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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

救霊の大切さ:何故なら霊魂を失ってしまうならばすべてがパーになってしまうから。 もしも一回失ってしまったらもう二度取り返しがつかないから

2024年02月01日 | お説教・霊的講話

­2024年1月28日(主日)名古屋でのミサでの説教

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2024年1月28日、七旬節の主日です。

二つお知らせがあります。一つは、来る2月の14日水曜日は、灰の水曜日です。公教会の規定によると、灰の水曜日には健康な成人の男女は、満十八歳から五十九歳までの健康な成年男女は大小斎を守らなければなりません。大斎というのは一日に一回充分な食事をとることです。そして小斎というのは肉を食べないことです。教会には、現在のところ二回――以前は多くの大小斎がありましたが――現在ではたった二回の大小斎が残っていて、それが灰の水曜日と聖金曜日です。灰の水曜日には寛大に犠牲をお捧げください。
二つ目は、2月の名古屋の予定です。二月も最終の主日にまたおこなわれます。たくさんのお友達を連れていらしてください。心からお願い申し上げます。

七旬節の主日、この七旬節というのは、四旬節の前にすでに教会が私たちの少なくとも心の準備をするように、と招いています。そして特に七旬節には「私たちには今からとっても大切な大仕事がある」ということを思い出させます。それは何かというと「救霊の大切さ」です。私たちの霊魂がどれほどの価値があるものか、これから私たちがやろうとしている大事業はどれほど重大でものすごく莫大な利益をもたらすものであるか、ということを教会は思い出させようとしています。ですから今日はそのことを一緒に黙想いたしましょう。

今日の福音では、イエズス様がおっしゃった言葉があります。そこからなぜいったいなぜ救霊が重要なのか、2つの点を見てみましょう。

「天の国は、ぶどう畑ではたらく人をやとうために、朝早く出かける主人のようである。」主はこうたとえを出します。この主人、“ぶどう畑ではたらく人をやとうこの主人”というのは、天主のことです。“ぶどう畑ではたらく人”というのは、私たち人間のことです。

「ぶどう畑ではたらく」というのは、聖クリゾストモによると、わたしたちが聖徳を身につけるようにすることです。聖グレゴリオによると、「ぶどう畑」とは、カトリック教会のことです。なぜかというと、イザヤの預言に「万軍の主のぶどう畑とは、イスラエルの家のことである」(イザヤ5:7)とあるからです。

聖アルフォンソ・デ・リグオリによると、ぶどうの畑に植えられている木の一つ一つは、私たちの霊魂のことです。主が私たちに与えた霊魂、それがぶどうの木にたとえられています。

ぶどうの畑ではたらいた人々は、夕方つまりこの世の終わりに、また人生の終わりに、報いを受けるということを意味しています。私たちは永遠の命という報酬を受けるために、この地上ではたらいています。

イエズス・キリストの教えというのは、ほかでもない超自然の天国の幸せを受けるということを教えています。「心の貧しい人はしあわせである、天の国はかれらのものだからである。(…)正義のために迫害される人はしあわせである。天の国はかれらのものだからである。私のために、あなたたちをののしり、あるいは責め、人々が、数数のざん言をいうとき、あなたたちはしあわせである。よろこびによろこべ。あなたたちは、天において大きなむくいをうけるであろう。」

イエズス・キリストの教えは、商売繁盛・試験合格・交通安全・家内安全などではありません。天国の、永遠の朽ちることのない尽きることのない無限の天主と同じしあわせを私たちも受ける、ということでした。超自然のよろこびです。イエズス・キリストが教会を制定したのは、私たちが永遠の命を受けるためでした。教会の創立の目的は、永遠の命だからです。

私たちが洗礼を受けるときに、教会は私たちにこう尋ねます。
「あなたは天主の教会に何を求めますか?」 
「信仰を求めます。」
「信仰はあなたに何を与えますか?」 
「永遠の命です。」
私たちが使徒信経を唱えるとき、その最後はもっとも美しい言葉で終わります。
「永遠の命を信じ奉る、アーメン」。

教会は、私たちに人生の終わりに起こる四つの真理を、何度も何度も繰り返し教えています。死・審判・地獄・天国、これはどうしてもわたしたちが避けることができない現実だからです。好きでも嫌いでもこれが真理であるからです。人々は残念ながらこの真理をまったく知らないであるいは忘れて生活しています。

