普遍教会にもたらされるのではないかと懸念されるのは当然です。実際、地方レベルでのシノドスの準備を通して、それはすでに起こり始めています。

教会の変わることのない、また変えることのできない教理と規律において私たちに伝えられているキリストの真理だけが、今の状況に効果的に対処することができます。キリストの真理が、うごめいているイデオロギーを明らかにすることによって、また、それが広めている致命的な混乱と誤謬と分裂を正すことによって、また、教会の教え、祈りと礼拝、徳と規律の実践の中で、私たちのために生きておられるキリストに対して日々回心するという真の改革を行うよう教会員に霊感を与えることによって、効果的に対処することができるのです。「シノドスの過程はパンドラの箱 Il processo sinodale, un vaso di Pandora」は、一連の100の質問と回答を通して、キリストの光、キリストの真理を、教会の現在の最も憂慮すべき状況の上に照らしています。この質問と回答を研究することは、すべての教会の成員が召されているように、真摯なカトリック信者がキリストの「真理の協力者」(ヨハネ第三書8節)となり、それにより使徒継承の聖伝に忠実な、私たちの時代における教会の刷新の担い手となるための助けとなるでしょう。

私は、適切な質問を立てるために、また権威ある回答を提供するために、まことに熱心に、そして見事に取り組んでくださったすべての方々に感謝申し上げます。聖パウロが「むしろ、愛をもって真理を宣言し、かしらであるキリストによって、すべて愛において成長するだろう」(エフェゾ4章15節)と私たちに教えているように、彼らの労苦の実りを、教会を建て直すために、世界中のカトリック信者が利用できるようになることが私の望みです。

私たちの主が、教会での母として私たちに与えてくださった(ヨハネ19章26-27節参照)、主の童貞なる御母の執り成しと配慮によって、私たちの救いである私たちの主のみに忠実であるように、現在教会を脅かしている重大な害が回避され、この世において教会が自らの使命を果たすことができますように。

父としての深い愛情と敬意を込めて、

イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心において、
皆さんの忠実なる

レイモンド・レオ・バーク枢機卿(署名)

____________________________

フリオ・ロレドとホセ・アントニオ・ウレタ


ローマにて

序章

教皇フランシスコは、「シノドスの教会のために。交わり、参加、そして宣教」をモットーに、ローマで「シノダリティに関するシノドス」を招集しました。これは、司教シノドスの第16回通常総会です。
革命的なインパクトを秘めているにもかかわらず、このシノドスをめぐる議論は、大部分が内部関係者だけにとどまっています。一般の人々は、このシノドスについてほとんど何も知りません。私たちはここで、何が問題になっているのかを説明することによって、このギャップを埋めようとしています。聖にして母なる教会を改革する計画が進行中であり、それが最終的な結末に至れば、教会の土台を転覆させることになりかねません。

このシノドスは通常総会ではありますが、いくつかの要因により、異例なものになっています。教会史における分水嶺、事実上の第三バチカン公会議のようなものにしたいと考える人もいるでしょう。

「通常」総会ではない

第一の要因は、シノドスの構造そのものです。広範囲にわたる国際的な意見聴取の後、参加者のための霊的黙想会を経て、2023年と2024年にローマで2回もの全体会議が計画されています。

第二の要因は、シノドスの内容です。通常総会は特定の問題(2018年は青少年、2015年は家庭など)を扱いますが、今回は、彼らは教会の構造そのものを問うつもりです。彼らが提案しているのは、教会を再考し、教会の有機的統治形態(constitution)の基本的要素を変更することによって、教会を新しい「統治形態としてシノドス的な教会」(1)へと変えることです。この変化はあまりにも急進的であるため、シノドス文書は、あたかも教会が誤った道を歩んできたかのように、そしてUターンする必要があるかのように、「回心」と述べています。

この総会を異例なものにしている第三の要因は、その過程的性格です。このシノドスは、教理的あるいは司牧的な問題を議論し、結論を出すためのものではなく、教会を改革するための「教会的過程」を行うためのものです。多くの人々は、これがパンドラの箱を開けてしまうのではないかと恐れています。

このように、「シノダリティ」(synodality)には、カトリックの思想家、プリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラが記した「お守りのような言葉」(talismanic words)、つまり、過激化しやすくプロパガンダに悪用されやすい、非常に融通の利く言葉になるという危険性があります。プロパガンダに操られることで、「(お守りのような言葉は)新たな輝きを放ち始め、プロパガンダを受ける者を魅了し、その人が想像するよりもはるかかなたにその人を連れていく」(2)のです。

