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白衣の主日の説教:永遠の命を信じます

2023年04月20日 | お説教・霊的講話

白衣の主日の説教:永遠の命を信じます

レネ神父 2023年4月16日 大阪

親愛なる兄弟の皆さん、

永遠の命を信じます。

この、使徒信経の最後の箇条は、私たちの主の御復活によって証明されています。死は、命の終わりではありません。死は、「この」命の終わりに過ぎません。しかし、私たちの霊魂、私たちの精神は、それ以降も存在し続けて、世界の終わりに、再び私たちの体と結び合わされるのです。私たちの主イエズス・キリストは、福音の中で何度も永遠の命を約束されました。そして主は、ご自身の御約束を実現なされ得ることを、その栄(は)えある御復活によって、証明されたのです!

人がどのような人生観を持っていても、死は難しい問題です。この世での私たちの人生の目的は何でしょうか?過ぎ去ってしまうような喜びは、すべて、いささかむなしい、まやかしに過ぎません。私たちは、その喜びが永遠に続くことを望みますが、それが不可能であることを知っています。地上の喜びが永遠に続くことはあり得ませんし、私たちが死ぬ前にもう終わってしまうこともよくあるのです。そこで、世俗的な人たちは、こう結論づけます。それなら、この地上での快楽を、今できる間に、できるだけ楽しもう、明日はもう楽しめないかもしれないから。この人たちは、まさに、預言者イザヤを大いに悲しませたことを言っているのです。「人々は、たのしみ、よろこび、牛をころし、羊ののどを切り、肉をくい、ぶどう酒を飲んでいた。『食おう、のもう、あすは、死ぬのだから。』」(イザヤ22章13節)

そして、この世俗的な態度は、愚かなものです。このような人たちが、まるで動物のようにこの世の快楽に身を任せているまさにその時、その快楽が過ぎ去るものであるという、まさにその事実に悲しみを覚え、またそれに加えて、自分自身の罪の重荷を積み上げてしまっているからです。「万軍の主は、私の耳に、こう、おおせられた。『たしかに、この罪は、つぐなわれない、あなたたちが、死ぬまで。』」(イザヤ22章)

この世の物事を、慎みなく急いで楽しもうとする人たちは、しばしば、その愚かな行為の最中に倒れるのです。それは、私たちの主が、ファリザイ人にこう言われた通りです。「ある金持ちがいた。畑が豊かに実(みの)ったので、その人は心の中で『さてどうしよう。作物をおさめる所がないが・・・』と考え、『ではこうしよう、倉をこわしてもっと大きいのを建て、そこに穀物と財産とをみなおさめよう。そして、自分の霊魂に向かって、霊魂よ、おまえはもうこれから長い年月をすごせる多くの財をたくわえたから、休め、飲め、食べよ、楽しめ』といった。ところが、天主は、その人に、『おろかな者よ、あなたの霊魂は、今晩よびもどされるのだ。すると、あなたのたくわえたものはだれのものになるのか』とおおせられた。」(ルカ12章16-20節)私たちは、私たちに死が訪れる日も、時間も知らないのです。

また他の人たちは、地上の喜びを追い求めますが、その喜びはいつも逃げ去ってしまうのです。過ぎ去ってしまう喜びを求めれば求めるほど、その喜びは彼らのもとから、もっと速く逃げ去ってしまうのです。そのような人生も、おろかで、無駄なものです!

賢人はこう言いました。「死が遅くないことを忘れるな」(集会14章2節)死が来るのが遅くないとは、死がすぐに来ること、私たちが思っているよりも早く来るということです!

財産と権力をもっていたソロモンは、自分の人生の終わりが近づいた時、それを思ってこう結論づけました。「空(むな)しいことの空(むな)しさ、とコヘレットはいう、空(むな)しいことの空(むな)しさ、すべては空(むな)しい。」(伝道1章2節)「私は、この世でおこなわれることを、じっと見きわめたが、すべては空(むな)しいことで、風を追うに似ていた。」(伝道1章14節)「私は心のなかで自分にこういった。『さあ、快楽を味わいにくるがよい、幸福を味わうがよい』、だが、これも空(むな)しいことだ。」それは、無駄で、むなしく、まやかしで、そのために生きるには値しないものです。