今日たとえば 名古屋駅からここまで歩いてくるときに 多くの人たちが駅で美しい服装できれいにお化粧して楽しそうに若い人も大人も歩いていました。しかしどれほどの人が、とても大切な救霊のために生きているということを生活しているということを、知っているでしょうか。あたかもわたしたちはこの死ぬことがないかのように、この世界に永遠に生き続けるかのように、この世の生活だけがすべてであるかのように、生活しています。カトリック信仰を持っているという人であっても、私たちが一生の終わりにすべてを天主に報告しなければならない、裁きがあるということを考えていないかのように生活しています。永遠の命という人生の究極の目的について、知らずに、あるいはすっかり忘れて、あるいは無関心に、この世のことだけにおぼれて、この世のことだけがすべてであるかのように思い違いして生活している人がどれほど多いでしょうか。

ですから、そうではなくて、教会は、「ちょっと待て!すごい大切なものを忘れている。私たちは今一生懸命働いているかもしれない。しかしもっとものすごいもののために私たちはいま生きているんだ。」ということを教えようとしています。

もしかしたら、名古屋の駅にいる人達は私たちに言うかもしれません。
「わたしはね、数億円のビジネスをやっているんだよ。おくりびとだよ。神父様ね、儲かったからちょっと教会を買ってあげるね、でもそれまでは忙しいの」と。  
そんな方に教会はこう言います。「でもね、私たちは、いくらお金を積んでも何百億円でも何兆円でも何京円でも決して買うことができない、ものすごい永遠の命のためにいま働いているんだよ。お金じゃ絶対買えないんだ。永遠の命というのは。」教会はそれを私たちに言おうとしています。

ではなぜ救霊というのが大切なのでしょうか。
なぜかというと、もしも私たちが霊魂を失ってしまうならば、つまり地獄に落ちてしまうならば、すべてがパーになってしまう、もう全部失ってしまうからなんです。
もう一つの理由は、もしも一回これを失ってしまったら、もう二度取り返しがつかない、もうそれっきり、チャンスはもう二度とない、一発勝負、これで最初で最後、これを逃したらもうない、だから今! だからなんです。

ではまず第一に、もしもいまこの救霊を失敗したら、霊魂を失ったら、すべてがパーになってしまうということを考えてみます。
わたしたちは、わたしたちの持っているこの霊魂の貴重さ、救霊の大切さを知らないかもしれません。でも、天主はわたしたちをご自分の似姿に肖像に似せて創造されました。ご自分の命に与る者として創られました。わたしたちを愛して、そしてこの私たちを天国に連れて行くために御自分の命を天主の命を与えるために人間となって、そして十字架につけられてご自分の天主としての血潮をすべて流して、罪を贖われました。天主にとって私たちの霊魂は、命に代えてすべてに勝(まさ)って大切なものだったのです。聖ペトロはわたしたちにこう言っています。「あなたたちは、祖先からうけついだむなしい生活からあがなわれたというのは、金銀など朽ちるものによるのではない。きずもない汚点もない小羊のように、キリストの尊いおん血によって贖われた、それほど貴重な霊魂だ」(ペトロ前1:18-19)と言っています。

三位一体の天主だけではありません。悪魔でさえもわたしたちの霊魂がどれほど貴いかということを知っています。人間の霊魂を奪うために、悪魔は日夜、眠らずにわたしたちの霊魂を狙っています。地獄に引きずり降ろそうとしています。聖ペトロはこうも言っています。「節制し警戒せよ。敵である悪魔は、ほえる獅子のように、食いあらすものをさがしながら、あなたたちのまわりを回っている。」(ペトロ前5:8)

聖パウロは、わたしたちが落ち着いてそれぞれの仕事について手ずから働くように努めよ、と言っています。そして、それを誇りにしろ、と言っています。つまりわたしたちは一生懸命仕事をしなければなりません。(テサロニケ前4:10)この世の人々は、もちろんそうです。ビジネスの成功のために一生懸命働いています。顧客の満足のために、あるいは利益がどうやったら生まれるだろうか、いろいろ計算して、コストカットして、あるいは夜も寝ずにエクセルシートを計算して、あるいは設計図を書いて、あるいは電話をしてEメールを書いて、食べるまもないほど一生懸命汗を流して働いています。またある人は自分の健康のためにはすべてを尽くしています。
どんな遠い病院であろうと、どんなに汽車賃がかかろうと新幹線代がかかろうと、健康のためならいい先生を見つけて移動します。何時間のどんなにつらい手術であろうと、どんなに長い待ち時間があろうと、高い薬であろうと、健康のためであればなんでもやります。

