「助産婦の手記」
11章
お産の後、四週間たつと、憐れな母親たちは、また工場に通った。彼女たちは、もしそれに該当する労働禁止規定が、そうすることを妨げなかったなら、もはや二週間後には、勤めに出たであろう。
しかし、それでも、二三日ぐらいは、この禁止令に違反した。夫が失業しているときには、彼女たちは、何をなすべきであろうか? 彼女たちは、大抵、よい女工であったから、工場では喜んで大目に見て、再び就業させた。また労働力の過剰ということも、今日ほどには大きくはなかった。最近、この冬に、私は六人の母親に分娩させたが、彼女たちは直ぐまた工場へ行った。生れた子供たちは、果してどうなるであろうか?
私は、主任司祭とウイレ先生とに、このことについて相談した後、三人一諸に、工場主のところに行って、私たちの切なる願いを述べた。彼は、私が心配していたほど非社会的な人ではなかった。
ところが支配人は、嘲笑的な皺をよせて顔をゆがめた。『どうして愚かな人たちは、そんな子沢山なのだろう? 劣等な人的資源……』しかし工場主は、授乳室を一つ作るよう命じた。そして母親たちは、午前と午後と、三十分ずつ休憩を与えられて、赤ちゃんに乳を飲ませることができた。今は母親たちは、工場に赤ちゃんを連れて行き、授乳室の中に入れておいた。私の妹と、二、三の娘さんたちが、母親たちの就業中、交替で世話をしてやった。また数人の親切な百姓のお上さんたちは、每日ミルクを母親たちの朝食のために、進んで提供してくれた。
私たちは、赤ちゃんのお守りを、バベット婆さんに任せるつもりであった。そこでは、婆さんは、一日中、暖かい部屋にいることができ、しかも工場主は、わずかながら報酬を与えようと思っていた。しかし婆さんは、もはや、その仕事をすることはできなかった。残念ながら、婆さんは、一切合財、飲みつぶして、全くひどい状態になっていた。そして一杯の火酒を買う金もないときには、一日中、泣きわめき、そして、もう十年も経った今日でも、私を罵った――というのは、私が婆さんから、パンを奪いとったというのである。そういう日には、婆さんは、私の家に昼飯を食べにやって来た。奇妙な論法ではある! しかし、私はもちろん、昼飯をいつも喜んで食べさせてやった。
バベット婆さんは、それにもかかわらず、妊婦を不思議によく見る眼を失わずにいた。婆さんは、子供が生れそうなところへは、いつも現われて、お産の手伝いを申し出た。すると、お母さんたちは、婆さんが満足するように、一瓶のブドー酒、一壺の果実酒または火酒を与えた。それゆえ婆さんは、いつも酒を飲むためにやって来たようなものである。こういうことは、この村が、婆さんに、もはや十マルクの定時収入を与えないで、貧民院に入れて、一部屋と薪を割り当ててやってからでも、やはり続けられた。
一人の人間が、誤った道に滑り落ちて行くことは、それ自体、悲しいことではあるが、しかしこのバベット婆さんの場合は、まさに私の仕事をよりたやすくしてくれた。そのわけは、こうである。この村の母親たちの間では、妊娠中に火酒を飲む悪習が残っていた。ある人たちは、大酒をのむとお産が軽くなると言った。そして他の人々は、美しい子が生まれると言った。しかし、その母親たちが、私の教訓と火酒の禁止を、少しも重んじようとしないときには、私はバベット婆さんのことを実例として彼女たちの眼の前に示した。すなわち、あなた方は、やがてどういうことになろうとしているのか、そして特に、あなた方の子供を何になるように育てようとしているのか、よく考えて御覧なさい。そして居酒屋に入りびたっている父親を持つ子供たちが、全生徒のうちの最劣等のものでないかどうかを、一度、学校の先生に尋ねて御覧なさいと。すると、これは効き目があった。愚鈍な子供を、母親は欲しない。むしろ躾(しつけ)の悪い子供の方を、彼女たちは遙かに遙かに好むのである。
【注:妊娠中にアルコールの影響を受けた治りようもない生まれつきの愚鈍よりも、躾さえ良くすれば良くなる子供の方を好む、ということ。】
さて、授乳時間は、母親たちの授乳の励行を助けた。私が助産婦になった当時は、百人の産婦の中で、自分の子供に授乳したものは、殆んど十人もなかった。バベット婆さんには、授乳のことなどはどうでもよかった。婆さんは、産婦に、したい放題のことをさせていた。そして、その際、口実として利巧なことが言われたのであった。すなわち、授乳をすると、年を取る! 醜くなる! 暇がない!する仕事があまり多くなる! 体裁が悪い! というたぐいである。私は、一人でも母親を説得するまでには、骨の折れることがしばしばあった。しかし私は一歩も譲らずに、成功するまではベッドから立ち去らなかった。それから、産婦が一たび授乳しはじめると、彼女たちは、間もなく、そうすることが子供のためにも、いかによいものであるかということを認識し、そしてそれをさらにやり続けた。しかし、場合によっては、彼女たちをそうさせるまでには、天国にあるすべての諸聖人の助けをかりねばならないことがたびたびあった。