シノドスの推進者たちが言うには、この急進的な教会改革は、克服を必要とする欠陥のある位階的教会論が覇権を持っていたせいで、あまりにも長い間無視されてきた初代教会の共同体的参加の古い手順を取り戻すものとされています(3)。

このように、「シノダリティに関するシノドス」は、教会の歴史における、特に現教皇職における分水嶺として位置づけられています。教皇フランシスコが「シノダリティという重大な改革を準備しているところだ」と、バチカン専門家のジャン=マリー・ゲノワは書いています。「彼は、ピラミッド型、中央集権型、聖職者主義化した教会を、より民主的で分権的な共同体に変えたいと願っている」(4)と。

ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)

教会の「シノドスの回心」に最も熱心に取り組んでいる人々の中には、大多数のドイツの司教がいます。彼らは、自分たち自身の「道」、つまり「Synodaler Weg」(シノドスの道)を開始しました。この「Weg」(道)は、ドイツ進歩派の最も極端な主張を集約し、復活させたものです。

その推進者にとって、この「道 Weg」はドイツ国内に限定されるべきものではありません。むしろ、普遍的なシノドスのモデルとなり、推進力となるべきです。こうしてドイツ人は、シノドス推進派の広大な宇宙の中で、明確で影響力があるとはいえ、極端な一派として登場します。バチカン専門家の中には、「ライン川がテヴェレ川に流れ込んだ」第二バチカン公会議の場合が部分的にそうであったように、ドイツの進歩派の影響がシノドスの活動において決定的なものになることを危惧する者もいます(5)。

その最終的な結末に至れば、「道 Weg」は、聖なるローマ・カトリック教会の深刻な破壊転覆になることをほのめかしています。元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿はこう述べています。「彼らはカトリックの信仰とは何の関係もない別の教会を夢見ており、…また彼らはこの過程を悪用したいと望んでいます。それは、カトリック教会を他の方向に移行させるためだけでなく、カトリック教会を破壊する方向に移行させるためなのです」(6)。

もし普遍的なシノドスがドイツの「道 Weg」の一部でも受け入れるようなことがあれば、私たちが知っているような教会の姿は失われ、終焉を迎えることになりかねません。もちろん、これでカトリック教会が終わるわけではありません。天主の約束に慰められ、教会には不可崩壊性という確実性があります。その特権のゆえに、教会は時の終わりまで存続し(マテオ28章20節参照)、地獄の門も教会に打ち勝つことはない(マテオ16章18節参照)からです。

失敗した道

シノドスの道をカトリック教会に適用する前に、その推進者たちは、失敗したと証明された他の宗教における同様の実験を研究した方がいいでしょう。1950年代に独自の「シノドスの道」に着手した英国国教会を例に取ってみましょう。

元英国国教会主教であり、エリザベス二世女王陛下のチャプレンを務め、現在はカトリックに改宗したギャビン・アシェンデンの証言は注目に値します。

「元英国国教会(アングリカン)の人々は、自分たちが何らかの助けを提供できると信じています」。なぜなら、英国国教会で使用されている「シノダリティ」という「策略」が、「分裂的かつ破壊的な効果をもたらす」のを目の当たりにしてきたためです。
「事実、元英国国教会の人々は、以前にも教会でこのようなトリックが演じられるのを見たことがあります。それは進歩主義者の霊性の一部です。ごく簡単に言えば、彼らはマルクス主義に準じた内容を霊的な慰めの毛布で包み、その後、聖霊について大いに語るのです」(7)。

同様の警告は、元英国国教会ロチェスター主教で現在はカトリック司祭であるマイケル・ナジール=アリ神父からも発せられています。彼は、英国国教会や他のプロテスタントの間で生じた「混乱と混沌」から学ぶよう、司教たちに促しています(8)。

このアプローチの失敗を見るのに、遠くへ行く必要はありません。ドイツの教会の惨状を見れば一目瞭然です。皮肉なことに、「Synodaler Weg」は、普遍教会を改革するモデルとして役立つことを意図しています。しかし、ドイツの教会は、その歴史上最悪の危機の中でほとんど消滅しようとしており、その理由は「Weg」に霊感を与えるような考えや実践に似たものを適用にしたからだと誰もが見ています。

なぜ、誰もが他のところで大惨事に至った道を教会に押し付けようとするのでしょうか。

さらに、本書が示すように、普遍的なものであれドイツ的なものであれ、シノドスの道にわくわくしている人はほとんどいません。さまざまな協議の過程に関わる人々の数は、笑ってしまうほど【少ないの】です。全般的に無関心なのです。シノドスの道の推進者たちは、この無関心を正しく解釈できるのでしょうか。空席の観客に向かって球技をしていることに気づくでしょうか。ああ、サッカーの試合ならまだしも! 問題になっているのはキリストの花嫁に他ならないのです!

