Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私はあなたたちとともに、この過ぎ越しを食べることを切にのぞんでいた。

2024年04月09日 | お説教・霊的講話

2024年3月28日 聖木曜日ミサ説教

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、今日のこのミサの直後に御聖体の移動式そして真夜中までの聖体礼拝があります。夜中まで御聖体を礼拝したい方は、どうぞ礼拝なさってください。

その間に告解をされたい方は司祭が告解室で待機しています。どうぞいらしてください。

「時が来たので、イエズスは、使徒たちとともに、食卓におつきになった。そしてかれらに "私は苦しみの前に、あなたたちとともに、この過ぎ越しを食べることを切にのぞんでいた。"とおっしゃった。」(ルカ22:14-15)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆さん、今日はイエズス・キリストが、御聖体を制定なさった聖木曜日です。聖ルカによると、主は、この夜苦しみを受ける前に、この過ぎ越しを食べることを切に望んでいた、と書かれています。主は、私たちと一つになることをお望みになって、御聖体を制定されました。今日このわたしたちの主への、わたしたちの愛を黙想いたしましょう。

【イエズス・キリストの私たちへの愛】
「私はあなたたちとともに、この過ぎ越しを食べることを切にのぞんでいた。Desiderio desideravi hoc pascha manducare vobiscum.」(Luc. 22:15)

この言葉を幾つかの点において黙想いたしましょう。

いったいどなたがこの言葉をおっしゃったのでしょうか?それは主イエズス・キリストです。私たちが滅んでしまわないように、天から降られて、わたしたちのかわりに罪の償いを果たした、私たちを至福で満たそうとされる、天主イエズス・キリストです。
主は、無から全宇宙を創り出しました。目に見えるまた目に見えない全ての被造物は、愛によって全く自由に創り出されました。私たち人間について言えば、私たちが主と同じように幸せであるように、主の似姿にしたがって肖像にしたがって創りだされました。天主の超自然の命を受けることができるものとさえして創造されました。
主はわたしたちを無から創造されたばかりではありません。残念ながら罪を犯して主に逆らったのちであっても、罪の負債からわたしたちを解放するために、人間となられました。罪をのぞいて、罪の結果であるすべての苦しみと死をさえも受けることができるものとして人間となりました。そしてその苦しみを極みまで受けようとされました。その時に主は言われます。わたしはこの過ぎ越しを食べることを切に望んでいた。

これは何を言おうとしているのでしょうか?御自分の無限の愛を証明しようとしておられます。なぜかというとこれは御聖体の秘跡を制定すること、カルワリオの犠牲という秘跡を成就させることを云わんとしているからです。この御聖体、そしてカルワリオの生け贄によって、自分のあふれるばかりの愛を証ししようとされたからです。そしてわたしたちに全てを与え尽くしたいと思いました。つまり、主が云わんとしたことは、わたしたちを燃える愛によって、わたしたちにご自分の命を与えたいと、最も大切なものすべて与えたいと、ご自分をわたしたちにすべて与え尽くすことを望んでいると、いうことを仰っています。

ではこの言葉はいったい誰に向けられたのでしょうか?使徒たちだけにいわれたのでしょうか?いえ、教父たちによると、イエズスの聖心はこの言葉は、御聖体を拝領しようとするすべてのわたしたちのことを思っていわれた、と言います。わたしたち一人一人のことをすべて最後の晩餐のときに、聖木曜日に、考えておられて、わたしたちが御聖体を拝領しようとするたびに、主はこのことを言われます。「私はあなたたちとともに、この過ぎ越しを食べることを切にのぞんでいた。」つまり、わたしたちに向かって、「私は、この世の創造主である私は、道であり真理である私イエズス・キリストは、限りを知らない愛によっておまえたちを愛している。私の肉体も、御血も、霊魂も、天主の本性も、全ておまえたちに与え尽くしたい。このことを望んでいた」と言われているのです。
全宇宙を無から創造した全知全能の天主が、わたしたちのために人間となった天主が、わたしたちと一つとなるために、パンとなろうと、御聖体となろうと、された!それをのぞんでいた!と、いうことを表明しています。何という主の深い愛でしょうか!