私たちが授乳室を作ったときには、私はもう十年も助産婦をしていた。時は、経過する――どのようにかは、人は知らない。私は、非常に喜んで助産婦をやって来た。人間は、薔薇の上に寝かされているのではない。このことは、私がこれまでに述べた事件がよく示している。しかし、私はまだそれを仲々述べ終らないのである。私が書き、かつ備忘録を覗いている間に、私はさらにますます何ものかを思い出す。それをさらに、つけ加えねばならない、そしてあのことも。しかし、何はともあれ、私は助産婦以外の何ものにもなっていなくてよかったと思う。実は、私もかつては、それとは違った考えを持っていたこともあった。しかし赤ちゃんを取り上げて、それを再び母親の腕の中に置くことのできるのは、一つの喜びである。父親が、赤ちゃんを注意深く胸に抱いて、髭だらけのキッスをその小さな顔に圧しつけて、こっそり臆病げに小さな十字を切るときも、そうである。大抵の愚かな父親は、私がそれを確かに見ていないかどうか、まず見まわす! もしも彼等が家庭の司祭として祝福を与えることは、いかに自分たちにふさわしいものであるかということを知っていたなら、そして、たとえ難産であっても、最後によい結果が得られたときには、お助け下さった天なる父の御手に接吻することができるなら、いかによかろうかと思うこともしばしばある。
親が子供を欲しがらないような場合でさえも、私はベッドのそばに坐っているのが楽しいのである。赤ちゃんが、この世に生れて来るときには、誰か多少なりとも愛情をもって挨拶する人がいればよいが。その赤ちゃんに対して、みんなが敵意を持っていなければよいが。私は、いつもこう思う。赤ちゃんの受胎した時の状態というものは、その子の全生涯を通じて、人々の前に現われるに違いない。しかも、赤ちゃんは、実に天主の使者である。それはおのおの天主から特別の使命を受けて、この世に生まれて来る。父母は、子供がその任務を果すように助けてやらねばならない。ただし天主の使者は愛と尊敬とをもって受け取らねばならない。少なくとも、私はそうしようと思う。そして、しばしば人は、母の心の中から、埋れた黄金を掘り出すことができる―まさに、そのような時に。すなわち、非常に長い心配な夜と昼には、人は多くのものを人間の心の中に目覚ますことができる。人間の心はこのような場合ほど、そんなに感じ易いことは稀である。そんなに正直で真実なことは稀である。それは、苦痛と心配とのため、私たちが普段、多かれ少なかれ、みんな持っているところの仮装と仮面を忘れ果ててしまうからである。まさにそれゆえに、私たちは、そういうときには、人間の心に、よりよく近づくことができるのである。
父親というものは、それが正しい父親である限り、大抵、バターのように心が全く柔らかである。父親は、母親がお産の時には、自分のために一緒に苦しんでいることを感じる。父母の双方にとっての喜びが――或いは父母の片方のみによって味わわれる喜びが――母親ただひとりによって、激しい苦しみをもって、購(あがな)われなければならぬとは! それゆえ、この時には、正しい夫もまた、妻のために非常に心配する。しばしば母親自身よりも遙かに心配し、昂奮しているのである。それゆえ、私は夫たちを大抵、室外に居らせて置き、そして時々彼等をして母親に何か親切な言葉をかけさせるのである。ところが、もし彼等が、いつも私たちの廻りにいると、彼等はやたらに心配するため、ただ不安と興奮とをまき起すだけである。残念ながら、こういう父親とは全く違った人々もいる。
隣村では、全く新しい一人の助産婦が、他所から引越して来た。ウッツという婦人だ。彼女は、そこの助産婦と激しい競走をし、そして今や、この村の私の領分にまで、はいって来ようと試みた。助産料金は、現在十二マルクであるが、彼女は十マルクでよいと申し出た。それは、ただ人々を獲得するためのものだった。ところが、後で彼女は臨時経費を請求するから、結局、私たちよりも多くの費用がかかることになる。彼女は、幾つかのお産を私から横取りした。しかし、婦人たちが、儲けたと思った喜びは、束の間であった。というのは、その助産婦は、自分に対するサーヴィスを非常に多く要求したので、人々は、やむなく彼女に非常に色んなものを、非常にしばしば運んで出さねばならなかった。それから、揚句のはて、臨時経費が請求された。
春になって私は、補足講習を受けることができた。私は職業に関しては、いつも最高水準を保っていたいと思う。私たちのように、いやしくも人命に関する職業にたずさわっている場合には、自分の知識を広め深めるためには、いくら熱心に努力しても足りるということはない。最近、私がある同僚と会ったとき、彼女はこのことを、いくら嘲笑しても足りないようであった。しかし、私はそんなことは、一向気にしない。どこでも 人間の欠点は現われるものだ。