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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

ピオ十一世回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」無神的共産主義について Divini Redemptoris

2020年02月12日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

ピオ十一世回勅「ディヴィニ・レデンプトーリス」-無神的共産主義について-
カトリック社会文化研究所監修 岳野慶作訳

無神的共産主義に関する回勅

使徒的聖座とのあいだに平和と交わりとを保っている総主教、主席司教、大司教、および、その他の教区長ヘ
ピオ十一世

尊敬すべき兄弟たちよ、敬意と使徒的祝福とを受けられんことを。
序言

1. 贖い主に関する約束は(Divini Redemptoris promissio)、人類の歴史の第一頁をあかるく照らし、より幸福な日に対する希望は、失楽園の悔恨をやわらげ、患難のなかを歩む人類を支えた。しかし、時が満ちたとき、世の救い主は地上にあらわれ、全世界に、新しい文明、すなわち、キリスト教文明を開いた。この文明は、それまで、一部の特別にめぐまれた諸民族が大きな努力によって達成したすべての進歩よりも、完全なものであった。

2. しかしながら、原罪の悲しむべき遺産である善と悪との激しい争いは、この世に絶えることがなかった。かつての誘惑者は、まことしやかな約束によって、人類を欺いて止まなかった。それゆえ、現在の革命まで、あらゆる時代を通じて、動乱が相次いで起こったのである。しかし、すでに勃発し、いわば、ほとんどいたるところに、大きな脅威を与えている現在の革命は、その広さと激しさとから見て、教会に対する以前の迫害の経験を凌ぐものである。数多くの民族全体が、ふたたび野蛮な状態に落ちこむ危険にさらされている。しかもこの野蛮な状態は、贖い主が降臨したとき、世界の大部分がおちいっていた野蛮な状態よりも恐ろしいものなのである。

3. 尊敬すべき兄弟たちよ、このきわめて恐るべき危険とは、諸兄がすでにさとっているように、社会の秩序をくつがえし、キリスト教文明の根底までもなぎたおそうとしている過激で無神的な共産主義である。

第一章共産主義に対する教会の立場

4. <以前の誤謬断定>このような危険を前にして、カトリック教会は、沈黙することができなかったし、事実、沈黙を守らなかった。真理、正義、および、共産主義によって否定され攻撃されているあらゆる永遠の善を防衛する使命をおびている使徒的聖座は、声明を発することを怠らなかった。知的諸団体が、人類の文明を、倫理と道徳とのきずなから解放しょうと企てた時代からすでに、余の先任者たちは、人類社会の非キリスト教化によって生ずる種々の結果について、明白に、世人の注意を喚気したのであった。共産主義に関しては、一八四六年、余の尊敬すべき先任者で聖なる追憶をとどめているピオ九世は、その後『シラブス』によって確認された荘厳な声明によって、これを誤謬と断定し、「共産主義と呼ばれるこの悲しむべき理論は、自然法そのものに、根本から反している。このような理論をひとたび受けいれるならば、あらゆる権利、制度、所有、および人類社会そのものまでも、全く崩壊するにちがいないと述べている。その後、余の先任者で、不朽の追憶をとどめているレオ十三世は、その回勅『クオド・アポストリチ・ムネリス』のなかで、共産主義を「人類の心髄をおかして、これを滅ぼす致命的なペスト」と定義している。レオ十三世は、明敏にも、この技術的進歩の時代に、大衆が無神主義におちいっているのは、そのもとをただすならば、数世紀前から、科学を信仰生活と教会生活とから分離しようと努めている哲学であることを示したのである。

5. <現教皇自身の行録>余もまた、余の教皇在位の間に、しばしば、憂慮にたえないほど増大して行く無神主義の潮流を極力指摘した。一九三四年、余が派遣した救援使節がソヴィエト連邦から帰ったとき、余は、全世界に向けて行なった特別な演説において、共産主義に抗議した。余の回勅、『ミゼレンティッシムス・レデンブトル』、『クァドラゼジモ・アンノ』、『カリターテ・クリスティ』、『アチェルバ・アニミ』、『ディレクティッシマ・ノービス』において、余は、ロシア、メキシコ、およびスペインにおいて勃発した迫害に対して、厳重な抗議を行なった。余が、昨年、万国カトリック出版物博覧会、スペインの避難民に与えた謁見、降誕祭を機会として発したメッセージなどにおいて行なった訓辞は、いまなお人々の記憶に残っていると思う。モスクワからキリスト教文明に対する戦いを指揮している教会のもっとも激烈な敵たちでさえ、その言葉と行為とによる絶え間ない攻撃によって、教皇庁が今日もなお忠実にキリスト教の殿堂を防衛していること、および、この世の他のいかなる公権よりも頻繁かつ適切に共産主義の危険に対して警戒を発していることを証明しているのである。

6. <新しい回勅の必要>以上のように、しばしば発せられた警告にもかかわらず、また、尊敬すべき兄弟たちよ、兄らが、余の大いなる満足のうちに、最近数度にわたって発した司牧教書と共同教書とによって、右の警告を忠実に伝え、かつ注釈したにもかかわらず、巧妙な扇動者の宣伝により、危険は、日に日に重大化しつつあるのである。それゆえ、真理の師である使徒的聖座の慣例にしたがい、もっと荘厳な文献によって、あらたに声明を発することは、われわれの義務であると信ずるのである。その上、このような文献は、全カトリック教界の要望に添うものである。余の声明の反響は、偏見にわざわいされない精神と人類の善をまごころから望む心が存在するところには、いたるところに、聴取されるにちがいないと確信する。まして、余の言葉は、今日、破壊的思想によって生じた苦い果実を目撃することによって、いたましくも確認されているのである。余が予見し、予告した結果は、恐ろしく増加している。これらの結果は、すでに共産主義の支配下にある国々に現実に生じているし、世界の他のすべての国々にも生ずる恐れがあるのである。

7. かようなわけで、余は、とくにボルシェヴィズムにあらわれている無神的共産主義の諸原理を、あらためて、簡潔に、綜合的に述べ、その行動の諸方式を示したい。そして、これらのあやまった諸原理に教会の明白な教義を対立させ、真に「人間的な国」であるキリスト教文明が、どのような手段を
用いたならば、この悪魔的な災害をのがれ、人類の真の福祉のために、さらにますます発展することができるかを、あらためて強調したいと思うのである。

第二章共産主義の理論と結果
第一節理論

8. <誤った理想>今日の共産主義は、過去における同種の運動よりもあらわに、誤った贖罪観をふくんでいる。正義、平等、労働における兄弟関係などに関する誤った理想は、その理論全体、その活動全体に、ある種の誤った神秘主義をしみこませている。この神秘主義は、まことしやかな約束にまどわされた民衆に、躍動と情熱とを与え、これを伝染させてゆく。とくに、この世の財の分配が悪いために、異常な悲惨がひろがっている現代のような時代においては、そうである。しかもこの誤った理想が、ある種の経済的進歩の原理であったかのように宣伝されている。しかし、この進歩は、現実に生じたとしても、他の多くの原因によって説明することができる。たとえば、これまで工業生産をもたなかった国々における工業生産の強化、自然の巨大な資源の利用、わずかの費用で巨大な仕事をなしとげる過酷な方式の採用などがこれである。

