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「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」まえがき(バーク枢機卿)と 序章

2024年01月23日 | カトリック・ニュースなど

「シノドスの過程はパンドラの箱 : 100の質問と回答」

The Synodal Process Is a Pandora’s Box: 100 Questions & Answers

ホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエ著

2023年8月22日

カトリック教会内の異端的な声が変化を叫んでいます。「シノダリティに関するシノドス」おける彼らの急進的な行動計画(アジェンダ)は明らかです。それは、教理を歪め、聖伝を転覆させ、教会の位階的な性質を解体することです。

著者のホセ・アントニオ・ウレタとフリオ・ロレド・デ・イズクエは、新著「シノドスの過程はパンドラの箱。100の質問と回答」の中で、現在の危機をすがすがしい明快さで説明しています。どのページも知恵、洞察、真理を与えています。どの回答も、シノドスの背後にある詭弁、意図的な混乱、異端を暴いています。

レイモンド・バーク枢機卿は、まえがきで次のように述べています。「シノダリティ」(Synodality、共に歩むこと)とその形容詞である「シノドスの」(synodal)は、今やスローガンとなっており、そのスローガンの背後では、教会が常に教え実践してきたことの多くを否定する現代のイデオロギーに合わせて、教会の自己理解を根本的に変えようとする一つの革命がうごめいているのです」。

「シノドスの過程はパンドラの箱」は警告の叫びです。自然に反する罪の常態化、女性の叙階、姦淫状態にある「再婚した」離婚者による聖体拝領の受け入れ、カトリック教会内の平等主義の民主的平準化などに抵抗し、断固として立ち向かう道徳的義務が、なぜ忠実なカトリック信者にあるのかを知ってください。

もしあなたが、カトリック教会と、私たちの主イエズス・キリストによって永遠に確立された教会の位階的な統治形態を愛しているならば、この本はあなたのためのものです。

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目次

まえがき(レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

序章
「通常」総会ではない
ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)
失敗した道
公会議主義から永続的シノダリティへ
「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

まえがき (レイモンド・レオ・バーク枢機卿)

2023年6月16日
至聖なるイエズスの聖心の祝日

今日の教会における最も深刻な状況を明確かつ包括的に取り上げている「シノドスの過程はパンドラの箱 Il processo sinodale, un vaso di Pandora」が出版されたことを、心からお祝い申し上げます。この状況は、すべての思慮深いカトリック信者と、キリストの神秘体に与えている明白で重大な害悪を観察する善意の人々に、当然のことながら関心を抱かせるものです。

私たちは、使徒たちの時代からの信仰の先祖たちとの交わりの中で、私たちが一、聖、公(カトリック)、使徒継承であると告白してきた教会が、今や、教会の教理の中に歴史を持たず、合理的な定義もない用語であるシノダリティ(synodality)によって定義されると言われています。シノダリティとその形容詞である「シノドスの」(synodal)は今やスローガンとなっており、そのスローガンの背後では、教会が常に教え実践してきたことの多くを否定する現代のイデオロギーに合わせて、教会の自己理解を根本的に変えようとする一つの革命がうごめいているのです。なぜなら、このイデオロギーはすでに何年か前からドイツの教会で実践され、混乱と誤謬、そしてその果実である分裂――まさに離教――を広範囲に広め、多くの霊魂に重大な害を及ぼしているからです。「シノダリティに関するシノドス」が間近に迫っている今、同じ混乱と誤謬と分裂が普遍教会にもたらされるのではないかと懸念されるのは当然です。実際、地方レベルでのシノドスの準備を通して、それはすでに起こり始めています。

教会の変わることのない、また変えることのできない教理と規律において私たちに伝えられているキリストの真理だけが、今の状況に効果的に対処することができます。キリストの真理が、うごめいているイデオロギーを明らかにすることによって、また、それが広めている致命的な混乱と誤謬と分裂を正すことによって、また、教会の教え、祈りと礼拝、徳と規律の実践の中で、私たちのために生きておられるキリストに対して日々回心するという真の改革を行うよう教会員に霊感を与えることによって、効果的に対処することができるのです。「シノドスの過程はパンドラの箱 Il processo sinodale, un vaso di Pandora」は、一連の100の質問と回答を通して、キリストの光、キリストの真理を、教会の現在の最も憂慮すべき状況の上に照らしています。この質問と回答を研究することは、すべての教会の成員が召されているように、真摯なカトリック信者がキリストの「真理の協力者」(ヨハネ第三書8節)となり、それにより使徒継承の聖伝に忠実な、私たちの時代における教会の刷新の担い手となるための助けとなるでしょう。