公会議主義から永続的シノダリティへ

シノドスの擁護者たちは、シノドスの精神を現代的で最新のものとして提示していますが、それは古代の誤謬や異端を引きずっています。

いわゆる公会議主義の潮流は、人文主義(人間中心主義)によって生まれた新しいメンタリティーに教会を適合させるという口実のもとに、早くも15世紀には生まれました。その擁護者たちは、教皇の位階的な権力を減らして、公会議という集会に力を与えようとしました。「信者の意志」を表して、教会は、それぞれが言語と慣習を持つ、大部分が自治的な地方的・地域的なシノドスの構造となるべきだとされたのです。これらのシノドスは、定期的に、総会(あるいは聖なるシノドス)において、開かれるとされ、また、教会の最高権威をもっているとされました。教皇は「primus inter pares」(対等の中の第一人者)に格下げされて、参加者の平等な投票によって下された公会議の決定に従うとされていました。

ドイツの「Synodaler Weg」と普遍的なシノドスに力を与える精神は、その最も真正な表明において、何人かの教皇と何回かの公会議によって断罪されたこれらの古い誤謬を当然のものとし、復活させています。

ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(当時)は、こうした古い誤謬を糾弾しました。「教会の聖伝と、教会の秘跡的構造と特定の目的に照らせば、国内教会の最高の永続的な統治権威としての混合シノドスという考えは妄想です。そのようなシノドスはすべての正当性を欠くものであり、そのようなシノドスに従うことは断固として明確に拒否すべきです」(9)。

「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

勤勉な観察者には、このような俯瞰は黙示録的な色合いを帯びています。聖にして母なる教会の有機的な統治構造(constitution)と教理の持つ基本的な要素を消し去り、教会を認識不能にすることで、教会を解体しようとする作戦が進行中だからです。前述のように、ミュラー枢機卿は、シノドスの改革が最大限に適用されれば、推進者たちのユートピア的な意図のもと、「カトリック教会の破壊」に至るかもしれないと警告しています。この破壊は、教会をあらゆる危険から守るべき聖別された手によって実行されるため、さらに恐ろしいものとなります。パウロ六世の警告が今ほど響いていることはありません。「ある者は、…自己解体を実践しています。…教会は、教会の一部分である人々によって悪しき影響を受けています」(10)。

このような悲惨な見通しに直面した多くのカトリック信者は、迷い、落胆し、混乱し、当惑し、失望さえ感じており、みんなが適切に行動してはいません。教皇聖座空位論の誘惑に屈し、教会を捨てて自己中心的になる者がいます。背教の誘惑に屈する者もいて、教会を捨てて偽りの宗教を受け入れています。大半は無関心に沈み、教会を悲しい運命に委ねています。そのどれもがあからさまに間違っているのです! 「Amicus certus in re incerta cernitur」(不確かな事態において、確かな友が識別される。困っている時の友は本当に友である)。今こそ、聖にして母なる教会が、外敵や内敵から教会を守るために、愛と恐れを知らない子らを必要としている時です。天主は私たちに説明責任を負わせられるでしょう!

1951年にプリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラがしたように、私たちはこう自問します。「ご受難が悲劇的であったように、悲劇的であるこの瞬間、すなわち、全人類がキリストに味方するか、キリストに逆らうかを選択するこの歴史の重要な瞬間に、教会と一致して生きている人は何人いるのでしょうか?」。そしてまた、「私たちは、教会が考えるように考え、教会の心を持ち、私たちの人生のあらゆる状況において教会が望むように進まなければなりません。…それは一生を犠牲にすることになります。この忠実さという犠牲は、それを必ずしも評価せず、時には痛烈に迫害する権力者に向けられるとき、さらに多くの痛みを伴います。

私たちは、ほとんどこう叫ぶことができます。詩篇作者の言葉を借りて、「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」(詩篇68篇9節)と。そうです、他人でありながら、母の家、つまり聖なるローマ・カトリック教会にして使徒継承の教会の中にいるのです。