【私たちのイエズス・キリストへの愛】
この最後の晩餐で御聖体が制定されたこの夜、私たちは何を思うべきでしょうか?私たちは御聖体において主を受けることを切に望まざるを得ません。わたしたちは主のご聖体の愛に、愛で応えたいと思います。御聖体を 愛で、愛をこめて、拝領したい。できる限りの尊敬と礼拝と感謝をこめて拝領したい。御聖体を心から渇望して、愛で燃え尽きたいと思います。

ではわたしたちは、主の愛である御聖体を拝領するために、どれほど熱烈な準備ができるでしょうか!
イエズス様ご自身、御聖体となりました。つまり御聖体には天主そのものがおられます。この世の全ての楽しみや富にまさる宝が御聖体に在しまし給うのです。
イエズス・キリストの愛の聖心が御聖体に在しますのです。全てにまさる善、そしてすべての善の源が、御聖体にはあります。
この無限の愛の神秘において、イエズス様は私たちに特別な祝福と最も貴重なお恵みを私たちに注ぎたい、あふれ出したいと思っておられます。
私たちの心は、わたしたち人間は、天主を知り天主を愛することができるように、超自然の命のために、創られました。
私たちの心は、イエズス・キリスト、まことの真理である天主を、愛するまで、安らぎを知りません。光、力、またわたしたちの本当の友であるイエズス・キリストこそが、私たちの本当の喜びや本当の幸せです。
主がどれほど愛に満ち甘美な御方であるか、その愛を、この聖なる夜に味わいましょう。どうぞ愛をこめて、イエズス・キリストへの感謝をこめて、心からの礼拝をこめて、御聖体を拝領なさってください。そしてそのことがよくできるために、イエズス様に御助けを請い求めましょう。地上の物事からの愛着から離脱することができますように。また、主の聖寵の働きを妨害するようなすべてのものをわたしたちの心から取り除いてくださるように、お祈りいたしましょう。

【遷善の決心:今日の御聖体拝領】
最後にマリア様にお祈りいたしましょう。私たちがイエズス様の愛の深さを少しでも垣間見ることができますように。そしてそれに愛をもって答えることができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


聖母の目を通してイエズスの御受難を黙想し聖母の苦しみに与る―その理由。

2024年04月09日 | お説教・霊的講話

2024年3月22日(金)「童貞聖マリアの七つの御悲しみ」大阪ミサ 説教

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

あと一週間で聖金曜日です。その前に教会は常に、聖母の七つの悲しみの記念を行っています。

特に、聖ピオ十世会のシスター会そして奉献修道女は、悲しみのマリア様に捧げられているので、この記念を一級の大祝日として祝っています。教会の精神に従って、マリア様の目を通してイエズス様の御受難を黙想いたしましょう。そして、マリア様の御悲しみに与ることにいたしましょう。

なぜ、マリア様の目を通してイエズス様の御受難を見て、またマリア様のこの苦しみに与ろうとするのでしょうか。その理由を黙想することを提案します。

【1:聖母はイエズス・キリストがどなたであるかよく御存じであった】

ひとつは、イエズス・キリストがどなたであるかということを、わたしたちは深く知らなければならないからです。知れば知るほどそのご苦難の意味が分かるからです。もしもイエズス・キリストがどなたかを知らなければ、その意味が、ポイントが、わからないのです。

イエズス・キリストは、まことの天主であって、まことの人です。もしもただの人であれば、イエズス様が苦しんだ、それがいったいなんなんだ・・・。冤罪をかけられた人が二千年前に亡くなった・・・。たったそれだけで終わってしまいます。しかし、「人となった天主が苦しまれた」のであるので、そこにわたしたちにとっての意味が出てきます。

もしもイエズス様がただの天主で純粋な天主であるのであれば、主は――天主は苦しむことも死ぬこともできませんから――ただの演劇になってしまう。

しかし、イエズス・キリストはまことの天主そしてまことの人であるので、本当に苦しまれました。わたしたちよりももっと敏感に苦しまれた。なぜマリア様の目を通して御受難を見るかというと、マリア様は天主がどなたであるか、そしてイエズス・キリストがどなたであるかどのようなかたであるかということを、最高に一番よく御存じであったからです。ですから、マリア様の目を通してみることによって、わたしたちは御受難の神秘がより深く理解することができるのです。

