アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、2020年10月10日は聖霊降臨後第十九主日です。
「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第十九主日の説教」の動画をご紹介いたします。
今日の主日を聖として良くお過ごしください。
この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。
天主様の祝福が豊にありますように!
トマス小野田圭志神父
【説教全文】
そのとき、イエズスはまた、かれらにたとえをお話しになった。
「天の国は、自分の子のために婚宴をする王のようである。婚宴への招待者をむかえるために、王がしもべたちをおくったが、かれらは来ようとしなかった。そこで、ほかのしもべをおくって、"私は、婚宴の準備をすでにととのえ、牛も肥えたけものも屠って、準備したから、宴会に来るようにと招待者たちにいいなさい"と命じた。ところが、人々はそれを気にもかけず、一人は自分の畑に、一人は商売に行ってしまった。またほかの人はしもべたちをとらえて辱しめ、しかも殺してしまったので、王は怒って、軍隊をおくり、その人殺したちを亡ぼし、町をやきはらってしまった。それからしもべたちに、"宴会はすでに準備されたが、招待者は招待にふさわしくなかった。あなたたちは大路に行って、出会う人をみな宴会に招いて来なさい"と命じた。しもべたちは道に出て、出会う人をみな、よいも悪いも集めたので、宴席は客で一ぱいになった。客を見ようとしてはいってきた王は、一人が礼服をつけていないので、"友よ、あなたはどうして、礼服をつけずにここにはいったのですか?"ときくと、その人は答えなかった。そこで王は、給仕たちに、"この男の手足をしばって外のやみに投げ出せ。そこには嘆きとはがみとがあろう!"といった。実に、招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」。
アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2020年10月11日、聖霊降臨後第十九主日です。一緒に今日の福音の黙想をいたしましょう。
天主は愛である。愛の天主から私たちは愛されています。
先週、私たちも、天主から癒された中風の人、あの福音の病者だったことを黙想しました。私たちも、罪の床を取りさって、家に帰るつまり天国に向かって歩むという奇跡、天国の婚宴の宴会への招待を受けた者です。
実は三週間前の聖霊降臨後第十六主日の典礼では教会は「結婚式に招待されるとき、あなたは上席についてはいけない」ということを黙想しました。その次の第十七主日には、全律法と預言者とがよって立つ愛徳の二つの掟の対象がイエズス・キリストであることを黙想していました。今日はその教えを総括しようとしています。
今日、聖霊降臨後第十九の福音では、宴会に招かれる人のたとえがでてきます。実は、聖霊降臨後第二主日(日本では御聖体の荘厳祭を祝いますが)でも同じたとえがすでに語られています。今日のこの黙想をもって、カトリック教会は、さらにまた、教会が追求する目的、霊魂の救いを私たちに示しています。こうしてカトリック教会は、私たちが終末(この世の終わり)に向かって、最高の婚姻の準備をするように招いています。
【婚姻の神秘】
今日は、私たちの救霊、言い換えると天主と霊魂の永遠の一致が、何故、婚姻という印で語られ、それにたとえられているかを黙想しましょう。
今日の福音にはこうあります。「天の国は、自分の子のために婚宴をする王のようである」と。
たしかに天主御父は、天主御子の婚宴を行いました。それは、御子を人間の本性に合体させた時です。永遠の昔から天主であった御子が、時の終わりに人間の本性を取って、人間となることを望みました。
ここでよく注意して戴きたいことがあります。イエズス・キリストには、天主の本性(ナトゥーラ)と人間の本性(ナトゥーラ)との二つの本性がありますが、位格(ペルソナあるいはヒュポスタシス)は一つです。本性という言葉と位格という言葉は、別のことを意味しています。
本性とは、生まれつきそのように働くようにさせている原理のことです。人間が人間として五体をもって生き、動くようにさせているのは、人間の本性が備わっているからです。でも太郎さんと花子さんは、同じ人間の本性を持っていますが、二人の別の人です。二つの人格、二つのペルソナです。理性を持った者だけがペルソナ(位格)を持っています。動物にはありません。だからペットが悪さをしても、その責任は飼い主の人間が取らなければなりません。