これが、本書の著者たちにやる気を起こさせている精神なのです。

*       *       *

この作品を書くに当たって、特にフアン・ミゲル・モンテス氏とマティアス・フォン・ゲルスドルフ氏の貴重な貢献に感謝します。

【続く】


コンピューター・スクリーン、スマホの弊害:依存症、孤立化という病の現象:癒しを求めてイエズス・キリストに近づく

2024年01月23日 | お説教・霊的講話

2024年1月21日御公現後第三主日のミサ(8時30分) 大宮 説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は御公現後第三主日のミサをしています。

【1:今日の福音】
教会は、御公現後の主日のいろいろな福音を通してイエズス様がまことの天主であることを私たちに明らかにしようとしています。

今日の福音は、主が天主であるということを証明するために行われた二つの奇跡があります。ひとつはらい病の患者を癒すもので、もう一つは百夫長のしもべに対するものです。
一つはユダヤ人に対するもの、もうひとつは異邦人に対するものでした。両方とも、イエズス様は権威をもって癒しました。たとえ不在の者であっても、すぐに、治しました。この治癒が起こったときに、そのどちらの場合でも、イエズス様の神性を深く信じていました。
「主よ、あなたがおのぞみなら、私をお治しくださることができます。」
「あなたが一言おっしゃれば、私のしもべはなおります。」

彼らの非常に深い信仰は、私たちに多くのことを教えています。また百夫長の愛徳もすばらしいと思います。自分のためではなく、わざわざイエズス様のところにやって来て、しもべのために懇願しました。ですから教会は御聖体拝領の前には、百夫長に倣って、ほぼ同じ言葉でイエズス様に祈らせます。「ドミネ・ノン・スム … イエズス様、私はあなたを、私の屋根の下におむかえするには値しない者です。ただ一言おっしゃれば、わたしの霊魂は癒されます」と。

ところで、今日私たちは、同じ態度で、私たちの霊魂を癒してくださるように、そして私たちの愛する人々を癒してくださるように、イエズス様に近づきましょう。

もしかしたら私たちは気づいていないかもしれませんが、しかし多くの人は病にかかっています。スマホ、あるいは携帯というものを何度も使うことによって、多くの人がそれの中毒になっています。そして社会からますます孤立しています。今日は、私たちの霊魂の状態を振り返って、癒しを求めてイエズス・キリストに近づきましょう。

【2:いろいろな段階を経た】
このような状況になるには、いろいろな段階が踏まれました。まずテレビが入りました。第二に、コンピューターが家の中に来ました。ケータイがポケットに入りました。次には「キャプトロジー」というテクノロジーが、私たちを中毒化される技術が編み出されました。努力をせずにほんのちょっとでも「見たい」という欲求を起させて、ついにはそれにずるずると引きずられてスクリーンの上に留まるようにさせる技術です。何時間もスクロールしているという状況を生み出す技術がもたらされました。

それを、何度も何度も繰り返させることで、私たちがそれを習慣にしてしまっています。さらに、ランキングが高くなる、メンバーがフォロワーが多くなる、そして評判が高くなる、そうするとますますそこにのめりこんでしまっています。

将来的には、現実の世界ではなくて、バーチャル・リアリティと呼ばれる三次元の世界に呼び込もうとしています。

【3:コンピューター・スクリーンの弊害:中毒、孤立化】
私たちは、携帯のためにいったいどんな弊害が起こっているのか、この病を振り返ります。特に中毒、それから孤立化という非常に危険な弊害を見ましょう。それを知ったのちにイエズス様に近づいて、「癒してください」と近づきましょう。

第一の弊害は依存症・中毒です。中毒というのは、ユーザーをつまり私たちを、依存症にするように、中毒にするように、わざわざ設計されているからです。これはフェイスブックやあるいはその他の作った人々がそのように言っているから、それは本当です。

依存症とか中毒というのは何かというと、快楽が生み出される活動を止めることができない、そして止めたくてもそれなしにはどうしてもいられない、という、それに依存してしまうという現象です。特に、今若い人たちは青少年は、この携帯がなくては空白を埋めることができない、どうしても不安になってしまう、というほど中毒になっています。

