Talk after Mass on Sunday 20th June 2021 by Fr Demornex
ドモルネ神父のメッセージ
今日の説教では、罪についてお話ししました。ここでは、カトリック教会の近代主義的な権威者たちによって、罪の概念が、いかにして骨抜きにされてきたか、についてお話しします。
1. 罪の概念
罪とは、天主のおきてを、意識的に、そして自発的に破ることです。私たちが罪を犯すとき、私たちは天主の御意志に反して、自分の意志を通しています。ですから、私たちは天主のお怒りに触れ、その罪の軽重に従った当然の罰を受けます。もし大罪を犯したなら、当然、永遠の地獄の罰を受けます。
2. 痛悔の必要性
天主は、善なるお方です。私たちが心から自分の罪を痛悔すれば、私たちを赦してくださいます。心から自分の罪を痛悔するということは、ふたつの要素から成り立っています。ひとつめは、自分のしたことを後悔する、ということです。ふたつめは、その罪を再び犯さないことをまじめに約束し、そのための方策をとる、ということです。どんな方策をとればいいのでしょうか?罪の機会を避け、よく祈り、頻繁に秘蹟を受けることです。私たちの主イエズスご自身が、放蕩息子のたとえ話で、その模範を示してくださいました。
また、わたしたちの主イエズスは、天に昇られる直前、弟子たちにこうおっしゃいました。「そのみ名によって、イエルザレムからはじめて諸国の民に、罪のゆるしを得させるくいあらためが、のべつたえられる。」(ルカ24章47節)
3. 教会の司牧者たちの使命
教会の司牧者たちの使命は、洗者聖ヨハネの使命と似ています。それは、天主のおきてを人々に教えること、罪と罪でないものとを峻別できるよう、人々に教えること、罪人をさとすこと、罪人を天主との和解へと導くこと、罪人がその罪深い習慣を矯正するのを助けること、などです。
4. 罪の概念は、第二バチカン公会議以降、骨抜きにされている
第二バチカン公会議以降、 自由主義や近代主義がカトリック教会へ侵入してから、教会の権威者たちによって、罪の概念はひどく骨抜きにされてきました。いくつか例を挙げましょう。
1983年、ドイツで、教会参事会員のフベルト・ボウア(Hubert Bour)神父は、公の講演会の席でこのような報告をしています。「大罪がどのぐらい頻繁に犯されるかという疑問に対して、ある著名な神学者は、『おそらくパリでは一日に一回、わたしたちの教区内ではごくたまであろう』、と答えました。」
2013年には、フランシスコ教皇が、この、有名な、嘆かわしい発言をしています。「もし、ある人が同性愛者であって、主を求め、それを望んでいるなら、私ごときがそのような人を裁くことができるでしょうか?」この曖昧な発言によって、教皇は、同性愛を大変罪深いものであると認め、それを断罪することを避けたのです。
2016年には、フランシスコ教皇が、「愛のよろこび(アモーリス・レティチア)」という使徒的勧告を発布しました。そのなかで、教皇は、罪について、人々の良心を啓発するのではありません。罪人に、罪深い生活をやめるよう警告するのでもありません。そうではなく、教皇は、公の罪を犯している人たちを教会活動に迎え入れるよう、指示を出すのです。
今年3月、ベルギーのボニー司教は、公開書簡を出し、そこでこう書きました:「罪は、それを定義するのが最も難しい神学的、道徳的範疇の一つです。」この司教は、現実に、ある行為が罪であるのかないのかを定めることは、わたしたちにはできない、と言っているのです。そのため、同性愛者のカップルが罪の状態で暮らしているかどうかも、わたしたちには決められない、という訳です。ベルギーの司教協議会は、このボニー司教の書簡を承認しています。
結論
これほど多くのカトリック教徒が罪の感覚を失ってしまったことは、驚くにはあたりません。教皇自身も、司教たち自身も、司祭たち自身も、その感覚を持っていないからです。
天主に対してなされた罪の重大性を糾弾し、償いの必要性を説き、罪に繋がる危険な機会を避けるよう勧める代わりに、天主の正義を無視し、罪の結果を矮小化し、償いの必要性を忘れてしまっているのです。
教職者と信徒の双方が、広く悔悛の秘蹟をおろそかにしていることは、驚くにはあたりません。
その結果、人々は大罪を犯し、大罪の状態に留まり、そして地獄に落ちる大きな危険に瀕しているのです。
教会は、非常に大きな危機にあります。日本の教会も、そこに含まれています。
ですから、日本の全てのカトリック教徒は、自らの信仰と永福を守るために立ち上がり、カトリックの聖伝を守る私たちの活動を強力に支援していただくなくてはなりません。