9. <マルクスの進化論的唯物論>共産主義が、ときどき、きわめて魅惑的な外見のもとにかくしている理論は、今日ではかってマルクスが唱えた弁証法的唯物論と唯物史観とに立脚している。しかも、ボルシェヴィズムの理論家たちは、かれらだけがその公正な解釈を保持していると主張している。この理論の教えるところによれば、ただひとつの現実、すなわち、盲目的なカをそなえた物質しか存在しない。植物、動物、人間は、その進化の結果である。これと同様に、人間社会も、独自の法則にしたがって進化する物質のひとつの外観もしくは形相にほかならない。人間社会は、さからうことのできない必然の成り行きにより、諸種のカの絶えまない紛争を経て、究極の綜合、すなわち階級のない社会を目ざして進む。このような理論においては、天主の観念をいれる余地のないことは明らかであり、精神と物質、霊魂と肉体との間の区別は存しない。死後における霊魂の存続はありえず、したがって、来世の希望は全く存しないのである。共産主義者は、唯物論の弁証法的側面を強調して、世界を究極の綜合に向かわせる紛争は、人間の努力によって促進することができると主張する。それゆえ、かれらは、社会の種々の階級のあいだに生ずる反目を激化するよう努力する。階級闘争とその憎悪と破壊とは、人類の進歩のための十字軍のように見なされる。これに反して、この徹底した暴力に反抗するあらゆる力は、その性質のいかんを問わず、人類の敵として撲滅しなければならない。

10. <人間のペルソナ(人格)と家族との運命>その上、共産主義は、倫理的行為の精神的原理である自由を人間から剥ぎとり、人間のペルソナ(人格)から、その尊厳を構成するもの、盲目的な本能の攻撃に対して倫理的に抵抗するものを奪うのである。個人は、集団に対して、人間のペルソナが自然にそなえている権利をなにひとつ主張することができない。共産主義においては、人間のペルソナは、機構のなかのひとつの歯車にすぎない。人間相互の関係については、絶対的平等を主張し、天主によって立てられた階級と権威とをことごとく放棄する。両親の権威さえも放棄するのである。人間のあいだに存する権威とか従属とか呼ばれるものは、集団に由来するものであって、集団こそ、その第一の、そして唯一の源である。個人は、自然の資源もしくは生産手段に対するなんらの所有権も認められない。これらは他の財の源であり、これを私有するときは、人間の他の人間に対する支配を招くからである。かようなわけで、この種の私的所有は、経済的奴隷制度の第一の源であるから、徹底的に廃止しなければならないことになるのである。

11. このような理論からすれば、人間の生命には神聖な特質、精神的特質はみとめられない。それで、結婚や家族も、必然的に、特定の経済体系の果実であり、純然たる合意にもとづく民事的ものである。その結果、個人や集団のわがままをのがれる法、倫理的性質をもつ結婚の縁の存在は否定され、この縁の不解消性は放棄される。とくに、共産主義は、婦人を家庭に結びつける特殊な縁は、全く認めない。婦人解放の原理を宣言し、これを家庭生活と子供の世話とから引きはなし、男性と同じ資格で、公共生活と集団的生産労働とに投げこむ。そして、家庭と子供との世話は、集団に委ねるのである。最後に子供を教育する権利は共同体の独占的権利であると考え、これを両親から奪う。両親は、集団の名において、その代理者として、この権利を行使することができるにすぎない。

12. <社会の行方>このような唯物論的諸原理の上にきずかれた社会はどうなるであろうか。経済的機構の階級制度以外の階級制度をもたない集団となるにちがいない。そして、その唯一の使命は集団労働による財の生産であり、その唯一の目的は、各人が「その力に応じて与え、その需要に応じて受ける」楽園において、地上の財を享楽することである。共産主義は、個人を集団労働のくびきのもとに束縛する権利、いなむしろ、自由裁量権を集団にみとめる。集団は、個人の個人的福祉をかえりみることなく、かれらの意志に反して、必要とあらば暴力をもって、この権利を行使することができる。そうなれば、倫理的秩序も法的秩序も、現に動いている経済的機構の放射物にすぎない。これらの秩序は、変化し老朽する地上的価値の上に土台をおいているにすぎない。要するに、共産主義者は、新しい時代を開き、盲目的な進化の結果である新しい文明、「天主のない人類」をはじめようと主張するのである。

13. 最後に、集団的理想が、万人にとってひとつの現実となり、この進化のユートピア的な終末がおとずれ、社会には階級の相違がみとめられなくなったとき、今日プロレタリアに対する資本家の支配の道具となっている政治的国家は、その存在理由を完全に失い、「ひとりでに消滅する」にちがいない。しかしながら、この黄金時代が到来するまで、共産主義は、国家と政治権力とを、その目的を達成するために、もっとも有効で、もっとも普遍的な手段と見なすのである。

14. 尊敬すべき兄弟たちよ、以上が、過激で無神的共産主義が救済と贖罪とのメッセージとして世界に告げようとする新しい福音である。これは、理性と天主の啓示とに反する誤謬と詭弁とにみちた体系であり、社会の根底そのものを破壊するがゆえに社会秩序を壊乱する理論であり、国家の真の起源、性質、目的をはじめ、人間のペルソナの諸権利、その尊厳、その自由を無視する体系である。

第二節伝播
15. <目もくらむほどの約束>しかしながら、永年前から科学的に論破され、現実のできごとによって否認されているこの体系が、これほど迅速に世界各地にひろまることができるのは、どういうわけであろうか。そのわけは、共産主義の真相を洞察することのできる人が、きわめて少ないからである。多くの場合、目もくらむほどの約束の仮面をかぶっている誘惑に負けるのである。共産主義は、勤労階級の境遇の改善しか望まず、自由主義経済によって生じた現実の弊害を除外し、富の一層公正な分配を達成する(これらの目標がきわめて正当であることは疑う余地がないが)という口実のもとに、世界的な経済危機を利用して、原則としては唯物論と恐怖政治とを排斥する社会環境にさえ、その影響をおよぼすことに成功している。どのような誤謬にも一面の真理が存するのであるが、余がさきに一言口した真理の側面が、時と場合とに応じて、たくみに浮き彫りにされて示され、必要な場合には、共産主義の諸原理と諸方式との忌まわしく非人間的な残忍性がかくされるのである。このようにして、すぐれた精神をもっている人々を誘惑し、これを使徒に仕立てて、共産主義体系の内面的誤謬を発見する知力のない青少年に働きかけるのである。共産主義の扇動者たちは、抜け目なく、人種間の反目、種々の政治的体系から生ずる分裂と対立、および、天主からはなれた学問陣営の混乱などを利用して、諸大学にも浸透し、えせ科学的議論の上に、その理論の諸原理を樹立しようとしているのである。

