Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

皆さんは日本でのマーチ・フォー・ライフに参加されます。心から感謝します。2024年7月15日 日比谷公園に 15:00集合!

2024年07月06日 | プロライフ

マーチフォーライフ in 東京 2024年7月15日 日比谷公園に 15:00集合!主催:マーチフォーライフ委員会

そうです、皆さんは、もうすぐ日本でのマーチ・フォー・ライフに参加されます。心から感謝します。
フランスでは 2022年、23万4千件の人工妊娠中絶が行われ、2024年3月8日、私たちの大統領はこの行為を憲法に追加し明記しました。
 
しかし、私たちはあきらめません。私たちは、幼い子どもたちの命を守るための闘いを続けています。
日本では年間14万件の人工妊娠中絶が行われています。だからこそ、日本という文明社会にとって、すべての命が最初から最後まで生き、守るに値するものであることを思い出さなければなりません。
 
さあ、7月15日午後3時、日比谷公園に集いましょう。弱者を守ることは素晴らしいことなのですから。
 
7月15日(月・祝 海の日)
午後3時 日比谷公園 幸門集合  
出発は午後3時30分
弾正橋で記念写真と流れ解散の予定
 
 

天主のあわれみを得るための条件:悔い改めを促し罪を放棄させること?それとも、罪深い状況の中で安心させ慰めること?

2024年07月06日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第六の主日 ― 真のあわれみと偽りのあわれみ

ワリエ神父 2024年6月30日

「Misereor super turbam」――「私は群衆があわれでならぬ」【マルコ8章2節】。

あわれみを意味するラテン語の言葉は、「MISERI/CORDIA」、つまり、「みじめさ」と「心」という二つの単語に由来します。これは、他人のみじめさを心からあわれむことです。
私たちは天主のあわれみについてよく耳にします。「天主のあわれみ」という表現はどこにでもあります。

しかし、私たちはそれを正しく理解しているでしょうか。

エリヒ・プリープケは、有罪判決を受けた第二次世界大戦のナチス戦犯で、335人のイタリア民間人の死に責任があり、また自らが二人を射殺したことを認めていました。
しかし、彼はカトリックに改宗し、自分の罪を告白してそれを後悔し、牢獄でその罪を償いました。
2013年10月、彼は秘跡を受けた後に亡くなりました。
バチカンは、彼の葬儀を、いかなるカトリック教会でも執り行うことを禁ずるという前例のない措置を発表しました。

その数カ月前、教皇フランシスコは同性愛者について語り、こう宣言していました。「わたしが裁くことなど、できるでしょうか」。

それにもかかわらず、一人の悔い改めた戦犯はカトリックの葬儀を拒否されました。
聖ピオ十世会は、メディアからの攻撃にもかかわらず、彼の葬儀を挙行しました。

あわれみについてずいぶん多くのことを語る教皇と、あわれみのわざの一つである「死者を葬ること」を行った聖ピオ十世会とでは、どちらが真にあわれみ深かったのでしょうか。

教皇フランシスコは、常にあわれみについて語っています。しかし、教会はこれまであわれみを、そのように理解したことは決してありませんでした。そのことについて、私たちの総長は以下の一節で説明しています。」

「あわれみは、もはや、悔い改めた罪人を両手を広げて迎え入れ、その罪人を再生させ、成聖の恩寵の生活に戻すという、愛の天主の対応ではありません。あわれみは、今や、現代人の緊急の要請を満たすために必要となった、運命的なあわれみとなってしまったのです。それ以来、人は、自然法さえも尊重することができないと見なされ、そのため、このようなあわれみを受ける厳格な権利を持つこととされるのです。そのあわれみとは、もはや歴史を支配せず、自らを歴史に適応させるような天主からの、見下した恩赦のようなものになってしまっているのです。」

「(教会が)聖体拝領について、現代人が耐え難い不寛容とみなす、以前と同じ条件をもはや人に課すことができないとすれば、この論理に従うならば、唯一の現実的かつ真にキリスト教的な対処法は、この状況に適応して、聖体拝領の必要条件を再定義することになってしまうのです。カトリック信者は今、この世の道徳を採用するか、あるいは、少なくとも場合に応じて、離婚して「再婚した」カップル、そして同性カップルさえも含む現在の道徳に、道徳律を適応させることとされているのです。
このようにして、危機に瀕した霊魂は、自分の信仰の中で、励まされ、強められる代わりに、自らの罪深い状況の中で、安心させられ、慰められているのです。そうすることで、信仰の守護者は、自然の秩序さえ廃止してしまうのです。つまり、まったく何も残らないのです」(パリャラーニ神父)。

教皇フランシスコのインタビュー本「神の名はいつくしみ」(The Name of God is Mercy)を読むと、雄弁な沈黙がいくつかあるのが衝撃的です。以下のことには、一言も触れていないのです。

  • 悔悛者には、罪の償いが必要であること。
  • 聖年の贖宥で、有限の罰が赦されること。
  • 罪の機会に近づくのを避けること。
  • 死の時、天主の審判を受けること。

悔悛の秘跡のあわれみについてこれほど頻繁に扱っている本ならば、悔悛者の義務について、特に行動を改めるという固い決心の必要性や、あるいはキリストのいくつかの厳しい発言を思い起こさせることによって、厳格さに欠ける解釈を排除するような境界線についての明確な説明があることを、読者は期待していたことでしょう。