第二の弊害は孤立化です。どういうことかというと、あたかもスクリーンを通してわたしたちは他の人とつながっている、コミュニケーションができているというというように思えるんです。でも、本当の友達というのは どこにいるのでしょうか? 家に帰っても学校でもどこでも、確かにここに体はいるけれども、半分不在、心は上の空、という人々があまりにも多くいます。携帯の世界に没頭してしまっているのです。ですから、わたしたちは、友人でも家族でも、そうやって半分不在の偽(にせ)の存在に慣れっこになってしまっています。本当の家族生活、夫婦生活、親子生活が犠牲になっています。特に今の若い人たちはあまりにも孤立化が進んでしまって、現実の生活は退屈だ、もっと仮想の世界に入りたい、戻りたいと願っています。あるいは学校や仕事から帰るや否や、この仮想世界の中に入りたい、ゲームに没頭したい、インターネットの誰かとチャットがしたいと、思っています。

本物の世界・現実世界にいるというよりは、睡眠術にかけられているかのような、個人がただ隣にいるという状態がいま目の前に現れています。

もしも、私たちが孤立化してしまうと、本当の社会生活をおくることができなくなるといったいどうなってしまうのでしょうか。そうすると、私はアイデンティティ、わたしがいったい何かということが失われてしまいます。どういうことかというと、私たちが一個となって、ただの砂の一粒になってしまうのです。たとえば、どこかの教会を作る一つの部分ではなくて、粉々に砕かれたただの砂の一粒になってしまうのです。自分が、いったい何なのか、わからなくなってしまう。

たとえば、私はカトリック教会に属して、聖ピオ十世会に属して、小野田家の一員で、それで日本人で、などとということがだんだん明らかになります。でも、孤立化してしまうと、ひとりぼっちになってしまうと、それがありません。

でも人は、自分が何かであることを確立しなければ、安心できません。ではどうするかというと、ソーシャルネットワークを通じて、「いいね」がたくさん押されたとか、フォロワーの数が多くなったとか、ランキングが上に上がったとか、それが人生で最も大切であるかのように錯覚してしまって、それを現実だと混同してしまって、それを中心に人生を設計してしまいます。つまり、自分の虚栄とか自己愛のイメージを他の人に見せて、それが自分だと思い込んでしまうのです。

そうすると、ますます自分が孤独になることを恐怖します。ますます、ネットでつながっていたいと思います。そうすると、IoT(アイオーテイ)と言われている、インターネットがモノとモノとをつなげてコントロールする、人間もそれの一つのモノとなってしまいます。つまり、天主の子供という最も高い尊厳が、ただのインターネットでつながっているモノ、に成り下がるということです。

私たちはその高貴な身分を失って、無になってしまい、錯覚に陥る危険があります。仮想の世界を現実だと錯覚してしまう恐れがあります。アイデンティティが喪失する、本当の自分が何かということがわからなくなってしまう、という危険です。

そうなると、私たちはいま世界で見ているように、うつが広まります。不安とうつ病が、非常にいま広まっています。

もう携帯というのは、コミュニケーションの道具とかおしゃべりするための道具ではありません。「すべての中心にある」のです。学校の先生のレポートによると、生徒たちは携帯を失うと虚無感に苛まされているという。静かにひとりで考えるということができなくなっています。

【4:道徳・霊的生活における悪影響】
スマホによって孤立化すると、社会の生活は崩壊し、知性は失われ、意志も無気力になってしまいます。さらにこれについてはもっと深いたくさんのお話がありますが、さらには、道徳的なあるいは霊的生活の2つの分野において、非常に悪い影響を与えます。

少しだけ垣間見ると、まず、道徳の崩壊があります。世界的な統計によると、大人も子供も閲覧の30%、あるいはダウンロードの50%がわいせつなものに関するものだという報告があります。子供さえもそれを免れることができません。特に幼い子供たちは、耐えられる限度を超えた見るに耐えられない画像の洪水によって攻撃を受けているといわれています。特に若い子どもが受けるショックは、非常に大きい、心理的なショックは計り知れないほど大きいと言われています。

道徳的な崩壊のみならず、さらには霊的生活においても大きな悪い影響を与えます。先ほども申しましたようにスマホは、若い人も老人も男も女も人々を催眠術にかけさせたように中毒にさせてます、依存させています。いつでもだれでも携帯を手に取って、いつでも使うことができるように準備して歩いています。帰宅の途中でも、電車のなかでも、家に帰っても、すぐさま、携帯です。

