Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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残念ながら、多くの人は無関心と、冷淡と、そして軽蔑で、イエズス様の愛に応えようとしています。忘恩でお礼をしようとしています。

2021年07月01日 | お説教・霊的講話
2021年6月5日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は初土曜日、マリア様の汚れなき御心の随意ミサを御捧げしています。

イエズス様が、天主の聖子が、十字架の上に付けられて、御血を、尊い御血を流されました。主が茨の冠を被せられて、釘付けにせられた時、太陽は喪に服し、大自然はそれを見て慄きました。

ポンシオ・ピラトでさえも、鞭打たれて、茨の冠を被せられたイエズス様を見た時に、あまりにも可哀想になって、情けをかけようと思いました。何とか助け出そうと、ユダヤ人たちに訴えかけました。

血だらけの主を見てユダヤ人も、心を動かさざるにはいきませんでした。

しかし、大司祭が、群衆を先導して、十字架に付けるように訴えました。

イエズス様の御姿を見て、天主聖父も、全人類の罪を赦そうと思われました。「これで十分だ。」もうここまで、ここまでそうするのを見て、「もう、これで良いにしよう」と思われました。

イエズス様の聖心が開かれた時に、血と水が流れた時に、ローマの野蛮な兵士であっても、「これこそ天主の聖子であった」と、イエズス様の事を認めました。

御受難のその御苦しみだけで、私たちの愛を勝ち取るのに十分すぎるはずだったのですけれども、イエズス様は満足しませんでした。

イエズス様は「御聖体」を以って、私たちをどれほど愛しているか、という事を示そうと思われました。

しかしイエズス様はご存知でした。21世紀に住む私たちは、イエズス様の御受難も、イエズス様の聖心も、御聖体の愛も、それを見ても、私たちの心はいつも冷たく、感動もせずに、無関心で、そのままいるという事を御存知でした。

イエズス様には一体これ以上何をする事ができたでしょうか?私たちにイエズス様が愛される為には、もっと何をする事ができたでしょうか?特に御聖体で全てを、御自分全てを与え尽くして、こんなにもへりくだってパンの形になって、世の終わり留まろうとされて、これ以上一体、何をする事ができたでしょうか?

イエズス様は十字架の上で更に考え付きました。「御自分の御母を与えよう」と。
「これ、汝の母なり。」

マリア様に、私たちを子供として愛するように頼みました。
「これ、汝の子なり。」

イエズス様は私たちからの愛を得ようと、100年前には天使を送りました。マリア様をも送りました。日本にも送られました。御聖体を大切にするように、御聖体をどうやって礼拝すべきか、模範を天使に示させました。

それでも、残念ながら、多くの人は無関心と、冷淡と、そして軽蔑で、イエズス様の愛に応えようとしています。忘恩でお礼をしようとしています。

ですから今日は、初土の信心を皆さんと一緒にして、このあまりにも無視されている、忘恩と冒瀆を受けているイエズス様の聖心を、マリア様の御心を以って御慰めする事に致しましょう。このミサの直後には御聖体降福式を行ないましょう。初土の信心を行ないましょう。

そして少なくとも、明日天主が御許しになれば、イエズス様の聖体が愛されますように、崇敬されますように、ここで御聖体荘厳祭を、そして聖体行列を行ないましょう。マリア様がいつも私たちの弱さを助けて下さいますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。





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