Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

エルザレムが滅ぼされたのは、天主の訪れの時、決定的な恩寵の時を知らなかったから。どの恩寵が最後の恩寵になるのかは、私たちには分かない。

2024年07月23日 | お説教・霊的講話

聖霊降臨後第九の主日―恩寵の時

ワリエ神父 2024年7月21日

「エルザレムよ、おまえは、おまえの訪れの時を知らなかった」(今日の福音より)。
エルザレムが滅ぼされたのは、天主の訪れの時、決定的な恩寵の時を知らなかったからです。

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それについて、大聖グレゴリオは、こう述べています。

「肉の奴隷として生きてきた霊魂には、これらの壮大なことがすべて起こる。なぜなら、そのとき、悪魔たちが霊魂を四方から取り囲み、誘惑し、動けないようにし、地獄に連れ去るからである。そのとき、石を積み上げたものすべて、つまり彼らの思いは、転覆してしまうのだ。

なぜなら、天主の説教者や聴罪司祭、教師たち、そして天主による内的な霊感によって、自らの生活を改め、自らの救いのためによくよく考えるよう天主が彼らに警告されたその訪れの時を、彼らは知らなかったからである。

天主は、教えをもって、時には鞭を、時には奇跡をもって、悪しき霊魂を訪れるのをおやめにならない。それは、その霊魂が知らなかった真理を聞けるようにし、また、未だにその真理を軽んじてはいても、悲しみに心を刺されて立ち戻れるようにするためであり、あるいは、御あわれみに圧倒されて、自分の行った悪を恥じるようになるためである。しかし、その霊魂は、その訪れの時を知らないがゆえに、人生の終わりには敵に渡され、敵とともに永遠の滅びの枷につながれるのである」。

ユダと悪しき盗賊という悲しい例があります。

ザカリアはこう宣言します。

「主なるイスラエルの天主をたたえよ。主は、主の民を訪れて救い給うた。…それはわれらの天主の深い御あわれみによる。そのために、朝日は上からわれらを訪れた」(ベネディクトゥス、ルカ1章68、78節)。

すべての霊魂に、このような恩寵の時が与えられます。レビと呼ばれていた使徒(マテオ)、徴税人ザケオ、サマリアの女、罪の女、善き盗賊のようにです。

恩寵に忠実になりましょう。

「ある日、ある瞬間、天主の働きかけに十分お応えできなかったために、聖性に到達しない霊魂がいる。私たちの将来は、時に、二、三の『はい』と、二、三の『いいえ』にかかっている。それは、私たちが言わなければならなかったもの、言わなかったものであり、そのために、数え切れないほどの寛大さや失敗が保留されたのである。もし私たちが常に天主の壮大さと足並みを揃えて歩むことを決心するならば、私たちはいかなる高みに到達するであろうか。

…私たちは、天主の恩寵をもてあそんではならない。天主の恩寵は過ぎ去るものであり、しばしば戻ってくるのは事実だとしても、いつも戻ってくるわけではないのだ。

もし天主の恩寵が戻ってくるなら、また仮に初回と同じような力強さで戻ってくるとすれば、その天主の恩寵は、すでに臆病さで弱っており、それゆえ、その恩寵に応えられるだけの用意がもっとできていない心を見つけるのである。すると、天主は私たちに、わざわざ更なる恩寵を与えようとはなさらないのではなかろうか。前と同じ運命をたどることに何の意味があろうか。この使われなかった恩寵、この軽んじられた霊感、この言いようのない取り残しが、天主の法廷では、嫌な証人となるのである」(R・プリュス神父)。

それは、灰の水曜日の典礼にこうある通りです。「軽率に犯した罪を償うために、よりよい生活を送ろう。われらが、突然、死の日にとらえられ、悔い改めの場を求めても見つけられないことのないように」(灰の水曜日のグレゴリオ聖歌の答誦「Emendemus」)。

かつて米国のある司祭が、死の床にある人のそばに行くよう呼ばれました。何世紀も前のことで、車もありませんでした。その死の床にある人は、何度も回心を先延ばしにしてきた悪しきカトリック信者でした。司祭は終油の秘跡をさずけるために、すぐに行こうと決めました。しかし、長時間馬を探したにもかかわらず、見つけることができませんでした。その人は秘跡を受けずに亡くなりました。まもなく、その司祭に啓示されたのは、天主の恩寵を常に拒み続けたことで、死の床にあるその人を罰するために、天主が馬を隠されたのだということでした。

結論

親愛なる兄弟の皆さま、

私たちの永遠が幸せか不幸かは、天主の「訪れ」、すなわち天主の恩寵の時に対する私たちの対応にかかっています。
私たちが受ける多くの恩寵のうち、どれが最も決定的なものかは分かりません。それは説教かもしれませんし、告解かもしれませんし、使命かもしれませんし、何らかの不運かもしれませんし、家族の悲しみかもしれませんし、仕事の問題かもしれません。
また、どの恩寵が最後の恩寵になるのかは、私たちには分かりません。
聖パウロとともに、私たちも「私の受けた恩寵はむなしくならなかった」(コリント前書15章10節)と繰り返すことができますように。
天主の聖寵の御母、罪人なるわれらのために祈りたまえ!



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