聖霊降臨後第九の主日の説教
イヴォン・フィルベン神父
伝達の義務
はじめに
イスラエルの死海の近く、砂漠の真ん中にある山の頂上に、マサダ要塞があります。それはとても印象的な場所です。この山の頂上から下を見れば、ローマ軍団の陣営の模様を見ることができます。それは、二千年前に起こった戦争の痕跡です。
西暦70年、ローマ人とユダヤ人の戦争で、エルザレムの神殿とエルザレムの街全体が破壊されました。マサダは、ユダヤ人の最後の抵抗の場だったのです。恐ろしい戦争でしたが、土はその出来事の記憶を保ち続け、二千年後の今でも、それを目にすることができます。現在エルザレムに行くと、考古学の発掘現場に行って、その戦争で焼かれた家々を見ることができます。焼けた家屋が発掘され、その家屋の中に木製の内装を見ることができます。そしてそれは、黒く焦げています。エルザレム焼き討ちの火の勢いはすさまじく、その痕跡は今も残っています。この戦争がいかに激しいものだったかお分かりでしょう。大戦闘、大火災だったのです。
過去の他の戦闘とは違って、忘れ去られてはいません。それはなぜでしょうか。それは、他のローマ人の戦争とは違って、私たちの主イエズス・キリストを迎えることを拒んだエルザレムに対する天主の罰だったからです。教会の聖伝は、1世紀にユダヤの民に起こったことを、今日の福音にある私たちの主の預言の成就とみなしてきました。当時のユダヤの民の指導者たちは、私たちの主イエズス・キリストをメシアとして受け入れることを拒絶し、それが神殿の破壊とユダヤ教の終焉につながったのです。それは私たちの主イエズス・キリストによって預言されたことであり、この出来事は私たちに対する教えなのです。
1)神殿の喪失
「おまえの敵が周りに塁を築き、取り囲み、四方から迫り、おまえとその内に住む人々を地に倒し、石の上に一つの石さえ残さぬ日が来る。それは、おまえが訪れの時を知らなかったからである」【ルカ19章43-44節】。
その罰とは何だったでしょうか。それはユダヤの民の滅亡ではなく、エルザレムの神殿を中心とするユダヤ国家の喪失でした。現在、その国には近代イスラエル国家がありますが、それはイスラエル王国の復活ではなく、同じ場所に近代国家があるだけで、神殿は今でも破壊されたままであり、永遠に破壊されたままでしょう。神殿の破壊は、天主の民の歴史の特別な段階の決定的な終焉であり、天主と神殿での天主の現存を中心とする国の終焉なのです。これは二度と回復することはないでしょう。
これは、とても残酷だと思えませんか。すべてのユダヤ人が、私たちの主を拒否したのでしょうか。いいえ。拒否したすべての人が、同じレベルの罪の責任を負っているのでしょうか。いいえ、なぜなら知識のレベルが異なるからです。ですから、この人たちの罪の責任の重さは異なっていたのです。しかし、罰は集団的なものであり、彼らのうちの何人かが不忠実だったために、神殿は皆にとって、そして永遠に、失われたのです。
2)伝達の失敗
これは、私たちが教会で「罪」と呼んでいるものと矛盾しないでしょうか。はい、ある意味ではそうです、罪は個人の現実だからです。告解の秘跡で、罪を犯したのは自分に責任がある場合だけであることはご存じでしょう。もし、不可抗的無知から何かをしたとしても、その行為は悪いことですが、罰は課されません。暴力の影響で自分の自由意思を取り去られた場合も同じです。
しかし、他の世代に受け継がれるために所有されている現実があり、誰かがこの現実を破壊すれば、それはすべての子孫にとっても破壊されます。もし遺産を破壊すれば、それは他の世代にも失われることになります。神殿が失われたのは、私たちの主イエズス・キリストを拒否したユダヤの民の一部の悪い行いのせいですが、その瞬間から、神殿はユダヤの民全員にとって失われたのです。私たちの主は、その理由から、エルザレムのために泣いておられるのです。
原罪も同じことです。私たちにはそれについての責任はなく、それはアダムの個人の罪であり、私たちは誰もその罪を犯してはいません。しかし、人間の本性は共通善であり、アダムはそれを自分だけのために所有していたのではなく、全人類に伝達しなければならなかったものとして所有していたのです。私たちの人間の本性は、皆さんのものも私のものも、アダムから受け継いだものであり、アダムがそれに害を与えてしまったので、私たちは傷ついた人間の本性を相続するのです。私たちにはそれについての責任はなく、私たちの人生の終わりには、私たちは他人の罪ではなく、私たち個人の罪について天主に裁かれますが、今、私たちは、私たちの救いを困難にする、傷ついた人間の本性を持って生きているのです。集団的な罰はありませんが、いくつかの罪には集団的な結果があるのです。
ユダヤの民に起きたことは、一部の人々の不忠実のせいで彼らが自分たちの神殿を失ったということです。
3)伝達という重大な義務
このように、信仰に関連する現実は、真摯に受け止めず、伝達していかなければ、他の人にとっても失われてしまいます。それは私にとっての現実であるだけではなく、他の人にとっての現実でもあるのです。
このことは、ルフェーブル大司教の行動を説明します。大司教にとって、聖伝のミサは教会の共通善であり、何としても他の世代に伝えるべきものであることは明らかでした。それは大司教自身のためではなく、教会のため、そして教会の次の世代のためでした。そして、もし大司教が、行ったことを行わなかったとすれば、今頃、聖伝のラテン語ミサは教会から消え、それは決定的かつ悲劇的な喪失であったという可能性が高いのです。このような信仰の現実は、伝達しなければなりませんし、伝達しなければ失われてしまいます。たとえ教皇に不従順であるように見えるという代償を払っても、伝達することは義務なのです。
私たち個人のカトリック信仰も同じで、それは私たち個人の救いのためだけに与えられた個人の現実ではなく、私たちが伝達しなければならないものであり、伝達することは、私たち全員が持つ非常に重大な義務なのです。私たちが親であれば、子どもたちに対するその伝達の義務があります。司祭に、信者に対する伝達の義務があるのと同じです。しかし、それはただ教えるという問題だけではなく、私たちの信仰を大切にし、真剣に受け止め、祈りと学びによってますます深く知ろうとするという問題なのです。愛徳に導かれた信仰だけが伝達可能なのです。
エルザレムの神殿に起こったことは、伝達することが私たち全員の持つ義務だということを思い起こさせるものだと考えましょう。私たちの信仰を伝達するために、私たちは善き信者でなければならないのです。