Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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日本は聖母からいつも愛されています。聖母は日本にいる私たちをいつも母の心で愛しておられます。

2020年09月25日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年8月23日に録画した、聖母マリアの母親の心と日本の歴史のお話をご紹介します。

聖母マリアの汚れなき御心と日本

1549年の被昇天の日、聖フランシスコ・ザビエルは日本にたどり着きました。聖フランシスコ・ザビエルは地球の西の果て、日の沈む国であるポルトガルから、同じ地球の東の果て、日の昇る国である日本へと、正義の太陽なるイエズス・キリストの光をもたらすためにやってきたのです。

聖フランシスコ・ザビエルは、日本に到着する15年前の1534年、聖イグナチオ・デ・ロヨラや仲間たちと共にパリのモンマルトルで誓いを立て、イエズス会を創立しました。それもまた被昇天の祝日でした。聖母は聖フランシスコ・ザビエルを、教皇パウロ3世の大使として、エルサレムへの巡礼に代えて、インドへ、そして日本へとお送りになりました。

聖フランシスコ・ザビエルが被昇天の祝日に日本に到着したお蔭で、私たちの幾千万の先祖たちが、身分の高い者も低い者も、男も女も、天国への道を知ることとなりました。皆は洗礼の秘蹟を受け、イエズスを長子に、マリアを天の母に戴く天主の養子となりました。私たちの主は十字架の上で、「これがあなたの母です」とおっしゃいました。日本にいる私たち全てにとって、聖母はいつも慈しみ深い御母であってくださいます。

殉教者の元后である聖母は、日本のカトリック信者を守ってくださいました。幾千万のカトリック信者が、主の御体と御血に養われ、イエズス・キリストの御神性を証すために自らの血を流し、自らの体を御捧げしました。雲仙での殉教者たちは、「御聖体の秘蹟は讃美せられさせ給え」と叫んで殉教しました。島原では、迫害された信者たちは、撃たれた鉄砲の弾をロザリオの珠としてロザリオを祈りました。これが信者たちの反撃の武器だったのです。西坂で最初に穴吊りの刑に処された福者ニコラオ福永は、最期の言葉として聖母の連祷を唱えながら天主に霊魂をお返ししました。

しかし私たちの先祖たちへの最も恐るべき拷問は、(1660年代から1858年に至る)およそ200年間、聖なるピエタ(聖母子像)を足で踏み付けにすることを強制されたことでした。私たちのために十字架に付けられた天主の御子イエズス・キリストの御像、そして主の死を嘆き悲しみ、主の御体を御胸に抱かれた聖母、また私たちの永遠の救いのためにいたくお苦しみになった私たち自身の御母の御像、これらの御像を踏み付けにすることは、いかに辛いことであったでしょうか。キリスト信者が迫害に遭う時、聖母も子どもたちとともにお苦しみになったのです!

長年にわたって司祭のいない間、姿を隠したカトリック信者たちは、天主の御母の御像を隠し、聖なるロザリオを唱え続けました。喜びの玄義、悲しみの玄義、栄えの玄義を黙想しました。司祭たちに代わって私たちの先祖を力づけ、支えたのは、天主の御母だったのです。日本各地に残る数多くの切支丹遺物が、信者たちの御母への愛を証しています。

イタリア人のシドッティ神父は日本での宣教の望みを持ち、命の危険をも顧みず、1708年屋久島にたどり着きました。シドッティ神父は、カルワリオで悲しみと、慰めなき御苦しみを涙をもって御捧げする悲しみの聖母の御影(ごえい)をもって来ていました。1714年にシドッティ神父が切支丹牢獄で殉教した後も、今日まで、この御影は東京国立博物館に残されています。日本の子どもたちのために涙を流された悲しみの聖母の御影です。

パリ外国宣教会の司祭であったフランス人のフォルカード神父もまた、汚れなき御心に霊感を受けて、日本への初めての宣教を行いました。300年にわたる血なまぐさい迫害の後、1844年、マリアの月の最初の日、今の沖縄県の那覇港において、フォルカード神父は日本を、聖母のいと清き御心に、無条件に御捧げしました。1856年2月11日には、フランスのルルドにおいて無原罪の御宿りが聖ベルナデッタにお現れになりました。天主のみ旨によって、何故か2月11日は日本の建国の記念日とされています。汚れなき御母の計らいで、後に司教となったこのフォルカード司教が、フランスのヌヴェールの司教として、聖ベルナデッタに召命をもたらすこととなるのです。