16. <自由主義は共産主義の道を開いた>共産主義が労働大衆から無批判に迎えられるにいたった理由を理解するためには、労働者は、自由主義経済によって宗教と道徳とを放棄させられたので、共産主義の宣伝に好都合であったことを想いおこさなければならない。作業班の制度ができてからは、労働者は、祝日にもっとも大切な宗教上の義務を果たすひまさえ与えられなかった。工場の近くに教会を建てるよう骨折ることがなかったし、司祭の任務を容易にする努力も払われなかった。むしろ、その反対に俗化主義を助け、その事業を継続した。つまり、余の先駆者たちと余自身とがしばしば指摘した誤謬の遺産を取得したのである。このように、すでに広い範囲にわたって非キリスト教化された世界に、共産主義の誤謬が伝播するのは、おどろくべきことではない。

17. <大がかりな宣伝>その上、共産主義の思想が、国の大小、文明の程度を問わず、あらゆる国々に浸みこみ、地球上にこれをまぬがれた部分はひとつもないほど、敏速にひろまったのは、前代未聞の真に悪魔的な宣伝のおかげである。この宣伝は、ただひとつの中心によって統轄され、種々の民族の条件にきわめてたくみに適合させられているし、大きな財力、巨大な組織、国際大会、よく統制された無数の勢力を利用している。その上、この宣伝は、小冊子、雑誌、映画、演劇、およびラジオを通じて、小学校から大学にいたるまで行なわれ、徐々に、あらゆる環境、最良の環境にまで侵入しているので、その害毒は、ほとんど知らず知らずのうちに、絶えずますます、人々の精神と心のなかに浸み込んで行くのである。

18. <出版物の謀略的な沈黙>共産主義の伝播に大いに貢献している第三の要因は、全世界の非カトリック出版物の大部分が、謀略的に沈黙を守っていることである。余は、謀略という語を用いる。なぜなら、日常生活のささいなできごとを報道して飽くことがない出版物が、ロシア、メキシコ、スペインの大部分におこった恐るべきできごとについて長い間沈黙を守り、モスクワの指導下にある共産主義という広汎な世界的組織について、比較的わずかしか報道しないということは、謀略によるというほかはないからである。この謀略は、ある程度、短見な政策に鼓吹されたものであるが、永年前からキリスト教的社会秩序を破壊しようと努めている種々の秘密結社に援助されているのである。

第三節悲しむべき結果

19. <ロシアとメキシコ>しかしながら、この宣伝の悲しむべき結果は、われわれの眼前に展開されている。共産主義が確立され、支配しているところにおいては(ここで余は父としての特別な愛情をもって、ロシアとメキシコとの人民を想いうかべる)、共産主義は、あらゆる手段を使って、キリスト教とキリスト教文明との根底までも破壊し、人々の心、とくに、青少年の心から、そのすべての追憶を消し去ろうと努力した(これは、共産主義が公然と声明したところである)。司教、司祭はあるいは銃殺され、あるいは非人道的に処刑された。一般の信徒も、宗教を弁護したかどで嫌疑をかけられ、虐待され、追跡され、牢獄に引かれ、裁判所に引き出されたのである。

20. <スペインにおける共産主義の暴虐>また、余の親愛するスペインにおけるように、共産主義のわざわいが、まだその理論のあらゆる結果を感じさせるにいたっていないところにおいても、共産主義は、悲しむべきことであるが、暴虐をほしいままにしたのであった。一、二の教会、どこそこの修道院を破壊したというだけではない。できることなら、キリスト教のすべての教会、すべての修道院、そのすべての形跡をも、たとえ、それが、芸術的に、科学的に、どんな著名な記念物であっても、破壊しようとしたのである。兇暴な共産主義者は、司教たちをはじめ、数千の司祭、修道者、修道女、しかも、他の人々よりも熱心に労働者と貧者のために尽くしていた者も殺したばかりでなく、さらに多数の信徒を、あらゆる階級にわたって殺戮した。これらの信徒は、今日でも、善良なキリスト者であるという一事だけで、あるいは、少なくとも、共産主義の無神諭に反対したという一事だけで、今日もなお、毎日のように、殺戮されている。そして、この恐るべき破壊は、現代では可能とは思われないほどの憎悪、残虐、蛮行によって遂行されたのである。スペインにおけるこれらの事件が、明日は他の文明諸国家において、くりかえされるかも知れないと思うとき、健全な判断をもっている人、その責任を自覚している要人のうち、恐怖におののかない者はないにちがいない。

21. <共産主義の自然の結果>さて、このような残虐は、普通、あらゆる大革命にともなうー時的な現象、あるいは、あらゆる戦争に見られる偶発的な激越行為であると言うことはできない。いな、これは、内的拘束をことごとく棄て去った体系の自然の結果である。人間には、個人の場合でも、社会をいとなんで生活している場合でも、拘束が必要である。未開民族も、天主が人間のたましいに刻んだ自然法の拘束に服したのであった。そして、古代の諸国民は、この自然法をもっと立派に守ることによって、今日もなお皮相な歴史家を必要以上におどろかせているほど、偉大な水準に達したのであった。しかしながら、人間の心から天主の観念が消えるときは、奔放な情欲は、これを駆って、もっとも野蛮な残虐行為に走らせるのである。

22. <天主的なものへの戦い>悲しいことに、われわれの眼前には「天主的なすべてのものへの戦い」が展開されている。このような戦いが、人間によって冷静に意欲され、学問的に仕組まれたのは、有史以来、これが最初である。共産主義は、その性質上反宗教的であり、宗教を「人民の阿片」であると考える。そのわけは、死後の生活について語る宗教的諸原理は、プロレタリアがこの世というソヴィエト的楽園の実現を日ざして努力することを妨げるからである。

23. <恐怖政治>しかしながら、自然とその作者とを踏みにじって、不都合をきたさないわけはない。共産主義はその目的を、純然たる経済的領域においてさえも、実現することができなかったし、将来においても実現することができないにちがいない。ロシアにおいて、幾世紀にわたる長い惰性から、人間と事物とをゆすぶり、しばしば良心的でない方法で、いくらかの物質的成功をおさめたことは事実である。しかしながら、われわれは、信用するに足る証言(その一部分は最近のものである)によって、共産主義は、その約束したものを現実に達成しなかったことを、知ることができる。その上、恐怖政治が、数百万の人間を奴隷状態におちいらせている。経済的領域においてさえ、倫理や倫理的責任感を無視することができないのであるが、共産主義のような唯物論的体系においては、これを問題にする余地がない。これに代わるものといえば、恐怖政治があるだけである。そして、われわれは、その実例を、現在ロシアで見せつけられている。ロシアにおいては、かつての陰謀と闘争との同志たちが、相互に殺し合っている。しかも、この恐怖政治をもってしても、結局、道徳の腐敗を食いとめることができず、社会機構の崩壊を防止することができないのである。

24. <ロシア人民に注ぐ慈父の愛>このように述べたからといって、余が慈父の情を寄せているソヴィエト連邦の諸民族を一括して非難するわけではない。余は、かれらの多くが、しばしば同国の真の利益に無関心な人々によって強制された首かせのもとに呻吟していることを知っているし、他の多くの人々も、まことしやかな希望に欺かれていることを知っている。余が告発するのは体系であり、その作者であり、その扇動者である。かれらは、ロシアを、数十年前からきずかれてきたひとつの神学を実地にこころみるに適した地であると考えたのであり、そこから、この神学を全世界に宣伝しつづけているのである。

