Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

愛する兄弟姉妹の皆様、御聖体の祝日おめでとうございます!

2024年05月30日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

御聖体の祝日おめでとうございます。

大宮の聖堂では、遠くからでも足を運ばれた多くの愛する兄弟姉妹の皆様が午前7時のミサに与ることができて幸福です。

● 大阪では次の日にミサの時間の変更があります。

5月 31日 金 ミサ聖祭 10:00 <== !!! 【夕方にはミサがありません。】
6月 1日 土 ミサ聖祭 10:00 <== !!! 

 6月2日は、御聖体の荘厳祭です。次のところで次の時間に聖伝のミサがあります。

大宮:8時30分、10時30分【歌ミサの直後に御聖体行列が予定されています。】
大阪:10時30分
札幌:18時00分【午後6時】

【札幌】
「北海道青少年会館 Compass 」にて:聖伝のミサが捧げられます。愛する兄弟姉妹の皆様を全てご招待いたします。予約不要です。ワリエ神父様が司式されます。
2024年6月2日(主日)午後6時
2024年6月3日(月)午前9時

【マーチフォーライフ大阪】
2024年7月21日(主日)午後2時30分 大坂市役所前集合です。

 


三位一体の神秘:いったいなぜこのような深淵な神秘を主はわたしたちに教えてくださったのか

2024年05月30日 | お説教・霊的講話

2024年5月26日 名古屋 説教

トマス小野田神父

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、
今日は2024年5月26日、三位一体の主日です。今日、一緒に三位一体の神秘を黙想いたしましょう。
唯一の天主に三つのペルソナがまします聖父と聖子と聖霊、この神秘を黙想して、いったいなぜ私たちはこの玄義を知らなければならないのか、その意味は何なのかを黙想しましょう。最後に遷善の決心を立てましょう。

【天主は唯一なる実体】
三位一体の天主、この神秘をまず垣間見ましょう。皆さんよくご存じですけれど、もう一度黙想してみます。

わたしたちは、いまこの世に生きています。こうやって生活しています。もしもこれが嘘だと思ったら、頬を摘んでみてください。あるいは頭を引っ叩いてください。わたしたちがここにいまこうして存在しているのは確かです。嘘だと思ったらご飯を食べないでください。あるいは――壁に向かって歩いてください。頭をゴチンとぶつけたりします。……あるいはわたしたちはお腹が空いてどうしても食べねばならない……生きていることがわかります。

なぜ私たちはこうやって生きているのでしょうか。こうして私たちが生きていることの究極の原因というのは、何なのでしょうか。何がわたしたちをこうやっていま生きるようにさせたのでしょうか。その原因は何なのでしょうか。

わたしたちがいまここにいるということを説明するには、どうしても、究極の原因というものがなければなりません。そうしなければ、ここにすべてがいまここにあることが説明できないからです。この原因をずーっと究極の原因を突きとめて突きとめて突きとめて行くと、どうしても第一の原因…原因されずにただ原因する…ものがなければならない、としなければなりません。そしてわたしたちはこれを天主と呼んでいます。では、この「究極の原因」、天主と呼ばれる方はいったいどのような方なのでしょうか。これがわたしたちの問題です。

究極の原因は一です。天主というのは唯一の御方です。天主が唯一である、一(いつ)であるというときには、わたしたちが 林檎がひとつとか、柱が一本、二本というふうに数える単位としての一(いち)というよりも もっと深い意味を持っています。

それはどういうことかというと、私たちがいまこうして存在しているのは、実は天主が究極の原因として今も私たちをあらしめてくださっているからです。かといって天主はこの世の一部でもありません。部分ではありません。この世を超越したお方です。被造の世界にいかなるやり方でも、組み込まれてはいません。天主は私たちをいまあらしめて生かしてこうして動かし支えておられますけれども、この被造物をすべて超越する方で、はじめもなくおわりもない永遠の御方でいかなる変化もない方です。