ところで光の子である私たちは、霊魂の救いという途轍もないビジネスのために大利益のためにどれほど熱心に働いているでしょうか。またわたしたちの霊魂の救いという健康のために、どれほど熱心にこの霊魂が病に罹らないように注意しているでしょうか。どんなに遠くてもミサに通う、どんなに辛くてもする、という覚悟はどれほどあるでしょうか。イエズス様はこう言われます。「よし、全世界をもうけても、自分の霊魂を失ったら、それがいったい何の役にたつのか。」(マテオ16:26)

もしも私たちが天国に行くのであるならば、霊魂を救うことができれば、この世のすべてが失われてもたいしたことはありません。なんの困ったこともありません。重要でもありません。なぜかというとこの世のものはいつかは終わることですし、そして今では、完全なしあわせを尽きることなく終わることなくよろこぶことができるからです。なんの悲しみも辛いこともない歓びに満たされるからです。

しかしもしも霊魂を失ってしまうのならば、つまり、地獄に堕ちてしまうようになってしまったとしたら、今この世でどれほどの大成功、莫大な富、名声、快楽を楽しんだとしても、車が何十台あったとしても、プライベート・ジェット機を持っていたとしても、それがいったい何の役にたつのでしょう。地獄で苦しんで、終わりなく苦しむのであれば、それがいったい何になるのでしょうか。イエズス様が言います。「よし、全世界を設けても、自分の霊魂を失ったら、それが何の役に立つのだろう。」

ロヨラの聖イグナチオという人は、パリで、フランシスコ・ザベリオと会いました。フランシスコ・ザベリオはその時は法学を勉強して将来は大成功をなして貴族にのし上がろうとしていた男でした。するとそのときに、イグナチオはこう言いました。「フランシスコ、おまえはいったい誰に仕えているのか? おまえはこの世に仕えている。でもこの世は裏切り者だ。なぜかというと、この世は、約束はするけれども約束は守らないからだ。たとえ約束を全て守ったとしても、それがいつまで続くのか? おまえの生きているよりももっと長く約束を守るのか? いや おまえが死ぬとすべてそれで終わりだ。お前が死んだあと、もしもおまえの霊魂が失われるのなら、その約束がいったいどんな役に立つのか? 全世界をもうけても自分の霊魂を失ったらそれがいったい何の役にたつのか?」

イエズス様は聖マルタにこう言いました。「マルタ、マルタ、心要なことは少ない。いやむしろただ一つだ。」(ルカ10:42)必要なことはたった一つ、私たちの霊魂を救うことです。天国に行くことです。これだけが、私たちにとって最も必要です。絶対に必要なことです。何故かというと、私たちは天国という永遠の栄光を得るために、この世に生まれてきたのです。私たちが天国の栄光という喜びを得るために、天主は人となったからです。私たちが天国を得るために、イエズス様はすべての血を流されて、十字架の苦しみを甘んじて受けたからです。私たちがいまここに生きているのは、天国のためだからです。もしもこの世で、皇帝のように、全世界を支配して、全てのよろこびとしあわせを掻き集めて、そしてもうこれ以上楽しむことができないというほど楽しんだとしても、死の瞬間はそれがどうなってしまうのでしょうか。死の瞬間、ちょうど夢から覚めたように、ハッ永遠という現実に目覚めます。永遠の世界が始まります。その時、今までのこの地上のことはアッという間に消えて、虚(うつ)ろに無くなってしまいます。過去世界中にいろいろな皇帝、専制君主、王、君、大名、いろいろな人々がいました。豪奢な生活を送って羽振りがよく、この道路を肩で風を切って歩いていました。へへぇーと跪いて土下座して迎えたような人々がいます。ちょっといえばなんでも、何万という家来が動いた、動かせた人がいます。そのような人たちにいま聴いてみます。
「いま昔持っていた権力や富・力はどこにあるのですか?」
「何にもない、何にも残っていない。」

ですから、聖フランシスコ・ザベリオは私たちにこう言っています。この世には一つの善と一つの悪しかない。善というのは霊魂を救うこと、悪というのは霊魂を失うことだ、と。私たちにとって、求めなければならないひとつのことがあります。それは「主の家に住まう」、「天国に行くこと」、それです。