そうするとどうなるかというと、沈黙ということが失われてしまいます。私たちが考えなければならない人生にとっての重大な問題について、考えることができなくなってしまいます。祈ることも、祈ろうとすることさえも、興奮してしまってできません。精神がもしも機能しなくなってしまうと、霊魂は天主に耳を傾けようと、天主に向かおうとすることも、しなくなってしまいます。雑音、あるいは興奮に囲まれて落ち着いてどうやって心を静めることができるでしょうか。

瞬時に全てのことを知りたい、インターネットのコミュニケーションにつながりたい、現実の世界から逃げたい、逃避したい、今の仕事よりも、イイネのクリックを押すのほうが簡単、ということが、霊的生活のかわりに取って代わっています。

では私たちはどうしたらよいのでしょうか。ちょうど私たちの乗っている飛行機の隣で火が燃えているかのようです。すぐさま私たちは脱出しなければなりません。あたかも大地震があって、津波がわたしたちの霊魂を飲み込もうとしているかのようです。私たちの家族を飲み込もうとしています。ですから、百夫長のように、イエズス様のところに行きましょう。

百夫長は自分の家を離れて、イエズス様のところまで行きました。私たちもそのような環境を離れて、イエズス様のほうに近寄る努力をしましょう。イエズス様は私たちの協力を求めています。私たちが聖寵を得るには、私たちがそれを受けようとする努力と、準備が必要です。そして主に言いましょう。「私はふさわしくありません。」「ただ一言おっしゃってください。」

私は携帯をほんとうに実用的な目的のためだけに使っているのでしょうか?それとももう、それがなくてはならない「私の心の中心」になって、そのとりこになってしまっているのでしょうか。

私たちの愛する子どもたちはどうでしょうか。自分の子供たちはスマートフォンを持っているのでしょうか。もしも持っているとしたらいったいどんな何のサイトを閲覧しているのでしょうか。私たちはそれを知っているのでしょうか。ああ、たとえ子供がまだ幼くて、純粋だ、まじめだと見えたとしても、私たちは気をつけなければなりません。統計によると、多くの子どもたちがすでに汚染されています。ですからわたしたちはそのようなチェックを頻繁に行う必要があります。もしも子どもたちのスマホの内容を知るという権利を親が持っているということを放棄してしまうならば、私たちは重大な責任を放棄してしまったことになります。天主は私たちにそのことをその責任を問われることでしょう。

【遷善の決心】

ですから、私たちは遷善の決心をたてましょう。この世の精神と戦わなければなりません。私たちの真のアイデンティティーは、カトリック信者であって、天主の子どもであって、愛された永遠の命のために生きているこの地上にいる者です。

キリスト教の精神は、私たちに「レコンキスタ」ということを、つまり、領土を回復させるということを教えてくれます。スペインはそのことを成功しました。キリスト教信仰によってそれを成功しました。ですから、私たちもたとえそのような悪習があったとしても、霊魂を取り戻すことができます。「レコンキスタ」ができます。そのために確固とした信仰生活を送ろうという決心をたてましょう。私たちの世俗の欲望あるいは愛着を取り除くことができるのは、カトリックの教え、この信仰しかありません。

「心の貧しい人は幸いである」。と主は言われました。この地上のものをあたかも使っていないかのように、使うように、聖パウロは言います。私たちが天主へと心を開いて、霊魂の偉大さを取り戻すことができますように、主に近づきましょう。

そのために主は、私たちに手段を与えてくれました。秘跡を与えてくださいました。告解の秘跡、御聖体の秘跡です。そうすることによって、私たちは守られることができます。

聖パウロはこう警告しています。「悪の者は不義の惑わしを世の終わりに行うだろう。そのために惑わしを彼らのなかに働かせる。こうして彼らは誤りを信じるようになる。それは 真理を信ぜず、不義を好んだものが裁かれるためである。」(2テサ2:10-11)。と警告しています。また聖パウロは、「立っているとおもう人は、倒れないように注意せよ」(コリント前10:12)とも警告しています。

マリア様の子どもとして、毎日マリア様にお祈りしましょう。今日マリア様の御取り次ぎで、私たちの病が癒されるようにお祈りしましょう。聖母が私たちにとっての百夫長になってくださいますように、お祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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新年小黙想会二日目 黙想二 ナザレトでのイエズス・キリストの従順

2024年01月23日 | お説教・霊的講話

新年小黙想会二日目 黙想二 ナザレト

「そしてイエズスは、彼らと共にナザレトに下り、彼らに従われた。」(ルカ2:51)