天主との友情から離れる時間はすべて、永遠に失われてしまいます。

天主は、私たちをこの地上に永遠にいるようにされたのではなく、この地上で、天主とともにある天国の永遠の喜びを得るための功徳を積むようにされたのです。この地上での本当の喜びとは、この天国での喜びを求めて歩むことにあります。それは、聖パウロがこう言った通りです。「希望の喜びをもて。」(ローマ12章12節)これこそがこの地上での本当の喜び、キリストとともに天国への道を歩む喜びであって、その道は、私たちの主イエズス・キリストご自身です。主は、「道であり、真理であり、命」です。(ヨハネ14章6節)これが、天主との友情の喜び、永遠の命の本当の始まりです。

すでに旧約において、自らの罪をまことに悔(く)いて、正しく聖なる生活を送る悔い改めた人に、永遠の命が約束されています。「もし、悪人が、おかした罪から身をひき、私のおきてを守り、正義と公正とを実行するなら、その人は、生きのび、ふたたび死ぬことはない。…かれが反省して、おかした悪をしりぞけるなら、かれは、生きのびて、ふたたび死ぬことはない。」(エゼキエル18章21節、28節)「悪人[ではあったが悔い改めた者]が、借金のかたを返し、ぬすんだものを返し、悪をおこなわずに、私のいのちの定めを守るなら、かれは、かならず生きて、もう死ぬことはない。」(エゼキエル33章15節)そして、イザヤはこう言います。「あなた以外の神が、自分によりたのむもののために、これほどのことをされたと、耳にきいたこともなく、目でみたこともない。」(イザヤ64章4節)また、ダヴィドはすでにこう歌っていました。「主よ、あなたのいつくしみは深い!あなたをおそれる人々のために、あなたはそれを備(そな)え、あなたにより頼む人々のために、それを貯(たくわ)える、人の子らの前で。」(詩篇30篇20章)そしてまた、「あなたに身をよせる者は喜び、いついつまでも喜びを味わう。あなたのご保護によって、喜びおどれ、み名を愛する人々よ。」(詩篇5篇12章)

しかし、この約束がさらにずっと明確になるのは、新約においてです。旧約聖書の中では、「永遠の命」という表現は4回出てきますが、新約聖書の中では、41回も出てくるのです!私たちの主イエズス・キリストは、御聖体のことについて話されたとき、永遠の命と肉身のよみがえりを、三度もお約束になりました。「私の父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな、永遠の命をうけさせ、終わりの日に私がかれらを復活させることである。」(ヨハネ6章40節)「私をおつかわしになった父がおよびにならないかぎり、だれ一人私のところには来られない。私は、終わりの日に、その人々を復活させよう。」(ヨハネ6章44節)「私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し、終わりの日に、その人々を私は復活させる。」(ヨハネ6章55節)

私たちの主のみ言葉に、よく注意してください。「私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し」ということは、その人は、霊魂において、今すでに、その永遠の命の始まりを持っているということです。そして、「終わりの日に、その人々を私は復活させる。」ですから、あきらかに二つの命があります。体の命と、霊魂の命です。霊魂は、成聖の恩寵の状態にあれば、この地上ですでに永遠の命の始まりをもっており、善を行った人々の体はこの世の終わりに復活し、そして永遠の命を有することになるのです。(罪をもったまま死んだ人々は、「審判の復活のため」、つまり排斥されるためによみがえり、自らの罪の報いを、永遠に地獄で受け続けることになります。)

体は、霊魂と結びついているときは生きています。霊魂は、天主と結びついているときは生きています。死んでも、成聖の恩寵の状態にある霊魂は、天主と一致しつづけ、この命は、もはや体の制約をうけず、至福直観へと至ります。(それは、もし完全にその準備ができていれば、すぐにですが、小罪のけがれがいささかでも残っていれば、それを浄(きよ)めるため、またもし負債が残っていればそれを返すために、煉獄で一定の期間を過ごしたのちになります。)

この永遠の命の約束は、私たちの主が、他の多くの箇所でも、私たちに与えてくださいました。「私の名のために、家や、兄弟や、姉妹や、父や、母や、子や、田畑をすてる人は、みな、その百倍のものをうけ、永遠の命をうけつぐであろう。」(マテオ19章29節)「モイゼが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もあげられなければならない。それは、信じるすべての人が、かれによって永遠の命をえるためである。天主はおんひとり子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡(ほろ)びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ3章14-16節)「私の羊は私の声をききわけ、私にしたがい、私もかれらを知っている。私はかれらに永遠の命をあたえる。かれらは永遠に亡(ほろ)びず、そして私の手からだれも、かれらをうばえない。」(ヨハネ10章27-28節)私たちの主イエズス・キリストは、最後の審判を、このみ言葉で締めくくられます。「そして、これらの人[つまり悪人]は永遠の罰をうけ、義人は永遠の生命にはいるであろう。」(マテオ25章46節)

