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聖ピオ十世会総長であるダヴィデ・パリャラーニ神父の「恩人と友人の皆様への手紙 90号」を日本語で紹介いたします

2021年02月28日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会総長であるダヴィデ・パリャラーニ神父の「恩人と友人の皆様への手紙 90号」を日本語で紹介いたします。

私たちは、今この瞬間、コロナウイルスのために、今まで私たちが想像もしていなかった世界を生きています。この手紙では、全世界を打ちのめそうとする最大の危険を分析しています。

現代世界がますます暗黒のうちに転がり落ちるように思える危機の最大の原因は、背教であり、信仰を失ったことです。この害悪よりもさらに重大な危険は、カトリック教会の聖職者や信者たちが「この世界を苦しめている天罰に対してカトリック信者たちがあまりにも人間的すぎるやり方で反応している」ことです。

カトリック教会は、常に、超自然の観点から、イエズス・キリストが御受難によってなさったように、罪によって冒(おか)された天主の正義を、償いによって天主の正義を満足させることを訴えてきました。

しかし、現代世界を打つ最大の、そして致命的な危機は、そのカトリック教会において「罪の結果に関する、償いの必要性に関する、十字架への愛に関する、全人類を待ち受けている死と審判のために準備することに関する、教会の位階階級からの超自然的メッセージが完全に喪失してしまっています。これこそ本当の大災難中の大災難です!」

私たちに与えられているコロナ禍の苦しみの中で、信仰の光で天主の高みまで心を上げて、私たちの罪の償いと、私たちに欠けている徳の習得のための機会とするかわりに、残念なことに、被造物のことだけに私たちの心がべったりとくっついて囚われていることです。被造物に解決を期待し、被造物に裏切られ、そのために、恐れと絶望とにおしひしがれてしまうことです。

私たちの言う「正常(ノーマル)」とは、天主の摂理に全く信頼すること、「信仰、希望、愛に養われて、この信頼を完全に回復」することです。現代の本当の危機は、感染症流行というよりも、むしろ私たちの超自然の命の喪失(そうしつ)、信仰の光で被造物を見る観点の喪失だからです。

では、お手紙をお読みください。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


恩人と友人の皆様への手紙 90号
ダヴィデ・パリャラーニ神父

恩人と友人の皆様への手紙 90号

親愛なる信者、友人、恩人の皆さん、

私たちは現在、コロナウィルスによる危機と、そのすべての悪影響のために、異常な、ほぼ前例のない歴史的瞬間を生きています。この状況下では、千通りの質問が湧き上がり、それに対して千通り、いえ、それ以上の答えが返ってくるでしょう。一つ一つの問題に個別に回答していくことは非現実的になるでしょう。それはこの考察の目的ではありません。それよりも私たちは、今、人類を悩ませているすべての害悪よりも、もっと重大な危険をここで分析したいと思います。それは、私たちの生きる世界は、背教によってもう一度異教的となってしまいましたが、この世界を苦しめている天罰に対してカトリック信者たちがあまりにも人間的すぎるやり方で反応している、という危険です。

もう数十年にもなりますが、極めて長期間にわたる救いがたく見える状況を改善するために、天主の天罰、あるいは摂理的な介入の類いを、私たちは期待してきました。核戦争を予想する人もいましたし、貧困の新たな急増、大災害、共産主義の進出、石油危機等を想像する人もいました。つまり、私たちの国々の背教の罪を天主が罰し給い、よい心の準備ができていた人々からの健全な反応を得るという摂理的な出来事を期待していたかもしれません。いずれにせよ、物事をわかりやすくするための何かを期待していました。しかし、私たちが予期していなかった形ではないかもしれませんが、現在の困難は、間違いなくこの【天主の介入を】明らかにする役割を果たしています。

現在の危機では何が起きているのでしょうか? 現代に生きる人々の心を奪ってしまっている感情を分析してみましょう。そしてなによりも、私たちのカトリック信者としての心の状態が、信仰の水準にまで引き上げているかどうかを検証してみることにしましょう。

