アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
その二、使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に生まれでるものでなければならぬ をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
二、使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に生まれでるものでなければならぬ
「あなたがたの天のおん父が、完全でいらっしゃるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マテオ5・48)
むろん、それには無限の差があるだろうが、天主のやりかたこそは、われわれ天主の子らの内的生活、および外的行為の基準であり、モデルでなければならぬ。
さて、すでにごぞんじのとおり、天主はその本性からして、“与える”ところの御者である。そして、これは経験的事実だが、天主は地上において、そのすべての被造物、とりわけ人間のうえに、あふれるばかりおおらかに、お恵みをほどこされる。あらゆる世紀を通じて、全宇宙は、天主のこの汲めども尽きぬおおらかさから、あらゆる恩恵をたまわる、天主の無限愛の生ける対象となってきた。
しかしながら、天主は、そのために、けっして貧しくはなられない。天主の無限の富、この富を被造物のうえに雨ふらそうとする天主のおおらかさ――それらはけっして“与える”ことによって、いささかも減少することはない。
天主が人類にお与えになるのは、ただ外的善ばかりではない。そのうえ、天主はその聖言を、ご自分の御ひとり子を、人類にお与えになった。
その御ひとり子を、この世におつかわしになる、という行為においても、すなわち、ご自分自身を与えることにほかならぬ、この最高のおおらかさにおいてもまた、天主はそれがために、なにものも、ご自身から失うことはない。ご自分の本性から、なにものも、失わない。したがって、ご自分の本性の完全さを、すこしもそこなわないのである。
天主は、われわれに、ご自分の御ひとり子をおわたしになっても、このおなじ御ひとり子を、いつも、ご自分のうちに保持しておいでになるのだ。天にいます御父の、この聖言の差遺と保持――これこそは、聖ベルナルドがいっているように、われわれの行為の最高の基準でなければならぬ。(聖ベルナルド『反省録』)
秘跡によって、わけても聖体の秘跡によって、イエズス・キリストは、ご自分の恩寵をもって、われわれの霊魂を富ませるために、われわれの心においでになる。
キリストは、天主の恩寵を、際限もなく、われわれの霊魂にそそぎ入れられる。キリストこそは、はてしもしらぬ恩寵の大海原であり、われわれはみな、その充満しあふれているものの中から受けて、恩寵に恩寵を加えられたのである。(ヨハネ1・16)
しかも、それがために、キリストはいささかも、貧しくはなられない。
他人の霊魂を救い、かつ聖化するという、高貴な職務にたずさわっている、われわれ使徒たる者は、天主のこのやりかたを、ある仕方で、模倣しなければならぬ。(むろん、そこには、無限に程度の差があるだろうが……)
「あなたの聖言こそは、あなたの“反省”そのものであるべきです。俗務のために、しばしばこれから離れることがございましても、これを全然放棄してはなりません」
聖ベルナルドは、教皇エウジェニオ三世にあてた『反省録』のなかで、こう忠告している。(第二部第三章)
われわれにとって、この“聖言”とは、どんなものだろうか。
――内的精神である。成聖の恩寵によって、霊魂の秘奥にかたち造られた、内的精神である。この内的精神こそは、内にもえる奮発心の流露たる、いっさいの使徒的事業を,生き生きと活気づけるものでなければならぬ。他人の救霊と聖化のために、たえまなくわが身も心も、消耗しつくすものでなければならぬ、。と同時に、間断なくキリストにお捧げする、なにかの犠牲、なんらかの方法によって、刹那ごとに、いっそう活発な生気にみなぎっていくものでなければならぬ。
われわれの内的生活は、天主的生命の強烈な、豊満な樹液に満ちみちた枝であってほしい。そして、われわれの事業は、この霊樹の枝に咲きみだれる花、自然にみのる果実であってほしい。
