テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より
人である聖体
聖体は私の兄弟である
礼拝 私たちは聖体の中にいらっしゃる私たちの兄弟であるイエズスを堅固な信仰をもって礼拝し、深い感謝の念をもって敬わなければならない。愛と、やさしさと、熱心とに満ちたイエズスは、私たちと結ばれた兄弟の契りを永遠につなごうとして、今ここに聖体の中においでになるからである。
私たちは真心から、イエズスが私の兄弟であることを信じているだろうか。天主の御ひとり子が、その被造物の兄弟となるまでにへりくだられたことを信じているだろうか。被造物である人間が、創造主の兄弟とされるまでに高められたということを、まことに信じているだろうか。ああ、しかし、それはまことにそうであったのである。
聖アウグスチヌスは次のようにいった。『彼こそは造られざる御父の御胸の中に永遠から永遠においでになる天主の御ひとり子であった。ところが私たちの兄弟となるために、私たちと同じ被造物の性を受け、御母の胎内を過ぎて、天からおくだりになったのである』と。
このようにして、ひとつのペルソナのうちに人性は天主性と合わされ、天主の御子は人の子となられた。それゆえ天主の御子は、人として同じ性、同じ血を有している多くの兄弟をもたれるに至ったのである。天主の御ひとり子は人類の兄となられた。すべての人、人である以外には主と共通するものを何ひとつ持たない者でも、主の弟とされたのである。そればかりではない。主はご自身がおとりになった同じ人性をもっている私たちに、ある意味でその天主性をも分け与えて、私たちを天主の子らとし、なお完全にご自身の弟とされた。これによって、私たちは主と人性を同じくするばかりでなく、主と同じ天主の生命にあずかって、天国の家督をいっしょにする身分となった。聖書に『天主は予知したまえる人々を御子の姿にあやからしめんと予定したまえり。これ御子が多くの兄弟のうちに長子たらんためなり』とあるのはこのことである。
だから私たちとイエズス・キリストとの兄弟的関係は、人性と恩恵とのふたつの基礎の上に建てられている。すなわち主が私たちからとられた人性と、私たちに与えられる天主性とのふたつ、言いかえるなら主がおいでになって私たちとお分かちになったこの朽ちるはずの生命と、現世においては恩恵をもって、天国においては光栄をもって私たちを飾られる天主の生命とのふたつによって、 との兄弟的関係が成り立つ。 そしてこの関係は、聖体によって継続され、保証される。すなわち、よみがえられたイエズスは、私たちと同じご肉身と御血、人としてのご霊魂と、また人であるすべての性とを聖体の中に有しておられ、聖体によって天主の性を私たちに与え、これを保護し、これを養われるのである。
私たちは、私たちの最上の光栄、最大の幸福である、このように真実で尊い兄弟の契りを結ばれた主に深く感謝しながら申しあげよう。『イエズスよ、天主の御言葉、いと高き者の御ひとり子、わが天主なるイエズスよ、主の光栄は限りない。これに反して私たちは、いともあさましく虚無であるのに、御身は私たちの兄とおなりになった。主は聖であって、私たちは罪人なのに、御身と私たちとは同じ肉体をもつことになった。私たちは天において御身と同じ父をもち、地においてもまた同じ母をもつ光栄を与えられた。ああ、わが兄よ、わが骨肉よ』と。
感謝 主の信じがたいほどの御いつくしみ、私たちを兄弟としてくださる最も真実で、偽りない愛を考えよう。なんのために主は私たちの兄弟となられたのか。それは義となさる主と、義とされるであろう私たちとが、同一の聖徳を分けるためではないだろうか。まさにこのためにだけ、主は私たちのひとりとなって私たちを兄弟と呼ぶことをいとわれなかったのである。主は兄弟の名にふさわしくなるため、また、聖パウロもいったように、私たちの弱点をいたわるために、『罪を除くのほか、万事において、私たちと同じく試みられる者』となられたのである。
実に、主のご生涯を見るなら、どれほどそれが私たちの生涯と同一であったかがわかるであろう。主は私たちの貧しい家、粗末な食物、困難な労働をお分かちになった。主は飢えと渇きと暑さと寒さをお感じになった。さらに特別に私たちの試練と艱難、すなわち憎悪、讒言(ざんげん)、迫害、憂い、恐怖、疲労などをも知り、いろいろな心の苦悩、たとえば忘恩、背信、遺棄、別離の悲しみなども経験された。またそのご肉身に加えられた暴力については、主の受けられた無法な打擲(ちょうちゃく)、非道な取り扱いのありさまは、かつて人間が受けたことがないほどのものであったといっても言い過ぎではない。
光栄のうちにおいでになる今日でも、主はなお私たちの兄弟であることをお望みになる。主は私たちがこれをよく理解するために、復活のあと、御墓に行った婦人たちに、すぐに、『行きてわが兄弟たちに告げよ』とおっしゃった。そして聖体の秘蹟をもってこの荒涼たる地上に戻られたのである。主は弱く、貧しく、無力にして、反対を受け、讒言(ざんげん)され、迫害され、裏切られ、捨てられ、冒瀆されながら、どこにおいても私たちのひとりとして存在を続けられる。
実に、主は私たちの兄弟、私たちのひとりである。主は兄として私たちを導き、私たちを保護し、私たちを助け、天のふるさとと、そこにおいでになる私たちの天父とを私たちに語られる。そして、懐かしい天国にはいる日まで、主の御家、すなわち教会は、主とともに私たちを宿し、主の食卓はまた同時に私たちの食卓でもあって、私たちが主とともに分けるパンは、主が最後の晩餐にあたってまず最初に食されたパンである。
これ以上に真実な、親密な、そしてまた幸福な兄弟の生活が他にあるであろうか。私たちは聖櫃の中においでになる主を兄弟として愛し、聖体拝領によって主を求め、主と一致するようにしよう。
償い イエズスが兄弟たちに売られたのは、ただしるしとしての旧約のヨゼフの物語としてだけでなく、実に悲しむべき現実であった。
だれが主を銀三十枚で売りたてまつったのか。それは主と同じ屋根の下に眠り、食卓を共ともにし、一緒に親しく生活して主に兄弟と呼ばれた者のひとりではなかっただろうか。だれが主を今日聖体の秘蹟において、あるいは自分の卑しい欲情に、あるいは憎むべき冒瀆者の手に裏切っているのか。ああ主の食卓に列し、平和の接吻を主になし、ともにパンを裂きながら、アベルよりも正しく、ヨゼフよりも罪のない主の御血を悪魔にわたす偽兄弟は、いったいなんぴとであろうか。
これらすべての憎むべき背信の行ないが今も行なわれていることを思い、兄弟としての愛とまこととを主に示して、尊い兄弟の悩む聖心をお慰めしよう。
祈願 肉身の兄弟に対すると同じような真実、熱心、献身的な愛をもって隣人を愛することができるよう、愛徳の賜物を主にこいねがおう。そのためには、犠牲をいとわず、謙遜、親切でなければならない。イエズスは聖体の秘蹟の中で、どのようにあなたに対されるだろうか。『わがなんじらを愛するごとく、なんじら互いに相愛せんことを。これわが命なり』とおっしゃったのは、主が聖体を定められたときのことであった。だから聖体拝領に際して、特に隣人に対する愛徳の賜物を求めなければならない。
実行 互いに熱心に祈ろう。特に目下の者のために。