Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【参考資料】教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教による「第二バチカン公会議の革命が、どのようにして新世界秩序に奉仕しているのか」カトリック・アイデンティティー・カンファレンス(3)

2020年12月08日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2020年10月24日、アメリカで行われた「カトリック・アイデンティティー講演会」で、元在米教皇大使ヴィガノ大司教(カルロ・マリア・ビガノ大司教)がビデオ動画で発表された講話(その3)の日本語訳を愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。

今回ヴィガノ大司教は、カトリック教会の危機から脱出するためには、第二バチカン公会議の本当の姿をはっきり認識すべきだ、と主張します。第二バチカン公会議それ自体は良かった、教父たちの意向は良かったのだけれども、解釈が間違っていた、第二バチカン公会議は裏切られた、などというのは戯言にすぎない、と言います。

最後には、私たちがロザリオを祈る重要性についても訴えています。

訳の中で、[ ] で囲まれたところは、原稿にはあったのですが、ビデオの録画ではヴィガノ大司教は読まずに飛ばしたところです。ビデオ動画にはでてきません。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Catholic Identity Conference
カトリック・アイデンティティー・カンファレンス
2020年10月24日

教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教による「第二バチカン公会議の革命が、どのようにして新世界秩序に奉仕しているのか」(1) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

【参考資料】教皇大使カルロ・マリア・ヴィガノ大司教による「第二バチカン公会議の革命が、どのようにして新世界秩序に奉仕しているのか」カトリック・アイデンティティー・カンファレンス(2) - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

[9.個人および社会と天主との関係の転覆

公会議と現在の危機との関係に関する考察を、私が非常に重要かつ意味のあると考える反転【優先価値の体系が逆さまであること】を強調することで締めくくりたいと思います。私が言及しているのは、信徒個人および信徒の共同体と天主との関係のことです。キリストの教会では、主と霊魂との関係は、たとえ典礼行為の中で聖職役務者によって伝えられていたとしても、それは極めて個人的なものです。それに対し「公会議の教会」では、共同体および集団関係が優先されます。子どもの洗礼や夫婦の結婚式を「共同体の行為」にしようとする彼らの主張や、ミサ以外で個人的にご聖体を受けることができないことや、【聖体拝領が許されるために】必要な条件がなくてもミサ中にご聖体拝領に行くという一般的な実践を考えてみてください。これらはすべて、感謝の祭儀の宴会に参加するというプロテスタント化された概念に基づいて為すべきこととされており、いかなる【宴会】客(guest)も排除されることはありません。

そうなると、人は、祭儀を行う匿名の共同体の中で自らを見失い、個性を失ってしまいます。その反対もその通りで、教会と国家という両者の仲介の役割を排除するような人格主義(personalism)の中では、社会的団体と天主との関係もまた消えていきます。道徳の分野における個人化が、これの一例です。そこでは、個人の権利や嗜好が社会的道徳の根絶の根拠となります。これは、あらゆる悪徳や道徳的異常を正当化する「包摂性」(inclusiveness)【どんな性向の誰もが含まれること】の名の下に行われます。共通の目標を追求することを目的とした一定数の個人の結合として理解されている社会が、それぞれがそれぞれの目的を持った複数の個人に分割されています。

これはイデオロギー的な激変の結果であり、その意味するところは教会の領域と世俗の領域の両方に及んでいるため、深く分析する必要があります。しかしながら明らかなことは、この革命の第一段階は、公会議の精神(mens)に見られるもので、改革された典礼によって構成されたキリスト教の民への洗脳から始まります。この典礼においては、個人が自らを非人格化することで集会に溶け込んでしまい、個人が自分のアイデンティティーを失うことで共同体は個人の寄せ集めへと劣化します。]

【訳者の理解が正しければ、ここでヴィガノ大司教は、次のことを主張している。カトリックの典礼においてプロテスタント的なイデオロギーが浸透した。全体主義的な意味での「共同体」が強調され、その「共同体」を形成する統一原理は、個人の自由・自由な解釈・主観的な嗜好となった。今までのカトリック教会の行ってきていた、教導権の伝える客観的な真理に基づく一人一人の霊魂と天主との一致、というよりは、主観的な好みに基づく自由を寄せ集るものとしての共同体になってしまっている。いろいろな嗜好の寄せ集めなので、それを一つにするために「共同体」が強調されなければならない。】

10.原因と効果

哲学は、原因に対しては常に一定の効果が対応することを教えてくれます。私たちは、第二バチカン公会議の間に実行された行動が望まれた効果を及ぼし、「人類学的な転換点」に具体的な形を与えたことを見てきました。この転換点は、今日、反教会の背教とまことのキリスト教会の日食につながったのです。したがって、私たちが目の前にある弊害を元に戻したいのであれば、その原因となった要因を取り除くことが必要であり不可欠であるということを理解しなければなりません。これが私たちの目標であるならば、これらの革命的な原理を受け入れること(あるいは部分的にでも受け入れること)は、私たちの努力を無意味で逆効果にしてしまうことは明らかです。しかし、私たちは、この復興の作業において、この原理【=取り除くべき原因である原理】に例外を設けることは不可能です。この原理を共有しないことは、成功の機会を阻むことになるからです。