また、第二の点は、霊魂が一度失われてしまうとこれは永久に失われるということです。

すべてがパァーになるのみならず、もうそれっきりだということです。わたしたちの人生はたった一回しかありません。わたしたちは一度死にます。一度だけです。そしてその死の瞬間に永遠が決まってしまう。永遠は二つしかありません。永遠のしあわせ、天国。あるいは永遠の不幸、地獄。――これだけです。わたしたちが死の瞬間、それが決定します。もしも大罪の状態で死んでしまうのなら、永遠に不幸になってしまうのです。永遠に失われてしまう…。もしもわたしたちが成聖の状態で天主の友として死ぬならば、天国に行くことができます。霊魂は一つ、永遠も一つです。

もしもこの世で失敗したならば、家を火事で焼いてしまった、交通事故で車が潰れてしまった、怪我をして骨を折ってしまった。やり直しができます。事業を新しくすることもできます。開拓することもできます。再生することができます。でも霊魂を一度失ってしまうと、それっきりです。二度と恢復(かいふく)はできません。やり直しもできません。ああすればよかった、とわかっても、もう後の祭りです。天国に行くのはどれほど簡単だったのか、あの被造物、あれを選ばなければよかった、天主の言うとおりにすればよかった、儚い煙のようなあのために、あの嘘、あのお金、アレのためにすべてが失われた。もしもわたしたちがビジネスで間違った注文をしてしまった、間違った設計をしてしまった、損害があった、何百万円パーになってしまった、ああもったいなかった、ああ―、悔やんで 悔やんで 悔やんで、残念に思うかもしれない。しかし、霊魂を失って、天主を失うならば、永遠に永久に取り返しがつかなかったら、わたしたちは悔やんでも悔みきれません。
ああ、なんであんな馬鹿なことをしたのか、すべては自分の落ち度だ。あの時、あれさえしなければ、あんな簡単なことがなぜできなかったのか。‥‥‥。この地上のものはすべていつか終わりを遂げます。この世からわたしたちはいつの日か立ち去らなければなりません。しかし、天国を失うということは、地獄の永遠の苦しみというのは、私たちにとって消えることのない永遠の問題です。

では最後に遷善の決心をたてましょう。
ですから、今日は、教会は声を大にして聖パウロの言葉を繰り返して言います。
「兄弟たちよ、賞を受けるために走れ。競技で戦う力士はみな、万事をひかえ慎む。彼らは朽ちる栄冠を受けた。しかし、私たちは朽ちない栄冠のために生きている。」
ですからちょうど私たちは、この世という競技場で悪と罪とに対して戦う力士のようです。永遠の命という褒賞(ほうしょう)を受けるために戦っているアスリートです。この世のアスリートたちが、金メダルを得るために、どれほどの苦しい訓練を朝から晩まで毎日毎日毎日やって、食べ物を節制して、走って、そして練習して、走って、練習して、そして、特訓を受けて…どれほど犠牲の生活をしているか、私たちはよく知っています。プロの選手もそうです。いい体に一番いいものを食べて、云々…私たちもその真似をしなければなりません。

私たちも罪の機会を避け、誘惑に抵抗して、被造物を天主より愛することがないように機会を慎んで、そして頻繁に最高の栄養つまりお恵み――天主の与えた秘跡に与らなければなりません。聖伝のミサ聖祭に与らなければなりません。イエズス様は言いました。「天の国は暴力で攻められ、暴力の人がそれを奪う」(マテオ11:12)一生懸命そのために勝ち取ろうとする人が天国に入るのだ、と言っています。日本のキリシタンたちもそうでした。日本にいた無数の何百万という殉教者たちがそうでした。永遠の救霊を確保するために朽ちることのない栄冠のために、キリストのためにすべてを放棄しました。この世のことは、いつかは終わってしまうのです。ですからいま、永遠の殉教と命の冠をいただいて、よろこんで選善の決心を立てましょう。たとえ世の人々が自分の救霊・霊魂について全く無関心冷淡であったとしても、わたしたちはこのものすごい莫大な宝を得るか得ないかというこの大事業、失敗が許されない大事業のために全力を尽くすという決心を立てましょう。この救霊のためにイエズス様は命さえも惜しみませんでした。多くの人々が世間体を気にしてこの世の精神に流されていたとしても、テレビを見てユーチューブを選んで、私たちを見てへらへら笑っていたとしても、私たちはもっと大切なことがあると理解いたしましょう。イエズス・キリストの精神に従うという決心を固めましょう。