(教皇がよく使う)ユダの例を見てみましょう。ユダはただ自分を恥じていただけで、天主に対して罪を犯したことを、超自然的に悔いていたわけではありません。

悔い改めた罪人であることが、天主のあわれみを得るための条件なのです。

教皇フランシスコのあわれみの概念は、行動を改める、あるいは痛悔するという固い決心とは関係なく、赦しを得るためには信仰のみが必要だとする、プロテスタントのあわれみの概念に似ています。したがって、このインタビューを読むと、自分が罪人であることを認める人のうち、いったい誰が地獄に落ち得るのか、私たちには分かりません。ちなみに、地獄については、明示的にも暗黙にも、まったく言及されていません。(フランソワ=マリー・ショタール神父)

「もう罪を犯すな」と、キリストは福音書の中で繰り返し言われました。
ですから、私たちは痛悔の祈りでこう唱えるのです。「われ、聖寵の助けをもって、わが罪を告白し、償いをなし、生活を改めんと決心し奉る」【公教会祈祷文では、「われ、聖寵の助けをもって今より心を改め、再び罪を犯して、御心に背くことあるまじと決心し奉る」】。

福音書中の崇高な場面(例えば、姦淫の女や放蕩息子など)での救い主の無限のあわれみを強調することは重要ですが、他のすべてのより厳格な箇所を体系的に無視することは、罪や贖い、したがってさらにはあわれみについての教理において、バランスを欠いたものになってしまいます。

童貞聖マリアは、「あわれみの御母」と呼ばれています。聖母のあわれみ深い厳しさを見てください!
悔い改めの重要性について、ルルド、ポンマン、ファチマで聖母がしばしば繰り返された訴え。
・ファチマで子どもたちに示された地獄の幻視。
このすべては、「われらを地獄の火より守る」という天主のあわれみ深い計画の一部なのです。

ですから、親愛なる兄弟の皆さま、謙遜と熱意をもって、御血の連祷の次の祈りを繰り返しましょう。

われらの救霊の代価なるキリストの御血、われらを救い給え。
罪の赦しの条件なるキリストの御血、われらを救い給え。
悔い改むるものの希望なるキリストの御血、われらを救い給え。

世の罪を除き給う天主の小羊、主われらを赦し給え。
世の罪を除き給う天主の小羊、主われらの祈りを聴き容れ給え。
世の罪を除き給う天主の小羊、主われらをあわれみ給え。


聖霊降臨後第五の主日のミサ:天主への愛、すべてにおいてすべてにまさって天主を愛する。心を一つにして、互いにあわれみを示す。

2024年07月06日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第五の主日 ― 今日のミサにおける「愛」

ワリエ神父 2024年6月23日

今日のミサの中で、母なる教会は、キリスト教の徳の中で最も尊いものである愛――天主への愛と隣人への愛――を育み、大切にするよう私たちに勧めています。

この私たちの兄弟に対する愛の土台は、天主への愛です。

ですから、集祷文の中で、私たちはこう祈ります。「天主が私たちの心にこの天主への愛の火を増やしてくださり、私たちがすべてにおいて、またすべてにまさって、天主を愛することができますように」。他者への愛徳は、天主への私たちの愛の現れにほかなりません。

今日の書簡の最初の言葉は、キリストのように生きる共同生活のための計画全体を示しています。「あなたたちはみな、心を一つにせよ。互いにあわれみを示せ」。

私たちが孤立した個人としてではなく、教会という大家族との交わりの中で救いを実現することが、キリストの御旨です。私たちは一つの体を形作っており、この体の肢体として、互いに助け合います。しかし、私たちが形作っているのは、カトリック教会という一つの大きな共同体だけではありません。私たちはまた、自分たちが小教区というもっと小さな単位の一部であることも感じなければなりません。そのような意識から、個人的な徳と社会的な徳の両方に対する最高の刺激が生まれ得るのです。私たちキリスト信者は、共に祈り、共に犠牲を捧げるべきであり、互いに思いやり、互いに気遣うことで、互いに啓発し合うべきです。

また書簡の中で、聖ペトロは心の中でキリストに賛美を捧げるようにと語っています。これは隣人に対する真の愛がなければ不可能なことです。実際、私たちが天主に捧げることのできる最高の賛美は、たとえ他人が私たちに危害を加えたとしても、その他人の中におられる天主を愛することです。なぜなら、私たちは皆、キリストにおいて洗礼を受けたのであり、キリストは体全体の共通のかしらであるからです。

福音の中で、キリストは隣人愛について真剣に語っておられます。キリスト教共同体では、兄弟を憎むことは殺人に等しいものであり、天の御父は悪意を抱く子どもからは供え物を受け取られません。

聖ヨハネ・クリゾストモはこう言っています。「姦淫者や冒涜者が聖なる食卓にあずかることができるとは想像できないように、敵がいて悪意を抱く者がご聖体を受けることは不可能である。(中略)私は、すべての人がこれを聞くように、警告し、証言し、宣言する。敵がいる者には、聖なる食卓に近づかせることも、主の御体を受けさせることもあってはならない。あなたには敵がいるか。では、近づくな。あなたは近づきたいか。では、和解してから近づけ。聖なる捧げ物に触れるのは、そのあとでなければならない」。

私たちは、祭壇に捧げ物をする前に、兄弟が私たちに対して犯したすべての罪を赦さなければならないと言われています。

この愛を得る手段は、聖体拝領誦に暗示されています。「私は、一つのことを主に願い、何よりもそれを望んだ。それは、生涯、主の家に住むことである」。天主の近くに、すなわち天主の家にとどまる者は、常に天主への愛のうちに歩み、それゆえキリストにおける兄弟たちを愛するのです。

親愛なる兄弟の皆さま、天主と隣人への愛は、キリスト教に特有のものです。私たちが住んでいる異教的な環境の中で、私たちの模範を通してそれを宣べ伝えましょう。アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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