Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ヴィガノ大司教「悪魔は、罪の罰【死、病気、痛み】が、謙遜をもって受け入れられるとき、贖いの道具となることに堪えられない。サタンは、破壊と死という武器が、再建と生命の道具となることに堪えられない。」

2022年03月09日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教の四旬節の黙想

「天主の正義を抱き、十字架につけられたキリストと一致して『真の苦行』を捧げて罪を償おう」

Abp. Viganò’s Meditation for Lent: Embrace God’s Justice, Make Reparation for Sin by Offering “True Penance” in Union with Christ Crucified

カルロ・マリア・ヴィガノ大司教 2022年3月3日

Venite, convertimini ad me, dicit Dominus.
Venite flentes, fundamus lacrymas ad Deum:
quia nos negleximus, et propter nos terra patitur:
nos iniquitatem fecimus,
et propter nos fundamenta commota sunt.
Festinemus anteire ante iram Dei,
flentes et dicentes:
Qui tollis peccata mundi, miserere nobis.

Transitorium ambrosianum in Dominica Quinquagesimæ
五旬節の主日のアンブロジオ聖歌の聖体拝領誦

「来て、われに回心せよ」と主は仰せられる。
来て、泣け、天主に涙を流そう。
われらが背いたがゆえに、われらのゆえに、地は苦しむ。
われらが悪を犯したがゆえに、われらのゆえに、地の基は揺らいだ。
天主の御怒りになる前に、その先を急ぎ行こう、
泣きながら、こう言いながら、
「世の罪を除き給う御者,われらをあわれみ給え」と。

アンブロジオ典礼のミサ典礼書のこの言葉を、現代人が理解するのは難しいでしょう。しかし、この言葉は厳しい明瞭さにおいて単純です。なぜなら、私たちの罪と裏切りのために引き起こされた天主の御怒りは、痛悔と苦行によってのみ、なだめることができることを私たちに教えているからです。ローマ典礼では、この概念は、諸聖人の連祷の祈りの中で、さらに明確に示されています。「Deus, qui culpa offenderis, pænitentia placaris: preces populi tui supplicantis propitius respice; et flagella tuæ iracundiæ, quæ pro peccatis nostris meremur, averte.」(罪によって怒らせ給い、悔い改めによってなだめられ給う天主よ、切に願い奉る御民の祈りを顧み、われらの罪のために受くべき御身の怒りの鞭を、われらから遠ざけ給え)。

キリスト教文明は、この有益な概念を大切にすることができました。それは、罪がもたらす正当な罰への恐れのゆえにだけでなく、痛悔の祈りが私たちに教えているように、罪が「限りなく善にして、すべてを超えて愛すべき」天主の御稜威に対してなされる侮辱でもあるから、私たちは罪から遠ざからなければならないと考えることです。

何世紀にもわたって、キリストに回心した人類は、歴史上の悲しむべき出来事――地震、飢饉、疫病、戦争――が天主の罰であることを認めることを知っていましたし、これらの鞭によって打たれた人々は常に、苦行をして天主の御あわれみを願う方法を知っていたのです。そして、主、聖母、聖人たちが出現や啓示によって人間の問題に介入するとき、天主の掟を守るようにという呼びかけに加えて、人間が回心しなければ、大きな艱難が待っているだろうと警告しました。

ファチマでも、聖母は天主の御怒りをなだめ、平和な時代を享受できるように、ロシアをご自分の汚れなき御心に奉献し、初土曜日の償いの聖体拝領を行うよう求めておられます。さもないと、ロシアは「世界中にその誤謬を広め、戦争と教会への迫害を推し進めていくでしょう。善き人々は殉教し、教皇は多くの苦しみを受け、さまざまな国が破壊されるでしょう」。

聖母の要求を無視し、ますます多くの恐ろしい罪によって主の御怒りを招き続けるなら、私たちは何を予想すればいいのでしょうか。「彼らは私の要求を満たそうとしませんでした! フランス王のように、彼らは悔い改めてそれを行うでしょうが、それは遅れるでしょう。ロシアはすでにその誤謬を世界中に広め、戦争と教会への迫害を引き起こしてしまっているでしょう」。