第三章教会の明瞭な教理
第一節天主と人間

25. 尊敬すべき兄弟たちよ、これまで、過激で無神的な共産主義の誤謬と激烈で欺瞞的な行動手段とについて述べたが、これから、兄らがすでに知っており、また、理性と天啓とが、《万民の師》なる教会の仲介によってわれわれに教える《人間的都市》《人間的社会》の真の概念について、簡略に述べたいと思う。

26. <最高の現実なる天主>すべての存在の上に、唯一、最高、至上の存在、すなわち、万物の全能なる創造者、すべての人間の限りなく賢明で正義な審判者にてまします天主がある。この最高の現実にてまします天主は、共産主義の不用心な虚偽を、もっとも絶対的に断罪するものである。事実、人間が天主を信ずるから天主が存在するのでない。むしろ、天主が存在するからこそ、真理に対して目をとじない人は、天主を信じ、天主にその折りをささげるのである。

27. <人間と家族との性質>余は、キリスト教的教育に関する回勅(ディヴィニ・イリウス・マジストリ』一九二九年十二月三十一日)のなかで、人間に関する理性と信仰との教えの根本の諸点について略述した。人間は、精神的で不滅な霊魂をもっている。人間は、一つのペルソナ(人格)であって、創造主により、くすしくも、肉体と精神とを賦与されている。人間は、古人が言ったように、真の《小宇宙》、すなわち、小さな世界であって、それだけで、生命のない広大な宇宙よりも、はるかに価値のあるものである。人間にとり、現世においても来世においても、天主だけが最終の目的である。人間は、成聖の聖寵によって、天主の子の尊厳にまで高められ、キリストの神秘体を通して天主の国に入れられた。そのため、天主は人間に、いろいろの特権を数多く与えたもうたのである。生存する権利、肉体を保全する権利、生活に必要な手段を用いる権利、天主によって指定された道をとおって最終目的を追求する権利、財産を所有する権利、および、この所有財産を使用する権利などがこれである。

28. 結婚と、これを自然にしたがって利用する権利とは、天主から出たものである。したがって家族の構成とその基本の特権とは、創造主御自身によって決定され、確立されたものではない。余は、キリスト教的結婚に関する回勅、および、すでに一言した教育に関する回勅において、これらの問題について、もっと詳しく述べたのであった。

第二節社会の本質

29. <人間と社会との間に存する権利と義務>これと同時に、天主は、人間が、その自然の要求するところに従い、社会をいとなんで生活するよう定めたもうた。天主の御計画によれば、社会は、人間がその目的を達するために利用することができ、また、利用しなければならない自然的な手段である。なぜなら、社会は人間のためにつくられるのであって、人間が社会のためにつくられているわけではないからである。だからと言って、個人主義的な自由主義が考えているように、社会を個人の利己的な利用に委ねてはならない。むしろ、個人と社会とは、有機的に一致し、相互に協力することによってこそ、この地上に、万人のために、真の幸福をきずくことができるのである。その上、人間が自然からさずかった個人的素質と社会的素質は、みな、この社会のなかで発達をとげることができるのである。しかも、これらの素質は、現在の直接な利益を超えて、天主の完全性を社会のなかに反映すべきものであるが、それは、人間が孤独であるかぎり、不可能である。社会のこの目的は、要するに、人間に依存している。すなわち、人間は、天主の完全性の社会における反映をみとめ、賛美と礼拝とによって、これをその創造主に帰したてまつらなければならないのである。人間だけが、人間のペルソナだけが、理性と倫理的に自由な意志とを与えられているのであって、集団それ自体は、これを与えられていないからである。
30. であるから、人間は、天主の意志によって市民社会に負っている義務をのがれることができない。そして、権威の代表者たちは、個人が、正当な理由なくこれを拒む場合には、その義務の履行を強制的に要求することができるのである。これと同じように、社会もまた、創造主が人間にさずけた個人的な権利を奪うことができない。これらの権利のうち、もっとも重要なものは上にあげたとおりであるが、社会は、原則的に言って、個人がこれらの権利を利用することを不可能にしてはならない。要するに、究極において、地上のすべての事物が人間のペルソナに秩序づけられ、人間の仲介を経
て創造主に帰せられるということは、理性とその要求とに合致しているのである。異邦人の使徒が、救霊の経理について、コリント人に書きおくったことは、人間に、人間のペルソナに、立派にあてはまるのである。「すべてはあなたたちのものである。しかし、あなたたちはキリストのものであり、キリストは天主のものである」(IIコリント3・23)共産主義は、人間と社会との関係の秩序をくつがえして、人間のペルソナを貧困にするのであるが、理性と天啓とは、人間のペルソナをこれほど高くあげるのである。

31. <経済と社会との秩序>レオ十三世は、経済と社会との秩序につき、労働問題に関する回勅(『レールム・ノヴァルム』一八九一年五月十五日)のなかで、種々の指導原理を述べた。余もまた、社会秩序再建の回勅のなかで、これらの諸原理を、現代の要求に適合させて論述した。その上、余は、私有財産の個人的ならびに社会的性格に関する教会の千古不磨の教義を強調し、労働権と労働の尊厳、資本を所有する人々と労働者との間に存すべき協力関係、厳密な正義から見て労働者自身とその家族のために支給さるべき貸金について説明した。

32. この同じ回勅において、余は、道に反する自由主義がわれらをおとしいれた破滅から今日の世界を救う手段は、階級闘争でも、恐喝でも、まして、国家権力の専制的な乱用でもなく、社会正義とキリスト教的愛徳との鼓吹する経済的秩序の回復にあることを示した。余は、健全な繁栄なるものは、社会に必要な階級制度を尊重する健全な協同組合主義の真の諸原理の上に土台をおかねばならないこと、および、すべての協同組合組織は、社会の共同善にもとづき、調和と一致とを保ってつくられなければならないことを示した。民事的権力の主な、そして、もっとも公正な使命は、とりもなおさず、社会のあらゆる力の調和と協調とを、有効に促進することにあるのである。

33. <国家の特権>カトリック教の教えは、この有機的な協調と平穏な調和とを保障するために、国家に天主と人間との諸権利の用心深い防衛者、先見の明をそなえた防衛者としての尊厳と権威とを認める。しかも、これは、聖書と教父たちとが、きわめてしばしば説いたところである。「市民社会において、すべての人は同じ権利をもっているのであって、正当な階級制度なるものはひとつも存在しない」というのは誤りである。すでに述べたレオ十三世の諸回勅、とくに、国家権力に関する回勅と国家のキリスト教的構造を論じた回勅とを想いおこすだけで十分である。これらの回勅は、理性と信仰との諸原則をあきらかに述べている。カトリック者は、これによって、過激な国家観の誤謬と危険とを予防することができるにちがいない。権利を剥奪し人間を奴隷化すること、国家とその権力との超絶的な第一の起原を否定すること、集団的テロリズム(恐怖政治)のために公権をはなはだしく濫用することなどは、みな、自然倫理と創造主の意志との要求するところに反するのである。市民社会と人間のペルソナとは、その起原を天主に発するものであり、また、天主によって相互に調整されているのである。それゆえ、この二つのうちどちらも、他方に対する義務をのがれることができないし、また、他方の権利を拒否するとか、減ずるとかすることができない。両者の関係の根本的な線を定めたのは天主である。共産主義は実理と愛徳との不動の諸原理に土台をおく天主の掟のかわりに、人間の独断から発する憎悪にみちた党の政策を強制するとき、不法な僣奪を行なうのである。