【2:聖母の目で御受難を考える】

第二は、では、イエズス様がまことの天主であり、まことの人であったということを、マリア様がどのように見ていたのでしょうか。

天主は、永遠の昔から、永遠にかけて、無限に幸せであって、充足していて、何一つ必要とするものもない、最高のしあわせを得る、愛の天主です。この愛を、天主は、まったく自由に愛と憐れみによって、ご自分の永遠のしあわせを他のものにも分け与えたいと思いました。そして全く自由に、無から、何もないところから、被造物を造ります。天使や私たち人間を造って、そして、ご自分の無限のしあわせを永遠のしあわせを与えようとされました。ただ愛によって。もちろんそのためには、その愛を受けるためには、その天主の愛の永遠の三位一体の至福の中に入るには、わたしたち人間が被造物が真理を知り善を愛する、天主を認識して天主を愛するという能力がなければなりません。自由に愛するという能力がなければなりません。しかも、それを乱用することができるような、それほどの自由を与えなければなりませんでした。そして愛とあわれみによって、ご自分の似姿に寄せて、ご自分の肖像に似せて、わたしたちを天主の像として造られました。眼に見える被造物の世界の最高の傑作を造りました。人間です。これはわたしたちが天主のように幸せになるためでした。

しかし、人間はこの自由を乱用して愛を裏切ります。主を愛し続けませんでした。自分を愛しました。しかし、この全能の天主、無からわたしたちを愛によって造ってくださったこの天主がわたしたちのために苦しまれた、ということをマリア様はよく御存じでした。この天主は、わたしたちを天主のようにするために、天主の像に従って造ったのみならず、ご自分がわたしたちの罪を贖うために、わたしたちに代って苦しむことができるために人間となることさえもお望みになりました。そんな必然性もそんな必要も全くありませんでしたが、まったく自由に愛によってあわれみによって人間となりました。ただ単にかわいい赤ちゃんになった――この全宇宙さえもその中に入り切れない偉大なる天主が小さな赤ちゃんになったのみならず、罪によって死に苦しみそして罰を受けなければならない私たちのようになって、まったく同じに――罪以外すべて同じになって、わたしたちを天主の永遠のしあわせに導こうとさえしました。マリア様はそのことをよく御存じでした。イエズス・キリストが、まことの天主でありまことの人であり、苦しむこと、敏感に苦しむことができるということを御存じでした。

マリアさまは、この目の前で、御子が十字架の不当な宣告を受けて、そして苦しめられ、十字架につけられて、死し給うのを、目撃します。そして、そのイエズス様の御苦しみ、御痛み、御悲しみ、その天主御父から捨てられ人々から捨てられたその苦しみ、その拷問のような嘆きを、自分のものであるかのように感じ取っておられました。それと同時に、人となった天主がどれほど人間を愛しておられるかを、深く理解しました。わたしたちが察するのはほんのちょっとであって、わたしたちはただの理論でそう考えているだけかもしれませんが、しかし、マリア様はそれを現実のものとして、現前に目の前にして、それを感じ取っていました。それと同じ苦しみを、苦しんでいました。イエズス様の呻(うめ)き苦しみその声を、直接に聞いた方であるからです。イエズス様が幼いころから、どのように成長していたかを、すべてご存じの御方であるからです。

【3:聖母とともに、聖母の苦しみにおいて、主の御受難を黙想する】

では、マリア様の目を通して、イエズス様の御受難を黙想するのみならず、マリア様と共に、それをわたしたちが黙想するのはいったいなぜでしょうか。なぜかと言うと、イエズス様の愛は、ご自分が苦しむのみならず、人類のアダムとエワの愛の裏切りを、同じようなやり方で贖おうとされたからです。イエズス様はわたしたちのなかからマリア様をお選びになって、第二のエワとしてお選びになって、この二人で、わたしたちを贖おうとされたからです。それほど人類を、わたしたちを大切にされて、一緒に贖いをすることをさえも望むほどわたしたちを愛されました。マリア様は、わたしたちを代表して、イエズス・キリストとともに、第二のエワとして贖いの苦しみを――恐るべき苦しみを二人で耐え忍んだのです。

