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ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させる 二、使徒的事業は内的生活のあふれから自然に生まれでるものであるべき

2018年01月31日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第二部 活動的生活と内的生活を一致結合させること
その二、使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に生まれでるものでなければならぬ
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

二、使徒的事業は、内的生活のあふれから自然に生まれでるものでなければならぬ


 「あなたがたの天のおん父が、完全でいらっしゃるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マテオ5・48)
 むろん、それには無限の差があるだろうが、天主のやりかたこそは、われわれ天主の子らの内的生活、および外的行為の基準であり、モデルでなければならぬ。
 さて、すでにごぞんじのとおり、天主はその本性からして、“与える”ところの御者である。そして、これは経験的事実だが、天主は地上において、そのすべての被造物、とりわけ人間のうえに、あふれるばかりおおらかに、お恵みをほどこされる。あらゆる世紀を通じて、全宇宙は、天主のこの汲めども尽きぬおおらかさから、あらゆる恩恵をたまわる、天主の無限愛の生ける対象となってきた。

 しかしながら、天主は、そのために、けっして貧しくはなられない。天主の無限の富、この富を被造物のうえに雨ふらそうとする天主のおおらかさ――それらはけっして“与える”ことによって、いささかも減少することはない。
 天主が人類にお与えになるのは、ただ外的善ばかりではない。そのうえ、天主はその聖言を、ご自分の御ひとり子を、人類にお与えになった。
 その御ひとり子を、この世におつかわしになる、という行為においても、すなわち、ご自分自身を与えることにほかならぬ、この最高のおおらかさにおいてもまた、天主はそれがために、なにものも、ご自身から失うことはない。ご自分の本性から、なにものも、失わない。したがって、ご自分の本性の完全さを、すこしもそこなわないのである。

 天主は、われわれに、ご自分の御ひとり子をおわたしになっても、このおなじ御ひとり子を、いつも、ご自分のうちに保持しておいでになるのだ。天にいます御父の、この聖言の差遺と保持――これこそは、聖ベルナルドがいっているように、われわれの行為の最高の基準でなければならぬ。(聖ベルナルド『反省録』)

 秘跡によって、わけても聖体の秘跡によって、イエズス・キリストは、ご自分の恩寵をもって、われわれの霊魂を富ませるために、われわれの心においでになる。
 キリストは、天主の恩寵を、際限もなく、われわれの霊魂にそそぎ入れられる。キリストこそは、はてしもしらぬ恩寵の大海原であり、われわれはみな、その充満しあふれているものの中から受けて、恩寵に恩寵を加えられたのである。(ヨハネ1・16)
 しかも、それがために、キリストはいささかも、貧しくはなられない。
 他人の霊魂を救い、かつ聖化するという、高貴な職務にたずさわっている、われわれ使徒たる者は、天主のこのやりかたを、ある仕方で、模倣しなければならぬ。(むろん、そこには、無限に程度の差があるだろうが……)

 「あなたの聖言こそは、あなたの“反省”そのものであるべきです。俗務のために、しばしばこれから離れることがございましても、これを全然放棄してはなりません」
 聖ベルナルドは、教皇エウジェニオ三世にあてた『反省録』のなかで、こう忠告している。(第二部第三章)

 われわれにとって、この“聖言”とは、どんなものだろうか。
 ――内的精神である。成聖の恩寵によって、霊魂の秘奥にかたち造られた、内的精神である。この内的精神こそは、内にもえる奮発心の流露たる、いっさいの使徒的事業を,生き生きと活気づけるものでなければならぬ。他人の救霊と聖化のために、たえまなくわが身も心も、消耗しつくすものでなければならぬ、。と同時に、間断なくキリストにお捧げする、なにかの犠牲、なんらかの方法によって、刹那ごとに、いっそう活発な生気にみなぎっていくものでなければならぬ。
 われわれの内的生活は、天主的生命の強烈な、豊満な樹液に満ちみちた枝であってほしい。そして、われわれの事業は、この霊樹の枝に咲きみだれる花、自然にみのる果実であってほしい。
 わたしは“使徒”である、
 よろしい。りっぱなことだ。
 だが、使徒だからこそ、真理の光りはまず、わたしの精神にみなぎり、天主の愛はまず、わたしの心に燃えさからねばならないのではないか。
 真理の光りがまず、わたしの精神にみなぎってこそ、はじめてわたしは、他人の精神も照明することができるのではないか。
 天主の愛がまず、わたしの心にもえさかってこそ、はじめてわたしは、他人の心も天主への愛に、もえたたせることができるのではないか。
 わたしはそれを実際に見た、わたしの目でつらつら眺めた、わたしの手でじかにさわった。――こうして知りえたことを、他人に教える。自分の体験を、他人に伝える。こういう人だけが、“使徒”と呼ばれるべき者、使徒の名をはずかしめない者である。(ヨハネ第一の手紙1・1参照)