今日、人類を苦しめて奴隷にし、中国共産主義に触発されたグレート・リセットの地獄の計画に人類を服従させるこれらの戦争は、またもや、私たちの不従順の結果であり、主の法を踏みにじって主の聖名を冒涜してもその結果【天罰】などないと信じる、私たちの頑迷さの結果なのです。何と不幸な厚かましさでしょうか。何というルチフェルのような高慢でしょうか。

脱キリスト教化した世界と、カトリック信者にさえ感染した世俗化したメンタリティーは、人間の罪に対してお怒りになる天主ということを、また、人間が悔い改めて赦しを請うようにさせるために、人間を鞭で罰する天主という考え方を受け入れません。しかしこの概念は、天主の創造の御手がすべての人間の霊魂に刻みつけ、異教徒でさえ持つ正義感を呼び起こさせる考えの一つです。

しかし、その考え方が、いつの時代にもすべての人の中に存在するからこそ、私たちの同時代の人々は、善人に報い悪人を罰する天主、御怒りで自らを現され、天主の御怒りを招いた者に涙と犠牲を要求する天主という考え方に恐怖を覚えるのです。

人類の罪によって冒辱された主の御怒りへの嫌悪、それも洗礼によってご自分の子とされた人々によって冒辱された主の御怒りへの嫌悪の背景には、人類の敵【サタン】の容赦ない憎しみがあります。これは、私たちの主イエズス・キリストの贖いの犠牲に対する憎しみ、天主の御子のご受難に対する憎しみ、アダムの堕落と私たち個人の罪の後に、主の御血が私たち一人一人のために勝ち取った贖いの値に対する憎しみです。

人間の創造以来ずっとサタンを夢中にさせてきた憎しみ、天主のみわざを失敗させようとし、天主の似姿と像に似せて造られた被造物である人間を醜させ、さらには新しいアダムであるキリストと新しいエワであるマリアの天主による償いの業を妨げようとさえする、狂気の試みの憎しみです。

十字架の上で、新しいアダムは贖い主として、罪によって破壊された秩序を回復させます。十字架のふもとでは、新しいエワが共贖者として、この回復に参加なさるのです。

アダムの誘惑は、主のみ旨への不従順と、何の結果【天罰】もなく主のご命令を破ることができるなどという思いあがった厚かましさとによって完了しました。それと同じように、サタンの行為の失敗は、至聖なる三位一体の第二のペルソナによる御父への従順と、天主の御子が受けた屈辱とで成し遂げられるのです。

この世は、痛みや死を受け入れません。原罪や自罪に対する正当な罰としても、キリストによる贖いの値と贖いの道具としても、受け入れないのです。ですから、これはほとんど逆説です。私たちの元祖アダムとエバを誘惑して、死、病気、痛みをこの世に持ち込んだ、まさにその者【悪魔】が、まさにこれら同じもの【死、病気、痛み】が、砕かれた正義を修復するために謙遜をもって受け入れられるとき、贖いの道具となり得ることに堪えられないのです。サタンは、破壊と死という武器が自分から奪い取られ、再建と生命の道具となることに堪えられないのです。

現代人は、新たにサタンに欺かれています。ちょうど、人がエデンの園で欺かれたように。そのとき、蛇は、善悪を知る木の実を取らないようにという天主の命令に背いても、何の結果【天罰】も起こらないと信じ込ませました。実際、蛇は、そのように背けば、アダムは天主のようになれると告げました。今日、蛇は、これらの結果は【元来】避けられないものであり、また死、病気、痛みを正当な罰として受け入れること、それらをイエズス・キリストのご受難と死と一致させながら、人間のために逆転させることは不可能である、と人間を欺いています。

