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世俗主義とは、イエズス・キリストを、社会から追放することです。つまり、法律、教育、行政、国際関係、そして社会経済全体から、イエズス・キリストを完全に排除することです。

2021年11月09日 | お説教・霊的講話

王たるキリストについての説教

ドモルネ神父

はじめに

私たちは今日、天地の王たる、私たちの主イエズス・キリストをお祝いしています。

1.王権の本質

王とは、ある都市や、ある特定の地域の人々の共通善を促進するために、その人々を統治する人物です。自分自身の利益のために統治する者は、王ではなく、暴君です。

王は立法権を持っています。つまり、国民を良きものに導き、悪しきものから遠ざけるための法律を作る権力を持っているのです。王は行政権も持っています。つまり、人々を自分の法律に従わせる手段を持っているのです。王は司法権も持っています。つまり、法律に従う人に報いを与え、法律を破る人を罰する権力を持っているのです。

ひとは、どのようにして、王になるのでしょうか? 天主の御名によって聖別されることによってです。実に、すべての権力、すべての権威は、天主に由来します。すべてを創造なさったのは、天主です。すべては天主に依存しています。宇宙の秩序と、それを支配する法を確立なさったのは、天主です。善と悪を決定されるのは、天主です。天主は、善には報いを、悪には罰を、お与えになります。ですから、合法的に王になるためには、その権力を、天主からいただく必要があります。

ところで、天主は、私たちの主イエズス・キリストを、すべての人の王として、また、家族、団体、会社、労働組合、政府など、人間からなる、あらゆる組織の王として、聖別なさいました。

2.キリストの王権の源泉

しかし、天主はいつ、イエズス・キリストを、すべての人の王として聖別なさったのでしょうか?

第一に、位格的結合によってです。位格的結合とは、一つのペルソナにおける、天主性と人性の結合です。イエズス・キリストは人間でいらっしゃいますが、同時に、天主でもいらっしゃいます。主は、ご自分の天主性から、すべてのものに対する権力と権威を受けておられます。預言者イザヤはこう言いました。「私たちのために一人のみどり子が生まれ、ひとりの子が与えられ、その肩には王のしるしがある。その名は、素晴らしきもの、顧問、天主、力あるもの、永遠の父、平和の君と、となえられる」(イザヤ9章5節)。

第二に、私たちの主イエズスは、贖いのみわざのゆえに、天主から、王として聖別されました。イエズスは、ご自分の命を十字架上で天主にお捧げすることによって、すべての人のあらゆる罪を贖われました。主は、地獄からすべての人を解放するための代価を、払われたのです。イエズスが、すべての人を勝ち得る権利を得られたため、天主は、イエズスを、すべての人の王として聖別なさったのです。聖パウロは次のように言っています。「イエズスは死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。そこで、天主は彼を称揚し、すべての名にまさる名を与えられた。それは、イエズスの御名の前に、天にあるものも、地にあるものも、地の下にあるものもみなひざをかがめ、すべての舌が、父なる天主の光栄をあがめ、『イエズス・キリストは主である』と宣言するためである」(フィリッピ2章8-11節)。

イエズスはご昇天の日、ご自身の普遍的な王権を、はっきりと、こう宣言されました。「私には天と地のいっさいの権力が与えられている」(マテオ28章18節)。

3.世俗主義

私たちの主イエズス・キリストは、王でいらっしゃいます。家庭の父親、会社の社長、団体の会長、組織の理事、政治的指導者など、すべての指導者の権限は、イエズス・キリストに属するものです。彼らの持つ権威は、イエズス・キリストの権威の下にあります。したがって、私たちの指導者たちには、天主と教会の掟に反することをしないという重大な義務があります。彼らには、イエズス・キリストによって創立されたカトリック教会のわざを押し進める義務があります。彼らには、自らの下にある人々の間に、偽りの宗教や道徳的な堕落が起こるのを、出来る限り防ぐ義務があります。

私たちの主イエズスの敵たち、特にフリーメーソンは、世俗主義と呼ばれるこの忌まわしい考えを、世界中に広めてきました。世俗主義とは、イエズス・キリストを、社会から追放することです。つまり、法律、教育、行政、国際関係、そして社会経済全体から、イエズス・キリストを完全に排除することです。世俗主義とは、あたかも天主とイエズス・キリストが存在しないかのように、社会で生活することです。

世俗主義は、非常に重大な罪です。世俗主義は、諸国民の不幸や苦しみの主な原因の一つです。確かに、秩序のないところに、平和や繁栄は、あり得ません。秩序とは、すべてのものが、あるべき場所にあるということです。もし指導者たちが、イエズス・キリストの王権を認めず、イエズス・キリストに服従することを拒むならば、彼らは、天主が確立なさった秩序を尊重しません。彼らは暴君となり、多くの無秩序、苦しみ、不正義、憎しみ、抑圧、戦争を引き起こします。

結論

愛する信者の皆さん、この王たるキリストの祝日に、私たちは、次の二つのことをすべきです。第一に、自分たちの国における世俗主義という罪について、私たちの主イエズス・キリストに、赦しを請うことです。第二に、私たちの家庭で、ビジネスで、また社会生活のすべてにおいて、世俗主義と戦うことです。では、そのためには、どうすればいいのでしょうか? それは、イエズスとイエズスの教会の法に従って、信仰深く生きること、公の場でも恐れずに、私たちがカトリック信者であることを示すこと、そして、どこにいても、カトリックの信仰と教理を積極的に広めることです。

今日、私には、ヨハンナという子に、初聖体を与えるという喜びがあります。私たちの主イエズスは、王が自分の王国を訪れるように、この霊魂に訪れてくださいます。イエズスが、この小さな霊魂を完全に所有し、この霊魂を聖性と永遠の幸福へと導いてくださるよう、お祈りしましょう。また、世俗主義の罪の償いと、罪人の回心のために、この初聖体を王たるキリストにお捧げしましょう。



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