なぜかというと、主は最高に完成させられた方で、そして無限の善であるからです。最高に完成させられて無限の善・最高の善ということはもうこれに並ぶものは二つとないということなのです。また、もうこれは最高の完成なのでこれ以上変わることがない、ということなのです。もしもこれが変わってしまったら、最高でもなくなるし完成でもなくなってしまうからです。ですから天主は分割されるという可能性さえもありません。天主は、この地上をこの被造をはるかに超えた聖なる方であって、分割されることができない一(いつ)なるかたであるということです。最高なので複数はありません、ただ一つしかないということです。この一なる方が、天主、最高にほんとうに一なる方です。それ以上わたしたちはもう言葉がない…そのような御方が天主です。

【三位】
ところでカトリックの教えによると、イエズス・キリストの教えによると、この唯一の天主は三つのペルソナがあると教えています。

天主が一なる方である、ということを、ラテン語の人々は、一なる実体だといっていました。ラテン語で実体というのは、substantiaです。ギリシア語ではウシア、と言います。ウシアとはどういう意味かというと「ある」という意味です。substantiaもウシアも、わたしたちが「ある」と言わなければならないものです。日本語では実体と言います。実体と物体は、言葉が似ているので、間違えないようにしてください。実体というのは必ずしも物のように目に見えるとは限りません。とにかく「ある」というものが、実体です。

確かに天主の実体、その本質、本性は唯一ですけれども、この一つの天主の本性には三つのペルソナがあります。

ペルソナというのは、ラテン語です。ギリシア語では「ヒポスタシス」といいます。この二つはどういう意味かというと、知性や意志を持った自分で存在する個別、という意味です。この天主のペルソナが三つあるというのは、御存じのとおり聖父と聖子と聖霊です。

御父というのは、唯一の天主の本質をもっている第一のペルソナです。なぜ第一のペルソナかというと、生まれずに御子を生む方であるからです。ほかの何者からもお生まれにならない方を御父と言います。そして永遠の昔からお生まれになる方を御子といいます。御父と御子とから発出する方を聖霊と言います。

御子は、御父によって「作られる」のではありません。これは異端です。御子は御父の実体から「お生まれ」になります。聖書は 特に聖ヨハネの福音は、御子のことを御言葉と言います。御子だけが、天主の本性による唯一の子“御ひとり子”です。聖ヨハネはこう言います。「天主を見た人は一人もいない。御父のふところにおいでになる御ひとり子の天主が、これをお示しになった。」(ヨハネ1:18)

なぜ「子」と呼ぶのでしょうか。なぜかというと、子を生むというのは本性を伝えるときにそういうような表現をするからです、人間が人間を生むと。でも、人間と天主では違いがあります。人間が生まれるときには子どもに親のすべてが与えられ尽くすわけではなくて、親の一部が与えられるだけです。しかし、天主は分割できないので、御父はご自分のすべてを御子に与えつくします。伝えつくします。ですから御父と御子は全く同じものを共有するのですが、しかし、違いがあります。御父は生まれないという、御子は生まれるという違いがあります、ただそれだけの区別しかありません。しかし御父と御子は、御父は御子ではありませんし、御子は御父でもありません。

聖父と聖子を一つの原理として、そこから聖霊が発出します。なぜかというと、御父と御子とは、互いに愛し合って、この愛の交流が生じるからです。聖霊は「造られる」のでもなければ、「生まれる」のでもありません。御父と御子とから「発出」します。このことを、聖霊が息吹かれる(inspiratio)ともいいます。

聖父と聖子と聖霊は、一つのペルソナではなく、一つの本性を持った三つのペルソナです。この三つのペルソナの間にはどんな違いも不平等もありません。前も後もなければ、大小の違いもありません。まったく同じ永遠、まったく同じ栄光をもっておられます。唯一の天主にこの三つのペルソナがある、いわば唯一の天主には愛し合うという愛の構造を持っている、愛による唯一の天主である、と言わざるを得ません。