天主の御言葉の位格(ペルソナ)において、二つの本性(天主の本性と人間の本性)が一つになりました。分かち難く合体しました。混同することなく、ぐちゃぐちゃになることなく、合体しました。天主本性は完全な天主として残りつつ、同時に、人間本性は完全な人間として保たれつつ、一つに結合しました。これが御托身の玄義です。
このために、天主御父は、御托身の玄義を通して御子と聖なる教会とを一つにさせつつ、御子のために王の婚宴を開いたのです。花婿である天主の御言葉の婚姻の寝室は、童貞聖母マリア様のきよらかな御胎内でした。
ここでもう一つ注意していただきたいのは、イエズス・キリストが御托身によって天主の本性と人間の本性とを一つに結合しました。これの結合によって、私たちにとてつもない大事件が起きました。私たち、一人一人の人間も天主と結合することができるという可能性が与えられたからです。注意してください。私にとってはあくまでも可能性だけです。しかし可能性が与えられただけでも人間の本性を遥かに超える素晴らしい天主の愛のプレゼントなのです。可能性であるということは、まだ完成してはいない、現実態ではないということです。それが完成するのは、私の死の時です。
ですから、第二バチカン公会議の現代世界憲章 Gaudium et spes, 22「事実、天主の子は受肉によって、ある意味で自分自身をすべての人間と一致させた。」Ipse enim, Filius Dei, incarnatione sua cum omni homine quodammodo Se univit.の中の「ある意味で」は、これをよく理解しなければなりません。
この文章の「すべての人間」を、"すでに死んで地獄に堕ちてしまった人々を除いた、今現在地上に生きている、或いは今現在天国にいる、すべての人間"であると理解したとき、「ある意味で」を「可能性として」あるいは「現実態として完成して」と理解するなら、はじめて正しい命題と言うことができます。
たとえまだキリストを信じていなくても、将来、信仰と愛徳を持ってキリストと一致する「可能性」がある、可能態にあるという意味で、キリストと一致する、ということができます。もうすでに信仰と愛徳を持っている人の場合であれば、現実に一致しているといえます。
しかし、これを絶対的な意味で「キリストは、御托身により、自分自身をすべての人間と一致させた、彼らがそれを知っていようがいまいが救われている、地獄は空っぽだ」と理解するのは間違っています。それはカトリックの教えではありません。
更に、確かに人間は大地の塵を材料として造られましたが、天主は、塵に天主の息吹を吹き込まれて、霊的存在として造りました。ですから、「天主は自分自身を私たちの大地と(あるいは地球と)決定的に一致させた」と主張するのは、カトリック教会が今まで教えてきた教えではありません。
キリストは大地と婚姻関係を結んだのではありません。人間の本性とです。
では、私たちが天主と天国で永遠の婚宴に入るには、どうすればよいのでしょうか?信仰と愛徳です。婚宴に招かれているのでその招待を受けて婚宴の席に着くということ、言い換えると、カトリック教会の末席を汚(よご)すということ、つまり、信じて洗礼の秘蹟を受けることです。
洗礼を受けて教会の一員となるだけでは足りません。婚宴の礼服を着ていなければなりません。言い換えると、成聖の恩寵の状態にいてそれを最後まで保つこと、成聖の状態で死を迎えることが必要です。
イエズス・キリストの贖いの御業が、人類を天主と結び付けるのです。この結びつきは、恐れ多い主人と卑屈な奴隷の関係ではありません。友達と友達の関係以上の関係です。それは妻と夫の親密さにたとえられます。ですからイエズス・キリストがこの地上で行った贖いの業、これは婚宴にたとえられます。
【イエズス・キリストは花婿である】
洗者聖ヨハネは、自分のことを花婿の友だと言います。
ヨハネの弟子たちが、ヨハネのもとにきて、「先生、ヨルダンのむこうで、あなたといっしょにいたあの人、あなたが証明したあの人が洗礼をさずけて、人々がみなその方へ行きます」といったとき、ヨハネはこう答えます。
「天から与えられないかぎり、人はなにものもわがもの顔にはできない。私が、"私はキリストではない""ただ彼に先立っておくられた者だ"といったことは、あなたたちにも証明できるだろう。花嫁(よめ)を待つのは花婿で、花婿の友人は、そこに立っていて、花婿の声をきいて大いに喜ぶ。これこそ、私のみちあふれる喜びである。彼は栄え、私は姿を消さねばならない」と。(ヨハネ3章)
実際に、この花婿の友人は、ヘロデの姦通の罪を咎めて婚姻の聖性を守ったがゆえに殉教しました。
