ルフェーブル大司教の公開書簡 その10
第10章 エキュメニズム(キリスト教一致運動)
現在かなりのカトリック信者が満足しているこの思想の混乱には、特に信仰に対する危険な風潮が存在しています。さらにそれが危険なのはそれが愛徳を装っているからなのです。この用語(エキュメ二ズム)は、1927年スイスのロザンヌで開催されたある会議の間に浮上し、彼らが、この言葉の意味に全ての辞書が与えている“エキュメ二ズム:全てのキリスト教会を単一の教会に再合併させようとする運動”という定義に従うならば、そのことだけでも、カトリック信者は警戒しなければならないでしょう。
私たちは互いに矛盾した原理を一致させることなど出来ません。それは明らかです。真実と誤謬を、一つにするというやり方で、結合させることなど出来ません。それは誤謬を取り入れ、それから真実の全てあるいは一部を捨て去ることによらないかぎり、そうです。エキュメ二ズムは自己矛盾を含むものです。
この用語は、あの第二バチカン公会議以来、とても流行になってしまい、一般的言葉遣いにまで入り込んだほどです。人々は大学におけるエキュメ二ズム、コンピューター上のエキュメ二ズム、その他いろいろについて、多様性と折衷主義への傾倒または好みを言い表すために話します。
最近宗教用語においてエキュメ二ズムは非キリスト教にまで広げられ、直ちに行動に移されてしまいました。西フランスのある新聞はこの展開的過程の進み様について完璧な例を与えています。シェルブール地方のある小教区ではカトリック市民が建築業で働くためにやってきたイスラム教徒を世話しています。これは愛徳の行動ゆえに彼らカトリック市民は単に褒められるべきです。しかしながら次の段階でイスラム教徒はラマダンの断食を行うための場所を要求しました。キリスト教徒たちは彼らに自らの教会の地下室を提供しました。その後あるコーラン学校が開校しました。2年後キリスト教徒たちは“コーランからの引用章句と聖福音の節からなる共通の祈り”をかこんで クリスマスを共に祝うためにイスラム教徒たちを招きました。見当違いの愛徳はこれらのキリスト教徒たちを誤った交際関係に導いたのです。
リールではドミニコ会士たちはある礼拝堂をイスラム教徒たちにモスクとして改装させられるように提供してしまいました。ヴェルサイユでは“イスラム教徒たちの礼拝所を購入”するために町のいくつかの教会内で献金がなされました。他に二つの聖堂がルーべ (Roubaix) とマルセイユからイスラム教徒のために提供され、アルジェントオィユのある教会も同じく引き渡されました。カトリック教徒たちは-イスラム教という-キリストの教会に対立する最悪の敵の使徒になっているのです。そして彼らは自らのお金をモハメッドに捧げているのです。フランスには400以上のモスクが存在しているそうですが、多くの場合、イスラム教徒の建設にお金を与えていたのはカトリック教徒たちです。
現在すべての宗教は、教会内部で市民権を持っています。あるフランス人の枢機卿は、祭儀用の僧服に身を包み最前列に座る数人のチベット仏教僧たちの前でミサを捧げ、彼らの前でお辞儀をし、司会者は“僧侶様方が聖体祭儀において私たちと分かち合いをされます”とお知らせしていました。レンヌ (Rennes) のある教会では仏陀の礼拝が執り行われました。イタリアでは20人の修道士が仏教徒によって禅の手ほどきを荘厳に受けました。
このような現代行われている宗教折衷主義の例を果てしなく私は引き合いに出すことが出来ます。私たちは、探し求めている教会聖職者を会長とする多くの会が発展し、いろいろな運動が生まれているのを目の当たりにします。例えば「あらゆる霊性を愛のうちに混ぜ合わせる」ことを打ち立てることを目ざす会です。或いは、マルセイユの有名な保護の聖母教会 (Notre Dame de la Garde) をキリスト教徒、イスラム教徒、そしてユダヤ教徒たちの為の一神教的礼拝の場所へ変更させる計画、幸いにも平信徒のグループによって計画は中止になりましたが、そのような仰天すべき計画を耳にします。
厳密な意味での、つまりキリスト教徒の間での用いられる意味でのエキュメ二ズムは、聖体祭儀をプロテスタントと共同のものに組織させました。たとえばストラスブールで起きたように。英国国教会の信者たちが彼らの「聖体的晩餐式」(Cène eucharistique)を執り行うためにシャルトルのカテドラルに招かれました。シャルトルでも、ストラスブールでも、あるいはマルセイユでも執り行うことが認められていない唯一の祭儀、それは聖ピオ5世によって制定された典礼によるミサ聖祭を執行することなのです。
