テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より
人である聖体
聖体は友である
礼拝 まさに、主は私の友である。私はこれを知り、これを信じている。主は明らかに、私にこのことを告げ、私もたびたび、はっきりと、それを感じたのではないか。ああ、イエズスよ、御身はいと高き者の御子、わが創造主、私の天主でおいでになるのに、しかも、私の友であって私たちが御身に、『友』の名を呈し、まことの友、確実な友、忠実な友、あらゆる時の友、謙遜で愛深い友として主を敬い、もてなし、お愛しすることをお望みになるのである。
しかし、友情は、相互的なものである。私たちが主の友とならなければ、主は私たちの友となることができない。そうして主はこの聖なる友情、友という名、主を友としてお愛しするための恩恵、主と私たちとがまことの友であるという信じがたい名誉、これらを、最後の晩餐の時、聖体を制定されたあとで私たちに与えられた。それはちょうど、特にこの秘跡の中で、主が私たちの友でおいでになることを教えられたようであった。また、聖体拝領によって、私たちが主の友となり主を、愛することができる者、主を愛するのに足る者とされ、この秘跡のうちに、この友情をあらわす機会と適当な方法とがあることを教えられたようであった。『われ、もはやなんじらをしもべと呼ばじ、われはなんじらを友と呼べり、これ、すべてわが父より聞きしことをことごとくなんじらに知らせたればなり』と。
さて、友としての親しい交わりが成り立つためには、三つの条件が必要である。それは、一、同等の地位、二、共同生活、三、霊魂の一致である。
まず、あまり地位の違った人々の間に親交はありにくい。しかし、もし偉大なる者が、卑しい者の地位にまで身を落とし、その人のために何ごとをもいとわない決心をするならば、そこに確実で永続的な交わりが始められる。
ああ、イエズスよ、まことの友イエズスよ、御身は私たちの友となるために、私たちのような者となり、私たちのように貧しく、種々の苦しみを知る者となられた。いや、御身は私たち以上に貧しく、私たち以上に迫害されたのである。また、この理由のためにだけ、いっさいの栄誉を捨て、しもべのように私たちに仕え、私たちのものとなって、聖体の秘跡のうちにおいでになるのである。
さて、友たるために次に大切なことは共同生活である。すなわちできるかぎりいっしょにおり、できるかぎりたびたび会うようにし、喜びも悲しみもとに分けることである。ああ、まことの友なるイエズスよ、御身はこのためにだけ、常に私たちの中にとどまり、御身の食卓に私たちを招いて、私たちが絶え間なく御身に祈ることを望まれるのではないか。御身が私たちの悩みを慰めて、私たちの重荷を担ってくださるのもこのためである。『すべてわれに来たれ、われなんじらを回復せしめん。』
最後に親しい交わりは、霊魂の一致を欲し全力を尽くしてこれを求め、できるかぎり親密になることを希望する。したがって完全な友情の理想、その休息と幸福とは、全き絶対の一致である。ふたりがひとりとなるところに友情の極致は存するのである。しかしこれは、私たちの努力をもってしては不可能で、主ひとりだけ、私たちの希望を実現し、私たちの欠乏を補うことができるのである。第一に私たちは、成聖の恩恵によって神聖である生命を主とともにわかち、主とひとつになる。『なんじ、わがうちにあり、われ、なんじのうちにあり。』 次いで聖体拝領によって、この一致が深められ、愛の火の中で完成される。聖体拝領は私たちが主の御からだを食して、これを私たちのからだとすることではない。むしろ、これによって私たちが主の一部分となることである。『わが肉を食し、わが血を飲む人は、われにとどまり、われもまたこれにとどまる。』
イエズスよ、私は、主の御胸の上にわが疲れたこうべを憩わせ、いとも忠実でやさしい友の心の愛の鼓動を聞き知ることができる。イエズスよ、まことの友情の源、まことの友情の模範、また保証でいらっしゃるイエズスよ、私は、主を拝し、み足のもとにひれ伏して、主をすべての友人中の最良の友としてお選びしよう。
