Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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愛を込めた祈りと、犠牲について。ー「百夫長」の信仰に倣うにはー

2016年02月20日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2月11日、灰の水曜日後の木曜日に大阪で行った聖伝のミサでのお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

2016年2月11日 灰の水曜日後の木曜日
小野田神父 説教




 聖母の汚れ無き御心巡回教会にようこそ。今日は2016年2月11日、灰の水曜日の後の木曜日のミサをしております。

 今日のミサの後に、30分ほど公教要理の勉強会があります。公教要理では、この前の続きで、カトリックの信仰の核心を友達に説明するには、一体どこがどうしたら良いのか。カトリックとプロテスタントの違いを、決定的な違いはどこにあるのか、という事を、主に考察したいと思っています。

 
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、昨日から四旬節に入りました。私たちはますます、四旬節の中に深く入る事に致しましょう。今日はミサでは、エゼキア王が病気で死なんとしている時に、預言者がイザヤが送られて、「お前はもう、命も幾ばくも無い。」と、言われると、するとエゼキア王が心を込めてお祈りをした。するとその祈りを聞き入れられて、命が15年加えられ、天主様は、「エルサレムを敵から守る。王からも守る。民も守る。」という、祈りの効果について話されました。

 また聖福音も同じです。しもべが病になっていた百夫長がイエズス様の元にやってきて、「しもべが病です。どうぞイエズス様、一言仰って下さい。そうすれば治ります。来て頂くには及びません。」と言うと、「なんと深い信仰なのか。その祈りは聞き入れられた。お前の信じた通りになれ。」と言って、その時にしもべは治った。この百夫長の祈りは聞き入れられて、しもべが治ったという話です。

 ですから私たちも今日は、祈り、愛を込めた祈りと、犠牲について、私たちは百夫長にどのように倣ったら良いか、その「これほどの信仰を見た事がない」と言われる百夫長の信仰に倣うには、どのようにしたら良いか、という事を黙想する事に致しましょう。今日の黙想のその導き手としては、私はルルドのマリア様に、日本の過去の偉大なる殉教者や、或いは聖なる日本の私たちの信仰における先祖に目を馳せて、私たちもそれに、その導き手としてガイドとして、その百夫長の信仰と祈りを真似る手がかりとしたいと思っています。遷善の決心を立てる事に致しましょう。

 特に今年の四旬節を、日本の多くの兄弟姉妹の方々の回心の為に、日本の為に、この祈りと犠牲を捧げる決心を立てる事に致しましょう。

 ではこの百夫長の祈りと信仰あるこの祈りの確信はどこにあったのでしょうか?それは、「イエズス様が全て、天主として支配されておられるですから、一言さえ述べれば、全てそれは御旨のままになる。この地上に起こっている全ての事は、イエズス様の全て御旨の次第である。」という全くの確信にあります。ですから百夫長はイエズス様に、「どうぞそれを望んで下さい、そう命じて下さい。」と言ったのでした。「全てをイエズス様のもとに、御旨のままに従います。」という信仰を告白したのでした。

 ルルドのマリア様も同じでした。ルルドのマリア様は1858年の今日から始まって18回、聖女ベルナデッタ・スビルーに現れました。その時にマリア様は、聖女ベルナデッタに、「お祈りをするように。」と、お願いしました。「私が誰かは最後に申し上げましょう。」ゆっくりと十字架を切って、手を合わせて、天にまします、ロザリオの祈りを、マリア様と共にベルナデッタは唱えました。

 マリア様は仰るには、「悔悛しなさい。悔悛しなさい。悔悛しなさい。」「償いをしなさい。償いをしなさい。償いをしなさい。」祈りと償いを、ベルナデッタに求めました。そのベルナデッタにこうも言うのです、「私はあなたに、この地上においては幸せを、幸福を約束しません。しかし後の世においては、はい、約束します。」

 マリア様は、祈りと償いを持って、私たちはこの短い人生を、永遠の為に生きるように、私たちにとって一番の価値のあるものは、この地上でどれほど楽をしたか、この地上でどれほど面白おかしく暮らしたかではなくて、どれほどイエス様と一致して、愛を込めて祈り、愛を込めて犠牲を払い、生贄を捧げ、イエズス様と一緒になって世の贖いに協力したか。この地上での全ての事は、天国を得る為だけにあるという事を、ベルナデッタに教えてくれました。