人間的すぎる恐怖

簡単に言うと、三種類の恐怖を見いだします。これらの恐怖は、現在、ほぼすべての人間において絡み合い、そしてその全てのエネルギーを疲弊させてしまっています。

まず一つ目は、感染症流行そのものへの恐れです。ここでは、コロナウィルスが害をもたらすことについて話をするつもりはありません。しかし確かなことは、天主なしの現代世界は、死すべき生命を絶対的な善としてこれに執着し、この生命の前に、それ以外の全ての考慮すべきことは、頭をたれて譲歩しなければならず、重要なことではなくなっています。その結果、そして必然的に、この歪められた視点は、全世界で制御不可能な不安を生み出します。世界中は正気を失ったかのようです。優先課題の中でも最も優先すべきことを脅迫している危機ということによってあたかも催眠術にかけられ、文字どおりパニックに陥り、全ての人は、それ以外の課題について考えることが根本的に不可能になっている、あるいは、これを超える状況へと心をお挙げることができなくなっています。

次に、経済的危機ということがあります。当然ですが、父親が子どもたちの将来について憂慮するのは至極当たり前のことですし、同時に解決すべきいくつものもっともな懸念があることを天主はよくご存知です。しかし私がここで言及しているのは、もっと一般的な、究極的にもっと自己中心的な恐れのことです。いぜんよりもちょっと貧しくなり、今まで当たり前で、誰からも奪われえない権利の対象だと思っていたことをもはや享受できなくなることへの恐れです。この視点は、最初の恐怖と厳密に結びついています。つまり、ここ地上での生命こそが最高の善であるならば、それをもっと、あるいはできる限り、楽しむことのできるようにしてくれる富もまた、当然のことながら、究極の善となるからです。

最後に、これら全てに、今まで人々が享受してきた個人の自由が失われるという恐怖が加わります。これほどまで「人権」が一般的認識となったことはありませんでした。この三重の恐れの分析と、これに関係するすべてのことは、もっと話を展開させることもできます。ここではこれだけを言うにとどめましょう。これらの共通の基礎は、根本的に自然的で、純粋に人間的であること、これらは、何一つとして【コロナ】危機以前と同じにはならないだろうという認識に集約されうることです。この「以前」とは、理想的で放棄できない福利であって、啓蒙された人類がこれの栄光ある征服を成し遂げた、と曖昧にそして世界中で見なされています。


しかし、この恐れと、それが引き起こす振る舞いを深く分析してみると、古代の異教徒たちが、自分たちが理解できないあらゆる事象を説明するために利用したのと似た言い逃れを逆説的にも見出します。
古代の世界は、確かに洗練され文明化され組織化されてはいましたが、不幸なことに真理については無知でした。理解不可能なことを表現するために、怪物やあらゆる種類の神々や粗野な神話を持ち出していました。今日、私たちはよく似た反応を目撃しています。つまり、恐怖に直面して、不確実な未来に直面して、一連の説明が生まれ、それらは四方八方に進み、互いに体系的に矛盾し、果てしなく絡み合っています。それらが矛盾していることは、以下の事実によって明らかです。それらの説明は、継続的に、数時間あるいは数週間の間隔で、もっと需要のある、もっと洗練された、一見もっと説得力がありそうな説明、かといって必ずしももっと正しいわけではない説明に絶えず取って代わられているからです。私たちは、その境界線を把握できないまま、現実的要素がフィクションと混ざり合っている本物の神話に直面しています。そして、奇跡のような解決策、ユートピア的解決策、突如として濃い霧を追い払いすべての問題を解決してくれることができる方法を激しく切望する待望が生まれているのを見ています。

これは、二千年を経て、これらは再び異教的になった人類の中にもう一度現れている、混乱と苦悩と絶望の古代の叫びに少し似ています。それ以外ではありえません。天主を持たないこの人類がいかに無力で、狂気への道のりを辿っているか、理解できる人々にとっては明らかです。とりわけ注目に値するのは、信仰を失い、従ってもはや信じていない現代人が、同じ理由で、現実的識別をせずにあらゆることを信じようとしていることです。

私たちの希望は天国に固く基づいている

しかし、私たちに関して言えば、この精神から全く何の影響も受けていないというのは確かでしょうか? もちろん、前述した三つの恐れは理解できますし、ある程度は正当でさえあります。正当でないのは、これらの恐れがあらゆる超自然的な考えを妨げて押し殺すがままにしてしまうこと、何よりも、この試練から益を得る可能性を損なっていることです。 

