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聖体降福式は主の勝利の凱旋式である

2020年05月29日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
聖体の顕示に関する黙想
 
聖体降福式は主の勝利の凱旋式である
 
 礼拝 花やろうそく、その他多くの装飾で、凱旋門のようになった祭壇の上に、お出ましになられる勝利の主イエズスを礼拝しよう。主の凱旋を歌い、その勝利をお祝いするしるしとして、奉仕、忠純、愛を主にお誓いしよう。聖体降福式の目的のひとつは、世間と悪魔と死とを征服されたイエズスのご勝利を祝うことにほかならない。
 トリエント公会議は、聖体の祝日に慣行されていた凱旋的聖体行列の儀式を是認して、この意味を肯定した。聖体降福式は聖体の祝日の延長である。この公会議は次のように宣言している。 『毎年、特に公の祭式をもって、いとも尊い聖体を敬い、盛大な行列を挙行して町々村々の街路に聖体をお運びするのは、非常に敬虔で適当なことであるといわなければならない。一定の期日に、すべての信者がその力の許すかぎり荘厳な儀式によって、主であり、救い主なる御方に感謝と愛とをあらわすのは当然である。なぜなら、主は死に打ち勝たれた生ける証拠として、人々に天上の祝福を与えられたからである。また、これによって、不滅の真理は異端と虚偽とに対して勝利を占める。すなわち、私たちの敵対者たちは、衆人の喜びであるこのような盛観を見て恥辱にたえず、痛悔の念を起こすに至るのである』 と。
 
 されば、私たちの眼前においでになるホスチアの中にあらわれるイエズスの勝利をお祝いしよう。主の御戦い、主のご受難を回想しよう。そのすべての中で、主はいかに勇ましく、いかに完全に自分を忘れ、いかに慈悲深くおいでになるかをお思いしよう。主の用いられた武器と戦略とが、忍耐、けんそん、祈祷、受難にほかならなかったことを黙想しよう。
 主の戦いの目的は、天父の御名を敬い、御国を到来させ、ご光栄を輝かせるためであったのである。また、それは罪人を恥ずべき生活から救い出して、彼らに永遠の生命を与えるためであった。また、同時にそれは、真理をして正義と平和とのうちに統治させるためでもあった。しかし敵はなかなか頑強で、この御企てを全うされることは非常に困難であった。悪魔は世間を自分の奴隷として、その長となり、あらゆる快楽をもって堕落した人間を魅惑した。彼は手中に地上のすべての権力を握り、天主の選民を自分の手下とし、神殿を占領するまでとなった。このような時、イエズスは、かよわい幼な子となってこの世においでになり、貧しい職人として成長し、やさしい御言葉で天主の教えを説き、人々に多くの恩恵を施し、彼らの心を得られたのである。悪魔は驚いて自分の輩下の心に憎悪と呪いとを満たし、彼らをして主を襲わせ、ついに主を殺させたのである。
 けれども悪魔の勝利は結局彼の敗北であった。なぜなら、すべては、正義を償うために十字架上の死を天父に約されたことの実現にすぎなかったからである。だから、主のご死去はやがてご復活の光栄と勝利とになり、悪人たちのあらゆる努力に関係なく、主は悪魔と死と世間とを征服した勝利者となってよみがえりになったのである。この日から、主は恩恵によって現世を統治され、永遠の光栄のうちに天国を世々に限りなく統治されるのである。
 御稜威(みいつ)尊き永遠の勝利者よ、屠られた子羊に栄誉と尊貴と光栄と祝福とがあられるように。
 
感謝 キリストの勝利は、主の勝利というよりも、むしろ私たちの勝利である。ああキリストよ、祝福と感謝とを受けさせたまえ。
 
 聖体の制定は主の勝利を私たちに分けたもうためであった。聖体は強き者のパン、選ばれたキリストの兵士のパンである。聖トマがつくった聖体拝領の感謝の祈りの一節に左の言葉がある。 『聖体は信仰の武器、善意の楯、目に見えると見えざるとを問わず、いっさいの敵の罠(わな)に対する守り、かつ、われらの情欲に対する抑制と勝利とである』 と。
 もし私たちがホスチアの中においでになる勝利者と、まことに堅固な一致を営んだなら、私たちは内外のいっさいの敵に対して、どれほど強くなることであろうか。少なくとも私たちは、これまでに得た過去の勝利のすべてを聖体によって得たことを忘れてはならない。聖ベルナルドはいう。 『なんじらのうち、誰にてもあれ、おのが心中に、怒り、傲慢、邪欲などが、あるいは少なく、あるいは弱くなったことを感じたならば、聖体に向かって感謝しよう。なんじらは聖体によって、ついに最後の勝利を得ることができるのだから、どんな時にも勇気を失ってはならぬ』 と。
 
 償い もしあなたが、その御助けを仰いで十分に信頼すれば、必ず勝利を得させてくださる勝利者のみ前に出て、過去の無数の罪を嘆こう。わずかな誘惑すら、すぐあなたを倒してしまうではないか。種々な口実のもとに、いかなる弱さ、いかなる卑劣、いかなる不従順が隠されていることだろう。あなたは、なんとたやすく自分の最も醜い失敗を弁解していることだろう。
 しかも救い主が悪魔に打ち勝たれたのは、絶対の犠牲をおはらいになってのことであった。かくも尊い高価な代償を、あなたはみな空費しているのである。あなたは主の御血を汚し、ご受難、ご死去を忘れ、ご復活をむなしくした。
 また、諸国がイエズス・キリストとその教会に対して加えている迫害と攻撃とを嘆こう。教会に対するすべての迫害は、キリストが戦いによって得ることのできた勝利に対する否定であり、勝利者である救い主に対する不正であり、乱暴であり、冒瀆である。このことをよく胸におさめ、教会に対する熱愛によって、主の聖なる権利に反抗するいっさいの不義を憎むことを学ばなければならない。
 
 祈願 イエズス・キリストに仕えるために、いつもおおしく強くあるように決心しよう。主は、あとからあとからつづく勝利を占められた偉大な征服者である。主はこれによって私たちのためにも戦いが任務であることの模範を示されたのである。
 内面的な敵、すなわち家庭においても、学校においても、教会においても、社会においても、どこにあっても、戦って常に勝つためには、まず第一に内面的な戦いによって、あなたの欲望、あなたの天性を制し、あなた自身に対して絶えず戦いを仕掛けてくる悪魔と手をゆるめず戦うことに慣れなければならない。この内面的な戦いは外にはあらわれない。けれども、それは戦場にあって兵士に大勝利を得させるのに必要な、ふだんの規則正しい訓練となるのである。
 勇ましく戦おう。だがその前に、十分な力を与えられるよう主に祈ろう。あなたの武器をまず子羊の尊い御血の中にひたすことを忘れないで、『戦いて勝ちし者には隠れたる甘きマンナを与えん』 とおおせになった天主の御約束を思い起こそう。この地上の血戦で勝利を占めるなら、最上の報賞が天国であなたのものとなる。そしてまた毎日の誘惑と戦って勝つたびに、そのいくぶんかの甘味を、すでに地上で味わうのである。
 
 実行 あなたの主な欠点と戦おう。そうすれば朝ごとの聖体拝領は、あなたの勝利を飾る勲章となるであろう。











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