わたしは“使徒”である、
よろしい。りっぱなことだ。
だが、使徒だからこそ、真理の光りはまず、わたしの精神にみなぎり、天主の愛はまず、わたしの心に燃えさからねばならないのではないか。
真理の光りがまず、わたしの精神にみなぎってこそ、はじめてわたしは、他人の精神も照明することができるのではないか。
天主の愛がまず、わたしの心にもえさかってこそ、はじめてわたしは、他人の心も天主への愛に、もえたたせることができるのではないか。
わたしはそれを実際に見た、わたしの目でつらつら眺めた、わたしの手でじかにさわった。――こうして知りえたことを、他人に教える。自分の体験を、他人に伝える。こういう人だけが、“使徒”と呼ばれるべき者、使徒の名をはずかしめない者である。(ヨハネ第一の手紙1・1参照)
大聖グレゴリオ教皇もいっているように、こういう人たちこそは、自分が親しく経験した天上の甘味を、そのあふれから、他人の霊魂にそそぎ入れるのである。
以上の議論から、結論として、次のような定理をひきだすことができよう。
「観想的生活は、どうしても、活動的生活に先行しなければならぬ。活動的生活は、観想的生活を、自然に外部に流露させ、持続させるものでなければならぬ。だが、活動的生活から、観想的生活を切り離すことは、絶対にゆるされない」
歴代の教父、教会博士たちは、きそって、右の教えを力説してきた。
聖アウグスチノはいっている。「すべて、使徒たる者は、教えの言葉を発するまえに、まずおのれの乾く魂を、高く天主にあげ、したしく天主の泉から飲んだのちはじめて、その充満から、言葉を発する。まずおのれの魂を、それでいっぱいにしたのちはじめて、そのあふれから、他人の霊魂にもそそぎ入れる。こういう要領を心得ていなければならぬ。」
Priusquam exeunt proferentem linguam, dit saint Augustin, ad Deum levet animam sitientem ut eructet quod biberit, vel quod implevit dundat?
(『キリストの教え』四)
ある教父も、こういっている。「他人に分けあたえるためには、まず自分が受けなければならぬ。上位の天使たちは、下位の天使たちに、天上の光りを分けあたえるのだが、それは自分らが、天主からいただいた光の、充満しあふれでるものだけしか、あたえることはできないのだ。」
Il faut recevoir, dit le Pseudo-Denys, avant que de communiquer, et les anges supérieurs ne transmettent aux inférieurs que les lumières dont ils ont reçu la plénitude.
(偽ディオニジウス PSEUDO DION. Coel, hier., C, Ⅲ)
造物主は、天主的事物にかんして、このように普遍的な法則を定められた。すなわち、天主の恩寵を、他人に分配する使命をおびている人たちは、誰よりもさきに、まず自分自身が、天主の恩寵にあずかる、それに充満される。そのとき、そのときはじめて、おのれのあふれから、他人にもあたえることができるのである。
聖ベルナルドが、当時の使徒たちに与えた、あの有名な言葉は、読者もごぞんじだろう。
「賢い使徒でありたいのでしたら、天主の恩寵の貯水池でおありなさい。水道であってはなりません」(『雅歌についての説教』十八)
Si vous êtes sages, soyez des réservoirs et non des canaux.
水道は、もらった水をただとおすだけで、おのれのためには、一滴の水もたくわえておかない。これに反して、貯水池は、まずおのれのために、水量をいっぱいにたたえている。次に、そのたえまなく新たにあふれでる処から、田畑に水を送って、これをかんがいする。だが、そのために、からになるようなことはない。
使徒的事業に身をゆだねて、すっかり恩寵の水道になってしまい、他人の霊魂はゆたかにうるおしながら、自分はコチコチにひからびている人が、どんなに多いことか!