したがって、存在するとされる公会議の善、公会議の教父たちの意向が裏切られたこと、第二バチカン公会議の「文言」と「精神」、公会議の教令の権威の重み(あるいはその欠如)、「継続の解釈学」と「断絶の解釈学」についての虚しい区別は、きっぱりと脇に置きましょう。ベルゴリオが新世界秩序に忠誠を誓う政治的宣言(マニフェスト)を「回勅」と呼んでいるように、反教会は「公会議」というレッテルを使って、その革命的な行動計画(アジェンダ)に権威と法的な力を与えてきました。

敵の狡猾さは教会の健全な部分を袋小路に追い詰めた、と私たちは理解しています。健全な部分は、公会議文書の破壊的な性質を認識しなければならない、それゆえにそれらを教導職の集大成から排除しなければならないこと、あるいは、教導職の不可謬性を守るために、それらを疑う余地なく正統的だと宣言することによって現実を否定しなければならないこと、の二つの間で引き裂かれています。

「ドゥビア」【Dubia:教義に関する疑問点について明確な説明を要求して聖座に提出する文書】は、【それを公表した健全な部分の】これらの教会のプリンス【枢機卿】たちにとって屈辱を意味していたと私たちは理解します。何故なら、これはローマ教皇の注意を引いたとしても、教義上の結び目を解くことはなかったからです。ベルゴリオは、それに応えません。なぜなら、まさにほのめかされた誤謬を否定したり確認したりすることを望まないからです。そうすることで、異端者だと宣言されたり教皇職を失ったりするという危険に身をさらしたくないからです。

これは公会議で使われたのと同じ方法であり、曖昧さや不明確な用語の使用によって、ほのめかされた誤謬が非難されるのを妨げているのです。しかし、あからさまな法の違反以外に、人間は、悪しき目的のために法を使い、法を回避することによっても、罪を犯すことができることは、法学者がよく知っています。「contra legem fit, quod in fraudem legis fit.」[法を回避してなされたことは法に反する。例え法の字面は守っていても法の趣旨に反して行うなら、法に反して行うことである。]

11.結論

この戦いに勝利する唯一の方法は、教会がいつも行ってきたことに戻り、反教会が今日の私たちに要求していること --- つまりまことの教会がいつも非難してきたこと --- を行うのをやめることです。王であり大司祭である私たちの主イエズス・キリストを教会の生活の中心に戻し、それ以前に、私たちの共同体、家族、私たち自身の生活の中心に戻しましょう。教会の元后にして母である至聖なる聖母マリアに冠を回復させましょう。

私たちは、聖伝の聖なる典礼をふさわしく行い、近代主義や異端者の戯言ではなく、聖人の言葉で祈るように、もとに戻りましょう。教会の教父たちや神秘主義者たちの著作を再び味わい、近代主義や内在主義的な感傷主義に染まった作品を火の中に投げ込もうではありませんか。まことの信仰に忠実であり続ける多くの善き司祭たちを祈りと物質的な助けをもって支え、この世やこの世の嘘と折り合いをつけた者たちからは、すべての支援を引き揚げましょう。

そして何よりも、天主の御名においてお願いします。私たちの敵対者が私たちに受け入れるようになじませている劣等感を捨てましょう。主の戦いでは、敵対者たちは私たちに恥をかかせることはありません(私たちは罪のせいであらゆる屈辱を受けるにふさわしいのです)。そうではなく、彼らは天主の御稜威と罪のない小羊の花嫁【教会】を辱めるのです。私たちが受け入れている真理は、私たちから出たものではなく、天主から出たものなのです。真理が否定されるがままに放置しておくこと、反教会の異端や誤謬の前で真理は自分を正当化するはずだという態度を受け入れることは、謙遜の行為ではなく、卑怯で臆病な行為です。

偶像にいけにえを捧げ、まことの天主を捨てるように求める新しいアンティオコの前に、聖マカベオ殉教者たちの模範に触発されましょう。主に祈りながら、聖マカベオ殉教者たちの言葉で応えようではありませんか。「ああ、天をつかさどられる者よ、怖れと震えを敵の中にまくために、私たちの前に天使を今、送り給え。冒涜の言葉をはきつつ、この聖なる民に向かって進む敵があなたのみ腕の力によって打ち破られますように」(マカベオ後書15章23節)。

今日の話の最後に、個人的な思い出を述べさせていただきます。ナイジェリアで教皇大使をしていたときのことです。ビアフラのひどい戦争から生まれ、今日まで続いている壮大な民衆の伝統を知りました。私はオニツァ大司教区を司牧的に訪問した際に、その伝統に個人的に参加したのですが、それにとても感銘を受けました。この伝統は「ブロック・ロザリオ・チルドレン」と呼ばれ、平和を願う聖なるロザリオを唱えるために、村や近所に何千人もの子どもたち(きわめて幼い子どもたちも)を集めて行うもので、子どもたちは一人一人、聖母の像と小さなロウソクが描かれた小さな祭壇のような木片を持っています。

11月3日までの数日間、私は皆さんにロザリオ十字軍に参加していただきたいと思います。エリコの包囲戦のようなもので、司祭が雄羊の角で作った7本のラッパを鳴らすのではなく、小さな子どもたちや無垢な人々の「めでたし」で、ディープ・ステートとディープ・チャーチの壁を取り壊すのです。

私たちは小さな子どもたちと一緒に「ブロック・ロザリオ・チルドレン」で、太陽に包まれた婦人に懇願しましょう。聖母と聖母の統治が回復され、私たちを悩ませている日食が短くなりますように。

そして、これらの聖なる意向を天主が祝福してくださいますように。

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