四旬節の決心のことを考えてください。スマホやケータイの使用を制限するという決心はいかがでしょうか。眼の慎みをするという決心はどうでしょうか。祈るために時間を確保するという計画をたてるのはどうでしょうか。マリア様にお祈りいたしましょう。マリア様は私たちの霊魂がどれほど価値があるか、どれほど大切であるか、永遠の命とはいったい何かということをよーく御存じです。ほかのものと決して交換することができない、ものすごいものです。私たちはそのために生きているんです。天主の御血が流されて、そして贖われて、買い求めて、それほど貴重なものです。そのイエズス様の御血が無駄にならないように、私たちの救霊が「ああ~なんだ、あんなために…」と後で悔いることがないように、天主のお恵みにいつも忠実であるように、マリア様にお祈りいたしましょう。

「天の国は、ぶどう畑ではたらく人をやとうために、朝早く出かける主人のようである。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第五章 D 同性愛者を「包摂する」

2024年02月01日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

D 同性愛者を「包摂する」
71.同性愛の問題はシノダリティとどのように関係するのでしょうか。
72.教会は同性愛についてどう教えていますか。
73.教会は同性愛者を拒絶しますか。
74.同性愛者を教会に「包摂する」とはどういうことですか。
75.教会の道徳の教理は同性愛者を「包摂する」ように変えなければならないのですか。
76.教会の道徳の教理に代わるものとして、「Weg」推進派は何を提案するのでしょうか。
77.同性愛者を「包摂する」ことを求めているのは、「Weg」推進派だけなのでしょうか。
78.彼らは同性婚を合法化するための抜け穴を探しているのでしょうか。
79.バチカンはこれらの「祝福」を承認したのでしょうか。
80.ドイツ司教団と欧州の各司教協議会の反応はいかがでしょうか。

D.同性愛者を「包摂する」

71.同性愛の問題はシノダリティとどのように関係するのでしょうか。

教会の開かれた兄弟愛的なビジョンでは、同性愛者、そしてより広くはLGBTの各個人は、教会の生活に取り込まれる必要のある「疎外された少数派」の一つです。アーヘン教区のシノドスへの提案には、「男女平等な教会への変化を望みます」とあります(124)。シノドス推進派にとって、包摂をもたらすためには、教会の道徳的教理を変えなければなりません。

72.教会は同性愛についてどう教えていますか。

カトリック教会のカテキズムは次のように述べています。「同性愛行為を重大な堕落の行為としている聖書に基づき、聖伝はつねに『同性愛の行為は本質的に秩序を乱すもの』であると宣言してきました。同性愛の行為は自然法に背くものです。同性愛の行為は生命の賜物に対して閉ざされています。同性愛の行為は真の感情的・性的の相補性から生じるものではありません。どのような場合であっても、同性愛の行為を認めることはできません」(125)。

このような理由から、明らかな同性愛の傾向を持つ人は、常に司祭職や修道会から排除されてきました。少し前まで、神学校はこの点について特に警戒していました。教皇ベネディクト十六世によって承認された2005年のバチカン文書にはこうあります。「この豊かな教えに照らして、本教令は、養成の全期間において注意深い識別を必要とする情動性および性の領域におけるすべての問題に言及することを意図しているわけではありません。むしろ、この教令には、現在の状況によって緊急性を増している特定の問題、すなわち、「根深い同性愛の傾向を持つ候補者に、神学校入学や聖なる叙階を認めるかどうか」(126)という問題についての規範が含まれています。

73.教会は同性愛者を拒絶しますか。

教会は罪を拒絶しますが、教会が回心を呼びかけている罪人は拒絶しません。カトリック教会のカテキズムは非常に明確です。「同性愛の人々は貞潔に招かれています。内面の自由を教える自己修養の徳によって、時には無関心な友情の支えによって、祈りと秘跡の恵みによって、彼らは徐々に、そして断固としてキリスト教的完徳に近づくことができるし、そうすべきです」(127)。

74.同性愛者を教会に「包摂する」とはどういうことですか。

「Synodaler Weg」や普遍シノドスの多くの推進派が提唱している意味において、同性愛者を「包摂する」とは、いかなる制限や道徳的回心の呼びかけなしに彼らを教会に受け入れることを意味します。言い換えれば、それは罪人だけでなく罪も受け入れることを意味するのです。