 まさに四旬節の教えそのものです。私たちは今日どうしても、建国記念日でもありますし、日本の先祖に、日本の英雄たちに、どうしても目を向けざるを得ません。1549年8月15日に、聖フランシスコ・ザベリオは鹿児島にやって来て、初めてイエズス・キリストの聖福音を私たちに教えてくれました。つまり、「私たちはこの地上で、十字架を愛し、イエズス・キリストを知り、イエズス・キリスト愛し、イエズス・キリストに仕え、おのが十字架を取ってイエズス・キリストに従い、そうする事によって、救霊の、永遠の命を得なければならない」という事を。「私たちは罪人であるけれども、天主様の御あわれみによりて、天主が人となって、苦しみを受けて、私たちの罪の為に御血を流して下さった事。その御あわれみによって、私たちは全て赦される事ができる」と。

 その天主からの無限のあわれみと赦しと、永遠の命の福音を、私たちの先祖は受けたのでした。多くの大名をはじめ、皇族貴族、それから身分の低い者もこぞってキリシタンとなり、洗礼を受け、福音のイエズス様の教えを喜んで受け入れてきました。

 聖フランシスコ・ザビエルがやって来て既に50年の後には、1597年2月5日には、私たちは数日前その祝日を祝ったばかりですが、日本では26名の信仰の初穂がその血を流し、犠牲と祈りを果たしつつも、天主様に尊き命を捧げ、この日本の多くの霊魂の回心と、救いと、永遠の幸せの為に、祈りと犠牲を捧げました。

 その時に皆、テ・デウムを歌いながら、天主に感謝しながら、26人の聖人たちは命を捧げていきました。中には子供もいました。高山右近に仕えた大名の子であった、武士の子であったパウロ三木もいました、「私は真の正真正銘の日本人で、フィリピンからのルソンの者ではありません。私はここに付けられているのは、イエズス・キリストの真の教えを信じたからです。このイエズス・キリスト以外には、私たちには救いの道はありません。私をこうやって死に至らしている全ての人を私は許します。誰も恨みはしません。ただこの方々が、永遠の幸せを受ける事だけを望んでいます。」と。そこにあったのは、その26人、キリシタンの口から漏れたのは、愛と感謝と讃美と、天主への礼拝と、天主への全くの信頼でした。迫害されていたにもかかわらず、全てを感謝して、祈りに変えて、愛を以ってそれを捧げていました。

 その後迫害はますます厳しくなり、250年以上、キリシタンたちは潜伏せざるを得なくなりました。それにもかかわらず、何も恨む事も復讐する事もなく、それを祈りと犠牲を以って耐え忍んでおられました。ようやくキリシタンたちが、予言の通りに宣教師と会って、イエズス・キリストの捧げるミサに与る事ができるようになったとしても、当時幕府は、彼らは流刑の地に、何千人という人々を追放し、色々な各地の牢獄に連れて処罰してしまいました。その内の2割以上の方々は、その流刑の地で亡くなったと言われています。

 しかし、そのような拷問や厳しい辛い思いにあったとしても、信仰を決して捨てる事なく、彼らが故郷長崎に戻ってきた時には、自分の住んでいた土地や畑は全て荒れ放題になっていて、全ては失われていた、との事です。しかしそれにもかかわらず、信仰の恵みを感謝して、それを捧げていました。

 日本の私たちの先祖はそればかりではありません。その後も、厳しい心理的な圧迫や差別や、抑圧を受けてきました。「キリシタン、カトリックだ」という事で、白い目で見られていました。「外国の宗教を信じる、敵の宗教だ」などと誤解されてきました。「非国民だ」などという悪口も叩かれました。しかしそれにもかかわらず、いつも私たちの先祖は、日本の兄弟姉妹の同胞の永遠の幸せの為に、命と祈りと犠牲を捧げてきました。

 そのような時に、日本は戦争に突入していき、第二次世界大戦はもはやどうする事もなく、日本はこのまま壊滅するかのような時が来ました。最初は連戦連勝を謳っていたのですけれども、しばらくすると戦況が状況が悪くなり、連戦連敗となっていきました。1944年の8月14日には、一般国民動員条例というものがあって、「13歳から60歳までの女子が、竹槍を持って戦わなければならない」として、訓練が始まっていました。機関銃とか何千何万もあり、飛行機が何千機も飛ぶようなそのような時に、どうやって竹槍で戦うのか。日本は既に運命が決められていたかのように見えました。軍部はその戦争を牛耳っており、天皇陛下が戦争に反対だったという事は国民には知らされていませんでした。