第三節教会の教えの美しさ
34. 教会は、この明瞭な教義を説くにあたって、贖罪主の御降誕の折、天使たちがベトレヘムの洞窟の上で歌った「天主に光栄、人々に平安」という幸いなメッセージを実現すること以外に、目的をもつものではない。教会は、永遠の福楽を準備するために、この地上において、できるかぎり、真の平和と真の福楽とを実現したいとこいねがっている。しかし、この平和は、善意の人々に保留されているのである。この教義は、種々の党派あるいはこの党派と結びついている体系の極端な誤謬からも、誇張からも、同じように、かけはなれたものである。この教義は、いつも、正義と真理とのもつ均衡を保っている。この教義は、理論的には中庸を要求し、実践的には理論の漸進的実現を保障する。そして、そのために、すべての人の権利と義務、権威と自由、個人の尊厳と国家の尊厳、従属者の人格と権力の天主的起原などを協調させようと努力する。この教義はまた、正しい服従、自分と自分の家族と自分の祖国とに対する秩序ある愛、および、他の家族と他の民族とに対する愛を要求する。この愛は、すべての人間の第一原理であり最終日的である父なる天主の愛にもとづく感情である。この教義は、地上的善に対する節度ある心配と永遠の善に対する配慮とを分離することがない。この教義は、天主にてましますその創始者の「まず天主の国とその義とを求めよ。その他のものは、ことごとく、ありあまるほど、与えられるであろう」(マテオ6・33)という御言葉に従って、地上的善に対する心配を永遠の善に対する配慮に従属させるけれども、人間的な事物に対して無関心であったり、物質的な進歩と利益とを阻害したりすることはない。それどころか、もっとも合理的な方法、もっとも有効な方法で、これを助け、これを支持するのである。教会は、経済と社会との領域において、特定の技術的体系を提出したことはない。それは、教会の任務ではないからである。しかし、教会は、ある点に関しては、明白に、種々の指針を与えた。これらの指針は、時代と場所と民族とに応じて、具体的にさまざまの適用をなすことができるものであり、社会の健全な進歩を保障する良道を示すものである。

35. この教義を真実に認識している者はみな、その英知と価値とをみとめている。偉大な政治家たちが「さまざまの社会的体系を研究したけれども、回勅『レールム・ノヴァルム』と『クァドラゼジモ・アンノ』とのなかに述べられている諸原理ほど賢明なものを見出すことができなかった」と断定しているのは、もっともなことである。非カトリック国、非キリスト教国においてさえも、教会の教義の社会的価値の偉大さが認められている。たとえば、極東のキリスト教徒でないある偉大な政治家は、つい一カ月前、教会はその平和とキリスト教的兄弟愛とに関する教義によって、諸国家間の平和の確立ときわめて骨の折れるその維持とに、きわめて貴重な貢献を行なっていると断定してはばからなかった。最後に、キリスト教世界の中心(ローマ)に到達する公正な報告によれば、共産主義者でさえも、完全に腐敗していないならば、教会の社会的教義の説明を聞くときは、かれらの首領や教師の理論よりすぐれていることを認めるのである。情欲のために盲目となり、憎悪のために真理の光明に目を閉じる人々だけが、頑固に、教会の教義に敵対しているのである。

第四節 教会はその教義を実践しなかったか

36. しかしながら、教会の敵たちは、教会の教義にたたえられている英知
をみとめながら、教会がその行為を教義に合致させることができなかったことを非難し、結論として、他の道を求める必要があると断定する。この非難がいかに不実不当なものであるかは、キリスト教の歴史全体がこれを立証している。ここでは、ただ、特有な事実をいくつか想いおこさせるに止めたい。すべての人間は、どんな人種、どんな身分に属する者であっても、真実に普遍的に兄弟関係によって結ばれていることを、最初に、しかも、以前の世紀には見られなかった情熱と確信とをもって、勇敢に宣言したのはキリスト教である。こうして、キリスト教は、血なまぐさい暴動によってではなく、その教義のもつ内的力によって、すなわち、ローマの倣慢な貴婦人に、その奴隷がキリストにおける姉妹であることを認めさせることによって、奴隷制度の廃止に強力に貢献したのであった。キリスト教は、人間に対する愛のために人間となり、「大工の子」(マテオ13・55、ルカ6・3)となり、みずから「大工」となった天主の御子を礼拝する。筋肉労働を神聖なるものであるとして、その真の尊厳をみとめたのはキリスト教である。この労働は、以前には軽蔑されていたものであって、善良なマルクス・トゥリウス・キケロは、当時の世論を要約して、「すべての職人は、いやしむべき仕事に従事している。なぜなら、作業場には高貴なものがないからである」(De officiis, 1, I. ch.XLII.)という言葉を臆面もなく書きつづっている。今日では、どんな社会学者も、このような言葉を発するのを恥ずかしく思うにちがいないのである。

37. 教会は、その原理を忠実に実行して、人類を再生させた。教会の感化のもとに、感嘆すべき慈善事業、あらゆる種類の職人と労働者との協同組合が出現した。前世紀の自由主義は、これを嘲笑した。その理由は、中世紀の組織だからというにあった。ところが、今日、これらの組織は現代人の感嘆するところとなっており、種々の国で、これを復活させようと努力している。教会は、他の動向がその事業を阻害し、その有益な感化を妨害するようになってからも、今日まで迷っている者に警告してやまなかった。余の先任者レオ十三世が、いかほどの確信とカと忍耐とをもって、当時もっとも強大な諸国家を支配していた自由主義が猛烈に反対していた労働者の組合権を、要求したかを想いおこすだけで十分であろう。現在においても、教会の教義は、表面にあらわれているよりも大きな影響をおよぼしている。なぜなら、事実に対する思想の力は、目に見えるものではなく、測定しがたいものではあるが、たしかに偉大だからである。

38. われわれが安心して断言することができるのは、「教会は、キリストにならい、あらゆる世紀を通じて、万人に善を施してきた」ということである。もし、諸民族の長たちが、教会の教えとその母心の警告をあなどらなかったならば、社会主義も共産主義も生まれなかったにちがいない。けれども、かれらは、自由主義と俗化主義との土台の上に、他の社会的建物をきずこうと考えた。これらの建物は、最初、強力かつ偉大に思われた。しかし、まもなく、堅固な土台を欠いていることが明らかになった。これらの建物は、みじめにも、次から次へと崩壊して行く。唯一の親石であるイエズス・キリストの上にきずかれていないすべてのものは、宿命的に崩壊せざるをえないのである。