私たちの主をもっと良く知り、もっと熱心に愛し、もっと忠実に従うために、主の私生活の神秘を理解するお恵みを求めましょう。

【1:「イエズスは、彼らと共にナザレトに下られた」】

イエズス様が十二才のとき、エルサレムの神殿で博士たちに教えておられるのを両親が見つけたという出来事の後、直ちにナザレトに下ったと、聖ルカは書いています。イエズス様はその後少なくとも十八年間はナザレトにおとどまりになったはずです。私たちが青春時代と呼ぶ時を、ナザレトでお過ごしになりました。主の私生活と公生活の比は、少なくとも、十八年対三年、つまり六対一でした。一年の仕事に対して六年の隠れた生活です。【天地創造のとき天主様は6日働き1日休まれました。それと逆ですね。】

「天主の道は私たちの道ではない」。キリストの私生活がなぜ公生活と不釣り合いなのかという理由は、私たちにもわかると思います。キリストは「道であり、真理であり、生命」でした。もしもキリストが公けに人に教えることに全ての時をあてられたなら、「道」であることは、ほとんどできなかったでしょう。

キリストに従う人々の九十九パーセントは純粋な私生活を営んでいます。キリストは誰もが真似のできる模範をお示しにはなりませんでした。ご自分に従う人々に向かって、普通の家庭生活を送る価値を示そうと望まれたのです。内的生活のために、完徳の達成のために、世間から退いた生活が絶対に必要だと示されました。

福音書の聖マルタのように実際的な仕事にたずさわっている私たちは、「天主は孤独の中にすみたもう」こと、天主が人間の心にもっとも親しくご自身をおしめしになるのは孤独の中であることを忘れがちです。「人々の間にいたたびに、私は人間らしくなくなって帰って来た。」(Quoties inter homines fui, minor homo redii)と、イエズスの死の何十年かのち、理論と生活とがあまり一致していなかった一人のローマ人の哲学者(セネカ)は語りました。キリストに倣いて第一巻 20 章もセネカの言葉を繰り返してこうあります。2. Dixit quidam: Quoties inter homines fui, minor homo redii. Hoc sæpius experimur, quando diu confabulamur.

キリストはナザレトで、はじめは養父の手助けとして大工の仕事をされ、聖ヨゼフの死後は一人で仕事をされました。自分の手で仕事をされました。少なくとも天主の目には、人の仕事の種類は、仕事をどのような愛をこめてやったかと言うことほど大切ではないことを、お示しになりました。世界中でもっとも偉大な聖性は、二人の大工と一人の主婦のいる普通の家庭にあったのです。私たちが、つまらない仕事をするとき、どういう態度を取るべきかと教えてくれます。

ナザレトにおけるキリストはありふれた少年として、若者としての生活を営まれました。天主であることは隠されていました。ご両親はイエズスが天主であることを信じていました。ただ純粋に信仰によって信じていただけです。奇跡は起こりませんでした。村人の注意を引くようなことは何も起こりません。キリストが公生活を始めたときは、人々は「これは大工の息子ではないか」と驚いたほどです。

キリストの多くの時間は「小さなこと」すなわち、使い走りや仕事場の掃除や皿洗いの手伝いなどに、ついやされていました。キリストは特権をお求めになりませんでした。

キリストは、私生活をどのように過ごされたれたでしょうか。生まれながらに耳が聞こえずにおしの男を癒されたすぐあとで、人々は「彼は何でもよくやった」と言いました(マルコ7:37)。ナザレトにおけるキリストの御生活も、この言葉があてはまることでしょう。キリストのなさったことは何でも、たとえつまらないこと粗末なことであっても、そのなさり方は完全で、優れた行いだった、と。

キリストの生涯がすぐれているのは、またキリストに倣おうとする人々の生涯が優れたものになるのは、偉大なことを行うからではなくて、全てのことを立派に行うからです。

私たちの中で、偉大なことを行う機会のある人は、たとえいるとしても少ないと言えます。しかし私たちは、天主のお恵みによって、たくさんの小さなことを立派に行うという主のお手本に倣うことができます。天国にある私たちの冠は、多くのかがやかしい殉教者たちの冠のように、一つや二つの豪華な宝石でできているのではなく、それぞれ特別な光で輝く、かぞえきれない小さな宝石で作られています。

キリストは洗者ヨハネのように特別な肉体の苦業をなさいませんでした。それにもかかわらずキリストの全ての行動は、天主の本性と人間の本性との位格的結合のために、つねに天の御父の光栄だけを目指した御旨の完全さのために、無限に価値のあるものでした。

