幼きイエズスの聖テレジアの「小さき道」についての説教(4)
ドモルネ神父 2023年10月1日
はじめに
聖性を求めて努力するとき、落胆する人々がいます。なぜなら、しばしば同じ罪に戻ってしまったり、徳の実践で進歩しなかったりするためです。またある人々は、聖性に向かって進歩することには、特別なことを経験したり、行ったりすることが伴うと考えています。しかし、そのような人々は、自分の人生が非常に単調で平凡であることに気づき、そのため、自分が聖性で進歩していないと結論づけるのです。今日は、幼きイエズスの聖テレジアが、このような人々にどう答えているかをお話ししましょう。
1.罪に陥る
ある人々はこう考えます。「私はどんなに努力しても、毎日同じ罪に陥ってしまう。私は気が短く、隣人への愛徳が欠如し、嘘をつく…。本当に、聖性なんて私には不可能だ」と。そして、このような人々は、努力をやめ、霊的なぬるま湯状態に身を任せようと誘惑されるのです。こういう人々に、どう言ってあげればいいのでしょうか。
聖アルフォンソ・デ・リゴリはこう言っています。「われわれには、完全に同意していなくても、生来の弱さのせいで犯す罪がある。たとえば、祈りで気を散らし、無駄話をし、虚しい好奇心があり、見せびらかしたいという望みがあり、少し食べすぎたり飲みすぎたりし、情欲の衝動があっても十分に早く抑えないことなどである。われわれは、これらの罪をできる限り避けなければならないが、原罪によって傷ついたわれわれの本性の弱さを考えると、それらの罪を完全に避けることは不可能である」。
幼きイエズスの聖テレジアは、すべてにおいて天主をお喜ばせしようとする私たちの一般的な善意にもかかわらず、私たちが弱さから犯してしまうこれらの罪は、聖性への障害にはならないと言っています。これらの罪を、私たちが自分の弱さと小ささをもっと自覚する機会とし、私たちが天主のあわれみ深い愛にもっと大きな確信をもって天主に立ち返るならば、これらの罪は善き主を侮辱することにはなりません。小さな過ちを犯した子どもが、それを反省し、すぐに母親のところに行ってそれを告げるのを想像してください。この小さな過ちのせいで、母親の子どもへの愛が減ると思いますか。もちろん違います。善き主も同じです。イエズスの御言葉を思い出してください。「悪い人間であるあなたたちでさえ、子どもに良いものを与えることを知っている。ましてや天にましますあなたたちの父は、求める人に良いものを下さらぬわけはない」(マテオ7章11節)。
ある人々はこう言います。「私の罪は、いつもそのような弱さの罪とは限りません。時には、私の罪はわざと行う小罪であり、大罪でさえあります…私はどうすれば聖性に向かって進歩することができるでしょうか」と。聖テレジアは、このような罪であっても、私たちがそれをうまく活用すれば、私たちが聖性への道を行くのを止めることはない、と答えています。私たちは、どのようにすれば自分の罪をうまく活用することができるでしょうか。それは、罪を悔い改め、自分の弱さと小ささを認め、自分の罪から生じた苦しみを償いとして捧げ、さらに大きな信頼をもって天主のあわれみ深い愛に立ち返ることによってです。聖テレジアは自叙伝の中で、自分を非常に小さな鳥に例えています。この小鳥は、鷲のように太陽に向かって飛びたいと思いながら太陽を見続けていますが、時々気が散ってしまいます。彼女はこう書いています。「この不完全な小さな生きもの(小鳥)は、自分のしようとしていることから(つまり太陽を見ることから)いささか気を散らしてしまい、右や左に餌(えさ)をついばんだり、小さな虫を追い回したりしてしまいます……。また小さな水たまりに出会えば生えたての羽を濡らし、お気に入りの花を見つければ、心はそれでいっぱいになります……。とにかく、鷲のように高く飛ぶことはできないので、このかわいそうな小鳥は、地上のつまらない事柄に気を取られるのです。けれどもこのようにいろいろないたずらをした後、小鳥は片隅に隠れて自分の惨めさを嘆いて、悲しみから死んでしまうのではなく、最愛の太陽のほうに向いて、濡れた小さな羽を太陽の恵み深い光にさらします。そしてつばめのように悲しげに鳴き、優しい歌で自分の数々の不忠実をすっかり打ち明け、物語ります。そうすれば、義人を呼ぶためではなく罪人を呼ぶために来られた方(マテオ9章13節)の愛を、もっと完全に引きつけることができると、厚かましくも全面的に信じているからです……」(原稿B 第二部)。
