2017年10月1日(主日)聖霊降臨後第17主日のミサ
小野田神父 説教
小野田神父 説教
聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2017年10月1日、聖霊降臨後第17主日のミサを行なっております。
今日のこの御ミサの後に、いつものように14時頃から公教要理の聖書のバックグラウンドを、今回は衆議所とか会堂というのはどういう作りになっているのか、という事をお話したいと思っています。
16時からは主日の第2晩課があります。
明日もここで朝7時からミサがあります。
10月の次の主日のミサは22日です、最後から2番目です。お間違えのないようになさって下さい、10月22日です。
11月は来月は、東京でここで3回、第1主日、第2主日、第3主日とミサをしたいと思っています。
どうぞいらして下さい。
「汝の天主なる主を、心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして愛せよ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、カトリックの教えはイエズス・キリスト様の教えは、「愛の教え」と言われています。なぜかというと、「私たちを創造して下さった天主が愛である」という事を私たちに教える教えであり、「私たちがその愛に戻らなければならない、永遠の愛を享受しなければならない」その事を教えているからです。
そしてその為の道は、どんな道を通らなければならないかという事を、「私たちを愛する為に人となったイエズス・キリスト、道・真理・命を通り」そしてイエズス・キリスト様のその辿る道は、「天主を全てに超えて愛する事。隣人を天主の為に愛する事。」
全ては愛から始まって、愛を通じて、愛で終わる宗教であるからです。
そこで今日福音では、私たちの主が「一番大切な掟は何か?」と言われた時に、その答えを、なさった答えを黙想致しましょう。この黙想はいつも私たちがしている事ですから、今回はその別の観点から、主を愛するにはまだ他にもここにもあるのではないか、という事を指摘したいと思います。
それは私たちが天国への歩みを歩む為に、例えば今日聖パウロは、「あなたたちの召し出しにふさわしいように歩みなさい。謙遜と忍耐と愛徳において歩みなさい」と言っているのですけれども、その歩む道すがら私たちに、道案内人を送って下さったという事を黙想しながら、更にますます私たちは主を愛さなければならない、という事を自覚して、遷善の決心を立てる事に致しましょう。
今日この黙想の後に、「あぁ、これほどまでイエズス様から、天主から愛されているのならば、私たちはまさにこの主から贈られた道案内に従って、愛の道を歩まなければならない」と決心して下さる事を願っています。
では今日提案したい道案内とは誰かというと何かというと、それは私たちに送られた「守護の天使」です。
そしてその守護の天使は一体どんなものなのか?
第2は、一体何でそのようなものが送られたのか?
最後に、この守護の天使は私たちに何を教えているのか?特にポルトガルの守護の天使は私たちに、行動をもって私たちに教えています。
そして遷善の決心を立てる事にします。
天使というのは、人間をはるかに超えた優れた純粋の霊です。もしも私たちがその一位の天使だけでも見れば、ちょうどルチアが後に書いているように、 3人の子供たちがファチマで天使を見た時に、「非常に美しくて、神々しくて、威厳があり、クリスタルのように透き通っていて、太陽が当たるとキラキラ輝いていて、恐れを感じた、畏怖の念を感じた」と言っています。もしもその天使が天主様の特別の御計らいによって私たちの前に現れたとしたら、あまりにも美しくて、あまりにも力あるもので、神々しく威厳があり、私たちはきっと、「これこそが天主様ではないか」と迷ってしまったかもしれません。
天使はこのたった一位だけではなく、何十兆何百京、人間の全てのこのアダムからエヴァから世の終わりまでの人間の全てを合わせた、合計した数よりも更に多くのはるかに多くの天使が、天主様から直接に創造されました。
天使は人間の知能を頭脳を知性をはるかに超える、もっと貫き通す知性を持っています。人間の中には人々の中には色んな人々がいて、1を聞いたら10を知るという人々もいますけれども、天使は1を聞いたら1万を知る、その知性があります、もっとあります。生まれた時から創造のその瞬間から、知識を持って生まれて創られました。人間は生まれた時には全く頭の中に何もなくて、感覚を通して少しずつ知識を得ていきますが、天使は最初の瞬間から全てが入っています。
力強い意志を持ち、一旦「こうだ!」と決めれば、もう何も変える事ができません。
その知性と鋭い知性と強い意志を持って天使たちは、天主を讃美する為に、奉仕する為に、何千何億というものが創られました。
たとえ全人類の武器や核爆弾や、あるいはどのようなものを使ったとしても、天使一位でさえも敵いません。そのような天使の大群が、いつも主を讃美して、褒め讃えて、礼拝しているのですが、特に私たち一人一人に天使を、守護の天使として与えようと御望まれになりました。
第2の点は、一体なぜ?私たちには天主様がいつも付いているではないか。私たちには理性があるじゃないか。子供ではないし、一体なぜ?
