Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

御変容の神秘の意味:「願わくは、われらが…祝い奉る御子のご変容の聖なる神秘を、…われらに味わわせ給え」

2024年02月26日 | お説教・霊的講話

四旬節第二主日 ― 霊魂の変容(東京―2024年)

ワリエ神父 2024年2月25日

マテオ16章で、イエズスはご自分の受難を預言されます。その後、3人の使徒、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られます。

ご変容の祝日の聖体拝領後の祈りはこう願っています。「願わくは、われらが…祝い奉る御子のご変容の聖なる神秘を、…われらに味わわせ給え」。

では、3人の使徒にとって、この神秘の意味は何だったのでしょうか。

聖レオは、こう言っています。「ご変容の主な目的は、弟子たちの心から十字架のつまずきを取り除くことだった。弟子たちにとって、キリストであるイエズスが屈辱的な死を受けなければならないことを理解するのは非常に困難だった(マテオ16章参照)」。この同じ3人の使徒が、オリーブの園でイエズスと一緒にいたのです。イエズスの神性は、そのご生涯を通して、飢え、渇き、疲労、睡眠、葛藤(かっとう)、逃亡にさらされる、弱い、人間の肉体のベールに包まれていました。今、使徒たちは、キリストがご変容になり、その表情から、また衣服を通して、神性が輝き出るのを見ます(マルコ9章2節参照)。

モーゼとエリアがイエズスとともに現れます。信仰深いユダヤ人にとって、この二人は律法と預言者たちを体現していました。二人はイエズスの前表(ぜんぴょう)であり、イエズスが預言されたキリストであることを証明します。イエズスは律法を尊重し、預言者たちと一致されており、したがってイエズスこそが天主から送られたお方です。

最後のクライマックスの瞬間は、御父の声が聞こえるときです。弟子たちはこの神秘を完全には理解していませんでしたが、十字架のつまずきに対して、彼らの心をあらかじめ準備させるものでした。ペトロ後書(1章16-18節)によれば、ペトロは「私たちが主とともに聖なる山にいたとき、…主は父なる天主から誉れと栄光を受けられた」と証言しています。

しかし、ご変容はまた、この祝日の集祷文(しゅうとうぶん)が述べているように、私たち全員にとっても深い意味を持っています。「御身(おんみ)は、光の雲の中から発せられた御声(おんこえ)によって、不思議にも子らの完全な世継ぎを約束し給うた」。イエズスは、私たちが聖寵によってイエズスの神性にあずかることができるように、私たちの人間性を共有してくださるのです。イエズスは私たちをご自身の体の一部とされ、養子として天主の子とされたのです(ヨハネ第一書3章1節)。

しかし、私たちはこの人生で、完全な天主の子には決してなれません。そこで、この祝日の集祷文(しゅうとうぶん)は、こうも祈ります。「われらを、いつの日か栄光の王の遺産と勝利とにあずからせ給え」。ご変容は、私たちの将来の偉大さの、また私たちのために蓄えられている遺産の啓示です。聖レオはこう言いました。「このご変容の神秘において、天主の御摂理(みせつり)は教会の希望のための堅固な基礎を築いた。それは、キリストの体全体が、その体にどのような変容が与えられるかを知るためであり、また、教会員が、自分たちのかしらにおいて輝いた栄光の共有者となることを確信するためである」。

ご変容は、私たちの聖性がキリストに似たものであること、また天主の命が私たちのうちに流れ出ることであることを示しています。聖性は、洗礼において私たちのうちに始まり、洗礼は私たちをキリストの像に変えました(ローマ8章29節)。私たちが聖霊の働きに忠実であることによって、この像は永遠の命、完全な養子へと成長するのです。私たちの主のご変容は、成聖の恩寵の状態にある霊魂の美しさを私たちに教えてくれます。聖パウロは今日の書簡の中で、「天主の思(おぼ)し召しは、あなたたちの聖徳にある」と述べています。私たちの霊魂の天主の命を守ることは、どんな代価を払っても、私たちの固い決意でなければなりません。