これがわたしたちを愛して無から創造していま私たちを生かしてくださっている、天主の愛の昔からの――永遠の昔からの――天主の愛の命の構造です。まことの天主の神秘です。主が天主である限り、三位一体の構造をしています。三位一体以外のまことの天主はありません。この三位一体こそ、聖父と聖子と聖霊の唯一の天主こそが、わたしたちを救い 生かし愛しておられる本当の天主で、それ以外にはありません。わたしたちはこの唯一のまことの天主を礼拝して、そして知り礼拝し愛して、それに仕えているのです。

【三位一体の知識】
イエズス・キリストご自身は、私たちがこのことを知るように望んで、教えてくださいました。ヘブレオ人への手紙にはこうあります。「天主は、何度も、いろいろな方法で、昔、預言者を通じて、先祖に語られたけれど、この終わりの日には、すべてをつくられた御子を通じてわたしたちに語られた。」(ヘブレオ1:)そしてその語られたことが、秘密が、天主三位一体の命の秘密でした。

考えてもみてください、御父の懐にまします御ひとり子がわたしたちにその秘密を語ったのです。聖父と一なる御子が、できるかぎり私たちにも理解することができるように言葉をもって御業をもって昔からの閉ざされていた秘密をわたしたちに明かしてくださったのです。それを理解できるように、わたしたちに聖霊さえも送りました。

いったいなぜ、このような深淵な神秘を、主はわたしたちに教えたのでしょうか。ただ単に唯一の天主ということのみならず、“唯一の天主には三つのペルソナがあること、天主が三位一体であられる”ということを教えてくださったのでしょうか。なぜこのような高い把握しきれない神秘をわたしたちに伝える必要があったのでしょうか。なぜこれを知らせなければならなかったのでしょうか。

なぜかというと、私たちは三位一体の天主ご自身の至福に招かれているからです。天主の命に与るために創造されたからです。たとえ、わたしたちが三位一体の神秘を深く理解できなかったとしても、あるいは垣間見ることはできるけれども把握することができなかったとしても、わたしたちにはそれよりもさらに深い天主の至福に与るということのために召されているからです。

御子は、聖父の懐から来られて、御父と全く等しい天主の御言葉、御ひとり子はわたしたちのような人間となって、三位一体の神秘を教えてくださいました。主は、聖父と聖子と聖霊の御名によって人々に洗礼を授けよと命じました。わたしには全地と天と地にあるすべての権力が与えられている、行って教えよ、と。「聖父と聖子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ。」

なぜかというと、そうすることによって、わたしたちの生きているあいだにすでに、わたしたちの霊魂そして身体が、三位一体の神殿になることができるためです。三位一体がわたしたちのなかに住みそしてわたしたちが三位一体の命に与ることができるためです。

なぜでしょうか。なぜかというと、なぜそれがおのぞみかというと、わたしたちがこのあっという間に過ぎ去る地上での生命が終わったのち、この命が尽き果てたのちには、天の国に行って、まことの天主三位一体をそのままありのままに見て知りその真理と愛の交わりのなかに入ることができるためです。三位一体と同じ無限の最高度のしあわせ・最高の善を、わたしたちが受けるためです。天の遺産を天主の子どもとして受けるためです。

御ひとり子、天主御ひとり子、イエズス・キリストと同じ、そしてイエズス・キリストの兄弟になって、天主の養子となって、その三位一体の本性にあずかることができるように、わたしたちが天主のように幸せになることができるように、天主の命を生きるために、あえて三位一体の秘密をわたしたちに教えようと、できる限りのことをして教えようと、伝えようとされました。もちろん私たちの限られた言葉・限られた知性・限られたものでは、それを知り尽くすことも把握することもできません。しかし、わたしたちが将来永遠の無限のしあわせという計り知れない喜びを受けることができるようにするというためには、どうしてもこの神秘を三位一体の神秘をわたしたちに知らせて今日すでにこの地上でその命を生かす必要があったからです。