この全ての出来事から、このような躓きを与える儀式を大目に見ている教会の当局を目にするカトリック信者は、いかなる結論を導き出せるでしょうか? それは、全ての宗教に同じ価値があること。彼は仏教徒たちあるいはプロテスタントたちのところでも、救霊を非常にうまく達成することができるだろうということ。そして、彼は聖なる教会への信仰を失う危険にさらされるのです。実のところエキュメニズム運動によって、これが彼に暗示されているのです。教会を共通法 (droit commun) の下に従わせることを望み、教会を他の諸宗教と同じレベル、同じ次元におきたいのです。司祭、神学生、そして神学校の教授でさえ、「カトリック教会が唯一の教会でありそれだけが真理を所有し、カトリック教会だけがイエズス・キリストを通して人々を救霊に導くことが出来る」と言うのを拒むのです。彼らは今では次のように、はばかり無く言います。“教会は社会における霊的なパン種でしかない、他宗教と同じであるか、多分わずかに優れているかもしれない・・・。”彼らは、いつもとは限りませんが、時折、取るに足りない優越性を認めはします。もしあなた方が彼らに懇願すればですが。
もしそれが事実だとしたならば、そのとき教会は単に便利なものではあったとしても、もはや必要不可欠なものではなくなります。それは救霊の一手段に過ぎないことになります。
私たちはこのような概念が根本的にカトリックの教義に反しているとはっきり言わなければなりません。教会は救いの唯一の方舟であり、私たちはそう宣言するのを恐れてはなりません。皆さんは「教会の外に救いはない」とは現代人の心を傷つけると言うのをよく聞いたことがあるでしょう。この教義はもはや有効ではなくお役ごめんになったと大衆に信じさせるのはたやすいことです。それははなはだ厳しすぎるように思えますから。
しかし教義は何も変わっていません。この分野においては何も変えられ得ません。私たちの主はいくつもの教会を創ったわけではありません。私たちの主はたった一つの教会を創立しました。私たちを救うことのできる唯一の十字架があり、それはカトリック教会に与えられました。他には与えられなかったものです。御自分の神秘的花嫁なる教会に、キリストは全ての恩寵をお与えになったのです。カトリック教会を通らずして世界に、そして人類の歴史に恩寵は分配されることはありません。
これはプロテスタント信者、イスラム教徒、仏教徒あるいは精霊信仰者のだれも救われないと言う意味でしょうか?いいえ、こう考えるのは第二の誤謬になるでしょう。“教会の外に救いはない”という聖チプリアーノの定型句を不寛容に叫ぶ人々は、同時に“我は罪の赦しとなる唯一の洗礼を信じる”という信仰宣言を否認しています。つまり彼らは十分に洗礼が何であるのかについて教育されていないのです。洗礼を授かるには三つの方法があります。水による洗礼、血による洗礼(これは洗礼志願者であった当時信仰告白して殉教者が受ける洗礼のこと)それから望みの洗礼です。
望みの洗礼は明白でありえます。何度もアフリカにおいて“神父様、早く洗礼を授けてください。そうしないと神父様が今度戻ってくる前に私が死んだら、私は地獄に行くでしょう”と洗礼志願者の一人が言うのを聞きました。私たちは彼に答えるのを常としました。“そんなことありませんよ、もしあなたの良心に大罪を持たず、あなたが洗礼を望むのなら、そのときあなたは既に御自分のうちに恩寵を持っているのですから。”
教会の教義はまた暗黙の望みの洗礼をも認めています。これは天主の聖旨を行うことにあるのです。天主は全ての人をご存知です。従って、天主はプロテスタント信者、イスラム教徒、仏教徒そして全人類の中に良い意志の人が存在することを御存知です。彼らはそれを知ることなしに、しかし有効な方法により洗礼の恩寵を受けます。この方法で彼らは教会の一員になるのです。
誤謬は、彼らの宗教によって救われるという考え方にあるのです。彼らが、彼らの宗教の中で救われるとしても、しかしその宗教によってではありません。イスラム教によってでも神道によって救われるのでもありません。天国には仏教徒教会もプロテスタント教会もありません。これはおそらく聞きたくないようなことかもしれません。しかしこれが真理なのです。私が教会を創立したのではなく、私たちの主が、天主の御子なる私たちの主が創立したのです。司祭として私たちは真理を述べなければなりません。
キリスト教が浸透していない国々において人々にとって、望みの洗礼を受けに到達するのは、どれ程大きな困難の代価を払ってでしょうか!誤謬は聖霊をさまたげます。これは、何故教会が常に世界のあらゆる国に宣教師を送り、何故無数の宣教師たちは殉教を忍んできたのかを解き明かします。もしすべての宗教に救いが見出されるのなら、どうして数々の海を渡り、有害な気候、過酷な生活、病気そして早死に自らをさらすのでしょうか?聖ステファノが殉教(キリストのために最初に命を捧げ、それゆえに彼の祝日はクリスマスの翌日となる)するやいなや、使徒たちは地中海諸国一体に福音を述べ伝え始めました。
もしも人がキュベレーの女神礼拝またはエレウシス (ギリシャ、アテネ西方の都市。古代のデメテル信仰の中心地) の神秘によって救われるのなら、彼ら使徒たちはそうしたでしょうか?何故私たちの主は“行って全ての国に福音を告げしらせなさい”と仰ったのでしょうか?