イエズス・キリストご自身も自分を花婿だと言います。
「そのころ、ヨハネの弟子たちがおそばに来て、「私たちもファリザイ人も断食をするのに、なぜ、あなたのお弟子たちは、断食をしないのですか」といった。イエズスは、「花婿の友だちが、花婿といっしょにいる間、悲しんでいてよかろうか。けれども、花婿が取り去られる日がくる。その時には断食しよう。」(マテオ9:15)
聖パウロはこう言います。
「妻よ、主にしたがうように、自分の夫にしたがえ。キリストがその体であり、それをお救いになった教会の頭であるように、夫は妻の頭である。教会がキリストにしたがうように、妻はすべてにおいて夫にしたがえ。…そこで、夫も、自分の体のように妻を愛さねばならない。妻を愛する人は自分を愛する人である。だれも自分の体を憎む者はなく、みなそれを養いはぐくむ。キリストも教会のためにそうされる。私たちは、かれの体の肢体だからである。「これがために男は父と母とを離れ、妻と合って、二人は一体となる」。この奥義は偉大なものである。私がそういうのは、キリストと教会とについてである。」
福音史家聖ヨハネは、黙示録で「子羊の花嫁(よめ)」について語ります。
「ハレルヤ、天主、万物の支配者である主は王位につかれた。喜びいさもう。かれに光栄を帰そう。小羊の婚姻のときはきて、花よめは準備を終えたからである。花よめは輝く白い麻布を着ることを許された。その麻布は聖徒たちの善業である」。天使は私にいった。「小羊の婚宴に招かれた者は、幸いであると書け。」(黙示録19章)
最後の審判が終わり全てが新しくなる時、聖ヨハネはこうなると言います。
「それから私は、新しい天と新しい地とを見た。前の天と前の地とはすぎ去り、海ももうない。私は、聖なる町、新しいイエルサレム(教会のことです)が、花むこのために装った花よめのように、天から、天主のみもとからくだるのを見た。」
【典礼において示される婚姻の神秘】
この花嫁である教会が贖われる神秘は、教会の典礼歴で示されます。天主の私たちへの愛が、花婿がもつ花嫁への愛として表現されています。
御降誕の聖節は、イエズス・キリストの御托身と御降誕を祝いますが、これは天主の人間との「婚姻」です。永遠の天主が、私たち人間を愛して、人類を花嫁として愛する神秘です。
待降節では、花嫁は花婿の到来を準備します。花嫁は花婿に早く来てくれるように訴えます。アダムとエワの時から、罪を犯してしまった人類は、本当の永遠の幸せを回復させてくださる救い主の到来を待ち望みます。それは婚姻を待ち望む若き花嫁の熱望のようです。
御降誕では、救い主イエズス・キリストは、花婿のように婚姻の寝室(聖母の御胎内)から出てきます。Ipse tamquam sponsus procedens de thalamo suo. (Ps 18) 天主は、御一人子を与える程、私たちを愛されました。御一人子は、永遠の天主であるにもかかわらず、愛のゆえに人となり、私たちのうちに住まわれました。「みことばは肉体となって、私たちのうちに住まわれた。私たちは、その栄光を見た。それは、おんひとり子としておん父からうけられた栄光であって、かれは、恩寵と真理とにみちておられた。」(ヨハネ1章)
御公現の有名なアンティフォナはこう歌います。「今日、天の花婿は教会と結ばれた。何故ならキリストはヨルダン川で教会の罪を洗ったからだ。博士たちは贈り物をもって王の婚姻に席に走り、参列者たちは水からできたブドウ酒に喜ぶ。」
御降誕の聖節の終わり、2月2日の聖母の御浄めの祝日には教会はこう歌います。「シオンよ、おまえの花嫁の部屋を飾れ、しかして王たるキリストを迎え入れよ。…」
(この聖歌は Adorna thalamum tuum という歌で、御浄めの祝日に、私たちが老シメオンとなり、世の光であるイエズスを意味するロウソクを受けておこなうロウソク行列の時、この聖歌が歌われます。)
しかし、残念ながら、選ばれたユダヤの民は救い主からの招きに応じませんでした。王は「あなたたちは大路に行って、出会う人をみな宴会に招いて来なさい」と命じます。これは異邦人(ユダヤの民以外の民々)を招待することです。私たちは、皆、天主の愛のなかに招かれています。罪を離れて、私たちを愛する天主の御旨を行うように、と。
御降誕の聖節が終わると、七旬節の最初の三つの主日(四旬節が始まるまでの三主日)には、ブドウ畑で働く人を雇うたとえが語られます。この地上で生きている間、天主を愛するように、と。天主の愛の中に入り、憐みを受け、罪を犯さないように、と。
四旬節では、婚宴の礼服について黙想します。罪を痛悔すること、つまり子羊の血潮で服を洗うこと。婚宴の礼服を準備しつつ、信者は告解の秘蹟を受け、求道者は洗礼の秘蹟を受けます。いままで天主の御旨に逆らってしまったことを悔い改め、痛悔し、これからは天主を愛そうと決心します。