おそらく、サン・ディエゴ大司教のロバート・マッケルロイ枢機卿ほど、このテーゼを明確に述べた人はいないでしょう。イエズス会の雑誌「アメリカ」に掲載された記事の中で、彼はシノドスには「教会から結婚無効宣言を受けずに離婚して再婚した人、LGBT共同体のメンバー、世俗の結婚はしていても教会で結婚していない人々も含めるべきです」と述べています(128)。

この包摂は、客観的に公然の罪の状態で生きている人々がご聖体を受けることを意味します。「私は、天主の恩寵を熱心に求めている離婚して再婚した人やLGBTのカトリック信者には、断じて聖体拝領を禁じるべきではないと提案しました」(129)。

75.教会の道徳の教理は同性愛者を「包摂する」ように変えなければならないのですか。

はい。「Weg」の準備文書はこう述べています。「司牧の役務の方向転換は、教会の性についての教理の大幅な入れ替えなしには不可能であると確信しています。…特に、性交渉は合法的な結婚の文脈においてのみ、また子孫を残すことに永続的に開かれている場合のみ、倫理的に合法であるとみなす教理は、教導権と信者との間に広範な断絶をもたらしました」(130)。

同様に、「Weg」の別の文書はこう述べています。

したがって、同性愛の性的指向――また性行為において実現される――は、天主によって罰せられる罪ではないし、本質的に悪とみなされるものでもありません…。
1.この同性愛の再評価の過程で、とりわけ、(カトリック教会の)カテキズムの2357-2359番と2396番(同性愛と貞潔)が改訂されるべきです。「同性愛の行為」は「貞操に反する重大な罪」のリストから削除されなければなりません(131)。

しかし、別の文書は非常に明確です。「シノドスの任務の一つは、同性愛指向と同性間の関係に対する新しい見解を発展させ、その開放に向けて努力することです」(132)。

シノドス総括報告者であるルクセンブルクのジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿もこれに同意しています。同枢機卿は、同性愛関係についての教会の教理は「誤り」であり、したがって、「そのような教えの社会科学的基盤はもはや正しくない」(133)ため、変えなければならないと宣言しました。

他の司教協議会もこの意見を共有しています。例えば、フランスの司教たちは最近、カトリック教会のカテキズムを修正し、同性愛の行為を「本質的に秩序を乱すもの」で「自然法に反する」と非難しないよう教皇に要請しました。フランス司教協議会は、このテーマに関する教理の再定義を研究する神学者の委員会を指定しました(134)。

76.教会の道徳の教理に代わるものとして、「Weg」推進派は何を提案するのでしょうか。

「Weg」推進派は性道徳への新しいアプローチを提案しています。それはもはや天主の法や自然法に基づくものではなく、他者に対する自分の責任を自己認識することに基づくものでなければならないのです。「Synodaler Weg」の副会長であるトーマス・セディング教授は、「この問題の解決策は、教会の教えにおける人格と性的指向の関係を再定義することにあります。…個人の責任は、社会的寛容と教会による受容と相まって増大します。教会は、どのような場合に虐待(侵略的行為)があり、どのような場合に人権と尊厳が攻撃されるのかを明確に定義しています。しかし、教会はまた、(人々の)性的実践をスパイすることなく、他者と自分自身に関する性的自己決定と責任を定義しています」(135)。

77.同性愛者を「包摂する」ことを求めているのは、「Weg」推進派だけなのでしょうか。

いいえ。シノドスの旅における大陸ステージの結論文書(大陸統合)のほとんどすべてが、LGBTの人々を含める必要性について明確に言及しています。

さらに、高い地位にある高位聖職者たちも同様の立場を取っています。例えば、すでに述べたように、シノドス総括報告者のジャン=クロード・オロリッシュ枢機卿は、同性愛に関する教会の教えを変えることが必要であると考えています。

サン・ディエゴ司教のロバート・マッケルロイ枢機卿は、普遍的なシノドスは、女性の司祭叙階の問題を含むいくつかの教会の教理を検討する適切な機会であると主張しています。しかし、彼の主眼は「LGBTの人々を根本的に包摂すること」にあります。

このカリフォルニアの枢機卿にとって、同性愛指向を持つ者が罪を犯さないようにすることと、同性愛の行為によって罪を犯すことを教会が区別することは、聖体拝領や教会生活への積極的な参加について共同体を分断することになり、司牧上不都合とされます。すべてのLGBTの人々は、教会のような区別をすることなく、「天主の子としてのすべての人の尊厳」に基づいて受け入れられるべきと言うのです(137)。