結局のところ、私たちが信仰の眼を通してこの状況を見ることによってのみ、私たちは現実と真理に留まることができるということを決して忘れないようにしましょう。天主とその御摂理から逃れうるものは何もありません。私たちに起こる出来事の超える向こうに、天主は正確な御計画をお持ちであることは確かです。そして、人間は死を免れないという条件、人間の企ての脆(もろ)さを人々に思い起こさせることは、この計画に属しています。

天主は、まず最初に、実証主義(天主の秩序への否定)に毒された現代人に対し、彼を取り巻く自然のわざは、天主のみわざであることを、そして、自然界は天主の法に従うことを教えます。人間改造主義 transhumanism(人間の限界の否定)を吹き込まれた現代のプロメテウスに、天主は、ご自分が創造された自然界は、人間科学の技術と制御をすり抜けている、と理解させています。これこそ、特に現代において、極めて必要な教訓です。私たちはこれを心に銘記し、自分のものとしないといけません。絶対の力を持つという夢想に盲目となった現代人は、これを把握できなくなっているからです。私たちはまた、この教訓のうちに、天主の偉大さを礼拝し、天主に依存して親密に生きるという新たな動機を見出さないといけません。

さらに具体的には、何事も主から逃げることができず、すべてを前もって計画するお方である私たちの主は、私たちに何を伝えようとしているのでしょうか? 「信仰薄き者よ、なぜ恐れるのか? 私がまことに天主であることを信じないのか? 私がまことに全能者であることを信じないのか? 私が上智と善性においてすべてを導くことを信じないのか? 私が知ることなく、私の許しなく地に落ちる髪の毛一本すらあると思うのか? 私は生と死の支配者ではないのか? ウィルスは私なしで存在できると思うのか? 至高の支配者である私なしに政府は法を作ることができると思うのか? 言ってみよ──嵐の間、私がお前たちとともに船にいるなら、お前に降りかかりうる最悪のこととは一体何か?」

これらの質問への回答の中に、問題全体が含まれています。私たちの霊魂である船の中に、主は本当におられますか? もしもそうなら、私たちは、物事を本当に信仰の眼を通して、信仰の光に照らして日々の生活のすべての出来事を解釈可能にする信仰の眼を通して見ていますか? たとえ何が起きているのか完全にはわからないとしても、主への全幅の信頼を維持していますか? 私たちのカトリック信仰が私たちに与える永遠の回答で十分ではないですか? それとも、インターネットで発見可能な絶えず更新される答えで薄めてしまう必要性を感じるのですか? 月日が経つにつれて、私たちの主イエズス・キリストへの信頼は増大しましたか? それともこれらの時は、自らを引きこもらせ、希望を失う感覚に貢献したのでしょうか? 私たち一人一人は、良心において、これらの問いに真摯に答えなければなりません。

***

また、一部の人々は、感染症流行それ自体の他に、長期間に渡る宗教的迫害、特にキリスト教徒への迫害を恐れています。この疑問が起こるべきなのは理解できます。なぜなら世は私たちを憎んでおり、遅かれ早かれ、迫害は起きるはずだからです。感染症流行と関係しているにせよ、それとは独立したものであるにせよそうです。私たちはそれから逃げられません。これは、現在の騒乱に関するあらゆる預言に先立って述べられている、福音の真理です。主は私たちに警告しています。「お前たちは戦争と騒乱の噂を耳にするだろう […] 国は国に逆らって立つだろう。ところどころで大地震、疫病、飢饉があるだろう。[…] 彼らはお前たちを王や為政者たちの前に引きずっていき、私の名前のために手をかけ、迫害し、会堂や牢獄に引き立てていくだろう」[ルカ21:9-12]

