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【再掲】聖体の制定された理由 : 聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしである

2021年06月03日 | カトリックとは
2021年6月3日、御聖体の祝日おめでとうございます!

聖体の制定された理由

聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしである

 礼拝 聖体の中にまします主イエズス・キリストを仰いで感謝し、賛美し、礼拝して、聖体がここにおいでになるのは、ある意味で全くあなたひとりのためであることをさとること。これはまことに不思議なことで、地上での主の慈愛の極みである。主が私たちに、これよりもっと親密に、もっと完全に主と一致することを許してくださるのは、天国以外にない。キリストがこれによって実際に、そして完全に、私たち各自に尊い御からだをお与えになることができるというのが、聖体の特徴であり、ねらいどころであり、目的であった。

 だからトリエント公会議は、聖体は主の愛のあふれであると教えた。その意味は、ちょうど高い崖からこんこんと湧き出る泉の水が谷間をうるおすように、ご托身の際の救い主の愛が、聖体によっていや増し強められて、私たちに及ぶということである。

 聖トマはこの事実を『み言葉が人となりたまいて、世界の全体にもたらされたすべての恩恵を、聖体は人間のひとりひとりに別々に与えたもう』といみじくも言いあらわした。なるほど、この秘跡を想起することによってはじめて私たちは『主はわれを愛して、わがために御自らを与えたまえり』との聖パウロの言葉の意味をさとることができる。

 カルワリオの頂で、主は一度死にたもうただけである。しかし聖体を拝領するたびに、主のご死去の効果は私たち各自にわかち与えられる。私たちが主を受けるとき、私たちはもはや主がたしかに私たちのものであることを疑うことはできない。私たちは主をもち、主を捕え、私の胸の中に抱いてしまう。主は私の愛のとりこである

 聖体拝領台で主と私との親しい会見がはじまる。しかし御からだを私に与えられることは決して主の義務ではないから、この御恵みが純粋に主の愛から出たことは明らかである。主はちょうど私たち各自が主の限りない愛の唯一の対象であり、主のご受難の目的のすべてであるかのように、私たちひとりひとりを愛してくださる。

 この驚くべき愛の証拠に感じ、イエズス・キリストを礼拝しよう。

 いと高き無限の御者、天地の主宰者が、天からくだってあなたのために聖体となり、あなたのもとに来て、あなたの中にはいり、あなたのため、虚無であるあなたのために、あなたの過去現在の過失をいやそうと、あなたに御身を与えたもうからである。聖体を拝領するとき、主は全くあなたのものとおなりになるから、世界にはただ主とあなただけしか存在しないのである。

 上記の事実、この親しい一致が、いとも感嘆すべき、いとも玄妙な聖体の奥義である。

 感謝 イエズスが聖体を私たち各自に与えられるその大いなる慈悲に感じ、聖心の限りない愛を感謝しよう。

 聖心は私たちの心を知っておられる。主は至上の愛の要求が、完全で直接な贈り物、親密な一致であるのを知っておられる。主は私たちと別々に一致し、各自にたまものを与えなければ、主がいかに激しく私たちを愛したもうても私たちの満足をかち得ないだろうとお考えになった。これによって慈愛深い救い主は私たちのために生まれ、私たちのために死し、私たちのためにいっさいをお尽くしになったのに、なおそのうえに私たちのひとりひとりに、各別にご自身を与えて、その愛を完成されたのである。

 主は私たちの性質、境遇、使命、必要、困難、誘惑、試練の違うままに、それぞれ違ったお恵みを与えて、主がどんなに私たちにとってなければならない御方であるかを知らせようと望まれた。実に、かずかぎりない多くの霊魂の中に、全く等しい霊魂はひとつとして存在しない。だからこれらすべて相異なった霊魂のひとつひとつの要求に応じて、それに適した祝福を与えなければ、愛の勝利を得ることができないわけである。これが救い主のなされたところである。すなわち聖体をふやして、これを私たち各自の養いとなさるのも、ただ私たちの完全な愛を得ようとされるからである。

 だから感謝し祝福しよう。主のご慈愛がいかに深いかをさとろう。かつてさばくの中で、数千のイスラエル人のかてとして与えられたマンナよりも、はるかにすぐれたたまものである聖体は、最後の晩さんの時から最後の審判の日に至るまで、人生のさばくをさまようかずかぎりない群衆の、そのひとりひとりの望みに応じて与えられるのである。
 
 償い 与えられたご恩の大小に応じて感謝の程度も異なり、たまものによって感謝の方法も変化するのが当然ではないだろうか。もしはたしてそうであるなら、イエズスが私たちを別々にいつくしみたまい、私たちひとりひとりをその愛の対象となさったから、私たちもまた他の何ものをも顧みないで、ひたすら主だけを愛する全き愛、特別な愛をもって、主の愛にこたえなければならないであろう。だから、主が私たちを愛される聖体の中で、私たちも主をお愛ししよう。私たちが失敗して悲しむときにも、成功して喜ぶときにも、また働いて苦しむときにも、いつも聖ひつのみ前に走り出て、主に私の愛をあかし、心を打ち明け、主のみ名を賛美しよう。

 私たちは、まるで見知らぬ神に対するように、莫然として主に仕え、聖体に対して少しの親しみも示さず、被造物に対してあふれるばかりの愛情はあっても、主に対しては冷淡であり儀礼的であったり、ただ利益のためか、恐怖のためにだけ主を愛しているか、これが、あれほどまでも惜しげなく、あれほどまでも激しく、私たちを愛し、ついにご自分さえも私たちにお与えになった愛すべき救い主に対する返報であろうか。この世の親子、友だち同志であっても、もっとこまやかな愛情を私たち相愛しているではないか。主にとって私たちはいっさいであるのに、なぜ私たちにとって主がいっさいではないのだろうか。あなたは恥知らずだ、赤面すべきだ。私たちの心はそれほどまでに鈍いのだろうか。このように愛してくださる主を、なぜこのようにわずかしか愛さないのか。
 
 祈願 イエズスを親しくお愛しする恩恵を熱心に請い求めよう。親しく愛するとは、イエズスをイエズスのために、あなたの心のすべてを傾けつくしてお愛しすることなのである。

 常に主を思い、胸の中にたいせつに主を宿し、主のために働け。主のため、主の愛のため、主の聖心にかなうため、主に光栄を帰すために万事をなすように。また、常に主がおいでになる聖堂を訪れることを喜んで、できるだけ多くの時間を主のみ前に費やすように。友は相ともにとどまることを好むが、どれいや召使は用事があるときにしか主人の前に出てこない。用事がすむと自分のへやに引きさがることを好むものである。聖体の秘跡によって私たちの友となることを望まれたイエズスに対して、私たちの方でむしろ主のどれいとなり召使いとなろうとしているのは、主のご好意を無にすることではないだろうか。主の御喜びは人の子とともにおいでになることである。だから私たちもまた主といっしょにいることを私たちの幸福としなければならない。ああイエズスよ、私の最上の友よ、どのような被造物よりも大いなる愛をもって私をお愛しになる友よ。私もまたすべてにこえて御身を愛したてまつる。これこそ私の神聖な、そして同時に最も幸福な義務である。

 実行 愛によって聖体の中においでになるイエズスを思い、聖体により頼み聖体に祈願しよう。 


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