 大聖グレゴリオ教皇もいっているように、こういう人たちこそは、自分が親しく経験した天上の甘味を、そのあふれから、他人の霊魂にそそぎ入れるのである。
 以上の議論から、結論として、次のような定理をひきだすことができよう。
 「観想的生活は、どうしても、活動的生活に先行しなければならぬ。活動的生活は、観想的生活を、自然に外部に流露させ、持続させるものでなければならぬ。だが、活動的生活から、観想的生活を切り離すことは、絶対にゆるされない」
 歴代の教父、教会博士たちは、きそって、右の教えを力説してきた。

聖アウグスチノはいっている。「すべて、使徒たる者は、教えの言葉を発するまえに、まずおのれの乾く魂を、高く天主にあげ、したしく天主の泉から飲んだのちはじめて、その充満から、言葉を発する。まずおのれの魂を、それでいっぱいにしたのちはじめて、そのあふれから、他人の霊魂にもそそぎ入れる。こういう要領を心得ていなければならぬ。」
Priusquam exeunt proferentem linguam, dit saint Augustin, ad Deum levet animam sitientem ut eructet quod biberit, vel quod implevit dundat?
(『キリストの教え』四)

 ある教父も、こういっている。「他人に分けあたえるためには、まず自分が受けなければならぬ。上位の天使たちは、下位の天使たちに、天上の光りを分けあたえるのだが、それは自分らが、天主からいただいた光の、充満しあふれでるものだけしか、あたえることはできないのだ。」
Il faut recevoir, dit le Pseudo-Denys, avant que de communiquer, et les anges supérieurs ne transmettent aux inférieurs que les lumières dont ils ont reçu la plénitude.
(偽ディオニジウス PSEUDO DION. Coel, hier., C, Ⅲ)

 造物主は、天主的事物にかんして、このように普遍的な法則を定められた。すなわち、天主の恩寵を、他人に分配する使命をおびている人たちは、誰よりもさきに、まず自分自身が、天主の恩寵にあずかる、それに充満される。そのとき、そのときはじめて、おのれのあふれから、他人にもあたえることができるのである。

 聖ベルナルドが、当時の使徒たちに与えた、あの有名な言葉は、読者もごぞんじだろう。
 「賢い使徒でありたいのでしたら、天主の恩寵の貯水池でおありなさい。水道であってはなりません」(『雅歌についての説教』十八)
Si vous êtes sages, soyez des réservoirs et non des canaux.

 水道は、もらった水をただとおすだけで、おのれのためには、一滴の水もたくわえておかない。これに反して、貯水池は、まずおのれのために、水量をいっぱいにたたえている。次に、そのたえまなく新たにあふれでる処から、田畑に水を送って、これをかんがいする。だが、そのために、からになるようなことはない。
 使徒的事業に身をゆだねて、すっかり恩寵の水道になってしまい、他人の霊魂はゆたかにうるおしながら、自分はコチコチにひからびている人が、どんなに多いことか!
 「こんにち、カトリック教会に、“水道”は、くさるほど多いが、貯水池はきわめて少ない」
Canales multas hodie habemus in Ecclesia, conchas vero perpaucas (St. Bernard, Serm. xviii in Cantica)
 最後の文句を、聖ベルナルドは、悲しい口調で叫んでいる。

 「原因は、結果よりも大なり」――とのことわざどおり、他人を聖化するためには、ただ自分自身だけを聖化するのよりも、いっそう大きな完徳が必要なのだ。聖トマスも、そういっている。
 赤ちゃんに乳房をふくませる母親は、自分自身のもっている営養以上に、こどもに営養をあたえることはできない。同様に、聴罪師、指導師、説教師、伝道師、教師らは、霊の食物を、まず自分自身が摂取して、おのれに消化し同化してのちにこそ、はじめてこれをもって、教会の子どもたちを養うことができるのではないか。(聖ボナヴェントゥラの言葉)

 そして、この食物とは、天主の真理、天主の愛のことである。
 天主の真理と天主の愛――これらを、まずおのれに消化し同化して、ほんとうに霊魂の営養にし、他に生命を生みだす能力をあたえるもの――それはただ、内的生活だけなのだ。

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