「こんにち、カトリック教会に、“水道”は、くさるほど多いが、貯水池はきわめて少ない」
Canales multas hodie habemus in Ecclesia, conchas vero perpaucas (St. Bernard, Serm. xviii in Cantica)
最後の文句を、聖ベルナルドは、悲しい口調で叫んでいる。
「原因は、結果よりも大なり」――とのことわざどおり、他人を聖化するためには、ただ自分自身だけを聖化するのよりも、いっそう大きな完徳が必要なのだ。聖トマスも、そういっている。
赤ちゃんに乳房をふくませる母親は、自分自身のもっている営養以上に、こどもに営養をあたえることはできない。同様に、聴罪師、指導師、説教師、伝道師、教師らは、霊の食物を、まず自分自身が摂取して、おのれに消化し同化してのちにこそ、はじめてこれをもって、教会の子どもたちを養うことができるのではないか。(聖ボナヴェントゥラの言葉)
そして、この食物とは、天主の真理、天主の愛のことである。
天主の真理と天主の愛――これらを、まずおのれに消化し同化して、ほんとうに霊魂の営養にし、他に生命を生みだす能力をあたえるもの――それはただ、内的生活だけなのだ。
愛する兄弟姉妹の皆様、
ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
その二、使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に生まれでるものでなければならぬ をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
「あなたがたの天のおん父が、完全でいらっしゃるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マテオ5・48)
むろん、それには無限の差があるだろうが、天主のやりかたこそは、われわれ天主の子らの内的生活、および外的行為の基準であり、モデルでなければならぬ。
さて、すでにごぞんじのとおり、天主はその本性からして、“与える”ところの御者である。そして、これは経験的事実だが、天主は地上において、そのすべての被造物、とりわけ人間のうえに、あふれるばかりおおらかに、お恵みをほどこされる。あらゆる世紀を通じて、全宇宙は、天主のこの汲めども尽きぬおおらかさから、あらゆる恩恵をたまわる、天主の無限愛の生ける対象となってきた。
しかしながら、天主は、そのために、けっして貧しくはなられない。天主の無限の富、この富を被造物のうえに雨ふらそうとする天主のおおらかさ――それらはけっして“与える”ことによって、いささかも減少することはない。
天主が人類にお与えになるのは、ただ外的善ばかりではない。そのうえ、天主はその聖言を、ご自分の御ひとり子を、人類にお与えになった。
その御ひとり子を、この世におつかわしになる、という行為においても、すなわち、ご自分自身を与えることにほかならぬ、この最高のおおらかさにおいてもまた、天主はそれがために、なにものも、ご自身から失うことはない。ご自分の本性から、なにものも、失わない。したがって、ご自分の本性の完全さを、すこしもそこなわないのである。
天主は、われわれに、ご自分の御ひとり子をおわたしになっても、このおなじ御ひとり子を、いつも、ご自分のうちに保持しておいでになるのだ。天にいます御父の、この聖言の差遺と保持――これこそは、聖ベルナルドがいっているように、われわれの行為の最高の基準でなければならぬ。(聖ベルナルド『反省録』)
秘跡によって、わけても聖体の秘跡によって、イエズス・キリストは、ご自分の恩寵をもって、われわれの霊魂を富ませるために、われわれの心においでになる。
キリストは、天主の恩寵を、際限もなく、われわれの霊魂にそそぎ入れられる。キリストこそは、はてしもしらぬ恩寵の大海原であり、われわれはみな、その充満しあふれているものの中から受けて、恩寵に恩寵を加えられたのである。(ヨハネ1・16)
しかも、それがために、キリストはいささかも、貧しくはなられない。
他人の霊魂を救い、かつ聖化するという、高貴な職務にたずさわっている、われわれ使徒たる者は、天主のこのやりかたを、ある仕方で、模倣しなければならぬ。(むろん、そこには、無限に程度の差があるだろうが……)
「あなたの聖言こそは、あなたの“反省”そのものであるべきです。俗務のために、しばしばこれから離れることがございましても、これを全然放棄してはなりません」
聖ベルナルドは、教皇エウジェニオ三世にあてた『反省録』のなかで、こう忠告している。(第二部第三章)
われわれにとって、この“聖言”とは、どんなものだろうか。
――内的精神である。成聖の恩寵によって、霊魂の秘奥にかたち造られた、内的精神である。この内的精神こそは、内にもえる奮発心の流露たる、いっさいの使徒的事業を,生き生きと活気づけるものでなければならぬ。他人の救霊と聖化のために、たえまなくわが身も心も、消耗しつくすものでなければならぬ、。と同時に、間断なくキリストにお捧げする、なにかの犠牲、なんらかの方法によって、刹那ごとに、いっそう活発な生気にみなぎっていくものでなければならぬ。
われわれの内的生活は、天主的生命の強烈な、豊満な樹液に満ちみちた枝であってほしい。そして、われわれの事業は、この霊樹の枝に咲きみだれる花、自然にみのる果実であってほしい。