現代、各自が自分の“文化的環境”に根付いている信仰に従って、各々、天主への道を見つけ出させよと主張している人がいるということは驚くばかりです。ある司教は、イスラム教徒の子供の改宗を望んでいる司祭に対し“駄目です。良きイスラム信者であるよう教えなさい。そしてそのほうがイスラム教徒をカトリック信者に改宗させることよりもさらに有益ですよ”と言ったことがあります。次のことを私は確実なところから聞きましたので、断言でしますが、第二バチカン公会議前テーゼ共同体は自らの誤謬を放棄してカトリックになることを望んでいましたが、当局は彼らに言いました。「だめです。お待ちください。公会議後あなた方はカトリック信者とプロテスタント信者の架け橋になるでしょうから。」
この返答をした方々は天主のみ前に非常に大きな責任を負っています。なぜなら恩寵は与えられた瞬間にだけやって来るからです。つまり、それはおそらく二度とやって来ないかも知れないからです。現在テーゼの同胞たちは、おそらく善意をもっている人々でしょうが、依然として教会の外におり、そこを訪れる若者たちの心に混乱を巻き起こしているのです。
私は既に、年間17万人の改宗者を数えたアメリカ合衆国、それからイギリス、オランダのような国々で、突然それが枯れてしまったことをお話ししました。教会についての誤った定義と、私が今それについて話さなければならない信教の自由に関する公会議の発表とが原因し、宣教の精神は衰えてしまったのです。
ルフェーブル大司教 公開書簡 「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ 全23章」
第1章. なぜ今カトリック者たちは、困惑しているのか。原因は、カトリック教会に侵入した新しい精神。それは教会の過去の教えと生命とを疑問視させる。
第2章. 私たちの宗教は変えられようとしている!
第3章. 典礼改革:ミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられている。非神聖化。聖なる物の喪失。
第4章. 永遠のミサと現代のミサ。典礼改革は意図的に犠牲を食事に変える。
第5章. 「それは昔の話ですよ!」
第6章. 洗礼と婚姻、悔悛と終油の秘蹟の新しい仕方
第7章. 新しい司祭職
第8章. 新しい公教要理
第9章. 現代の神学
第10章. エキュメニズム(キリスト教一致運動)
第11章. 信教の自由
第12章. 「同志」および「同伴者」たち
第13章. フランス革命のフリーメーソン的スローガン「自由・平等・博愛」は、第二バチカン公会議の「信教の自由、団体主義の平等、エキュメニズムの博愛」となった
第14章. 「第2バチカン公会議は教会内部のフランス革命だ」(スーネンス枢機卿)
第15章. 教会と革命の結合:リベラル派は教会を革命と結婚・合体さようとし、歴代の教皇たちはこのリベラルなカトリック主義を排斥し続けてきた
第16章. 信仰を瓦解させる新近代主義
第17章. 聖伝とは何か:聖伝とは「数世紀を経て教導職により伝えられてきた信仰の遺産」と定義される
第18章. 本当の従順と偽物の従順:「従順」の名によって全聖伝に不従順であることは本物の従順ではない。
第19章. エコンの神学校とローマ
第20章. 永遠のミサ
第21章. 異端でもなく、離教でもなく
第22章. 家族で出来ること:家族という組織単位が破壊されつつある、離婚、同性愛カップル、出生率の低下、中絶
第23章. 「作り上げること」と「壊し尽くすこと」との闘い