なぜなら、天主の判決を受け入れることで、犯罪者は裁判官たる天主の権威を受け入れ、自分の過ちの無限の重大さを認識し、犯した罪を修復し、罪にふさわしい制裁を償うからです。そうすることによって、犯罪者は天主の恩寵に立ち戻り、サタンの働きを無効にするのです。

このため、時の終わりが近づけば近づくほど、悪しき者【悪魔】は、キリストによって啓示された真理を取り消し、聖なる教会によって何世紀にもわたって説かれてきた真理を取り消すだけでなく、救いの基礎である正義の概念そのもの、つまり"違反には処罰が必要だ"という考え方、罪の償いという考え方、"被造物の創造主に対する背信は重大なことだ"という考え方を排除しようと努力を重ねています。自分が何も罪を犯していないとますます信じさせるならば、人は何も悔い改める必要がないとますます思い、死ぬまで、十字架上に死ぬまで従われた御独り子をお与えになるほど世を愛しておられる天主に対して、何の感謝の気持ちもないと思うようになることは明らかです。

私たちの周りを見渡せば、正義の取り消し、善悪の感覚の取り消し、善人に報い悪人を罰する天主がおられるという考え方の取り消しが、どれほど決定的で回復不能で取り返しのつかない主への反逆、霊魂の永遠の地獄行きの前提になっているかが分かるでしょう。犯罪者を無罪にし、正しい人を罰する裁判官、罪と悪徳を推し進め、誠実で高潔な行為を非難したり阻止したりする統治者、病気を利益の好機とみなし、健康を障害とみなす医者、四終のこと【死、審判、天国、地獄】について沈黙し、罪の償いとしての苦行、犠牲、断食の概念を「異教徒的」とみなす司祭――これらの人はすべて、おそらく無意識のうちに、サタンのこの最新の欺きの共犯者となっているのです。

この欺瞞で、一方では被造物に対する天主の支配権や、行為に応じて被造物を報いたり罰したりすることができる天主の権利を否定し、他方では天主のみが与えることのできる財物や報酬をサタンが約束するのです。砂漠でキリストを山の頂上に導いた後に、サタンはあえて、「あなたがひれ伏して私を礼拝するなら、これらをみなあなたに与えよう」(マテオ4章9節)とさえ言ったのです。

現在の出来事、人類が日々犯している罪、天主の御稜威に逆らう多くの罪、個人と国家の不正、罰を受けることなく行われる嘘と詐欺は、たとえ正義を回復し悪人を罰するために軍隊が武器を手にしたとしても、人間の手段で打ち負かすことはできません。なぜなら、人間の力は、天主の恩寵がなく、超自然的なビジョンによって活力を与えられなければ、不毛であり、効果がないからです。

しかし、3世紀以上にわたって続いてきた欺瞞、つまり、人類が人間を神格化し、イエズス・キリストから王冠を奪うという高慢さと厚かましさをもって以来、陥ってきたこの欺瞞と戦う方法があります。そしてこの方法は、天主のものであるがゆえに不可謬です。つまり、苦行、犠牲、断食に立ち戻ることなのです。ランニングマシンで走る人々の虚しい苦行でもなく、地球を人口過剰にしないために自ら子どもを生めなくする人々の愚かな犠牲でもなく、グリーン・イデオロギーの名の下に肉を断つ人々の空虚な断食でもありません。これらはまたもや、私たちの良心を沈黙させる悪魔的な欺瞞なのです。

真の苦行とは、聖なる四旬節が私たちに実りある形で実行するよう励ますものであり、私たち一人一人が、自分自身や隣人、国家、そして教会人の犯した罪の償いのために欠乏や苦痛を捧げることなのです。

真の犠牲とは、私たちが感謝の念を持って自らを主の犠牲に一致させ、私たちが当然受けるべき苦痛に霊的な意味と超自然的な目的を与えることなのです。真の断食とは、体重を減らすためではなく、情熱に対する意志の優越、肉体に対する霊魂の優越を回復するために、自ら食べ物を絶つことなのです。