わたしは“使徒”である、
よろしい。りっぱなことだ。
だが、使徒だからこそ、真理の光りはまず、わたしの精神にみなぎり、天主の愛はまず、わたしの心に燃えさからねばならないのではないか。
真理の光りがまず、わたしの精神にみなぎってこそ、はじめてわたしは、他人の精神も照明することができるのではないか。
天主の愛がまず、わたしの心にもえさかってこそ、はじめてわたしは、他人の心も天主への愛に、もえたたせることができるのではないか。
わたしはそれを実際に見た、わたしの目でつらつら眺めた、わたしの手でじかにさわった。――こうして知りえたことを、他人に教える。自分の体験を、他人に伝える。こういう人だけが、“使徒”と呼ばれるべき者、使徒の名をはずかしめない者である。(ヨハネ第一の手紙1・1参照)
大聖グレゴリオ教皇もいっているように、こういう人たちこそは、自分が親しく経験した天上の甘味を、そのあふれから、他人の霊魂にそそぎ入れるのである。
以上の議論から、結論として、次のような定理をひきだすことができよう。
「観想的生活は、どうしても、活動的生活に先行しなければならぬ。活動的生活は、観想的生活を、自然に外部に流露させ、持続させるものでなければならぬ。だが、活動的生活から、観想的生活を切り離すことは、絶対にゆるされない」
歴代の教父、教会博士たちは、きそって、右の教えを力説してきた。
聖アウグスチノはいっている。「すべて、使徒たる者は、教えの言葉を発するまえに、まずおのれの乾く魂を、高く天主にあげ、したしく天主の泉から飲んだのちはじめて、その充満から、言葉を発する。まずおのれの魂を、それでいっぱいにしたのちはじめて、そのあふれから、他人の霊魂にもそそぎ入れる。こういう要領を心得ていなければならぬ。」
Priusquam exeunt proferentem linguam, dit saint Augustin, ad Deum levet animam sitientem ut eructet quod biberit, vel quod implevit dundat?
(『キリストの教え』四)
ある教父も、こういっている。「他人に分けあたえるためには、まず自分が受けなければならぬ。上位の天使たちは、下位の天使たちに、天上の光りを分けあたえるのだが、それは自分らが、天主からいただいた光の、充満しあふれでるものだけしか、あたえることはできないのだ。」
Il faut recevoir, dit le Pseudo-Denys, avant que de communiquer, et les anges supérieurs ne transmettent aux inférieurs que les lumières dont ils ont reçu la plénitude.
(偽ディオニジウス PSEUDO DION. Coel, hier., C, Ⅲ)
造物主は、天主的事物にかんして、このように普遍的な法則を定められた。すなわち、天主の恩寵を、他人に分配する使命をおびている人たちは、誰よりもさきに、まず自分自身が、天主の恩寵にあずかる、それに充満される。そのとき、そのときはじめて、おのれのあふれから、他人にもあたえることができるのである。
聖ベルナルドが、当時の使徒たちに与えた、あの有名な言葉は、読者もごぞんじだろう。
「賢い使徒でありたいのでしたら、天主の恩寵の貯水池でおありなさい。水道であってはなりません」(『雅歌についての説教』十八)
Si vous êtes sages, soyez des réservoirs et non des canaux.
水道は、もらった水をただとおすだけで、おのれのためには、一滴の水もたくわえておかない。これに反して、貯水池は、まずおのれのために、水量をいっぱいにたたえている。次に、そのたえまなく新たにあふれでる処から、田畑に水を送って、これをかんがいする。だが、そのために、からになるようなことはない。
使徒的事業に身をゆだねて、すっかり恩寵の水道になってしまい、他人の霊魂はゆたかにうるおしながら、自分はコチコチにひからびている人が、どんなに多いことか!
「こんにち、カトリック教会に、“水道”は、くさるほど多いが、貯水池はきわめて少ない」
Canales multas hodie habemus in Ecclesia, conchas vero perpaucas (St. Bernard, Serm. xviii in Cantica)
最後の文句を、聖ベルナルドは、悲しい口調で叫んでいる。
「原因は、結果よりも大なり」――とのことわざどおり、他人を聖化するためには、ただ自分自身だけを聖化するのよりも、いっそう大きな完徳が必要なのだ。聖トマスも、そういっている。
赤ちゃんに乳房をふくませる母親は、自分自身のもっている営養以上に、こどもに営養をあたえることはできない。同様に、聴罪師、指導師、説教師、伝道師、教師らは、霊の食物を、まず自分自身が摂取して、おのれに消化し同化してのちにこそ、はじめてこれをもって、教会の子どもたちを養うことができるのではないか。(聖ボナヴェントゥラの言葉)
そして、この食物とは、天主の真理、天主の愛のことである。
天主の真理と天主の愛――これらを、まずおのれに消化し同化して、ほんとうに霊魂の営養にし、他に生命を生みだす能力をあたえるもの――それはただ、内的生活だけなのだ。