1865年3月17日、御母は隠れていた子どもたちをご自分の麗しい像の下へとお招きになりました。「サンタマリアの御像はどこ?」これこそが子どもたちの探し求めていたものでした。「ほんとにサンタマリアさまだ!」「御子ゼスス様を抱いていらっしゃる!」遂に子どもたちは、喜びのうちに御母を見つけたのです!彼らはカトリックの宣教師である司祭(パドレ)に自分たちの信仰を明かしました。彼らは後に、自分たちの「旅」と呼んだ追放処分を受けてしまいますが、御母は流された子供たちに付き従い、津和野において優しき御母としてお現れになり、彼らによりそってお慰めになります。

今から約100年前の1917年、ポルトガルのファティマにおいて、聖母は私たちを愛する御心である汚れなき御心をお示しになりこう言いました。「私はあなたたちを決して見捨てません。私の汚れなき御心があなたの避難所となるでしょう。天国に天主様へと導く道となるでしょう。」

その同じ年、聖母は聖母のしもべ聖マキシミリアノ・コルベに、聖母への奉仕に全く奉献された「無原罪の聖母の騎士会」をローマにおいて設立するという燃える望みをお与えになりました。そして聖母は、特別の賜物として、このしもべを日本の長崎にお送りになりました。

第二次世界大戦中、数多くの司祭が、戦争の終結を願い、ファティマの聖母に毎晩長い祈りを捧げました。1945年8月9日、被昇天の大祝日の準備中、長崎の数多くのカトリック信者が核爆弾の犠牲となりました。聖母の愛する子どもたちとともに、汚れなき御宿りの御像もこの犠牲となりました。御母は子どもたちを決してお見捨てにはなりません。子どもたちは愛をもって、御母とともに、死の苦しみをいけにえとしてお捧げしたのです。また同じ頃ポーランドでは、聖マキシミリアノ・コルベが同じように自らの命をお捧げしたのです。

パウロ永井隆博士は長崎のカトリック教会の信徒代表として、葬儀の弔辞の演説でこのように述べました。
「日本は聖母に献げられた国であり、吾浦上の天主堂もまた特に聖母に献げられたものであることを想い出すなり。・・・いくた殉教の血を流しつつ四百年、正しき信仰を守り通したわが浦上教会こそはまこと世界中より選ばれて、天主の祭壇に献げられるべき潔き羔の群れではなかりしぞや。・・・浦上教会が世界中より選ばれ燔祭に供えられたことを感謝致し奉る。」

聖母のとりなしにより、聖母の被昇天の大祝日に日本は終戦を迎えました。日本の司教たちはたちまちこれを認めて、一致して日本を聖母マリアの汚れなき御心にお捧げしました。教会の鐘が私たちを主の讃美へと招き、1549年のごとく、被昇天の祝日が日本に再び響きわたったのです。1951年、聖母の御生誕の祝日に日本はサンフランシスコ講和条約に調印し、その結果、戦争状態は正式に終結し、日本の主権が承認されました。それは、聖母がいつもやさしい母として子どもたちのことをみておられるように、御母の誕生日に起こったのでした。

1975年の初土曜日から、1981年の9月15日、聖母の御悲しみの記念日に至るまで、聖母は秋田においでになり、101回涙を流し、子どもたちの救いのためのファティマのメッセージを繰り返しお伝えになりました。小さき子どもたちを自らに招くため、聖母は数多くの涙を流されました。聖母は子どもたちを愛するご自分の汚れなき御心が愛されていないこと、そして、ご自分の訴えがご自分の子どもたちに無視されていることを嘆いておられます。

日本は聖母からいつも愛されています。聖母は日本にいる私たちをいつも母の心で愛しておられます。私たちの瞼の母である聖母は、天国から私たちの名前を呼んで、探してくれています。放蕩息子で家出した子供であっても、たとえお恵み目当てであったとしても、もしも私たちが聖母を探して行くなら、会いに来た私たちを温かく受け入れてくれます。
「ああ、我が子や、よく来たね。つらいことがいっぱいあったね。お母さんがここにいるからね。もう大丈夫だよ。お母さんはおまえたちを決して見捨てないからね。」

おおわが愛すべき御母よ、我らに御身を愛させ給え!


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