 そのような時に、アメリカでは原子爆弾をまず広島に落としました。8月6日の事でした。その3日後には広島よりも、広島の原子爆弾よりももっと高性能だとされたファットマンと言われる原子爆弾が、九州の小倉に落とされる計画でした。B29がそれを積んで落とそうとするのですけれども、その小倉には軍事基地があったのですけれども、その小倉の上空には雲があって、3回ほど旋回してもどうも落とす事ができなかったのです。するとそこに乗っていたパイロットは、「では第2候補の長崎に行こう」という事になったのです。後の記録によると、「燃料の補給管のバルブが閉まっていて、燃料が足りない」という事が分かったそうです。そこで本当なら目標のターゲットの所は3kmほど別の場所にあったのですけれども、しかし、「早く、一刻も早く落として行かないと私たちが死ぬ、私たちが大変だ」という事態になりました。結局落とされたのは、天使様の御摂理によって、長崎教区のカテドラルの上空そのすぐ近く、500mほどすぐ近くの事でした。8月9日の午前11時頃の事で、その時に原子爆弾は、長崎の大浦のカテドラルの上空で炸裂しました。





 この大浦の大聖堂は、昔「絵踏み」がなされていた旧庄屋の敷跡に、信徒の貧しい、一生懸命得たその献金で建てられた聖堂でした。極東一の5000名を入れる事ができる大きな聖堂で、マリア様の、被昇天のマリア様に捧げられていました。この長崎の原子爆弾が炸裂した時に、12000人いた長崎の信徒のうちの8000人が、半分以上がこれによってあっという間に亡くなりました。生き残った者は、元気だった者は本当の僅かになりました。





 多くの、永井博士の証言によると、多くの修道者たちは、マリア様の歌を歌いながら、讃美歌を歌いながら亡くなっていったそうです。やはりここでも、祈りと犠牲を捧げながら亡くなっていきました。

 永井博士は、11月にあった合同慰霊祭の時に、その「長崎が、長崎に原爆が落ちた事を天主様に、天主様から選ばれた事を感謝する。」と、言われました。この原爆が炸裂したその夜、長崎のこの浦上の大聖堂は焼き尽くされました。その真夜中に、全てが焼き尽くされたその時に、天皇陛下は終戦を決心されて、御前会議で、「戦争を必ず終結させる」というお恵みを受けました。



 「この日本に、世界に平和がもたらされる為には」と、永井博士は言いました、「その為には、罪の無い生贄が屠られなければならなかった。清い祈りと、犠牲とが天主に捧げられなければならなかった。燔祭が捧げられなければならなかった。浦上を愛したが故に、浦上をこうやって苦しませてくださり、選んで下さった天主様に感謝する。私たちはなんと幸せな事だ。なんと選ばれて、生贄と選ばれて、なんと幸福な事か。」と、合同慰霊祭で永井博士は言いました。「全ては天主様の愛の計らいであって、全ては永遠の命の為である。私たちが赦す時に、私たちは赦されて、苦しみによって喜びに導かれる」と。

 まさにこれが、聖フランシスコ・ザビエルが私たちに伝えて来た、イエズス・キリスト、十字架に付けられたイエズス・キリストの宗教の教えではないでしょうか。天主の計画はまさにこれです。この地上では確かに、ある人は苦しみ、ある人は悲しみ、ある人は辛い思いをしますけれども、しかしそれは全て、天主を知り愛し、仕え、永遠の生命に与る為であって、それに於いて全ての人は平等である。聖ピオ十世教皇様も仰っていました、「私の政策は十字架である。」私たちの元后であり、母であるマリア様もルルドで仰っていました、「私はあなたに、この地上では幸せを約束しません。しかし来世ではそうします。」

 では、愛する兄弟の皆さん、今日、四旬節に入ったまず最初のこの日に、私たちの心を、ルルドのマリア様と日本の多くの偉大な殉教者、英雄、信仰の英雄に心を馳せて、私たちも是非寛大に、祈りと犠牲を以って、愛と信仰の満ちた犠牲の心を以って、祈りの心を以って、イエズス様から特別のお恵みを勝ち得る事ができるようにお祈り致しましょう、「御身を、愛する日本の兄弟姉妹がまだ天主を知りません。ですからこの霊魂は病にかかっているかのようです。どうぞ癒して下さい。日本に特別のお恵みをお与え下さい。日本の心を、日本の霊魂を癒やして下さい。彼らが永遠の幸せに、永遠の命に導かれますように。イエズス・キリストを知り、愛し、それに仕える、という特別なお恵みを得る事ができますように、あわれみ下さい。」と、祈りと犠牲を捧げる事に致しましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

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