Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】【ヴィガノ大司教】IN AZYMIS SINCERITATIS(清さの種なしパン):御復活の主日の説教

2023年04月20日 | 聖伝のミサの予定

【参考資料】IN AZYMIS SINCERITATIS(清さの種なしパン):御復活の主日の説教

2023年4月9日(主日)

IN AZYMIS SINCERITATIS: Homily for Easter Sunday

カルロ・マリア・ヴィガノ

Fratres: Expurgate vetus fermentum
ut sitis nova conspersio, sicut estis azymi.
Etenim Pascha nostrum immolatus est Christus.
Itaque epulemur: non in fermento veteri,
neque in fermento malitiæ, et nequitiæ:
sed in azymis sinceritatis et veritatis.

兄弟たちよ、あなたたちは新しい練り粉になるために、
古いパン種を取り除かねばならぬ。
あなたたちは種なしパンだからである。
私たちの過ぎ越しの小羊であるキリストは、すでにいけにえとなられた。
では、古いパン種ではなく、
悪意と邪悪のパン種でもなく、
清さと真理の種なしパンを用いて祝いを行おう。
コリント前書5章7-8節

現代世界は、嘘の人質になっています。エリートによって理論化され、制度によって肯定され、メディアによって宣伝されるものは、すべて嘘であり、虚偽であり、欺瞞です。

サイコパンデミックの緊急事態は嘘です。すべては、健康に有害なのと同じくらい効果のない集団ワクチンを接種させるために、実験室で作られたウイルスのせいです。ジェンダー論は嘘です。創造主が意図された男女の区別を否定し、人間における天主の像と似姿を取り消そうとします。気候変動は嘘です。人工的な気候危機という偽りの前提に基づくものであって、また、特定の国々の二酸化炭素排出量を削減することで地球の温度を最小限に変えることができるという、さらなる偽りのキメラ【想像上の怪物】に基づくものです。ウクライナ危機は嘘です。ロシア連邦に対する理不尽な制裁によって、欧州諸国の社会的・経済的基盤を破壊するために引き起こされたものです。アジェンダ2030は嘘です。人類を奴隷化するために破壊転覆者集団によって押しつけられているものです。覚醒(Woke)イデオロギーは嘘です。新世界秩序(New World Oder)という地獄の宗教とグレート・リセットの野蛮さを押し付けるために、私たちのアイデンティティー、私たちの歴史、私たちの信仰を取り消しを引き起こすものです。

最も懸念されるのは、諸国民に対するこの詐欺行為(諸国民を保護し擁護すべき権力者たちによって長く行われているもの)が、教会組織にも感染していることです。そこでは、同様に深刻な虚偽が信仰の純粋さを腐敗させ、天主の御稜威(みいつ)を傷つけ、主が多大の犠牲を払った末にいと尊き御血で買い取られた多くの霊魂の滅びを引き起こしています。エキュメニズムは嘘です。生ける真の天主を諸民族の偶像のレベルにまで貶めるものです。シノドスの道は嘘です。天主の民に耳を傾けるという偽りの口実のもとに、キリストが意図された教会の神聖な構造を破壊しているものです。典礼改革は嘘です。ミサを信者に理解しやすくするという口実で導入され、天主から名誉を奪って異端者を喜ばせることだけを意図しているものです。女性助祭は嘘です。女性に役割を与えるという口実をもってミサと秘跡を攻撃し、私たちの主によって制定された聖なる品級の秘跡を改ざんするものです。離婚して同棲しているカップルがご聖体を受けることができるというのは嘘です。同性愛の結合を祝福することは嘘です。神学校に性転換者が入学することができるというのは嘘です。ベルゴリオがどう言おうとも、道徳はその時々の流行に従うものではありません。同性愛行為を受け入れることは嘘です。あわれな罪人の霊魂を救うのというよりもむしろ、多くの高位聖職者や聖職者の行為を正当化しようと望んでいるように見えることが、あまりにも頻繁にあります。