78.彼らは同性婚を合法化するための抜け穴を探しているのでしょうか。

はい。シノドス推進派にとって、同性愛者を教会に「包摂する」ことは、すべての秘跡は彼らに開かれることを意味します。カトリックの教理や教会の規律と真っ向から衝突する同性同士の「結婚」を認めるわけにはいかないため、一部の司教協議会は「祝福」(Segnung)を与えることを選択しています。

例えば、2022年、フランドル地方の司教団は、同性愛カップルのための「祝福の儀式」を承認し、後に「Synodaler Weg」で採択されました。

この考えは新しいものではありません。2015年の「家庭に関するシノドス」において、ドイツのカトリック中央委員会は、「典礼形式のさらなる発展、特に同性パートナーシップ、離婚者の新しいパートナーシップ、家庭生活における重要な決定のための祝福」を提案しました(138)。

79.バチカンはこれらの「祝福」を承認したのでしょうか。

いいえ。それどころか非難しています。2021年3月15日にドイツの司教団に送られた、同性の人々同士の結合の祝福に関する質問に対する教理省の回答はこう述べています。「同性の人々同士の結合の場合のように、婚姻外の性的行為を伴う(すなわち、生命の伝達に開かれた男女の解消できない結合以外の)関係やパートナーシップに祝福を与えることは、たとえ安定した関係であっても許されません」(139)。

80.ドイツ司教団と欧州の各司教協議会の反応はいかがでしょうか。

ドイツの司教団や欧州の各司教協議会の中には、バチカンの拒否権に公然と反抗しながら、活動を続けているところもあります。

例えば、ドイツの多くの教会では、同性愛カップル、「再婚した」離婚者、同棲カップルなどを含む「代替カップルのための祝福、祝福の儀式、祝福祝い」を提供しています。教会のファサードには「Liebe ist alles」(愛がすべて)と題されたポスターが貼られ、二人の男性が接吻をしている姿が描かれています。アーヘンのように教区が主導している場合もあります。

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「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」第五章 B 教会の民主化 C 女性の叙階

2024年02月01日 | カトリックとは

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

第五章 ドイツの「Synodaler Weg」【シノドスの道】

B 教会の民主化
64.「Weg」推進派は教会統治に関して何をするつもりなのでしょうか。
65.評議会結成に合意はあったのでしょうか。
66.バチカンはこのシノドス評議会を承認したのでしょうか。
67.バチカンの介入は何か影響を与えましたか。

C 女性の叙階
68.女性の叙階はシノドスのテーマとどう関係するのでしょうか。
69.教会の教理は女性を司祭に叙階することを認めていますか。
70.女性に対して助祭職だけを承認することは可能でしょうか。


B 教会の民主化

64.「Weg」推進派は教会統治に関して何をするつもりなのでしょうか。

「Weg」推進派は、教会の権威の体系を大きく変えるために、教会の位階構造を解体することを提案しています。そうすると、決定権を持つ信徒評議会が司教の権限を制限することになります。信者は、いわゆるシノドス評議会を通じて、全国レベル、教区レベル、小教区レベルで参加することになります。この教会の民主化は、「Synodaler Weg」の最も議論の的となった点の一つです。

2022年9月の第4回シノドス総会では、常設の全国シノドス評議会の設立を議論する委員会が承認されました。この評議会は、司教、司祭、信者で構成され、シノドスの旅の決議の実施を保証し、長期にわたって永続させるべきものとされています。この評議会は、単なる諮問機関ではなく、意思決定権を持つ審議機関でなければならないとされます。教区司教よりも大きな権限を持つ組織となるでしょう。

65.評議会結成に合意はあったのでしょうか。

いいえ、なぜなら一部の司教が反対したからです。このような議会制度を教会に導入することは、保守派ではないヴァルター・カスパー枢機卿でさえもつまずかせてこう言いました。「シノドスを恒久的な機関にすることはできません。教会の聖伝は、シノドスによる政治などというものを知りません。現在構想されているようなシノドスによる最高評議会は、(教会の)構成体の歴史全体において何の根拠もありません。それは刷新ではなく、前例のない革新になるでしょう」(116)。

