テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
天主である聖体
聖体は永遠の天主である
礼拝 うやうやしく祭壇の下にひれ伏し、今朝のミサ聖祭の間に聖別されたばかりの聖体を礼拝しよう。聖体は非常にもろいものである。人の目にはパンとしか見えない。そよ風にもてあそばれる木の葉よりもかよわく、少し手あらく取り扱うとすぐにこなごなにこわれてしまうほどである。しかし、ただしばらくの間、祭壇上にお宿りになる聖体も、実は永遠の天主でおいでになることは、誤りない真理の御言葉の上に建てられた教会の信仰であるから、あなたはかたくこれを信じなければならない。
聖体は永遠である。なぜなら、それは、はじめにあったみ言葉、天主の御もとにあったみ言葉、天主にましますみ言葉、それによって万物が成ったみ言葉であるからである。
聖体は永遠である。なぜなら、それは『万物のはじめ』にして『われと父とは一なり』とおっしゃったイエズスご自身であるからである。
しかも永遠のしるしは聖体の中に明らかにあらわれている。いったい永遠とは何か。またその特性は何であるか。永遠とは、完全な生命の全き所有である。すなわち過去も未来もなく、常に変わらない現在であることである。そこには継続も、形成も、変化も、減少もない。常に所有される全き生命、はじめなく、限りなく、終わりない無限の生命が永遠である。
では私たちは聖体の中に何を礼拝するのか。今はいつも、世々においでになる、人となられたみ言葉である。そこには主の天主性と永遠の完徳とがあって、私たちはそれにより、それにかたどられて天主の子としての生命を受けるのである。また、そこには地上のご生涯、ご苦難、ご死去の功徳を分けて、絶えずよい模範をお示しになる主の人性がある。この人性は、今は光栄の中にあって、私たちに天国の光栄の先験とそれに至るために必要な恩恵をお与えになるのである。このように聖体の中には人となりたもうたみ言葉の歴史的過去と、到着された天国の光栄とがあり、聖体こそすべての奥義の焦点である。このように見るとき、聖体はその中にひそんでおられるイエズスの永遠性をよく表現しているのではないだろうか。
次にこのかよわい外観の中にあって、聖体はいつも同一である。最後の晩餐(ばんさん)に際して、救い主の御手、救い主の御言葉、救い主のみ心からお出になったときと等しく、ホスチアの陰に隠れて生きた天主は常に自分に来る者を生かし、恩寵を与え、あわれみに満ち満ちていらっしゃるのである。人が去って国が滅びる現世の栄枯盛衰をよそに、聖体はいつも変化しない。また聖体は過去において絶えず異端の攻撃の的、不敬、冒瀆、迫害の対象であったが、しかし常にあらしをしずめ、聖会の運命をささえ、世の希望を保ちたもうたのである。かよわく見える聖体のこの驚くべき永遠性こそ、実に永遠の天主の光栄であり、実証でなければなんであろう。
だから礼拝しよう、永遠の聖体を。過ぎ去ることのない天主なる聖体を。そして今から自分の生命を主にささげ、主に仕え、主をあがめよう。
感謝 聖体の永遠性についての黙想は、山あいに湧く清水が汲んでも尽きないように、あとからあとから流れ出る限りない感謝の源である。
聖体は永遠であるから不変である。私たちはこの不変の御あわれみに、私たちのはかない望み、変わりやすい意志、弱い徳行、定まりのない生涯をすべておまかせすることができる。
だから万物はみな一瞬にして過ぎ去る『存在』の有為転変の旋風の中にあっても、また、人生の勤労、希望、愛情、保証などことごとく押し流す『時』の激流の中にあっても、私たちは安心して聖体にたより、これに私たちの生命の小船をつないでおくことができる。
聖体は永遠であり、永遠の恵み、宝、希望を私たちに与える。救い主はこれを永遠の生命のパン、すなわち私たちを死から救い、天主のいのちそのものを与え、私たちを永遠に生かす天よりのパンと呼びたもうた。それは、このパンが私たちの生命を完全なもの、私たちの勤労を不変なものとし、私たちの善業に最後までの忍耐を賦与するからでなくてなんであろうか。また、これを食する者が、在天の諸霊のために用意された永遠の幸福の所有と歓喜との幾部分かを分け与えられるからでなくてなんであろうか。
ああ、人生の暴風雨に難破した人々よ、『時』の力に打ちひしがれ、過ぎ去ってしまうものに失望し、永遠につづくものを求める人々よ、あなたのまなこを天にあげよ。そして聖体の中に永遠を発見し、聖体を拝領して、きょうから永遠に至るまであなたの住まいを主の中につくろう。
償い かよわい者のためにかよわいものとなりたもうた永遠無窮の天主のみ前で、私たちはいかに永遠のものを評価しているか、またいかに永遠に対して準備しているかをまじめに糾明しよう。
無限が有限にまさり、永劫(えいごう)が刹那(せつな)にまさり、実体が陰影にまさり、生命が死にまさっていると同じく、永遠が『時』にまさっていることは、あまりにも明らかである。
私たちが造られた理由、私たちの仕事、私たちの勤労の目的は、永遠の幸福の獲得にある。私たちの終極の目的は知識でもない。財産でもない。その他、健康、友情、生命などでもない。これらを捜し求め、これらに執着し、これらに依頼することは至愚といわなければならない。たった一日の所有を終わりない所有と交換することは愚かさ以上の愚かさである。
しかしながら他方において、私たちが永遠の生命を所有することができるのは、『時』の中に営まれる仕事、ぎせい、功徳によるのである。だから時間を浪費し、永遠の幸福を築きあげるために仕事を怠り、むなしく一日を過ごす者はわざわいである。もし、主のみ旨に従い、恩恵によって生きるなら、寸時であっても永遠の実を結び、私たちの幸福と光栄との原因となるであろう。だから、結局、私たちの永遠は私たちの手中にあるわけである。私たちが恩恵の勧めに従い、主のみ旨のお命じになるままに、境遇から生じるもろもろの義務を、毎日毎日、毎時間毎時間、忠実に尽くすか尽くさないかによって、私たちが幸福になるか不幸になるか、永遠の生命を得るか永遠の死にはいるか、天国に行くか地獄に陥るかが定まるのである。
永遠のために時間の中に造られた天主の被造物よ、永遠のはかりで万事を測るように。そうすればあなたはまじめに、賢明に、注意深く、天主を恐れて生きるであろう。これが信者の生活の土台である。
祈願 恩恵を熱心に請い求め、永遠の真理についてたびたび黙想しよう。そしてできるならば聖体のみ前でこれをしよう。これによってあなたは黙想の楽しみを解し、たやすくこれを実行できるようになるであろう。あなたがもし永遠の価値を知りたいなら、聖体中にとどまっていられる救い主は、永遠をあなたに与えようとして、お忍びになった十字架上の御恥辱、ご苦難、ご死去を、あなたに思い起こさせてくださるであろう。そしてすでに光栄の中におはいりになったにもかかわらず、再び聖体の卑しい外観のもとにこの世においでになったのは、やはりあなたに永遠の生命を確保するためにほかならないことをお教えになるであろう。
では永遠の生命を得るために、生命のパンによって力づけられ、主のみ前で働き、また苦しもう。
実行 一週間のうち少なくとも一度は永遠の価値について黙想しよう。