イエズス会士で霊的生活の大家であるグル神父は、次のように書いています。「最も聖なる人々とは、罪を犯すのが最も少ない人々のことではなく、もっと勇気があり、もっと寛大さがあり、もっと愛があり、もっと大きな努力をする人のことである…決して落胆せず、たとえどんな過ちを犯そうとも、自分にこう言い聞かせよ。『一日に二十回倒れようが、百回倒れようが、私はその都度立ち上がって、自分の道を進むのだ』と。結局、目的地に着くならば、道の途中で倒れても、なにが問題だろうか?そのことで天主があなたを責めることはない」。
2.徳を実践する際にほとんど進歩しないこと
ある人々はこう言います。「私は徳を実践しようとあらゆる努力をしても、ほとんどの場合失敗してしまう。私は聖人になれない…」と。幼きイエズスの聖テレジアは、これに答えています。当時、彼女は修練女の副修練長でした。ある日、ある修練女が落胆していました。なぜなら、自分の行いを改め、徳を実践しようと努力しても、うまくいかなかったからです。聖テレジアは、彼女にこう言いました。「あなたは、自分の足でまっすぐに立つことができても、まだ歩くことができないでいる小さな子どものように、私には思えます。母親のいる二階に行きたいと熱心に願い、階段の最初の一段を登るために小さな足を上げようとし続けています。しかしできません。登ることができず、足は元のところに戻り続けます。そんな子どものようになりなさい。すべての徳を実践することによって、聖性の階段を登るために、小さな足を上げ続けなさい。しかし、何とか最初の一段だけでも登ることができるなどとは思わないで。天主があなたにお求めになるのは、あなたの善意だけです。階段の上から、天主は愛をもってあなたを見ておられます。やがて天主ご自身が、あなたの無益な努力の姿に心を動かされ、あなたのもとへ下りて来られ、あなたを腕に抱いて、永遠にご自分の国へと連れて行かれるでしょう。そこでは、あなたは、もう決して天主から離されることはありません」。
3.日々の単調さ
ある人はこう言います。「聖人たちはこの世に生きている間、特別なことをした。でも私は、人生で特別なことは何もしていない。私の人生はまったく平凡で単調だ。だから、私は聖人にはなれない…」。これに対して、聖テレジアはこう答えます。「聖性は、私たちの行いが偉大であるかどうかではなく、私たちの愛が真摯なものであるかどうかによるのです」。実際、天主は全能であり、何かのために、誰をも、特に私たち人間を必要とはされません。イエズスがオリーブ園で聖ペトロに言われたことを思い出してください。「私が父に頼めば、今すぐ十二軍にもあまる天使たちを送られることを知らないのか」(マテオ26章53節)。天主は、ご自身の天主の命と幸福にあずからせるために、私たちを創造されました。天主の命と幸福は、天主の三つのペルソナの間の完全な愛にあります。この愛の命に入るための功徳を得るために、私たちは地上で天主を愛することを学ばなければなりません。天主が大切にされる唯一のことは、私たちがあらゆることを行う際の愛です。私たちが皿を洗おうが、戦争で栄光ある勝利を収めようが、自分の庭を耕そうが、トヨタ社を経営しようが、東三国の保育園で教えようが、東京大学で教えようが、道路わきのごみを集めようが、総理大臣として日本を統治しようが…、天主の目には、これらの行い自体は何の重要性も持っていません。天主は、私たちの働きが栄光あるものであることも、成功したものであることさえも必要とされません。天主が重要視されるのは、私たちが働く際にどのような愛を持っているかということなのです。聖テレジアは、童貞聖マリアと聖ヨゼフの地上での生涯が、まったく平凡なものであったことを人々に思い出させていたものです。ですから死の前夜、彼女はこう言うことができたのです。「大切なのは愛だけです」。
結論
親愛なる信者の皆さん、聖性はすべての人のためのものです。私たちの罪、不完全さ、徳の進歩の少なさのせいで落胆しないようにしましょう。これらのことをすべて、私たちを謙遜にし、天主のあわれみ深い愛に一層身を委ねるための機会としましょう。私たちの生活に特別なことを探すのではなく、天主をもっともっと愛したいという望みを、私たちがすべてのことを行う理由にしましょう。
今週の火曜日は、幼きイエズスの聖テレジアの祝日です。私たちの主イエズス・キリストと私たちの天の母である童貞聖マリアをもっともっと愛することができるように、聖テレジアに恩寵をお願いするのを忘れないでください。