66.バチカンはこのシノドス評議会を承認したのでしょうか。

いいえ。2023年1月16日付の書簡で、国務長官のピエトロ・パロリン枢機卿は、ルイス・ラダリア枢機卿(教理省長官)、マルク・ウエレット枢機卿(司教省長官)とともに、シノドス評議会の設立を拒否しました。教皇によって承認されたこの書簡にはこうあります。「『シノドス評議会』は、ドイツの教会の新たな統治機構を構成するものであり、…ドイツ司教協議会の権威の上に立ち、事実上、それに取って代わるものになってしまうと思われます」。この書簡はさらにこう述べています。「シノドスの道も、それによって設立されたいかなる組織も、いかなる司教協議会も、全国、教区、小教区レベルでシノドス協議会を設立する権限を持っていません」(117)。

この立場は、2022年11月の教皇庁訪問(ad limina visit)の際、ドイツ司教団に公式に伝えられました。当時の司教省長官マルク・ウエレット枢機卿はこう宣言しました。

「私はすでに(ドイツの)司教たちにはっきりと言いました。…これはカトリックではありません」。
このようなドイツの公会議は、「カトリックの教会論、そして司教の唯一無二の役割に一致しません。司教の役割とは、司教聖別のカリスマに由来するものであり、また、司教が教え決定する自由を持たなければならないことを意味するものだからです」(118)。

2023年3月にフランクフルトで開催された第5回にして最後のシノドス総会の開会式で、教皇大使であるニコラ・エテロヴィッチ大司教は、シノドス評議会の設立を認めないバチカンの姿勢を改めて表明しました。

67.バチカンの介入は何か影響を与えましたか。

はい、最後の第5回シノドス総会では、白熱した議論の末、教区・小教区におけるシノドス評議会の設置を決定すべき「教会における権力と権能の分離-共同参加と宣教への参加」という文章は採決されませんでした。いずれにせよ、あらゆるものが示しているのは、「Synodaler Weg」が、各教区にそのような機構を設置することを司教団に委ねることで、事実上それを実施するだろうということです。

C.女性の叙階

68.女性の叙階はシノドスのテーマとどう関係するのでしょうか。

女性は教会生活に「包摂」される必要のある「疎外された少数派」の一つであるとされています。この目的のために、彼女らはあらゆるレベルの権威と聖なる品級の秘跡を受ける機会を持つべきです。アーヘン教区の提案には、「シノドス第3回総会で行われた良い仕事のおかげで、すべての神学的な議論がテーブルの上にあるのですから、ディーザー司教さま、あなたが女性が助祭や司祭として想像できるかどうかを表明してくださると私たちは期待しています」と書かれています(119)。

第3回ドイツ・シノドス総会で、「Weg」は、「召命されたと感じ、秘跡の役務に方向付けもするカリスマを持つ女性を排除すべきではありません」と決定しました(120)。この目的のため、「Weg」推進派は、この可能性を厳しく排除しているこのテーマに関する公文書について議論すべきだと言います。

教会の教理と規律に反すると分かっていながら、「Weg」推進派はこの路線で前進する決意を固めているようです。「ローマ・カトリック教会では、シノドスの道委員会が主導的な役割を果たす透明な過程が透明な方法で開始されます。あらゆる性別の人々の秘跡の役務を専ら取り扱う委員会が設立されるでしょう」(121)。

69.教会の教理は女性を司祭に叙階することを認めていますか。

いいえ。教理省長官のルイス・ラダリア枢機卿は最近、ヨハネ・パウロ二世の使徒的書簡「オリディナチオ・サチェルドス」(Ordinatio sacerdotalis)を引用して、この件に関する教会の教導権の決定的な立場を再確認しました。この書簡はこう締めくくっています。「したがって、非常に重要な問題、天主により造られた教会の構造(divine constitution)そのものに関わる問題に関して、すべての疑念が取り除かれるように、兄弟たちを固める(ルカ22章32節参照)私の役務により、私は、教会には女性に司祭叙階を授けるいかなる権限もないこと、そして、この判断はすべての教会の信者によって決定的に保持されるべきものであることを宣言します」(122)。

70.女性に対して助祭職だけを承認することは可能でしょうか。

いいえ。雑誌「Publik Forum」は次のようにコメントしています。「カトリックの教理に詳しい人なら誰でも知っていることだが、秘跡の叙階は究極的には一つしかなく、それは三つの段階(助祭、司祭、司教)からなる。いったん助祭職が女性に開放されれば、女性の司祭職への『滑り台』のような効果がある」(123)と。


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