私は、適切な質問を立てるために、また権威ある回答を提供するために、まことに熱心に、そして見事に取り組んでくださったすべての方々に感謝申し上げます。聖パウロが「むしろ、愛をもって真理を宣言し、かしらであるキリストによって、すべて愛において成長するだろう」(エフェゾ4章15節)と私たちに教えているように、彼らの労苦の実りを、教会を建て直すために、世界中のカトリック信者が利用できるようになることが私の望みです。

私たちの主が、教会での母として私たちに与えてくださった(ヨハネ19章26-27節参照)、主の童貞なる御母の執り成しと配慮によって、私たちの救いである私たちの主のみに忠実であるように、現在教会を脅かしている重大な害が回避され、この世において教会が自らの使命を果たすことができますように。

父としての深い愛情と敬意を込めて、

イエズスの聖心とマリアの汚れなき御心において、
皆さんの忠実なる

レイモンド・レオ・バーク枢機卿(署名)

____________________________

フリオ・ロレドとホセ・アントニオ・ウレタ


ローマにて

序章

教皇フランシスコは、「シノドスの教会のために。交わり、参加、そして宣教」をモットーに、ローマで「シノダリティに関するシノドス」を招集しました。これは、司教シノドスの第16回通常総会です。
革命的なインパクトを秘めているにもかかわらず、このシノドスをめぐる議論は、大部分が内部関係者だけにとどまっています。一般の人々は、このシノドスについてほとんど何も知りません。私たちはここで、何が問題になっているのかを説明することによって、このギャップを埋めようとしています。聖にして母なる教会を改革する計画が進行中であり、それが最終的な結末に至れば、教会の土台を転覆させることになりかねません。

このシノドスは通常総会ではありますが、いくつかの要因により、異例なものになっています。教会史における分水嶺、事実上の第三バチカン公会議のようなものにしたいと考える人もいるでしょう。

「通常」総会ではない

第一の要因は、シノドスの構造そのものです。広範囲にわたる国際的な意見聴取の後、参加者のための霊的黙想会を経て、2023年と2024年にローマで2回もの全体会議が計画されています。

第二の要因は、シノドスの内容です。通常総会は特定の問題(2018年は青少年、2015年は家庭など)を扱いますが、今回は、彼らは教会の構造そのものを問うつもりです。彼らが提案しているのは、教会を再考し、教会の有機的統治形態(constitution)の基本的要素を変更することによって、教会を新しい「統治形態としてシノドス的な教会」(1)へと変えることです。この変化はあまりにも急進的であるため、シノドス文書は、あたかも教会が誤った道を歩んできたかのように、そしてUターンする必要があるかのように、「回心」と述べています。

この総会を異例なものにしている第三の要因は、その過程的性格です。このシノドスは、教理的あるいは司牧的な問題を議論し、結論を出すためのものではなく、教会を改革するための「教会的過程」を行うためのものです。多くの人々は、これがパンドラの箱を開けてしまうのではないかと恐れています。

このように、「シノダリティ」(synodality)には、カトリックの思想家、プリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラが記した「お守りのような言葉」(talismanic words)、つまり、過激化しやすくプロパガンダに悪用されやすい、非常に融通の利く言葉になるという危険性があります。プロパガンダに操られることで、「(お守りのような言葉は)新たな輝きを放ち始め、プロパガンダを受ける者を魅了し、その人が想像するよりもはるかかなたにその人を連れていく」(2)のです。

シノドスの推進者たちが言うには、この急進的な教会改革は、克服を必要とする欠陥のある位階的教会論が覇権を持っていたせいで、あまりにも長い間無視されてきた初代教会の共同体的参加の古い手順を取り戻すものとされています(3)。

このように、「シノダリティに関するシノドス」は、教会の歴史における、特に現教皇職における分水嶺として位置づけられています。教皇フランシスコが「シノダリティという重大な改革を準備しているところだ」と、バチカン専門家のジャン=マリー・ゲノワは書いています。「彼は、ピラミッド型、中央集権型、聖職者主義化した教会を、より民主的で分権的な共同体に変えたいと願っている」(4)と。