そして、聖パウロはこう言います。「天主の正しい裁きは、…おのおのの業(わざ)にしたがって報い、根気よく善業をおこなって、光栄と名誉と不滅を求める人々には、永遠の生命を、お報いになる。」(ローマ2章5-7節)「罪から解放された今、天主の奴隷となって、聖徳の実を結んだ、その果ては永遠の命である。」(ローマ6章22節)「霊にまく人は、霊から永遠の命を刈り取る。」(ガラティア6章8節)そして、ティモテオに対して、聖パウロはこう言います。「信仰のよい戦いを戦え。あなたがそのために召された永遠の生命をとらえよ。」(ティモテオ前6章12節)

最後に、聖ヨハネがもっとも明確に述べています。「そしてかれ自身が私たちに約束されたことは、すなわち永遠の命である。」(ヨハネ第一書簡2章25節)「その証明とは、天主が私たちに永遠の命をあたえられたこと、その命がみ子にあることである。み子をもつ者は命をもち、天主の子をもたない者は命をもたない。私が、以上のことを、天主の子の名を信じるあなたたちに書いたのは、あなたたちに永遠の命があることを知らせるためであった。」(ヨハネ第一書簡5章11-13節)

親愛なる信者の皆さん、これらすべての驚くべき約束に強められ、勇気をもって、熱烈に、天国への道を進みましょう!罪のくびきをすべて切り、「天に宝をつみ」(マテオ6章20節)ましょう。喜びをもって徳を実践しましょう。徳には、報い、永遠の命という無限の報いがあるからです!

初期のキリスト教徒たちは、このことがたいへん良くわかっていたので、拷問や死を怖れませんでした。私たちの主イエズス・キリストが永遠の命という報いをくださることを知っていたので、主をあかしするために、自分の命をすすんで捧げたのです!これこそが、長崎の殉教者たち、そして日本のすべての殉教者たちの信仰でした。

これはすべて、私たちの主イエズス・キリストの恩寵の実です。主は、私たちが罪から離れ、まことに痛悔し、生き方を変えるよう、助けてくださいます。私たちが徳を実行するのを助け、私たちを強めてくださいます。主は、私たちの模範、私たちの贖(あがな)い主、私たちの王、私たちを命の水への道に導いてくださる私たちの善(よ)き羊飼いです。そして、主が、天国における私たちの喜びです。

まさに、この永遠の命が、天主の至福直観、栄光の光です。「主よ、天にはあなたの愛、あなたの真実は、雲に及ぶ。あなたの正義は天主の山、あなたの審(さば)きは、深淵(しんえん)のようだ。…天主よ、あなたの愛は尊い!そこで、人の子は、あなたの翼にかくれる。かれらは、あなたの家の油に酔い、あなたのよろこびの流れにうるおされる。実に、あなたには、命の泉があり、あなたの光において、われらは、光を見る。」(詩篇35篇6-10章)

聖ヨハネは、これについて、またこのようにも書き記しています。「かんがえよ、私たちは天主の子と称されるほど、おん父から、はかりがたい愛を与えられた。私たちは天主の子である。この世が私たちを認めないのは、おん父を認めないからである。愛するものたちよ、私たちはいま、天主の子である。のちにどうなるかは、まだあらわれていないが、それがあらわれるとき、私たちは天主に似たものになることを知っている。私たちはかれをそのまま見るであろうから。主が清いお方であるように、主にたいするこの希望をもつ者は清くなる。」(ヨハネ第一書簡3章1-3節)

すでにこの永遠の命をおもちの童貞聖マリアと天国の全ての聖人たちが、その祈りと模範とによって、私たちが、天に栄光をもってしろしめしておられる、「私たちの信仰の創始者であり、完成者である」(ヘブライ12章2節)私たちの主イエズス・キリストを見据えて、堅い決意をもって天国への道を歩むことを、助けてくださいますように。アーメン。



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