第四章 政治と手段

39. 尊敬すべき兄弟たちよ、以上が教会の教義である。この教義は、社会的ことがらにおいても、他の諸問題においても、真の光明をもたらすことのできる唯一の教義であり、共産主義のイデオロギーに対する唯一の救いの教義である。しかしながら、使徒聖ヤコボの「この教えによって行動せよ。みずから欺いて、これを聞くだけにとどまってはならない」(ヤコボ1・22)という警告にしたがい、この教義を、日常生活に実践しなければならない。それゆえ、現在、もっとも急を要する仕事は、現に準備されている危険な革命をさけるために、適切で有効な救治策を強力に実施することである。やみの子らが唯物無神主義の宣伝のために日夜努力している情熱を見て、光の子らが信心をはげまされ、天主の栄誉のために、同様の熱誠、いなむしろ、さらに大きな熱誠を鼓吹されるにちがいないことを、余は深く確信するものである。

40. それでは、この危険な敵に対してキリストとキリスト教文明とを防ぎまもるためにはなにをなし、どのような救治策を用いなければならないであろうか。余は、一家団欒のなかにある父親のように、いわば、親密に、今日の大いなる戦いが要求している義務について語りたい。余は、教会のすべての子らに、いな、教会から遠ざかっているすべての子らにも、この慈父の警告を発するものである。

第一節キリスト教生活の復興
41. <根本的な救治策>根本的な救治策は、今日においても、教会史上もっとも激しい嵐のおこった時代と同じように、キリストに属することを光栄としている人たちが、福音の原理にしたがって、公私の生活をまじめに改新し、真に地の塩となって、人間の社会が完全に腐敗するのを防止することである。
42余は、この霊的復興のなぐさめにみちたしるしを、いたるところにみとめ、「すべてのすぐれた賜物と完全な恩寵」(ヤコポ1・17)との与え主にてまします光明の御父に、深い感謝の念をささげざるをえない。この霊的復興は、現代において聖性のもっとも高いいただきに達した特別に選まれた霊魂や、この光明のいただき目ざして勇ましく歩みつづける数多い霊魂に見られるばかりでなく、社会のあらゆる階級、もっとも文化水準の高い階級のなかにさえ、生活体験をともなう信心の復興となってあらわれている。このことは、余が、つい最近、すなわち去る十二月二十八日、教皇庁科学学士院の再組織にあたって発布した自発教書『イン・ムルティス・ソラチイス』(聖座公報(A.A.S.)Vol.XXVIII(1939),p.421-424)のなかで述べたところである。

43. しかしながら、この霊的復興の仕事に関しては、なすべきことがたくさん残っていることを、率直に認めなければならない。カトリック教国においてさえ、いわば名ばかりのカトリックにすぎない者があまりにも多い。かれらのうち、あまりにも多くの人は、信ずるのを誇りにしている宗教のもっとも本質的な務めは多少忠実に果たしているが、宗教的知識を完成し、もっと内的な確信、もっと深い確信を獲得しようと心がけてはいない。まして、外見と、天主の御目のもとにそのすべての義務を理解して実行するまっすぐで純潔な良心の内的美しさとを、一致させるように生活するよう努力することがない。このような表面だけの宗教、中身のない見せかけだけの宗教は、天主にてまします救い主が、この上もなく嫌いたもうところである。なぜなら、救い主は、すべての人が、「霊と真実によって」(ヨハネ4・23)御父を礼拝することを欲したもうからである。その奉ずる信仰を真実に、まじめに実践しない者は、今日吹きまくっている迫害の嵐とはげしい暴風雨とに、永く堪えることができないにちがいない。このような人は、世界をおびやかすあらたな大洪水によって、悲惨にも押しながされ自己の亡びを招くとともに、キリスト者の名を嘲笑の的となすにちがいないのである。

44. <地上の財宝からの解脱>尊敬すべき兄弟たちよ、余は、ここで、人類の現状に特別にあてはまる聖主の二つの教えを、とくに強く力説したい。それはすなわち、地上の善からの解脱と愛の掟である。「幸いなるかな、心の貧しき人々」(マテオ5・3)。山上の説教において、聖主の口から最初に発せられたのは、この言葉であった。この教訓は、地上の善と快楽とをむさぼり求めている唯物主義的現代においては、いつの時代におけるよりも必要である。キリスト者はみな、富者も貧者も、つねに天を見つめなければならず、「われわれは地上に永久の国をもつものではなく、来たるべき国を求めている」(ヘブレオ13・14)ことを決して忘れてはならない。富者はその幸福を地上の善のなかに求めてはならず、その努力の最良の部分を、これらの善の獲得にささげてはならない。むしろ、貧者は、自分を、最上の主に決算報告をなすべき管理者にすぎないと考え、その富を、天主が善をなすために与えたもうた貴重な手段として使用し、福音の教え(ルカ11・41)にしたがって、余分のものを貧者に分配することを怠ってはならない。さもなければ、使徒聖ヤコボのきびしい宣言がかれら自身とかれらの財産との上に実現するのを見せつけられるにちがいない。「富者よ、あなたたちの身に及ぶにちがいない禍いのために涙を流し、泣き叫べ。あなたたちの富は腐敗し、あなたたちの衣服は虫に食われ、あなたたちの金銀はさびついている。しかも、そのさびは、あなたたちに不利な証言をなし、火のように、あなたたちの肉を食いあらすであろう。あなたたちは、終末の日にあたって、怒りの宝をたくわえたのである」(ヤコボ5・1~3)。

45. 貧者もまた、愛と正義との綻にしたがって、必需品を獲得し、自分たちの境遇を改善するよう努めながらも、つねに、「心の貧しい人」(マテオ5・3)でなければならない。すなわち、その考えのなかでは、霊的善を地上の善と快楽との上におかなければならない。この地上から、悲惨、苦しみ、患難などを消し去ることは、決してできないにちがいないこと、だれも、外見的には大変幸福な人々でさえも、この法則をのがれることができないことを想わなければならない。つまり、すべての人に、忍耐、永遠の幸福に関する天主の御約束によって心を励ますキリスト教的忍耐が必要である。余は、聖ヤコボとともに言いたい。「兄弟たちよ、主の来たりたもうまで忍耐せよ。見よ、農夫は、地の貴重な果実をのぞみ、この果実が秋の雨と春の雨とに浴するまで、忍耐して待つではないか。あなたたちも忍耐し、心を堅固にせよ。なぜなら、主の降臨は近いからである」(ヤコボ5・7~8)。このようにして「貧しい人は幸いである」という聖主のなぐさめにみちた御約束が成就するにちがいない。それは、共産主義者のそれのように空しいなぐさめでも、いつわりの約束でもない。それは、生命の言葉であり、深い真理であって、まず地上で、ついで永遠に、完全に成就するのである。天国はすでに貧者に属している。なぜなら、「天国はあなたたちのうちにあるからである」(ルカ6・20)。聖主は、これらの御言葉と天国の希望に関する教えとによって、富者がその財宝のなかに求めても見出しえない幸福を貧者は立派に見出すことができることを、宣言したもうのである。富者は、もっと多くの財宝を所有したいという飽くことのない欲望のために、いつも不安であり、なやまされているのである。

