goo blog サービス終了のお知らせ 

Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ご復活の主日―信仰の勝利:信仰が歴史的事実と矛盾しないのを理解することは、非常に重要です。

2024年04月10日 | お説教・霊的講話

ご復活の主日―信仰の勝利(大阪)

ワリエ神父 2024年3月31日

親愛なる兄弟の皆さま、

日本の祈祷書にある「信徳唱」とは異なりますが、英語の信徳唱では、こう宣言します。
「わが天主よ、われ、御身が唯一の天主にして、父と子と聖霊の天主の三つのペルソナを持ち給うことを固く信じ奉る。
われ、天主なる御子が人となり給うて、われらの罪のために死に給うたこと、また御子が生ける人と死せる人を裁かんために来り給うことを信じ奉る。
われ、これらおよび、聖なるカトリック教会が教えるすべての真理を信じ奉る。
そは、永遠の真理にして知恵なる御身、欺くことも欺かれることもなき御身が、それらを啓示し給うたがゆえなり」。

私たちが強く信じている私たちの信仰の神秘は、三位一体、ご托身、贖いです。
私たちはまた、キリストの復活など、キリストの奇跡も強く信じています。

信仰が歴史的事実と矛盾しないのを理解することは、非常に重要です。
近代主義者は、キリストの復活は歴史的証拠によって立証できないと主張していますが、これは完全に間違っています。

私たちの主は、こう預言されました。
「私には自分の命を与える権威があり、また、それを取り戻す権威もある」(ヨハネ10章18節)。

自然は、主の死にお応えしました。
・約3時間、闇が地上を覆いました。
・神殿の幕が、上から下まで二つに裂けました。
・地震がありました。

キリストの復活も、はっきりと自然に表れました。
・地震がありました。
・ローマの番兵たちは、光り輝く天使の出現を見ました。彼らは、慌てふためいて立ち去り、司祭たちに、私たちの主の復活を知らせました。
・多くの死んだ人々が死者の中から復活し、エルザレムに入って、多くの人々に姿を見せました。
・キリストご自身が、多くの人々(聖なる婦人たちや使徒たち)に直接ご出現になり、その中には「不信者」トマスもいました。

ですから、親愛なる兄弟の皆さま、キリストの復活への揺るぎない信仰を持ちましょう。
「世に勝つ勝利は、すなわち、私たちの信仰である!」【ヨハネ第一書5章4節】。
使徒たちの心が疑いと落胆に満ちていたとき、忠実に信仰を保っておられた私たちの良き母が、私たちのカトリック信仰の守護者でいてくださいますように。アーメン。


復活徹夜祭の聖なる夜、教会は水を恩寵の水として強調する:聖化する水、罪を洗う水、渇きをいやす水、「永遠の命に湧き出る水の泉」

2024年04月10日 | お説教・霊的講話

復活徹夜祭―恩寵の水(大阪)

ワリエ神父 2024年3月30日

親愛なる信者の皆さま、

この聖なる夜、教会は、水を、恩寵の水として強調します。
洗礼水の祝別と、洗礼の約束の更新から抜粋しましょう。

「主の霊が水の上を舞っておられた。それは、その時でも、聖化する力を水の本性が受けるためであった」(祝別)。
【水に、人を聖とする力を与えるために、…主の霊は、水の上を覆い給うた=毎日のミサ典書】

「天主は、悪徳の終わりと徳の始まりであることを示すために、…水によって、(洪水を通して)汚れた世の罪を洗い給うた」(祝別)。
【汚れた世の罪を、水によって洗うことにより、その同じ水をもって、人の罪を除き、徳に立ち返らせるために、洪水をもって、再生のかたどりを示し給うた天主よ。=毎日のミサ典書】

「天主は、荒れ野において、(水の)苦みを甘みに変え、水を飲めるものとし、のどの渇いた民をいやすために、水を岩より湧き出させ給うた」(祝別)。
【天主は、砂漠においては、水の苦みを取り去り、飲めるよい水とし、人々ののどを潤すために、岩より湧き出させ給うた。=毎日のミサ典書】

「(われらは)キリストの死において洗礼を受け、キリストとともに葬られた。…キリストは、死者からよみがえり給うたが、われらも、…新しい人生を歩まねばならぬ」(更新)。
【われらは、洗礼によって、キリストとともに死に、かつ葬られたのである。キリストは、死者からよみがえり給うたが、われらは、…新しい生活の道を歩まねばならぬ。=毎日のミサ典書】