「彼に聞け」。イエズスはすべての人を照らす光であり、御父から聞かれたことをすべて明らかにしてくださいます。イエズスは御父の最後のみ言葉なのです。モーゼとエリアは姿を消し、イエズスだけが残られました。イエズスは、聖書において、教会(教導権と典礼)において、出来事において、ご自身の霊の霊感において、私たちに語りかけてくださいます。よく聞くためには、私たちは、しばしば自分の内で静かに祈ることによって、山に登る必要があります。苦しみや挫折があっても、信仰をもって、行動に移す信仰をもって、耳を傾ける必要があります。そうすれば、試練が私たちに及ばない幕屋を建てる時期はまだだとしても、幸福を見いだすことができます。

キリストは、栄光に入るために苦しまれなければなりませんでした。同じ道を歩む私たちは、自信を持ち続ける必要があります。イエズスは、ご自分がおられるところに私たちがご自分とともにいて、ご自分の栄光を見ることができるようにと祈っておられるのです(ヨハネ17章24節)。


灰の水曜日の意味と精神

2024年02月26日 | お説教・霊的講話

2024年2月14日 灰の水曜日の典礼の前に

トマス小野田神父

教会にはかつて「公けの悔悛者」という人々がいました。4世紀から12世紀ごろまで、教会の習慣によると、公けの大きな罪を犯した人々は誰であっても、四旬節の最初に「公けの償い」を受けなければなりませんでした。
「公けの償い」は、特に、御聖体拝領ができなくなること、また、祈りと苦行などによって罪を償うことにありました。司教は荘厳に「公けの悔悛者」に、償いの服を着せ、頭には灰を被せました。そして、教会の外に連れ出して、正面の門の前に導き出します。罪を犯してしまうと天国から除外される、悔い改めの業をして天主と和解しなければ、天国には入れないということをまざまざと見せつけていました。

後に、教会は悔悛の業を和らげ、公けの償いの代わりに私的な償いを行うようになりました。しかし、中世以降次第に、公けの悔悛者だけでなく、全ての信者が、王も皇帝も、自発的に償いの服を着て、灰を頭にかけてもらうようになります。例えば、シャルルマーニュ(742年? - 814年)は、裸足で他の信者たちと一緒に、灰を受けて四旬節の中に入りました。

灰の祝別の儀式の最初の言葉で主の憐れみと優しさを断言します。「主よ、我らの願いを聴き入れ給え。御身の憐れみは優しいものなればなり。御身の憐れみの多さに従い、主よ、我らを見給え。」
灰の祝別のための4つの祈祷は、祈るたびに短くなっていきます。祈れば祈るほど、厳しさが取れていきます。

祈りの内容は次の四つです。
祝別された灰は、救いの霊薬となり、私たちは、罪の贖いのため、身体の健康と霊魂の保護とをうけること。
灰が象徴するように、私たちは、塵であり、邪悪さの報いとして塵に帰るべき存在であること。
灰を受けた頭が、祝福と痛悔の精神で満たされること。
私たちがニニヴェの人々の悔悛の模範に従うこと。

この灰を信徒たちに付けて祝福することによって、四旬節が始まると言えます。付けるのは昨年の枝の主日に祝別された枝から作られた灰です。「人よ、おぼえよ、汝は塵であって、また、塵に帰るであろう。」(創世記、3ノ19)これは、地上の楽園で人祖アダムとエワが罪を犯した後に、天主が言われた言葉です。人類の悲しい灰の水曜日でした。灰を配る間、聖歌隊は歌います。「衣を替えよ、灰と毛衣とに。断食をしよう、そして主に御前で泣こう。何故なら我ら天主は、我らの罪を赦そうと極めて憐れみ深い方であるが故なり。」

最後に司祭はこう古代からの祈りを唱えます。「主よ、キリスト者の軍隊の隊列が聖なる断食を始めるを得させ給え。そは、悪の霊に反対して戦おうとする我らが節制の助けを装備せんがためなり。我らの主キリストによりて」と。聖ペトロはこう言います。「キリストは肉体において苦しまれたのであるから、あなたたちもその心で武装せよ。」(ペトロ前4:1)

私たちキリスト者は、罪と悪の霊に対して戦う軍隊を作ります。「主はこういい給う、お前たちは、心をつくし、断食と涙と悲嘆とによって私に立ち戻れ。」これは、内的な償いの戦いであり、共同体としての聖化の戦いです。この戦いは同時に、罪の償いと言う宝を天に蓄える時です。祈りと、断食と、施しによって、天に宝を積む時です。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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