御身はいかに愛すべく、またうるわしき者よ。いとも愛すべきわが友よ。 『わが愛する者は、わが望むもののすべてにして、かつ、わが友なり。』
相互いに愛するふたりの友が、すべてを忘れて親しく語るように、私もまた、すべての被造物に忘れられて主だけを求め、主にだけ私の秘密を打ち明け、心の望むままに主とともにいることができるなら、いかに幸いであろうか。イエズスよ、御身は私の唯一、真実の友、幾万の中から選びあげた最善の友であり、わが永遠の喜びでいらっしゃる。
愛する友よ、御身が聖体の秘跡をもって、ご自分を私たちに与え示してくださる愛に報いるには、わが心を御身にささげ、できるかぎり御身と一致する以外に方法がない。『なんじ、われとともにあることを望むがゆえに、われ、なんじとともにあらん』との御言葉に、私は『主よ、とどまりたまえ、われ心を尽くして、主とともにあらんことを望む』と答えるであろう。
感謝 どうしたならば、聖なるイエズスに、十分に感謝したてまつることができるだろうか。主が私たちに与えられる友情は、私たちにとって大きな光栄、強力なる助け、確実なささえ、困難に際しての同情であるだけでなく、私たちと隣人との交情の模範、その保証、またそのための恩恵である。友情は人間の最も尊い宝のひとつである。いにしえの知者キケロは、『友情は、私たちにとって、水や火よりもたいせつである。知者を除くなら、友情より尊い神々の賜物はない。人間の生活から友情を取り除くことは世界から太陽を取り去るのと等しい』といった。しかも、友情に対するこれら人間の賛美に加えて、天主はいと高き権威をもって、次のようにおおせになった。『ひとりの忠実なる友は、力強き防御なり。それを見出だせし人は、宝を見出だせしなり。』『ひとりの忠実なる友に比ぶべきものは何ひとつあらず。金銀をいかに積むとも、かのすぐれたる忠誠に比ぶれば価値なきがごとし。』『忠実なる友は、生命と不滅との香油なり』と。
それなら天主の御子が、単に私たちの救い主、私たちの主人、私たちの指導者となることのみに満足なさらず、私たちの忠実な友となろうとお望みになったことについて、私たちはどれほど、主に感謝したらよいだろうか。
イエズスよ、御身は、私たちの忠実な友にまします。ペトロが天主の御子を証したときにも、また彼が天主の御子を否んだときにも、主は同様にペトロの友でいらっしゃった。ラザロが栄えていたときにも、彼が死んでしまったあとにも、主は同様にラザロの友でいらっしゃった。使徒であるユダにも、裏切り者のユダにも、主はやはり同一の友であった。私たちもまた、なにかしらこれによく似たことを経験する。すなわち、私たちが主をお愛ししないときにもまた、私たちは、私たちを愛し保護し恵みをくださるところの感ずべき不変のイエズスの愛を身に受けたおぼえがあるはずである。
『まことの友は、良き日にも、悪しき日にも常に友を愛し、困難な時には常にもまして友の兄弟となる』と聖書にもある。イエズスの友情に対してあなたが負う大きな感謝の負債をお返ししよう。
償い イエズスが私たちの友となろうとお望みになり、その無上の名誉と測り知れない御恵みと、何ものにもまさった宝とを与えられるとき、無に等しい被造物は、天主の愛の極致、筆にも口にも尽きぬ謙遜に対して、いったいどのようにふるまっているだろうか。主が、おそれおおくも友と呼んでくださる人々の背信、主と同じ屋根の下に住む人々の忘恩、主とともに天のパンを食し同じ杯で尊い御血を飲んだ人々の虚偽は、主の聖心をお痛めする新たな源、特別の苦味でなくて何であろう。
あなたは、ユダの背信を嘆かれた主の聖心の御悲しみと御憂いとを知っているはずである。『われを売りし者の、もしわがかたきなりせば、われこれを忍びしならん。されど、なんじはわれと同じ心をもちし者、ともに父なる天主の家に住み、相ともに楽しき愛を語りし友なれば、いかで、われなんじを忍びえんや』と。
聖体拝領のその瞬間に、自分を敵の手にわたそうと企てる裏切り者のいるのを知って、この聖なる友イエズスの聖心は、どんなに打ちのめされ、わななき、お悲しみになったことであろう。『わが食卓にて食せし者、われを倒さんとて、われに向かいてきびすを上げたりとあり』と、そむかれたイエズスは悲しげに叫ばれた。
