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2021年2月7日、ドモルネ神父による謙遜についての短い説教

2021年02月08日 | お説教・霊的講話
2021年2月7日、ドモルネ神父による謙遜についての短い説教

はじめに

本日の聖パウロの書簡を読むと、聖パウロが自分のことを自慢しているように感じるかもしれません。もちろん、そうではありません。謙遜の実践について少し説明しましょう。

謙遜という概念

「謙遜」(humility)という言葉は、ラテン語で 「土」を意味する「フミス」(humis)に由来しています。「謙遜」には、「土にまで降りる」、つまり自分を低くするという考えがあります。人間には、名声を求める自然の望みがあります。

この望みは、それ自体では悪いことではありませんが、しかしながら無秩序になることがあります。つまり、正しい理性と天主のご計画に従わなくなることです。これを私たちは、高慢の罪と呼んでいます。例えば、ルチフェルは、どうにかして天主のように偉大になりたいと思っていました。それ自体は悪いことではありません。なぜなら、天主は永遠のいのちを分け与えようと私たちをお召しになっているからです。しかし、ルチフェルは天主のご計画に従わずに、天主に依存することなく偉大になりたいと望んでいたのです。謙遜とは、偉大かつ善きものへの望みを制限する私たちの霊魂の徳あるいは善き性質のことです。

謙遜の基礎

謙遜は、どのような要素に基づいて助けを得て成長していくのでしょうか? まず私たちが自分自身では無であるということを認識すること、そして第二に、私たちがすべてのものを受ける天主への大いなる敬意を持つことに基づいているのです。謙遜の徳は、天主を中心とすることが欠かせないのであり、創造主である天主と被造物である私たちとの間に絶え間のない比較を行うのです。

天主への謙遜の実践

私たちは、どのようにして謙遜の徳を実践するのでしょうか? 私たちが持っている善きものはすべて天主から来ており、私たちが持っている悪はすべて私たち自身から出ているという理由によって、天主の御前に自らを低くすることで、私たちは謙遜の徳を実践するのです。私たちは天主から、私たちのいのち、人間の本性、霊的および肉体的な性質、技術、物質的な財、天国への召命、そして私たちが受けるすべての恩寵を得ていますが、天主に依存することなく、自分自身の意志によって、私たちは弱さや苦しみ、失敗、罪、悪徳を得たのです。

ですから、謙遜の実践とは、まず第一に、私たちが持っているものはすべて天主にすべての栄光と感謝を捧げ、天主がおられなければ私たちには何も善きものがないことを心から認めることです。マグニフィカトにある聖なる童貞の模範を取り上げましょう。聖母は天主の御母であるという偉大な特権を拒否なさいませんでしたが、それは決して自分のために栄光を求めるのではなく、それが天主から来たものであることを告白し、天主を讃美なさいました。ルチフェルはその反対のことをしました。自分に与えられた偉大さのことで天主を讃美することなく、天主に依存しないようにしようと望みました。

隣人への謙遜の実践

謙遜を実践するということは、天主の御前で自分を低くすることです。しかし、隣人の中にある善きものはすべて天主から来たものであるという意味で、天主は隣人の中にもおられます。

ですから、謙遜の実践をすれば、私たちは自分自身と隣人との比較をすることになります。天主が隣人にお授けになった目に見えるもの見えないものすべての善きものと、私たち自身の過失によって自分の中にある罪や失敗、能力のなさといった悪とを比較することです。この比較をした結果、私たちは、隣人に対して全面的な判断を下したり、隣人に対して自分のことを自慢したりすることをやめるようになるのです。

謙遜であるということは、明らかな真実を否定することでも、世間知らずであることでもありません。両目のある謙遜な人は、片目の人よりも目がいいと認めるでしょう。賢くて謙遜な人は、自分が他人よりも賢いことを認めるでしょう。正直で謙遜な人は、自分はこの他人のように嘘つきで泥棒ではないと言うかもしれません。謙遜な人は、明らかに真実であるそのような特定の判断をすることがあるかもしれません。

しかし、謙遜な人は、天主がご自分の善を隣人にもお授けになっていること、そして、天主だけがその隣人の善あるいは悪を知っておられることを常に心に留めているため、隣人に対して全面的な判断を下すことは決してないでしょう。どんなに惨めな人でも、私たちよりも優れている性質があるかもしれません。だからこそ、聖パウロはフィリッピ人へこう書いているのです。「謙遜に他人が自分より優れていると考えよ」(フィリッピ2章3節)。逆に、高慢な人は、たとえ話に出てくるファリザイ人のように、天主が自分の隣人にお与えになった善きもののことを考えず、この隣人を軽蔑するのです。

結論

ですから、本日の書簡で聖パウロは、高慢から自らを自慢するのではなく、天主を讃美するために、またコリント人に謙遜を教えるために、天主から受けた恩寵について述べているのです。

聖パウロが、謙遜の徳を実践するよう、私たちのために取り成し、私たちを助けてくださいますように。





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