旧約で、天主は、私たちの霊魂を清めるために、どのように水を用いるかを告知されました。
「私は、おまえたちの上に、清い水を注ごう。こうして、おまえたちは、汚れを清められる。
私は、おまえたちに新しい心を与え、おまえたちのうちに新しい霊を置こう。
私は、おまえたちの肉から、石の心を取り除き、肉の心を与えよう。
私は、おまえたちのうちに私の霊を置こう」(エゼキエル36章25-27節)。

「さあ、渇く者はみな、水に近よれ。金のない者も、喜んで近よって飲め」(イザヤ55章1節)。

キリストによって与えられる霊的な水は、「永遠の命に湧き出る水の泉」(ヨハネ4章14節)です。

復活節には、歌ミサの「アスペルジェス」は、「ヴィディ・アクアム」に変わります。
「ヴィディ・アクアム。私は、神殿の右の脇から流れ出る水を見た、アレルヤ。その水が到達した人々は、みな救われた」。
恩寵の水は、聖金曜日に刺し貫かれたキリストの脇腹から流れ出るのです。

親愛なる兄弟の皆さま、この聖なる夜、そしてこの復活節の間、私たちの洗礼の恩寵を思い起こし、罪の死から恩寵の復活の命へと移った者の人生を生きましょう。アーメン。


最後の晩餐で始まって十字架上の最後の息で終わったのは、一つの同じもの。私たちの救いをもたらした、主の命のいけにえだった。

2024年04月10日 | お説教・霊的講話

聖木曜日(大阪)

ワリエ神父 2024年3月28日

親愛なる兄弟の皆さん、今日のミサは、夕方の最後の晩餐とほぼ同じ時刻に行わなければなりません。
キリストは最後の晩餐で、いわゆる「過ぎ越しの小羊」を食べられました。
その何百年も前、ファラオの頑なな心のせいでエジプト人の初子が殺された一方で、ヘブライ人は、小羊をいけにえとして捧げて食べるように言われ、小羊の血が彼らを天主の御怒りから守りました。
そして毎年、「過ぎ越しの祭り」(つまりユダヤ教の復活祭)の時に、ユダヤ人は記念の儀式として、家で過ぎ越しの小羊を食べなければなりませんでした。
そのため、キリストは、使徒たちとともに最後の晩餐をなさったのです。

そのほふられた動物は、聖書が「世の罪を取り除く天主の小羊」と呼ぶお方のかたどりでした。
ですから、キリストは、ご聖体の秘跡を制定するために、そのユダヤ人の祭りの時を選ばれたのです。しかし、単に聖体拝領としてのご聖体ではなく、何よりもまず、ミサのいけにえとしてのご聖体なのです。
実際、最後の晩餐で始まって、十字架上のキリストの最後の息で終わったものは、一つのものであり、同じものでした。それは、私たちの救いをもたらした、私たちの主の命のいけにえだったのです。

ノブス・オルドの聖職者たちは、最後の晩餐は単なる食事にすぎないと述べて、食事としての新しいミサという考え方を正当化しています。そして彼らは、聖伝の奉献の祈りを、食事の前のユダヤ教の祈りに置き換えるまでに至ったのです!

事実およびカトリックの教理を率直に述べましょう。第一に、過ぎ越しの小羊を食べることは、普通の食事だったのではなく、定められた儀礼のある、家で行われる宗教的な儀式でした。第二に、ご聖体の制定とキリストのご受難およびご死去は、二つの異なる行為でも、二つの異なるいけにえでもありません。それは、キリストが最初は(ミサを考慮して)血を流さない方法でお捧げになり、最後に本当に御血を流された、一つの長く続くいけにえなのです。
したがって、ミサとは、血を流さない方法で捧げられるカルワリオのいけにえの更新、あるいは再現なのです。

今日のミサの最後に、「祭壇布の剥ぎ取り」の儀式があります。これは、私たちに、キリストが衣服を剥ぎ取られたことを思い起こさせます。また、私たちの心にも、キリストの肉体的、精神的な苦しみを思い起こさせましょう。

そのあと、私たちは、ご聖体を礼拝します。この聖なる夜のすべての出来事、つまり、最後の晩餐でのキリストの愛徳、ゲッセマニの園での恐ろしい苦悩、キリストの逮捕と屈辱的な夜の裁判、使徒たちによって見捨てられたことに、思いをはせましょう。

詩篇には、次のような預言があります。「私は共に悲しんでくれる人を求めたが、私を慰めてくれる人はいなかった。その人を探したが、見いださなかった」。

親愛なる兄弟の皆さん、今晩は、私たちが過去にしばしば行ってきたような、キリストを見捨てることがないようにしましょう。

キリストの傍らにとどまって、御悲しみの聖母との一致のうちに、キリストのご受難と一致しましょう。アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】