私たちの普通の行動もまた非常に素晴らしいものたることができます。成聖の聖寵によって、私たちは天主の本性にあずかることができるからです。私たちは天主の養子だからです。私たちが行うことは、私たちの周りの人々の目にはどんなにつまらないものであっても、天主の御前には特別の意味をもっているからです。

私たちの朝の奉献のとき、また一日中の新しい仕事の始めに当たって、私たちの意向を新たにすることによって、キリストの御旨の純粋さに倣うこともできます。「食べるにつけ飲むにつけ、何事をするにつけ、全て天主の光栄のためにせよ」(コリント前10:31)という使徒聖パウロの忠告を、私たちの生活の中に具体化することができます。

【2:「彼らに従われた」】

誰が誰に従ったのでしょうか。宇宙の創造主が被造物に従ったのです。まことに、「彼はへりくだって、死にいたるまで、十字架上の死にいたるまでも従順であられた」。

無限の智恵が有限の、限りある、誤りやすい知恵に従ったのです。命じられたことが最も良い方法ではないということが、はっきりおわかりになっていても、またそれでは失敗することが確かであっても、やはりキリストはそれをされました。何故なら聖母とヨゼフに従うことは、天の御父に従うことだったからです。「私は私の意志を行うためではなく、私をつかわされたかたの意志を行うために来た」のです。つまり「盲目の従順」をキリストは実行されました。

キリストは、たとえば大工の仕事場で、どんな手伝いをすべきか、どういう風に家具をつくるか、などなどについて、両親の・目上の「誤り・不完全さ」――罪ではない――をご存じでした。私たちは、自分の目上の「誤り・不完全さ」が分かるのでしょうか。たとえ彼らが最善とは言えないこと――しかし罪ではない――を命じるとしても、従うことによって、天主の御旨を行っているのではないでしょうか。

キリストはこう言いました。「あなたがたのいうことを聞くものは、私のいうことを聞くものであり、あなたがたを軽蔑するものは、私を軽蔑するものである」と。

キリストが確実にご存じであって、私たちが知らないことは、私たち人間の企てる「誤り」でさえも、天にいます私たちの父の御旨を行わせることができることです。これは御摂理の広大な織物の中に織りこまれた一本の特別な糸となっているのです。

キリストはご両親への服従に、何か制限をおつけになったでしょうか。たとえば、キリストの従順は実際に、ご両親の屋根の下においでになるときに、限られていたでしょうか。それとも体や健康の注意についての両親の命令に限られていたでしょうか。あるいは、ご自分が大切とお考えになることだけに限られていたでしょうか。聖ルカはただ「彼らに従われた」と言っています。そこには限定の言葉は何もありません。私たちが推測するのは、キリストの従順が絶対だったということだけです。朝はいつ起きなければならないか、何を食べるのか、何を着るのか。どの友だちと遊ぶのか、家の周りで、何ごとにもキリストはご両親に従われました。

キリストは――あきらめて――「あなたの命令は意味がないが、あなたは親だから従います」という態度で、従われたのでしょうか。自分で解釈して――自分のそのときの都合にあわせて命令を、厳密にあるいは広く解釈して、キリストは従われたのでしょうか。

殉教者のように「私は全ての不快なことを引きうける!」と言いながら、あるいは、「分かりました。そうします。しかし、こう命じないほうがよかったのに!」と言いながら、あるいは、精神分析家のように「何んで私にそれを命じたのだろう!」と言いながら、キリストは従われたでしょうか。完全な従順の価値をはっきりとご存じのキリストは、ただ正確に従われただけでした。

福音書の中に記されているように「彼は知恵も年令も天主と人からの愛も次第にましていかれた」(ルカ2:52)とすれば、これは完全な従順の結果ではなかったでしょうか。

聖イグナチオは、聖グレゴリオを引用してこう言っています。「従順は、それだけで、心の中にほかの全ての徳を植えつけ、ほかのが一度植えつけられたのちには、それらを保存する徳である」と。さらに言葉を続けて、聖イグナチオはこう言います。もしこの徳が花をひらけば、全て他の花をひらく、と。【as St. Gregory says, obedience is a virtue which alone implants all the other virtues in the mind and preserves them once implanted. To the extent that this virtue flourishes, all the other virtues will be seen to flourish and produce in your souls the fruits ... 】


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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