この聖なる四旬節の間に行う苦行、犠牲、断食は、私たちのために、愛する人々のために、隣人のために、祖国のために、教会のために、全世界のために、そして煉獄の霊魂たちのために、父なる天主の御怒りを止めることのできる唯一の恩寵をもたらす償いの価値を持つことになるのです。なぜなら、私たちが御子の犠牲と一致することで、サタンが私たち全員に引き起こし、主に背くことで罪へと導いたものを、超自然の宝に変えるからです。

この宝は、壊された秩序と侵害された正義を回復させるでしょう。この宝は、私たちがアダムにおいて、また個人的に犯した過ちを修復するでしょう。地獄の混沌(chaos)には天主の秩序(kosmos)を、この世のかしらには王の中の王を、高慢には謙遜を、反逆には従順です。「あなたたちは実にそのために召されている。キリストはあなたたちのために苦しみ、その足跡を踏ませるために模範を残されたのである。(中略)そのお体に私たちの罪を背負って十字架の木につけられた。それは私たちを罪に死なせ、正義に生きさせるためである」(ペトロ前書2章21-25節)。

この黙想の締めくくりに、灰の水曜日のミサの書簡を引用します。これは預言者ヨエルの書から取ったもので、天主の民を戒め、回心を呼びかける仲介者、取り次ぎ者としての司祭の役割を思い起こさせます。これは多くの聖職者が忘れてしまった役割であり、彼らが、時代遅れの教会、時代についていけない教会、苦行と断食で主を「なだめ」なければならないといまだに信じている教会の遺産だと信じて、拒否さえしているものです。

「シオンではラッパを吹き鳴らし、断食を命じ、厳かな集会を行え。前庭と祭壇の間で、主に仕える司祭は、泣いてこう言え。『主よ、主の民をあわれみ、主の遺産に恥を与え給うな、他国の奴隷となし給うな、民の中で、〈彼らの天主はどこか〉と言わぬように。主は、ご自分の地を愛し、主の民を赦し給う』。主は、民に答えて仰せられた。『見よ、私は、おまえたちに、麦と、ぶどう酒と、油を送る。おまえたちは、豊かにそれを持つ。私は、もう、おまえたちに、他国の恥を受けさせないであろう』と、全能の主は仰せられる」(ヨエル2章15-19節)。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん、時間があたえられている限り、天主に御あわれみを求め、天主の赦しを請い願い、犯した罪の償いをしましょう。なぜなら、御あわれみの時が終わり、正義の日が始まる日がやって来るからです。Dies illa, dies iræ: calamitatis et miseriæ; dies magna et amara valde.(その日こそ怒りの日、災いと不幸の日、大いなる嘆きの日)。その日、主は火をもって世を裁きに来られる。judicare sæculum per ignem.(火をもって世を裁く)

聖母と神秘家の聖人たちの戒めが、この暗黒の時に、私たちを真に回心させ、自分の罪を認め、告解の秘跡で罪が赦されるのを見、断食と苦行で罪を償うように私たちを導いてくれることが、天主をお喜びさせますように。それにより、多くの者の上に落とされるべき、天主の正義の御腕を、少数の者によって止めることができますように。アーメン。

+大司教カルロ・マリア・ヴィガノ

2022年3月2日
灰の水曜日、断食の初日
Feria IV Cinerum, in capite jejunii



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1 コメント

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苦行もいいけど、嫌なことを黙って捧げる (ヨハネ)
2022-03-09 19:19:41
数十年前のことですが、イグナチオの助任司祭だった 住田省吾神父様が四旬節の平日夕方のミサの説教で、自分で選んでする苦行よりも、外から来る苦しみを捧げる方が良い、と話されたことがあります。

確かに、イエズス様の御受難もマリア様の共贖者としての苦しみも、ご自分で選んだ苦行ではなく、御父から与えられた苦しみです。

四旬節に入りましたが、苦行を捧げるのはなかなか難しいので、四旬節の間は四方八方から来る嫌なことを黙って捧げるという過ごし方もありかなと思っています。
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