ドイツの「Synodaler Weg」(シノドスの道)

教会の「シノドスの回心」に最も熱心に取り組んでいる人々の中には、大多数のドイツの司教がいます。彼らは、自分たち自身の「道」、つまり「Synodaler Weg」(シノドスの道)を開始しました。この「Weg」(道)は、ドイツ進歩派の最も極端な主張を集約し、復活させたものです。

その推進者にとって、この「道 Weg」はドイツ国内に限定されるべきものではありません。むしろ、普遍的なシノドスのモデルとなり、推進力となるべきです。こうしてドイツ人は、シノドス推進派の広大な宇宙の中で、明確で影響力があるとはいえ、極端な一派として登場します。バチカン専門家の中には、「ライン川がテヴェレ川に流れ込んだ」第二バチカン公会議の場合が部分的にそうであったように、ドイツの進歩派の影響がシノドスの活動において決定的なものになることを危惧する者もいます(5)。

その最終的な結末に至れば、「道 Weg」は、聖なるローマ・カトリック教会の深刻な破壊転覆になることをほのめかしています。元教理省長官ゲルハルト・ミュラー枢機卿はこう述べています。「彼らはカトリックの信仰とは何の関係もない別の教会を夢見ており、…また彼らはこの過程を悪用したいと望んでいます。それは、カトリック教会を他の方向に移行させるためだけでなく、カトリック教会を破壊する方向に移行させるためなのです」(6)。

もし普遍的なシノドスがドイツの「道 Weg」の一部でも受け入れるようなことがあれば、私たちが知っているような教会の姿は失われ、終焉を迎えることになりかねません。もちろん、これでカトリック教会が終わるわけではありません。天主の約束に慰められ、教会には不可崩壊性という確実性があります。その特権のゆえに、教会は時の終わりまで存続し(マテオ28章20節参照)、地獄の門も教会に打ち勝つことはない(マテオ16章18節参照)からです。

失敗した道

シノドスの道をカトリック教会に適用する前に、その推進者たちは、失敗したと証明された他の宗教における同様の実験を研究した方がいいでしょう。1950年代に独自の「シノドスの道」に着手した英国国教会を例に取ってみましょう。

元英国国教会主教であり、エリザベス二世女王陛下のチャプレンを務め、現在はカトリックに改宗したギャビン・アシェンデンの証言は注目に値します。

「元英国国教会(アングリカン)の人々は、自分たちが何らかの助けを提供できると信じています」。なぜなら、英国国教会で使用されている「シノダリティ」という「策略」が、「分裂的かつ破壊的な効果をもたらす」のを目の当たりにしてきたためです。
「事実、元英国国教会の人々は、以前にも教会でこのようなトリックが演じられるのを見たことがあります。それは進歩主義者の霊性の一部です。ごく簡単に言えば、彼らはマルクス主義に準じた内容を霊的な慰めの毛布で包み、その後、聖霊について大いに語るのです」(7)。

同様の警告は、元英国国教会ロチェスター主教で現在はカトリック司祭であるマイケル・ナジール=アリ神父からも発せられています。彼は、英国国教会や他のプロテスタントの間で生じた「混乱と混沌」から学ぶよう、司教たちに促しています(8)。

このアプローチの失敗を見るのに、遠くへ行く必要はありません。ドイツの教会の惨状を見れば一目瞭然です。皮肉なことに、「Synodaler Weg」は、普遍教会を改革するモデルとして役立つことを意図しています。しかし、ドイツの教会は、その歴史上最悪の危機の中でほとんど消滅しようとしており、その理由は「Weg」に霊感を与えるような考えや実践に似たものを適用にしたからだと誰もが見ています。

なぜ、誰もが他のところで大惨事に至った道を教会に押し付けようとするのでしょうか。

さらに、本書が示すように、普遍的なものであれドイツ的なものであれ、シノドスの道にわくわくしている人はほとんどいません。さまざまな協議の過程に関わる人々の数は、笑ってしまうほど【少ないの】です。全般的に無関心なのです。シノドスの道の推進者たちは、この無関心を正しく解釈できるのでしょうか。空席の観客に向かって球技をしていることに気づくでしょうか。ああ、サッカーの試合ならまだしも! 問題になっているのはキリストの花嫁に他ならないのです!