46. <キリスト教的愛徳>しかしながら、現在の病弊をもっと直接に救治するもっと有効なくすりは、愛の掟である。余は、「忍耐ぶかく親切な」(コリント前13・4)キリスト教的愛徳について語りたい。この愛徳は、はずかしめを与える保護者ぶりや、もったいぶりをさけさせる。この愛はまた、キリスト教のはじめから、貧者のうちの貧者、すなわち奴隷たちをキリストのものとなしたのであった。余は、聖ヴィンセンシオ・ア・パウロ会から最近設立された社会奉仕の偉大な諸組織にいたるまで、霊肉両方面にわたる慈悲の事業に献身した人々、および、現に献身している人々みなに感謝する。労働者や貧しい人々は、キリストの御聖徳に吹鼓されたこの愛の恩恵を感じるにつれて、キリスト教はその効力を失ったとか、教会は労働を搾取する人々に味方するとかいうような偏見を棄て去るにちがいない。

47. しかしながら、自分に責任のある原因によらないで悲惨にあえぐ無数の貧困者を見、そのそばに、他人のことは考えないで遊惰にふけり、つまらないことのために莫大の金を浪費する富者があるのを見るにつけて、余は、正義がまだ十分に守られていないばかりでなく、愛の提もまだ理解されておらず、毎日の生活に実践されていないことを認めて悲しまずにはいられない。それゆえ、尊敬すべき兄弟たちよ、余は、キリストの真の弟子たる者の貴重なしるしであり、特徴であるこの神聖な掟を、言葉とペンとをもって、もっとよく認識させるよう努力することを望むものである。この愛の綻は、苦しむ人々のなかにイエズス御自身を仰ぎ見るように教えるとともに、天主にてまします救い主がわれわれを愛したもうたように、兄弟たちを、自己の生命を放棄し、これを犠牲にするまで愛する義務を課するものである。最後の審判の宣告において、至上の審判者が発するなぐさめにみちた言葉、しかしまた恐るべき言葉を、しばしば瞑想しなければならない。「わが父に祝せられた人々よ、来るがよい。なぜなら、私が飢えたとき、あなたたちは食物をめぐんだからである。......まことに、あなたたちに言う。このもっとも小さい兄弟の一人になしたことは、みな、私になしたのであると」(マテオ25・34~40)。しかしまた仰せられるにちがいない。「呪われた人々よ、私のそばを去って、永遠の火に入るがよい。なぜなら、私が飢えたとき、食物をめぐまず、私が渇いたとき、飲物をめぐまなかったからである。......まことに、あなたたちに言う。この小さき者の一人になさなかったことは、私になさなかったのであると」(マテオ25・41~45)。

48. それゆえ、永遠の生命を獲得し、貧者を有効に救うことができるためには、もっと質素な生活に立ちかえり、現代の世界がきわめてゆたかに提供する快楽、しかも、しばしば有罪な快楽を断たなければならない。一言でいうならば、隣人に対する愛のために自己を忘れなければならない。聖主が「新しい綻」(ヨハネ13・34)と呼びたもうたキリスト教的愛徳は、再生をもたらす力をもっている。これを忠実に守るならば、霊魂のなかには世俗の知らない内心の平和が生ずるにちがいなく、人類をなやます悪弊を有効に救治することができるにちがいない。

49. <厳密な正義の義務>しかしながら、愛徳が公正真実であるためには、いつも、正義を念頭におかなければならない。使徒は、われわれに、隣人を愛する者は律法を完了した者である、と教えている。そして、その理由を説明して、次のように述べている。「姦淫してはならない、殺してはならない、盗んではならない、偽証してはならない、このほかにも掟はあるが、隣人を自分のように愛せよという言葉につづまるのである」(ロマ13・9)。使徒によれば、すべての義務は愛というひとつの掟に帰一するのであるから、この徳はまた、殺してはならない、盗みを犯してはならないというような厳密な正義の義務をも支配する。労働者が厳正な権利として要求することのできる給料を、これに支払わない自称愛徳なるものは、真の愛徳とは全々ちがったものである。それは口先だけの愛徳であり、にせの愛徳である。労働者が正義の権利として要求することができるものを、施しとして与えてはならない。いくらかの贈与を慈善として与えることによって、正義の要求する重大な義務をのがれることは許されない。愛と正義とは、しばしば同一のことがらに関して、しかも、ちがった側面から義務を課することがある。労働者は、かれら自身の尊厳を意識し、他の人がかれらに果たすべき義務について、特別に敏感になる権利がある。

50. それゆえ、余は、とくにキリスト者である経営者と実業家とに訴えたい。あなたたちの仕事は、しばしば、きわめて困難である。なぜなら、あなたたちは、幾世代にもわたって害悪をおよぼした不正な経済体制の過失を、重い遺産として負っているからである。しかし、余は、あなたたちに向かって、責任を考えよ、と言いたい。一部のカトリック者間において是認されている慣例が、イエズス・キリストの宗教に対する信頼を動揺させるもととなったことは、不幸にして、あまりにも明白な事実である。かれらは、キリスト教的愛徳は、労働者が所有しているある種の権利の是認を要求していることを理解しようとしなかったのである。あるところでは、幾人かのカトリック経営者は、余の回勅『クァドラゼジモ・アンノ』が、その所属する教会で朗読されるのを阻止することに成功したのであったが、かれらの策動をなんと評したらよいであろうか。余自身が推奨した労働運動に対して、現在まで反対して止まないカトリック実業家たちについては、なんと言ったらよいであろうか。ときどき、教会が是認した所有権を濫用して、労働者から、正当な賃金と、かれらが所有する社会的権利とを踏みたおした者のあったことは、なげかわしいことではなかろうか。

51. <社会正義>事実、交換的正義のほかに、社会正義なるものがあるのであって、この社会正義は、経営者も労働者も背くことのできない義務を課するのである。共同体の成員にむかって、共同善に必要なすべてのものを要求するのは、社会正義の役割である。しかしながら、生命のある有機体において、その各部分、各肢体に、その機能を果たすに必要なものを与えることによって、体全体の需用をみたすように、集団全体においても、その各部分、各肢体に、すなわち、ペルソナとしての尊厳を有する人間に、それぞれの社会的役割を果たすに必要なものを与えなければならない。社会主義の実現は、平和と秩序とのうちに、経済生活全体の深い活動を生ずるにちがいなく、そうすることによって、人体の健康が、有機的活動の調和のとれた、有益な同時活動によって示されるように、社会的体の健康が示されるのである。

52. さて、社会正義は、労働者が適正な貸金によって自分自身の生活と家族の生活とを保障することができること、......労働者が、つましい財産を獲得することができ、真のわざわいである全般的な赤貧を予防することができるように配慮すること、......公私の保障制度によって、労働者の老衰、病気、あるいは失業の際に、これを助けること、......などを要求する。以上述べたことの要約として、余は、回勅『クァドラゼジモ・アンノ』のなかで行なった宣言をくりかえしたい。「社会経済の機構は、その成員全体にもおのおのにも、自然と産業とのもたらすあらゆる資源、および、社会生活の真に社会的組織がかれらにもたらすあらゆる財貨を与えるとき、はじめて健全に組織されて、その目的を達成することができるのである。これらの財貨は、適正な生活の要求をみたし、人々をある程度のゆとりと文化とに高めるに十分でなければならない。このゆとりと文化とは、賢明に用いるならば、善徳のさまたげになるかわりに、その実行をいちじるしく助けるのである」。

