Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちがこの地上で実際的に物理的に捧げる最も大きなものは、ミサ聖祭です。私たちをすべて捧げる最高の程度は若い青年男女が天主の奉仕のために人生を捧げることです。

2023年02月15日 | お説教・霊的講話

2022年11月6日主日 サマース管区長様 説教 東京

『チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ。』

神父様、そして親愛なる信徒の皆様、
数年の後にここに戻ることができてとても嬉しく思います。

特に、新しく開設された修道院、暁の星修道院に来ることができて嬉しく思います。修道院は日本にとって特別のお恵みです。特に修道院には二人の司祭が常駐しており、そして毎日の朝のミサが昇る太陽とともに捧げられています。これは皆さんにとってそして日本に住むすべての人にとっての特別のお恵みです。

新しい修道院が開設されるというのは、私たちにとっていつも希望の徳を思い出させてくれます。
カトリック信仰を持っている私たちは、いつも希望に満ちていなければなりません。では、希望の徳とは何でしょうか。

希望の徳というのは、私たちが天主から完璧な至福、完璧な幸せに到達することができる、助けを得ること、そしてそれに必要な手段をすべて得られることができる、という信頼です、希望です。
ちょうど信仰と愛徳がそうであるように、希望の徳も洗礼を受けた時に私たちの霊魂に注がれます。
希望の徳は、私たちに自然を超越して、自然を超えるものを希望させます。

私達の天主なる救い主によって約束されたものを私達が受けるという希望に満たされていましょう。天主には不可能な事はありません。この希望の徳は、私たちに今日読んだ福音へと導いてくれます。

主は私たちに命じられました。チェザルにはチェザルに、つまり政府に為すべきことは政府に、そして天主に属するものは天主に返せ、と。

このチェザルに対する義務と天主に対する義務とでは、天主に対する義務が優位性を持っています、優先します。ですから、もしも権威が、当局が、真の天主を信じてはならない礼拝してはならないと言った時に、私たちは従うことができません。なぜかと言うと、私たちには天主に礼拝を捧げる義務があるからです。

私たちは天主に二つのものを捧げなければならない、ということを今日考えましょう。
もちろん私たちは天主にすべてをいただきました。全てをしなければなりませんが、そのうちの特に二つの最も本質的なことを申し上げます。

主は創造主であって、贖い主であって、私たちが持っているすべての良いもの・善の与え主です。
では、全てを受けた私たちは、どうやったら どのようにしたら 主に全てを返すことができるのでしょうか。

私たちのこの地上で持つとても貴重なものは私たちの命です。しかし天主は私たちの命を捧げることは、お望みになっていません。私たちの死を望んではおられません。しかし、創造の最初から人類は天主に命を維持させるもの、このたとえば食べ物などを捧げました。また、私たちのこの地上に生きる間、時間も天主への奉仕として捧げることができます。

個人的にも、あるいは家族でも、あるいは国家としても、これを捧げることができます。最も高いレベルのでは修道召命、天主に人生を捧げるということも可能です。生命を維持するもの、あるいは時間を捧げるということは、天主に捧げることができる最も高度のものです。

また、この私たちがこの地上で実際的に物理的に捧げる最も大きなものは、ミサ聖祭です。この地上で存在しうることができる最も価値のあるものは、私たちの主のカルヴァリオでのいけにえです。このいけにえは社会的な共同体によって捧げられます。私たち個人は、私たちの持っている最も良いものを、このミサ聖祭に捧げるために持参しなければなりません。ですから、ミサでの歌あるいは奉仕あるいは装飾などを、最高の物を捧げなければなりません。ミサのために最もふさわしい場所、あるいは立地条件が最高のものである必要があります。最も本質的なものは、私たちのペルソナの人格的な私たち自身をお捧げすることです。

この私たちをすべて捧げる最高の程度は、モデルは、先ほど申し上げたように、若い青年男女が天主の奉仕のために人生を捧げることです。

そこで私たちは、この二つの事、つまりミサ聖祭と召命について、真剣に考えなければなりません。特に私たちがこの二つの事によって、本当に客観的に天主のものを天主に捧げたかどうかを測る物差しとなります。

私たちは、時には痛みを感じながらも、私たちは天主に最高のものを捧げているだろうか、私たちはこれで満足しても良いのだろうか、まだすべきことはあるのではないか、と考えなければなりません。

日本に常駐している司祭には この二つのことについて、さらによくさせる義務があります。
この国に住む男性も女性も、この二つの事に関してもっとよくする義務があります。
祈りとそして感謝と、そして私たちの犠牲の心がますます寛大になるように、お祈りいたしましょう、この寛大さは天主から戴くことができます。

これら全てを、私たちは天主の御摂理に依存して天主の御摂理に従わなければなりません。
天主は、私たち人類の知恵、あるいは懸命さを使われます。あるいは時には人間の失敗やあるいは悪意さえも使われます。天主には使われることができないものは一切ありませんし、天主には全てがおできになります。

そこで、二人の司祭と、わたくし管区長も、前進するようにと今考えています。このミサ聖祭を捧げるにふさわしい場所が与えられるようにと、この特別の意向を持っています。

それは、私たちの主が御聖櫃のうちから統治して、そして命ずることができる、おおやけの開かれた場所のことです。全ての人が、大祝日そして平日にそして毎週主日に与ることができる場所です。私たちの力の及ぶ範囲で、ミサを捧げることができる最善の場所のことです。

私たちは理性を持っている被造物ですから、ミサを捧げる場所は私たちの家よりも美しくなければなりません。これはどの時代のカトリック信者も理解していたことです。カタコンベの迫害の時代が終わった後に、ローマの上流階級があるいは中流階級がしたことは、自分の家を天主に捧げて、それを教会に変えました。

特にこれは私たちに大きな教訓を与えてくれます、特に寛大であるという教えです。ミサに対する寛大さ、また召命に対する寛大さです。

主に、ただ最高の場所をお捧げするのみならず、私たちの持っている最高の青少年、最も優れた若い人々を、主の奉仕のためにお捧げいたしましょう。

この日本では100万人以上の方々が毎年亡くなっています。その亡くなる方のうち何人が、成聖の恩寵のうちに亡くなるのでしょうか。私たちの祖国、私たちの同胞を本当に愛徳で愛するために、私たちは何ができるでしょうか。

もしも日本の列車が正確に時間正しく早く運行したとしても、もしもその列車が永遠の滅びへと霊魂を運んでいるのであれば一体何の意味があるのでしょうか。

私たち自身の救い、たとえば司祭であれ平信徒であれ、私たち自身の救いは、他の霊魂達の救いに結びついています。もしも他の霊魂達を救うことができなければ、私たちにその責任が問われます。

ミサのいけにえ、そして召命のいけにえという二つのものを捧げることによって、私たちは多くの方の救霊のために貢献することができます。こうすることによって、私達は天主のものを天主に返すことができます。

マリア様に、そしてすべての聖人たちに、この二つの計画・この事業を助けてくださいますようにお祈りいたしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によって、アーメン 。



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