わたしたちはどれほど恵まれていることでしょうか。
御父の計り知れぬ豊かな愛に、わたしたちは、そのどれほどの愛であったかをその時に知って、感謝に絶えず、永遠に感謝してもまだ足りないと思うことでしょう。
御子イエズス・キリストがわたしたちのために人となってわたしたちが天主となることができるようにしてくださったこと、十字架の生け贄のこと、御聖体の神秘、その愛の深さにそのとき何と感謝していいかわからない、無限の時間を無限の能力でも足りないほどだと思うことでしょう。
そのとき、御父と御子から発する愛である聖霊がわたしたちに与えられたこと、御父と御子を結びつける愛のきずな聖霊、それを永遠に礼拝して、その愛をもってわたしたちは感謝することでしょう。

【遷善の決心】
では最後に遷善の決心を立てることにいたしましょう。
三位一体‥‥非常に深淵で深い崇高な神秘ですけれども、この本当の三位一体の天主まことの天主をわたしたちが知ることができたというお恵みを深く感謝いたしましょう。そしてわたしたちの心もからだもすでに三位一体の生ける神殿となったということ、三位一体の天主の子どもと養子相続された身分であるということを、そして特別の愛を降り注がれて溢れるばかり受けている愛される子どもであるということを、確認いたしましょう。

三位一体のほんとうのことを知れば知るほど、わたしたちはかたじけなく感謝に絶えません。主三位一体の本当の天主の愛を知れば知るほど今流行のエキュメニズムなどあまりにも欺瞞であって人を騙すものであることがわかります。

秋田のシスター笹川は、すでに迫害の夢のなかで、この三位一体の天主からわたしたちをそらすエキュメニズムについて警告をしています。(1974年6月10日月曜日)。

日本が生み出した何十万という数多くの、おそらく何百万という殉教者たちがいます。記録に残っていない殉教者も合わせればもう数を数えることができません。そのような殉教者たちは、この三位一体の天主--イエズス・キリストの教えた天主を信じて、血を流して、いま天の国にいてその喜びに入っています。この殉教者たちは、日本におけるわたしたちカトリック信者の歴史的な使命について訴えています。私たちも、同じ信仰を、同じ真理を、守り通さなければなりません。

残念ながら、多くの方々は、現代、カトリック信者であっても、わたしたちが大きな戦いの中にいるということを、それに気がついていません。そのことを知りません。「え?日本は平和ボケをしているといわれるほど平和のなかにいるんじゃないんですか?」とおっしゃるかもしれません。

いえ、わたしたちは、真理と嘘、善と悪という巨大な戦いの中にいま生きています。アダムとエワの時代から続く蛇が、わたしたちに嘘をついて騙そうとする、あるいは真理を信じるかどうかの戦いの中です。わたしたちは超自然の命をどうしても守り通さなければなりません。天の国にどうしてもたどりつかなければなりません。そのためにわたしたちのために特別に準備された永遠のしあわせのために、わたしたちはたたかいをしなければなりません。

世界中でいま多くの人々がそのことに目覚めています。とくに聖伝のカトリックの信仰は世界中で大きなうねりとなっています。特に若い人々が目覚めています。
 
ファチマのマリア様はわたしたちにこの三位一体の信仰に対する危機があるということをすでに警告されたようです。天使がまず三位一体を礼拝するようにと模範を示してくださいました。天使が額を地面につけて、「至聖なる三位一体、聖父と聖子と聖霊よ、我、御身を深く礼拝し奉る」、どうやって祈ればよいか教えてくださいました。あるいはファチマのマリア様は、トゥイというところで、シスター・ルチアに、三位一体のヴィジョンを示してくださいました。主がどれほどわたしたちに憐れみとそしてお恵みをくださっているかをこうして教えています。

ぜひ今日この三位一体の祝日にわたしたちの信仰を新たにいたしましょう。これ以外に天主はいません。

そしてマリア様に日本の殉教者たちに、わたしたちがこの信仰を守り通すことができるお恵みを請い求めましょう。

聖父と聖子と聖霊の御名によりて、アーメン。


ミサ全体を通じて、私たちは三位一体を繰り返し告白し礼拝する

2024年05月30日 | お説教・霊的講話

三位一体の主日―ミサにおいて

ワリエ神父 2024年5月26日

典礼は聖書の勉強の場ではありませんが、まぎれもなく「神学的場所」(locus theologicus)、つまり教義的真理の源泉です。皆さまお分かりのように、私たちは、三位一体を、ミサ全体を通じて繰り返し告白し、礼拝します。