これらの嘘は、合理的あるいは信頼できる論拠を欠いた明らかな虚偽として、図々しくも表に出て来ています。これらの嘘は、何かを不器用に隠そうとするための嘘ではなく、改ざんをしたり、論理を転覆させたり、真実を否定したりするための傲慢な宣言なのです。

しかし、なぜ多くの人々が自らの批判的判断を放棄して、露骨な嘘を合理的で真実であるものとして受け入れることを進んで選択するのでしょうか。なぜなら、誤謬に固執することは、この世が自らの崇拝者たちに、つまり、疎外され、犯罪者にされ、迫害されることを望まない人々に対して求める代償だからです。ところで、嘘の父であり、初めから殺人者だったサタンでないとするならば、嘘のかしらはいったい誰だというのでしょうか。サタンは、私たちの最初の父祖を、「この実を食べれば、神々のようになれる」という、これ以上ないほど図々しい嘘で誘惑しました。これは図々しい虚偽であり、これを信じることによってアダムとエワは理性を捨てて、忌まわしい被造物【サタン】が行った偽りの約束に従うために、天主に背くことを選択したのです。

サタンが砂漠で私たちの主を誘惑したときに主に約束した「このすべてをあなたにやろう」というのも嘘でした。何故なら、キリストがすでにその【「このすべて」の】主人であっただけでなく、すべての創造主でもあったからです。

私たちの主イエズス・キリストの死からの御復活を祝うこの最も聖なる日のミサの書簡の中で、使徒パウロは「古いパン種を取り除く」(Expurgate vetus fermentum)ようにと勧めています。古代のパンの作り方に詳しい人なら誰でも知っていることですが、小麦粉と水を混ぜて発酵させたものが母生地であり、これを発酵させたままにしておくと、パン種の塊となります。母生地は何十年も保存でき、定期的に新しい粉と水で練り直すことで、今日のパンは、過去にさかのぼる昔のすべてのパンと実質的につながっています。しかし、fermentum(発酵物)がvetus(古いもの)であれば、発酵物が古いものであれば、これは、新しい生地や新しいパンに影響を与えます。古いパン種を取り除くことが意味するのは、最初からやり直し、個々の霊魂と社会の体の真の「グレート・リセット」を成し遂げ、悪意と倒錯のパン種を取り消し、種なしパンで新しく始めることです。その種なしパンは、キリストが教会と交わした新しい永遠の契約の「聖なるエウカリスティアにして御聖体」のかたどりであり、恩寵のうちに新しくなり、時代、流行、状況の変化に左右されないものなのです。

このため、聖パウロはアジムス(azymus)、すなわち、種なしパンのことを語っています。質素(austerity)なパン、母生地を生きたまま保存する時間がない人のパン、エジプトの地を捨て紅海を渡る前に、傷のない小羊と苦菜を食べるために腰の帯を締めて準備する人のパンです。リセット、新創造、新しい過ぎ越しは、唯一無二の欠くことのできない永遠の真理、永遠の御父の生ける真の御言葉であるキリストにおいて成就されます。真のリセットとは、キリストの真理に、ご自身のことを「私は道であり、真理であり、命である」と言われたお方の真理に立ち返ることです。真理は、存在します。それに対して誤謬には存在がありません。真理は、私たちの側に清さを要求します(in azymis sinderitatis 清さの種なしパン)が、それは真理(et vertatis 真理)の光に対して必要とされる応答として要求するのです。

天主の猿まねをする者であるサタンは、分別のある人なら誰でもそのようなもの【模倣物】だと認識する奇怪なものに従事することで、グロテスクに創造を模倣します。サタンは、さらにグロテスクに贖いを模倣し、自分にとって未知である善、自分自身が最初に所有してはいない善を人に約束し、その見返りに、人がサタンを神として認めるように求めます。私たちは、サタンのこの法則をそのままに認識すべきであり、それを拒絶し、それに対して戦うべきです。