すべてはわたしたちを愛するためであり、わたしたちへの愛の現れであり、あわれみの最高の表現でした。これを見ると、このわたしたちは、イエズス様の愛の深さとあわれみの広さとその智慧の高さ、そして、それと同時に人類がどれほど愛を受けつつも主を悲しませているか、その罪の醜さに圧倒されるばかりです。

マリア様に今日はお祈りいたしましょう。マリア様の目を通して、イエズス様のあわれみと愛の贖いの業の神秘の中に深く入って、それを少しでも理解することができますように。理論だけではなくて、わたしたちもそれに参与することができますように。マリア様と同じように、マリア様と一緒になって、わたしたちも十字架のもとに佇むことができますように。わたしたちも、わたしたちの人生をわたしたちの生涯・生活を、それに添えることができるように、マリア様の特別の御取り次ぎをこい願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


旧約時代では罪のない人が守られることができた。新約では罪のある人さえも赦されることができる。イエズス・キリストが私たちの代わりに罪を贖われるから。

2024年04月09日 | お説教・霊的講話

2024年3月9日 大阪での説教

トマス小野田神父

今日の書簡は非常に長い朗読でした。書簡で読んだ内容は、罪のない裕福な男性ヨアキムの美しい妻スザンナが、まったく無罪であるにもかかわらず、偽証によって二人の老人によって告発されて、死刑を受けなければなりませんでした。そのとき、預言者ダニエルがやって来て、スザンナが無罪であることを証明して救われる、ということです。

それにくらべると福音は短いものでした。福音では、どのような事情であったのか詳しい事情は明かされてはいませんが、姦淫の罪の現行犯で逮捕された女性が、その現場で逮捕され、そしてファリサイ人たちによってイエズス様の前に連れていかれます。ファリザイ人は確かにモーゼの掟を守るというつもりでしたが、しかし同時にイエズス様を罠にかけようとしました。

イエズス・キリストはいったいモーゼの掟に反対するのか、あるいは従うのか…。律法によると、このような罪を犯した者はすぐに石殺しに死刑にならなければならない、あなたはなんというのか…。

イエズス様は
「罪がない者がまず先に石を投げろ。」
といいます。
そして、老人から始まって、誰もいなくなります。

イエズス様は、ただひとりこの罪の女と残されて、
「お前を告発した人々はいったいどこにいるのか。誰もいないのか。」
というと
「誰もいません。」
「それならわたしもおまえを告発しない。もうこれ以上罪を犯すな。」
といって赦されます。

旧約時代では、罪のない人が守られる、とするのが精一杯でした。
しかし、新約では罪のある人さえも赦され、イエズス・キリストのあわれみがあらたに明らかにされます。

だからといってイエズス様は、罪なんかどうでもいいよ、というのではありません。この四旬節にこれが読まれるのは、実はイエズス様がこの罪の女に代って、ご自分がその受けるべき罰をすべて背負って自分が受けるから、お前はその罰を免除される、だからもう罪を犯すな、とあわれみを受けるわけです。

では選善の決心を立てましょう。
わたしたちも実はこの福音の罪の女のようでした。わたしたちの霊魂は、本当なら天主を愛すべきであるにもかかわらず、それよりも被造物を、あるいは自分を選んで、その愛すべき天主に裏切りを犯してしまったからです。本来ならば、律法によると、おきてによると、わたしたちは永遠の地獄の火に永遠の死を受けるべきものでした。

しかし、イエズス様がわたしたちに代って御受難を受ける、贖いの業をしてくださったので、わたしたちの罪はそして罰は赦されました。

この現行犯で捕まった女性は今後イエズス様にどれほどの愛と忠実を誓ったことでしょう。このことを一生恩人として忘れなかったことでしょう。

ですから、わたしたちもイエズス様に、罪を赦されたことを感謝して、イエズス様にもはや罪を犯すなといわれた言葉を心に刻むことにいたしましょう。マリア様にお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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