天使は私たちに一人一人に、生まれたその瞬間から与えられています。たとえ私たちがカトリックの洗礼を受けてなかったとしても、信仰がなかったとしても、あるいはその生まれた人がアダムとエヴァであっても、あるいは反キリストであったり、あるいはどのようなものであれ、私たちが母親の胎内から出た瞬間、守護の天使が与えられます。もちろん私たちが洗礼を受けると、至聖三位一体が私たちの霊魂に宿り、御聖体を受け、そして超自然の保護を受けますけれども、超自然の徳を受けますけれども、生まれたその自然の状態で既に私たちには、天使が一人一人に与えられています。
なぜ?なぜかというと、確かに天主は私たちに超自然の御恵みと、超自然の徳、対神徳やあるいは聖霊の賜で私たちを守って下さいますけれども、私たちが更に守られますように、私たちが日常の生活において正しい道を選ぶ事ができるように、賢明の道を取る事ができるように、目に見えない形で私たちを息吹いて、私たちの良心に囁いて、私たちの心に影響を与えて、私たちの為に祈り、肉体においても霊的においても、私たちをガイドする保護するような守護者が付けられたのです。
一体なぜ?それは私たちが天国へと導かれる為です、天国への道を外さない為です。でもそれにもかかわらず、天国に行かない人がそんなにいるのですか?はい。私たちの良心の声を無視したり、天主様からの呼びかけを無視したりするように、天使が一生懸命私たちに警告をしても、守っていても、それにもかかわらず天使の声を無視する事ができるからです。
もしも私たちが悪を選んでしまった、私たちが情念によって理性がかき乱されてしまって、罪を犯すという事で頭をいっぱいにしてしまって、全ての警告やアドバイスを耳をふさいでしまったとしても、それは天使が仕事を怠けたわけでも、あるいは私たちをほっぽり出したわけでも、天主様が私たちの為に御恵みが足りなかったわけでもないのです。残念ながら私たちは、私たちの悪意は、天主様からの全ての贈り物を、全てほっぽり出してしまう事ができるほどの力があるからです。
第3点に、では守護の天使は私たちにどんな事を教えているのでしょうか?