公会議主義から永続的シノダリティへ

シノドスの擁護者たちは、シノドスの精神を現代的で最新のものとして提示していますが、それは古代の誤謬や異端を引きずっています。

いわゆる公会議主義の潮流は、人文主義(人間中心主義)によって生まれた新しいメンタリティーに教会を適合させるという口実のもとに、早くも15世紀には生まれました。その擁護者たちは、教皇の位階的な権力を減らして、公会議という集会に力を与えようとしました。「信者の意志」を表して、教会は、それぞれが言語と慣習を持つ、大部分が自治的な地方的・地域的なシノドスの構造となるべきだとされたのです。これらのシノドスは、定期的に、総会(あるいは聖なるシノドス)において、開かれるとされ、また、教会の最高権威をもっているとされました。教皇は「primus inter pares」(対等の中の第一人者)に格下げされて、参加者の平等な投票によって下された公会議の決定に従うとされていました。

ドイツの「Synodaler Weg」と普遍的なシノドスに力を与える精神は、その最も真正な表明において、何人かの教皇と何回かの公会議によって断罪されたこれらの古い誤謬を当然のものとし、復活させています。

ヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿(当時)は、こうした古い誤謬を糾弾しました。「教会の聖伝と、教会の秘跡的構造と特定の目的に照らせば、国内教会の最高の永続的な統治権威としての混合シノドスという考えは妄想です。そのようなシノドスはすべての正当性を欠くものであり、そのようなシノドスに従うことは断固として明確に拒否すべきです」(9)。

「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」

勤勉な観察者には、このような俯瞰は黙示録的な色合いを帯びています。聖にして母なる教会の有機的な統治構造(constitution)と教理の持つ基本的な要素を消し去り、教会を認識不能にすることで、教会を解体しようとする作戦が進行中だからです。前述のように、ミュラー枢機卿は、シノドスの改革が最大限に適用されれば、推進者たちのユートピア的な意図のもと、「カトリック教会の破壊」に至るかもしれないと警告しています。この破壊は、教会をあらゆる危険から守るべき聖別された手によって実行されるため、さらに恐ろしいものとなります。パウロ六世の警告が今ほど響いていることはありません。「ある者は、…自己解体を実践しています。…教会は、教会の一部分である人々によって悪しき影響を受けています」(10)。

このような悲惨な見通しに直面した多くのカトリック信者は、迷い、落胆し、混乱し、当惑し、失望さえ感じており、みんなが適切に行動してはいません。教皇聖座空位論の誘惑に屈し、教会を捨てて自己中心的になる者がいます。背教の誘惑に屈する者もいて、教会を捨てて偽りの宗教を受け入れています。大半は無関心に沈み、教会を悲しい運命に委ねています。そのどれもがあからさまに間違っているのです! 「Amicus certus in re incerta cernitur」(不確かな事態において、確かな友が識別される。困っている時の友は本当に友である)。今こそ、聖にして母なる教会が、外敵や内敵から教会を守るために、愛と恐れを知らない子らを必要としている時です。天主は私たちに説明責任を負わせられるでしょう!

1951年にプリニオ・コレーア・デ・オリヴェイラがしたように、私たちはこう自問します。「ご受難が悲劇的であったように、悲劇的であるこの瞬間、すなわち、全人類がキリストに味方するか、キリストに逆らうかを選択するこの歴史の重要な瞬間に、教会と一致して生きている人は何人いるのでしょうか?」。そしてまた、「私たちは、教会が考えるように考え、教会の心を持ち、私たちの人生のあらゆる状況において教会が望むように進まなければなりません。…それは一生を犠牲にすることになります。この忠実さという犠牲は、それを必ずしも評価せず、時には痛烈に迫害する権力者に向けられるとき、さらに多くの痛みを伴います。

私たちは、ほとんどこう叫ぶことができます。詩篇作者の言葉を借りて、「私は兄弟たちには他人となり、母の子らには見知らぬ人となった」(詩篇68篇9節)と。そうです、他人でありながら、母の家、つまり聖なるローマ・カトリック教会にして使徒継承の教会の中にいるのです。

これが、本書の著者たちにやる気を起こさせている精神なのです。

*       *       *

この作品を書くに当たって、特にフアン・ミゲル・モンテス氏とマティアス・フォン・ゲルスドルフ氏の貴重な貢献に感謝します。

【続く】



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