聖週間では特に花婿(むこ)が花嫁(よめ)である教会のためにどれほどの愛の証明(あかし)をしてくれたかを黙想します。イエズス・キリストの受けた御受難、辱め、痛み、疲労、流血、御死去は、私たちに対する天主の愛を地球の中心である十字架の上から叫んでいます。
イエズス・キリストが制定した愛の秘蹟である御聖体は、天主の聖心の燃えるような私たちに対する愛の狂気を証明しています。私たちのために全てを与え尽くす愛を見せつけています。イエズス・キリストの制定したカトリック司祭職、第二のキリストとなり、キリストのペルソナにおいて十字架の犠牲(いけにえ)を祭壇の上で再現させる司祭職、キリストのペルソナにおいて私たちの罪を赦す司祭職、これにイエズスの聖心の愛の激流を感じます。
聖パウロは言います。 「夫よ、キリストが教会を愛し、そのために命をあたえられたように、あなたたちも妻を愛せよ。キリストが命をすてられたのは、水をそそぐことと、それに伴うことばとによって教会をきよめ、聖とするためであり、また汚点もしわも、すべてそのようなもののない、輝かしく、聖く、穢れのない教会を、ご自分にさし出させるためであった。」
復活祭では、皆が成聖の恩寵の状態にあり、つまり婚宴の礼服を身に着けて、教会という「宴席」は「客で一ぱいになった」のです。
聖霊降臨の日には、イエズス・キリストは御自分の霊を、つまり愛である聖霊を私たちに賜物として与えてくださいました。天主自身である愛、三位一体の第三のペルソナ聖霊を、花嫁である教会を通して、私たちは受けました。
聖霊降臨後の主日が進むにしたがって、私たちは天主の愛によって裁かれることを黙想します。王が招かれたものに会いに来る、これは、私たちの死の時、私たちの審判の時のことです。その時、洗礼の恩寵である婚礼の服をきちんと保っているか否かによって私たちの永遠が決定します。上に行くか下に落ちるか、天国の婚宴の席に着くか、それとも、そこには嘆きとはがみとがある外のやみに投げ出されるか、が決定します。
「兄弟たちよ、霊的な念(おもい)によって自分を新たにし、義とまことの聖徳において、天主にかたどってつくられた新しい人を着なければならぬ。だから、偽りをすてて、おのおの隣人に真実を語れ、我々は互いに肢体だからである。」
私たちは、目を常に天の方に向けていなければなりません。
【遷善の決心】
私たちは天国の婚礼に招かれている、今日はその神秘を典礼の聖節に従って顧みました。花嫁である教会はどのようにしてこれを記念しているか、と。
ところで、私たちがこのことをより良く深めるために、聖母を通して、最強の手段が与えられました。それが聖なるロザリオです。
御降誕の聖節は、つまり、喜びの五玄義によってまとめれらています。四旬節の聖節は、つまり、苦しみの五玄義に詰まっています。復活祭から聖霊降臨後の聖節は、栄えの五玄義で黙想します。
ファチマの聖母は、特にこのロザリオを祈ることを毎回の御出現で私たちにお願いしました。
秋田の聖母も同様に、私たちにロザリオの祈りをするように、願われました。
「火が天から下り、その災いによって人類の多くの人びとが死ぬでしょう。良い人も悪い人と共に、司祭も信者とともに死ぬでしょう。生き残った人々には、死んだ人々を羨むほどの苦難があるでしょう。その時私たちに残る武器は、ロザリオと、御子の残された印だけです。毎日ロザリオの祈りを唱えてください。ロザリオの祈りをもって、司教、司祭のために祈ってください。・・・ロザリオの祈りをたくさん唱えてください。迫っている災難から助けることができるのは、私だけです。私に寄り縋(すが)る者は助けられるでしょう。」
天主は愛です。天主は私たちを憐み給う愛です。天主の聖心、イエズスの聖心は赦したいという大きな熱望があります。もしも私たちの心の片隅にほんの少しでも愛の印を見出すなら、天主は私たちをすぐに赦そうと思っています。
私たちは典礼を黙想することによって、そしてとりわけロザリオの玄義を黙想することによって、天主の愛の火を天からいただくようにいたしましょう。
ファチマの聖母、秋田の聖母の懇願に従って、教皇様、司教様がた、司祭たちのために祈りましょう。願わくは、司祭たちが洗者聖ヨハネのように、真の天主の子羊を指し示して、イエズスの聖心の方に霊魂たちを導きますように。
「花嫁をまつのは花婿で、花婿の友人は、そこに立っていて、花婿の声をきいて大いに喜ぶ。これこそ、私のみちあふれる喜びである。彼は栄え、私は姿を消さねばならない。」
「天の国は、自分の子のために婚宴をする王のようである。」