聖書の中には色々守護の天使の話が出てきます。例えば聖ペトロが牢獄から脱出できたとか。今回はぜひファチマの話もさせて下さい。ファチマでは守護の天使は、今日イエズス様の仰った事と同じ事を言います。ファチマのご出現で最初に天使が言った言葉はこれでした、「我が天主よ、我信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」私たちをはるかに超える、天主であるかにように思われるようなこの存在が、跪いて額を床に付けて平伏して、私たちに「こうやって祈るのだ」と教えています。「我が天主よ、」まず私たちの最初の考えはこれでなければなりません。全てにおいて、全てを超えて、主なる天主を愛さなければならない、「我が天主よ、我信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」
「信じる」という事は、天主が仰った言葉は、新聞よりも、学校の教科書よりも、あるいはインターネットよりも、あるいは辞書よりも全てに勝って真実そのものでる。決して私たちを騙す事も、自分が間違える事もない、真理そのもである。その権威の故に、「確かにその通りだ」と認識する事です、それを受け入れる事です。
「主を礼拝する」という事は、私たちが全て天主から受けた身であって、被造物であって、その全てをその創造主である天主に負っている、という事を認識する事です。私たちはそれを礼拝と呼んでいます。
「希望する」というのは、天主が確かに私たちを永遠の喜びに呼んで下さって、その為に必要な手段を全て下さるという事を希望する事です。確かに天主の助けと御憐れみをもって約束されたように、私たちを天国の福楽に導いて下さる、と希望する事です。私たちの惨めさにもかかわらず。
「天主を愛する」という事は、全てを超える善として、全ての被造物よりも、私自身よりも天主を望む、願う、天主を求めるという事です。
これをファチマで現れたポルトガルの守護の天使は、私たちに教えています。私たちの目に見えない横にいる守護の天使たちも、私たちに同じ事を教えています。「我が天主よ、我信じ、礼拝し、希望し、御身を愛し奉る。」私たちの守護の天使は日夜それをやっています。私たちも「さぁ一緒にやろう、一緒にお祈をりしよう」と招いています。「全てに超えて主を愛さなければならない」と招いています。
第2には、「主を愛さないような隣人の為にも、彼らが主を愛する事ができるように、信ずる事ができるように、礼拝する事ができるように、天国に導かれる事ができるように、彼らの為に罪の償いと赦しを乞い求めよ」と招いています。これこそが本当の隣人愛でなくて何でしょうか?私たちが隣人の為に、隣人を愛する、隣人の為に善を願うというのは、最高の善を願う事であって、永遠の命を願う事に他なりません。
これをポルトガルの守護の天使は私たちに教えています、「主を信じない人々、礼拝しない人々、希望しない人々、御身を愛さない人々に代わって、御身に御赦しを願い奉る。」
更に守護の天使は、「恐ろしくも冒辱されたイエズス・キリストの御体を、罪の償いとして拝領しなさい」と子供たちに御聖体拝領されました。同じく私たちの守護の天使も、私たちに同じ事を招いています。
実際にマリア様も、10月13日に、100年前に御現れになって、最後に何をお望みになるかを言いましょう。太陽の奇跡を行なって本当にこれこそが正しい天主からのメッセージである、という事を確証した時に、「1つだけお願いがある」とお願いされました。「どうぞお願いだから、主をこれ以上、罪で冒辱しないように、屈辱しないように、罪を犯さないように。なぜならば、主はあまりにも多く罪を犯され続けているから。多くの人は主を愛する代わりに、憎んでいるから。主を礼拝する代わりに、無関心と冷淡でその愛を返しているから。多くの彼らの守護の天使はそれらを見て、どうする事もできなくなっているから。」マリア様が人類にお願いに来ました。「イエズス様は、『この敵をその足台に置くまで、聖父の右に座れ』と言われたそのダヴィドに約束された、その主です。」
もしも人類が罪を犯す事をやめないならば、もしも私たちが守護の天使の招きに従わないのならば、人類の目を呼び起こす為に、もう少し厳しい事を主はしなければならないかもしれません。その前にぜひ、私たちはその声に耳を傾けなければなりません。
では明日は守護の天使の祝日でもありますから、私たちは遷善の決心を立てる事に致しましょう。
天主は私たちに、あれも、これも、これも、ありとあらゆる手段を使って、私たちを天国に導いて下さっている、という事をまず感謝致しましょう。そして私たちの事をどれほど大切に思って下さっているかという事を感謝致しましょう。
第2には、天使の言葉に従って招きに従って、天使の教えた祈りを私たちも共に、天使と共によく頻繁に唱える事に致しましょう。