53. 賃金制度においてますます痛感されることは、正義はみなが一緒に実行しないならば、個人だけでは守ることができないということである。正義を一緒に実行するには、使用者を相互に結ぶ種々の制度を用いて、労働者に対して守らなければならない正義と相容れない競走をさけさせなければならない。したがって、企業家と経営者との義務は、正義を実践する正常な手段となるこれらの必要な制度を促進し、維持することである。しかしながら、労働者もまた、使用者に対する愛と正義との義務を記憶しなければならない。労働者がよく心得ていなければならないのは、これらの義務を尊重することによって、もっとよく、かれら自身の利益を守ることができるということである。

54. 余が、余の回勅『クァドラゼジモ・アンノ』のなかで述べたように、経済生活全体を考えるならば、堅固なキリスト教的基礎の上に立ち、状況に応じたさまざまな形のもとに組織され、相互に連結された職業団体、すなわち、いわゆる『職業組合』によらないでは、社会経済関係に、正義と愛と相互援助を確立することができないにちがいない。

第二節社会的教義の研究と普及
55. この社会的活動にもっと大きな効果をもたらすには、教会の教義の光にてらし、天主によって教会のなかに立てられた権威の楯に守られながら、社会の諸問題を、つねにますます研究し、普及させることがどうしても必要である。一部のカトリックの社会経済の領域における行動に物足りないところがあるとしたら、その理由は、しばしば、これらのカトリックが、この領域に関する諸教皇の教えを十分に知らず、十分に瞑想していないからである。それゆえ、社会のあらゆる階級にわたって、もっと深い社会的教育を発達させることが絶対に必要である。それも、知的教養の種々の段階に適応させ、とくに、労働階級のあいだに教会の教えを最大限に普及させるために、あらゆる配慮、あらゆる努心を払わなければならない。人々の精神は、カトリックの教義のもっとも安全な光明によって照らされなければならない。人々の意志は、この教義を倫理的生活の規準となし、これにしたがって、社会のさまざまな義務を、良心的に実行しなければならない。そうするならば、キリスト教生活における矛盾、断層をさけることができるにちがいない。この矛盾、この断層は、余がしばしば慨嘆したところのものであり、一部の人たちが、外見は宗教上の義務を忠実に果たしているように見えても、なげかわしい二重良心を露呈し、労働、産業、商業あるいは仕事の面において、キリスト教的正義と愛との要請にあまりそぐわない生活を送るのは、そのためである。しかも、その結果、弱い人につまずきをあたえ、悪意のある人々に、教会を非難するよい手がかりを与えることになるのである。

56. この復興の事業に対し、カトリック出版物は、大きな貢献をなすことができる。出版物は、まず、種々の魅力ある形式のもとに、社会的教義をますますよく認識させるよう努力しなければならない。敵の活動について正確な、しかも十分に豊富な情報を提供し、種々の国々において効果をあげた戦いの方法をかかげ、共産主義者たちが使用して、すでに、誠実な人々さえもその陣営に引きいれることに成功した奸策と欺瞞とを警戒させるために、有益な暗示を与えなければならない。

第三節共産主義の奸策を警戒せよ
57. 余は、昨年五月十二日の訓話において、この点を強調した。しかしながら、尊敬すべき兄弟たちよ、余は、あらためて、特別に、諸兄の注意を促す必要があると思うのである。無神的共産主義は、はじめのうち、その真実の姿を露呈して、その好悪ぶりを遺憾なく発揮した。ところが、すぐさま、このような方法では人民を離反させるにすぎないことに気がついた。それで、戦術をかえ、あらゆる種類の欺瞞により、その本心を、それ自体善良で魅力のある思想のかげにかくしながら、民衆をひきつけようと努力しているのである。たとえば、共産主義の首領たちは、みなが平和を望んでいるのを見ると、世界平和運動のもっとも熱心な推進者、宣伝者をよそおうのである。しかしながら、かれらは、他方においては、流血の惨をひきおこす階級闘争を刺激し、平和の内的保障が欠けているのを感じて、無際限な軍備にたよるのである。また、共産主義のにおいのしないさまざまの名称のもとに、組織や雑誌をおこし、この方法によらないでは接触することのできない環境に、その思想を浸みこませようとしている。その上、かれらは、はっきりしたカトリック団体、宗教団体にまで浸入しようとして謀略をめぐらすのである。たとえば、かれらは、その好悪な原理を少しも放棄していないにかかわらず、かれらのいわゆる人道的領域、愛の領域において、ときには、キリスト教の精神と教会の教義とに完全に合致したことを提案して、カトリックの協力を要請している。その上、もっと信仰があつく、文明のすすんだ諸国においては、共産主義は、もっと穏健な姿をとり、宗教の信奉をさまたげず、良心の自由を尊重すると信じこませるほど、欺瞞をたくましくするのである。最近ソヴイエトの法制にある種の変更が行なわれたことを指摘して、共産主義は天主に対する戦いのプログラムを放棄しようと結論する者さえあるのである。

58. 尊敬すべき兄弟たちよ、信徒が欺かれることのないように留意してほしい。共産主義は内面的に邪悪であって、キリスト教的文明を救いたいと望む者は、いかなる領域においても、これと協力するのを受諾することができないのである。もし、だれかが誤謬におちいり、その国における共産主義の勝利に協力したとすれば、その人は、まっさきに、その迷いの犠牲になって、たおれるにちがいない。その上、共産主義が侵入するのに成功した地方が、キリスト教文明の古さと偉大さとによって著名であればあるほど、『無神者』たちの憎悪は、破壊的となるにちがいないのである。

第四節祈りと苦行
59. しかしながら、「もしも主が都市を守りたまわないならば、これを守る者の労苦は空しい」(詩編124・1)。それゆえ、尊敬すべき兄弟たちよ、余は、最後のきわめて強力な救治策として、諸兄の教区に、祈りとキリスト教的苦業との二重の精神を、できるだけ有効に促進し、深めるようすすめる。使徒たちが、かれらが悪魔つきを悪魔から救い出すことができなかったのはなぜかとたずねたとき、聖主は、「この種の悪魔は、祈りと断食とによらなければ追い出すことができない」(マテオ17・20)と答えたもうた。今日人類をなやましている害悪は、祈りと苦業との聖く普遍的な十字軍によらなければ、克服することができないにちがいない。余は、特別に、男女の観想修道会に切願と犠牲とを倍加し、教会のために、現在の戦いにおける強力な支えを、原罪なき童貞の力づよいとりなしによって、天に求めるよう願いたい。原罪なき童貞は、その昔蛇の頭をふみくだきたもうて以来、つねに「キリスト者」の確実な防衛者、打ちかちがたい「助け」にてましますのである。



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