I.十字架のしるし
唯一の天主、唯一の本性。「(天主の)御名によりて」
三つのペルソナ。「聖父と聖子と聖霊」

II.グローリア・パトリ(願わくは、聖父と聖子と聖霊とに…)
三つのペルソナ。「聖父と聖子と聖霊」

III.キリエ(主、あわれみたまえ)
キリエ―聖父
クリステ―聖子
キリエ―聖霊
同じ願い:「エレイソン―ミゼレーレ・ノビス―われらをあわれみ給え」―御稜威を三回強調します。
IV.グローリア(栄光頌)
(ルカ2章14節)→  →  →  礼拝/感謝
いと高きところには天主に栄光あれ、地上にては善意の人々に平安あれ。
われら御身をほめたたえ、御身を祝し、御身を礼拝し、御身に栄光を帰し奉る。/われら御身の偉大なる栄光のために感謝し奉る。天主なる主よ、天の王よ、全能の御父なる天主よ。
なだめ →  →  → 祈願
御独り子なる主イエズス・キリスト、天主なる主、天主の小羊、聖父の聖子よ。世の罪を除き給う御者、われらをあわれみ給え。世の罪を除き給う御者、われらの願いを聞き給え。御父の右に座し給う御者、われらをあわれみ給え。
御身は唯一の聖なる御者、唯一の主、唯一のいと高き御者、イエズス・キリストにてまします。
聖霊とともに、
聖父なる天主の栄光において。アーメン。

V.クレド(信経)
われ信ず、唯一の天主、 →  →  → 属性
全能の聖父、天と地、見えるものと見えざるもの、すべての造り主を。

また、われ信ず、唯一の主、天主の御独り子イエズス・キリストを。主はよろず世の先に聖父より生まれ、天主からの天主、光からの光、まことの天主からのまことの天主、造られずして生まれ、聖父と一体なり、すべては主によりて造られたり。→   → →  御托身/贖い

主はわれら人類のため、われらの救いのために、天より下り、聖霊によりて童貞マリアより御体を受け、人となり給えり。われらのために十字架につけられ、ポンシオ・ピラトの下にて苦しみを受け、死して葬られ、聖書にありしごとく三日目によみがえり、天に昇りて聖父の右に座し、生ける人と死せる人を裁かんために再び栄光をもって来り給う。主の国は終わることなし。

  →  →  →  内的聖化
また、われ信ず、主なる聖霊、命の与え主を。聖霊は聖父と聖子より出で、聖父と聖子とともに拝み崇められ、また預言者によりて語り給えり…

VI.スシペ・サンクタ・トリニタス(聖三位一体よ、受け給え)
司祭が手を洗ったあとのこの祈りは、至聖なる三位一体に直接向けられています。

VII.サンクトゥス(聖なるかな)
イザヤ6章3節(「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主! 全地上は主の栄光に満ちあふれる」)
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな → → 万軍の天主なる主
天と地は、主の栄光に満ちあふれる。いと高きところにホザンナ。

VIII.ペル・イプスム(彼によって)
彼(すなわち私たちの主イエズス・キリスト)によって、彼とともに、彼において、
聖霊との一致において、
すべてのほまれと栄光は、永遠に、全能の聖父、御身のもの。アーメン。

IX.プラチェアト・ティビ・サンクタ・トリニタス(聖三位一体よ、嘉し給え)
最後の祝福の直前にある閉祭の祈りは、至聖なる三位一体に直接向けられています。

X.最後の祝福
全能の天主が、あなたたちを祝福し給わんことを、
聖父と、聖子と、聖霊とによりて。

今日のミサの入祭誦の美しい言葉を繰り返しましょう。「聖なる三位一体にして分かちえぬ唯一の御者、祝せられ給え。われら主に感謝し奉る、なぜなら、主はその慈しみをわれらに与え給うたからである」。

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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