今日の御聖体拝領をぜひ、マリア様に対して犯される罪を償う為にも、イエズス様に対して犯される罪を償う為にも、天使の、あたかも天使の手から受けるように聖体拝領をなさって下さい。今日私たちのミサの時には、目に見えないにもかかわらず多くの天使が、私たちの守護の天使が一緒にミサにいらしています。イエズス様を心から信じ、礼拝し、希望し、愛して下さい。
第3に、マリア様の御取り次ぎによって、守護の天使の事を頻繁に思うように致しましょう。危険の時にも、あるいは誘惑における時にも、守護の天使に、「どうぞ、私が今主を愛する事ができますように、悪魔の誘いから打ち勝つ事ができるように」とお祈りする決心を立てる事に致しましょう。
「汝の天主なる主を、心を尽くし、力を尽くし、精神を尽くして愛せよ。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
例えば、2016年1月の教皇フランシスコの祈りの意向はこんなものです。
「この地球上に住む人々の多くは、彼らなりの信仰を宣言しています。
このため、諸宗教についての対話への導きが必要です。
諸宗教対話は、世界平和のための、1つの要件です。
対話をすることによって、私たちの間に横たわる不寛容や差別感を取り除くことができるからです。世界共通の意向異なる宗教の人々との誠実な対話が、平和と正義の実りをもたらしますように。
福音宣教の意向:聖霊の恵みと共に、対話と兄弟的な慈愛を通して、キリスト者間の分裂を克服できますように。」
聖ピオ十世会が強く反対してきたエキュメニカルと諸宗教対話がその意向なのですが・・・。それはこの年のこの月に限らず、今年の1月の意向も似たようなものなのです。教皇フランシスコの意向の中には、どうかと思われるもの、誤っていると思われるものもとても多いのに、何も知らせずにミサに集う皆さんに「教皇様の意向のために祈らん」なんて唱和させるのは罪な行為ではないですか。せめて、教皇様がどんな意向を持っているのか確認し、皆さんに教えてあげて、判断の機会を与えてはどうでしょう。
こんにちは!
聖ピオ十世会日本では、いつもミサの後の感謝の祈りの時に教皇様のために祈っています。これは欠かしたことがありません。
ところで、私たちはミサの後に、二つの種類の祈りをします。
(1)「教皇様のために」祈る
(2)全贖宥を受けるために必要な条件である「教皇様の意向のために」祈る
(1)については、私たちが教皇様のために祈るのは、私たちはカトリック信徒であり、教皇様を必要としているからです。
何故なら、聖ピオ十世会は教皇聖座空位主義ではないからです。
初代教会の時代から教皇様のために祈ってきたという聖伝を守っているからです。
たとえばペトロが牢につながれているとき、教会は祈り、天主は聖ペトロに天使を送ってくれました。
(2)については、全贖宥のために必要です。私たちは「教皇様の意向のために」というとき、「教皇様の教皇様としての意向」という意味で祈っています。
教皇様の「教皇職にふさわしくないような個人的な意向」と、「教皇様としてのあるべき意向」とはまったく別のものです。
教皇様の教皇様としての御意向というのは、私たちはすでに知っています。
"Manuel de droit canon: Conforme au code de 1917 et aux plus récentes ... " par Emile Jombart - 1967
によると、
Les intentions du Souverain Pontife sont
l'exaltation de la sainte Église,
l'extirpation des hérésies,
la propagation de la foi,
la conversion des pécheurs,
la concorde et la paix entre les princes chrétiens.
Il n'est pas nécessaire de connaître explicitement ces intentions.
とあります。
[1] Intentions du Souverain Pontife :
l'exaltation de l'Eglise
la propagation de la Foi
l'extirpation de l'hérésie
la conversion des pécheurs
la concorde entre les princes chrétiens
les autres biens du peuple chrétien
http://laportelatine.org/accueil/Ordo/notesOrdo/notes2.php
すなわち、
1)聖なるカトリック教会の高揚
2)異端の撲滅
3)信仰の伝達
4)罪びとたちの回心
5)キリスト教君主たちの間の和睦と平和
6)キリスト教の民のその他の善
です。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)