しかし、ここでも私たちの恐れを、私たちを平静にさせてくれる信仰の光の中に浸らせないといけません。「恐れるな」[ルカ21:9] 長い間、このことについて警告されてきたのですから、私たちは、み摂理のみ手の内にあますことなく自らを委ね、絶望的になって出口を探し求めたりせずに、そのために自分自身を平和のうちに準備しておかないといけません。迫害の下にあった一世紀のキリスト信者たちを振り返ってみましょう。迫害者たちを、拷問の道具を、野獣たちをあまりにも近くで見た人々は、御元に自分たちを招く天主の愛を忘れてしまい、危険と苦痛と恐怖以外の何物をも見ず、そしてあげくに背教しました。彼らは明確な情報を持っていましたが、彼らの信仰は十分に強くなく、熱心な祈りで満足に養われていませんでした。「暴飲暴食や飲み物の酔い、生活の煩いに心の鈍らぬように、そして、その日が突然網のようにあなたたちの上にかぶさらぬように気をつけよ。それは地上に住むすべての人を襲うであろう。だからいつも警戒し、祈れ」[ルカ21:34-36]

主はまた私たちにこう警告しておられます。「弟子は師に勝るものではない。彼らが私が迫害したなら、おまえたちをも迫害するだろう」[ヨハネ15:20] すべての辛い試練には、私たちの模範なる天主なる救い主に、私たちはもっと似たものに変えられるのを見る秘訣と尊い賜物があるのです。こうして「キリストの苦しみの欠けたところを、我が肉体において満たす」ことができるのです。

***

現実に立ち止まり、コロナウィルスをその場所に留めておくために、私たちの助けとなる最後の考察もあります。この現在の危機とともに、カトリック教会は、私たちにさらなる影響を与えずにはいられない、さらにひどい、壊滅的な危機の中を突き進んでいます。もしそのことがわからないなら、私たちに災いあれ。なぜなら、それは私たちがもはや信仰の眼で状況を理解していないというしるしだからです! この別の危機は実に、もっと致命的です。この危機のせいで信仰を失った人々は、霊魂を永遠に失う危機にさらされているからです。不幸なことに、現状ではこれに加えて、罪の結果に関する、償いの必要性に関する、十字架への愛に関する、全人類を待ち受けている死と審判のために準備することに関する、教会の位階階級からの超自然的メッセージが完全に喪失してしまっています。これこそ本当の大災難中の大災難です!

ですから、私たちとしては希望を失わないようにしましょう。希望は私たちの努力や能力、分析を礎にしているのではなく──密接な関係はあるかもしれませんが──私たちの主イエズス・キリストの無限の功徳を礎にしているのです。私たちは常に、主の方を向かないといけません。特に、背負った重荷の重さに圧倒され、打ちのめされている時に。そうすることは、特に主を知っている私たちにとっては、この慰めとなる現実をまったく知らないという悲劇を生きている人々への愛徳の義務となるのです。私たちが隣人のために、本当にまことの使徒となりたいのなら、この特典的な時期に、最も効果的でふさわしい使徒職は、み摂理に際限なく信頼するという模範を見せることです。これこそが十字架を背負って希望を持ち続けるために、キリスト者だけが成し得る方法です。「正常な状態」に戻るための私たちの願いは、何よりもまず、信仰、希望、愛に養われて、この信頼を完全に回復させたものでなければなりません。

この貴重な恵みを勝ち得るために、ロザリオの十字軍において、親も子どもたちも、私たち全員、熱情を増加させましょう。ロザリオの十字軍は私たちを一緒にさせ、一致させます。ミサ聖祭のための、召命のための、世界と教会のための、聖母マリアの勝利のためのロザリオの十字軍において、天主ご自身が抵抗不可能な熱のこもった叫びをそこに見出すことができるように。

これこそが、感染症流行の終了を待つことなく現在の危機から抜け出す正真正銘の手段です!

「誰がキリストの愛から私たちを離れさせよう? 患難か、苦悩か。飢えか、裸か。危険か、剣か。 […] だがすべてこれらのことに会っても、私たちを愛されたお方によって、私たちは勝ってなお余りがある。死も、命も、天使も、権勢も、現在も、未来も、能力も、高いものも深いものも、そのほかのどんな被造物も、主イエズス・キリストにある天主の愛から私たちを離せないのだと、私は確信する」 [ローマ8:35-39]

天主の祝福がありますように!

2021年2月2日、メンツィンゲン
聖母のお潔めの祝日
総長、ダヴィデ・パリャラーニ神父






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