私たちが真理のために(神学的な真理だけでなく、あらゆる真理[真実]のために)戦うなら、私たちはキリストの側に、使徒たちにご自分の死と復活を告知なさったときに嘘をおつきにならなかったお方の側に身を置くことになります。

そうではなく、私たちが真理のために戦わないことを選択するなら、あるいは誤謬が宣言されるのを許すか、自らそれを広めるなら、私たちは嘘のかしらであるサタンの側に、つまり約束をしてそれを守らない者の側に身を置くのです。サタンが嘘をつく唯一の目的は、私たちを滅びの深淵に引きずり込むため、つまり、サタン自身が、傲慢の罪――自らが天主の座に就いて、何がそうであって何がそうでないのか、すなわち、何が真理で何が嘘か、何が善で何が悪か、何が美しくて何が醜いかを決めることができるなどと思いあがった罪――を犯したときに、彼が自ら選択した同じ滅びの深淵に私たちを陥れるためです。実際、私たちが真っ逆さまに突っ込んでいる地獄のような世界は今日、嘘と悪意と醜さでできています。それ以外のものではあり得ません。

サタンがこの世のかしらと呼ばれるのは偶然ではありません。彼は王ではなく、彼の力ははかないものであって、それが天主によって許されるのは、試練の期間が終わり、審判の瞬間が訪れるまでです。それは、サタンのしもべたちにとっても同じことです。たとえ彼らの力が私たちを圧倒するように見えても、彼らの思い通りになる手段が限りなく圧倒的なものであるように見えても、キリストがその普遍的な御国を取り戻されるとき、彼らの終わりは容赦なく近づいています。「天主は速やかに治められるべし」(Oportet illum regnare. コリント前書15章25節)、それが起こることが必要であり、それは天主のご意志による秩序であり、誰も、すべての地獄を合わせても、見かけ上の悪の凱旋を一瞬たりとも長引かせることはできません。

わずか2日前、私たちは最高法院(サンヘドリン)の策略、群衆の騒動、処刑人の拷問を経て、主の御受難と死の神秘を観想していました。アリマタヤのヨゼフや敬虔な婦人たちとともに、私たちは命なきイエズスのご遺体に墓所まで同行しました。私たちは、教会のむき出しの沈黙の中で祈り続けました。しかし、「Consummatum est」は、「すべてが失われた」という意味ではなく、むしろ「すべてが成就した」、つまり、「贖いのわざが成し遂げられた」という意味なのです。

Χριστὸς ἀνέστη(クリストス・アネスティ)は、「キリストはよみがえり給えり」というギリシャ語の復活祭の挨拶です。この挨拶に対して、「Ἀληθῶς ἀνέστη(アリトース・アネスティ)――まことに主はよみがえり給えり――Surrexit Dominus vere」という応答がなされます。そのἀληθῶς(アリトース、まことに)、そのvere(まことに)には、救い主の御復活という現実、すなわち、人にして天主であるお方の御あわれみが、サタンの嘘によって引き起こされたアダムの罪を償うという歴史的出来事の真理が含まれています。サタンは、偽りの証人によってキリストを告発したときに嘘をつき続けたのであり、今日でも贖いの実を挫こうとして嘘をついています。

今日、Exsultetの荘厳な歌声が御復活の栄光を告げた後、死と罪に対するキリストの凱旋、サタンに対するキリストの勝利をお祝いしましょう。また、神秘体の運命は、その天主なるかしらが、いにしえの蛇を十字架に釘付けになさった瞬間に定められたのですから、教会とキリスト教文明が地上の敵に勝利したこともお祝いしましょう。Mors et vita duello, conflixere mirando:Dux vitæ mortuus, regnat vivus.(死と命は、驚くべき決闘を行い、命の主は死しても、生きて治め給う)。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2023年4月9日
主の御復活の主日
Dominica Paschatis, in Resurrectione Domini

英語版 IN AZYMIS SINCERITATIS: Homily for Easter Sunday

イタリア語版 Mons. Viganò, Omelia di Pasqua. Il Mondo Moderno e la Menzogna.



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。