Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

たとえ私たちが全世界を儲けてもたかが数年の命のことだ、永遠の命を失ったら、一体何の足しになるのか。

2021年08月03日 | お説教・霊的講話

2021年7月30日(金)殉教者聖アブドンとセンネンの記念のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は、殉教者聖アブドンとセンネンの祝日です。この二人はペルシャ人で、250年の7月30日に、ローマ皇帝デチウスの元で殉教しました。

何故かというと、この二人は、キリスト教信者の遺体を埋葬していたからです。この憐れみの業をした事によって捕らえられて、そして拷問を受けました。飢えた猛獣の所に投げ捨てられ、本当ならば食い尽くされてしまうところが、何も傷を受けませんでした。そこで遂に、首を切られて殉教しました。

この二人の遺体は、聖プラチアヌスのカタコンベにあります。今でもそのお墓にはペルシャ人の姿をした二人の男がいて、そして栄光を受けた絵があります。

この二人は私たちに一体何を教えているのでしょうか?

これは、今日の書簡と福音の教えです。「この世の判断の基準と、天主の見方は、全く正反対だ」という事です。

「この世では、私たちイエズス・キリストを信じる者は、悲しんでいるかのように思われるかもしれない、貧しいと思われているかもしれない、死んでいるかのように思われているかもしれない。しかしそうではなくて、私たちはいつも喜んでいて、いつも生き生きとしていて、いつも恵みに富んでいて、そしてこの世では軽蔑を受けているかもしれないけれども、実は本当の栄光を受けている。この世では最も塵芥のように考えられているかもしれないけれども、しかし天の国の栄冠を受けている」と教えています。

「たとえ私たちが全世界を儲けても、この世を支配するほんの数人の皇帝の一人になったとしても、全人類を奴隷のように所有して支配していたとしても、たかが数年の命のこと。それに引き換えに、永遠の命を失ったら、一体何の足しになるのか。
たとえ私たちが国葬を受けて、皇室の弔問を受けて、何億円というお金を使った壮大な葬儀があって、自衛隊が葬儀で来たとしても、永遠の命を失ったら、天の国を失ったら、天主を失ったら、一体何の役に立つのか。」

聖アブドンとセンネンのこの二人は、特に貧しい、特に亡くなった信者の遺体を埋葬する、という憐れみの業に力を尽くしました。これがあったとしても、この世で何の褒美があったでしょうか。殺されただけでした。しかしこの二人は、永遠の栄光の報いを受けました。

私たちが求めているのはまさにそこです。ですから私たちは、イエズス様を愛するが故に、この世からは誤解されるかもしれません、馬鹿にされるかもしれません、無理解と軽蔑を受けるかもしれません。
しかし何も心配しないで下さい。私たちは、本当の喜びと幸せが待っています。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 



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