この愛すべき友にとっての最大の悲しみは、私たちが主の友のように装って、主を裏切り、悪魔の手に主を売り渡すことである。最後の晩さんにあたって、ユダは、主に接吻したが、この接吻こそ主を裏切り、主を悪魔に売りわたし、主を冒瀆する合図であった。
裏切られた聖心、蔑(さげす)まれた聖心、悩みに裂かれた聖心、侮辱と悲しみに砕かれた聖心に同情しよう。
主は愛の力によって不忠実な私たちの心を呼び戻そうとお試みになって、忍耐して沈黙のうちに迫害を忍ばれるのである。
私たちは聖体に対して、友としての義務を尽くしているかどうか、これをよく糾明しよう。食卓をともにし、快楽と幸福とをわかっても、艱難(かんなん)の日には身をひく者が多い。あなたはイエズスに対して、このような友ではなかっただろうか。
あなたはイエズスが、あなたの友であることをかたく信じ、主に対して友の務めをことごとく果たさなければならないことを知っているだろうか。主に対するあなたの愛情は活発で誠実だろうか。あなたは主を最上の友として愛しているだろうか。あなたは主に対して完全な信頼をもっているだろうか。それとも主のみ旨を疑うようなことはなかったか。あなたは再び主を訪問するが、主におめにかかり、主と語る必要を感じているだろうか。主の食卓への御招きに、できるだけたびたび応じているだろうか。
最後にあなたは、人間的愛情の慰め、幸福、誘惑の中にあっても、やはり主に忠実であろうか。当然、主の分である第一の場所を主のために心中に用意しているだろうか。あなたは主がすべての点で、いとも愛される唯一の友、完全な信頼に価し、心おきなく自分の心のすべてをささげなければならない友であることを常に覚えているだろうか。
私たちは、ただ主のためにだけ、広く人々を愛することができる。しかし、イエズスだけは、イエズスのためにお愛ししなければならない。すべて人間的な友情は、イエズスとの盟なる友情によってささえられ、加減され、整理されていなければ、たびたび、危険なものとなり、あるいは最も嫌わなければならないことさえある。これらの点について、よくあなた自身を糾明せよ。私たちの霊魂の中では、愛は最も重要な地位を占めている。しかし、それは必ずしも統御しやすい感情ではない。あなたの心をできるかぎり注意して守るがよい。それは、心は生命の源であるからである。
祈願 死に至るまで、聖にして生きた友情をもって、あなたの友イエズスと結ばれることを請い願おう。あなたのために自分の生命までも捨てられたこの友以上に、大切な友がほかにあるだろうか。
しかし、あなたが最も友を必要とするのは、臨終の時、すなわち、わずかに残った力を奮い起こして、病と自分とに対して最後の決戦をしなければならない臨終の苦悶(くもん)の時である。そして、その時こそ、まことの友である主だけが生命と不死との良薬をあなたの枕べに携えておいでになるのである。主の御からだと御血との秘跡、来世への旅の糧(かて)である聖体だけが、主のまことの友情のしるしである。だからあなたは今後、どれいのようにただ恐怖のためではなく、またしもべのようにただ利益のためではなく、まことの友として主のみ旨に従い、主をお愛しする決心をしよう。
この愛によってあなたは主に関するいっさいの事がらに敏感となる。熱心に主のお考えに注意し、主の聖心にかなうことだけを楽しみとし、一心に主のために働き、主が困難にお会いになるときには主を慰め、世界の救霊の大事業のために主に協力したてまつろう。
最後に、特にイエズスの友である司祭のために、特別に祈らなければならない。彼らを深く愛され、彼らに深く信頼なさるイエズスに対して、司祭らがいつもまことの友であり、その権利の忠実な擁護者であり、そのお考えを聰明に献身的に実現する者であり、その求められるところを全部果たして、真心から主に仕える者であるように、また、彼らがいつも主のささえ、慰め、休み、喜びであるように祈らねばならない。主は、最愛の友とするために彼らを司祭として召されたのである。 『ヨナの子シモンよ、なんじ、彼らにまさりてわれを愛するか。』
実行 あらゆる時、あらゆる艱難(かんなん)の日に、あなたはまず第一に聖櫃の友のもとへ馳せよらなければならない。地上の友はその次である。