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内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである。【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年02月19日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き4)
 をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)



第三部 内的生活が善徳への進歩を保証してくれなければ、活動的生活はむしろ危険である
三、福音の働き手の聖性 ―― その土台は内的生活である(続き4)


(F)内的生活は、事業の失敗から起こる失望・落胆にたいしての有力なタテである。

 「およそ、天主が一つの事業を、ことごとくご自分のものにしようとおぼし召しされるとき、天主はまず、すべてを無為無能に、すべてを壊滅に帰せしめる。それがすんでからはじめて、ご自身イニシャチブをとって、お働きになるのである」 
Lorsque Dieu veut qu'une oeuvre soit toute de sa main, il réduit tout à l'impuissance et au néant, puis il agit.

 これは、ボスエ司教の有名な言葉だが、この文句は、使徒職の魂がなんであるかをさとっていない使徒にとっては、全く不可解である。

 傲慢にもまして、天主の尊厳を傷つけるものはない。ところで、われわれは、事業に成功しようとあせるのあまり、そのために純潔な意向を欠いで、われわれ自身を、事業の原因であり、同時に終局であるべき天主の玉座まで、高く祭り上げることがある。これは、あきらかに、一種の偶像崇拝であって、天主のお怒りにふれること、はなはだしい。
Bien ne blesse Dieu comme l’orgueil. Or, dans la recherche du succès, nous pouvons, faute de pureté d’intention, en arriver à nous ériger en une sorte de divinité, principe et fin de nos oeuvres. Dieu a en horreur cette idolâtrie. Aussi lorsqu’il voit l’activité de l’apôtre manquer de cette impersonnalité que sa gloire exige de la créature, il laisse parfois le champ libre aux causes secondes, et l’édifice ne tarde pas à s’écrouler.

 天主は被造物から、光栄を要求する権利がある。事業の遂行におけるこの光栄とは、使徒が、“おのれ”を、おのれの光栄を、無に帰して、ひたすら天主の光栄のみを、追及することである。もし使徒が、没我の精神を欠いだために、この光栄をご自分に帰しないのをごらんになるとき、天主はしばしばその事業を見放して、ただそれに従事する人の自力のみに一任されることがある。そうなると、事業はながくたたないで、しぜんに消滅する。
 福音の働き手が、ここにある。
 活動家である。頭もいい。熱心でもある。
 生来の熱烈な気性を、いかんなく発揮して、いさましく事業に着手する。
 そして、かがやかしい成功を収めたとしよう。
 かれはスッカリ成功の美酒に酔いしれて、有頂天になる。ウヌぼれる。
 うまくやったものだ! これこそは、わたし自身の事業だ、わたし自身の! Veni, Vidi, Vici ! わたしは来た、見た、勝った!
 シーザーの有名なこの言葉を、おのれに当てはめて、かれは得意になっている。
 だが、威張るのは、ちょっと待った。
 天主のお許しで、これこれの事件が、かれのうえに起こった。悪魔が、または世間が、直接間接、これこれのいたずらを、かれの事業に、かれの身に、しかけてきた。
 さあ、たいへん! 事業は壊滅だ。
 だが、いっそう残念なのは、かれの内心にひきおこされた荒廃だ。
 きのうの勇士の面影はどこへやら、かれはスッカリ意気消沈、落胆しきっている。
 成功の喜びが大きかっただけに、失望もまた、いっそう深刻なのである。
 地上に残骸をよこたえたかれの事業、敗残者のかれ自身――これを助け起こしうる者は、いったいだれなのか。
 ただイエズス・キリストだけである。
 聖主は、人生の惨敗者なるかれにむかって、こう仰せられる。
 「勇気をふるいおこして、立ち上がれ。一人でやるから、失敗するのだ。こんど、仕事をするときは、わたしとともに、わたしによって、わたしにおいて、するがよい!」

 力づよくも、心やさしい、主のみ声よ!
 だが、不幸なかれには、このみ声がききとれない。
 霊魂はひどく、軽率になっている。
 主のみ声がききとれるためには、恩寵の奇跡が必要なのだ。
 だが、恩寵の奇跡も、天主にしばしば不忠実を重ねてきたかれに、どうしてそれを乞い求める権利があるだろうか。
 天主は全能である、その摂理も全能である、とは心で信じている。
 だが、その信念は、あまりにもろい。
 この敗残の使徒は、あたかも溺れかかった人が、一本のわらくずにしがみつくように、このもろい、そこはかとなき信念に、最後の逃れ場をもとめるけれども、それがなんになろう。ひっきりなしに襲いかかる悲しみの津波を、防ぎ止めてはくれないのだ!
 ほんとうの使徒の姿は、これとは全然ちがう。
 かれの理想は、天主の人イエズス・キリストを、おのれのうちに再現することにある。
 かれにとって、祈りときよらかな生活は、天主のみ心にたいして、人びとの心にたいして、働きかけることのできる二大手段なのである。
 むろん、かれは、いかなるぎせいも惜しまない大きな心をもって、仕事に身をゆだねはするだろう。
 だが、成功の幻影を、追おうとはしない。
 それは、まことの使徒にとって、ふさわしくないことだ、と信じているからである。
 試練のあらしがやってきても、平気だ。
 かれは、それを生みだした第二次原因にかんしては、全然無関心である。
 うず高く積みかさねられた事業の残骸のさなかにあって、かれはイエズス・キリストをただ一人、おのが友として、再建に着手するのだ。そして、心の中では、かのゲネザレトの湖上、恐怖にうちふるえている弟子たちに、「おそれるな、わたしだ!」と仰せられて、かれらに平和と安心をお返しくださった聖主の、そのおなじみ声をきくのである。
 試練のあらしが過ぎ去ると、みごとな成果が現われる。
 聖体にたいするかれの信心には、新しい飛躍が見られる。
 聖母の七つの悲しみにたいする信心も、あらたな熱をおびる。
 かれの霊魂は、事業の不成功にうちひしがれる代わりに、かえって若返って、試練のルツボから出てくる。
 霊魂は、「ワシのように若返って、あらたになる」(詩篇102・5)
 失敗を喫しながら、かえって、勝利者の気持ちである。
 しかも、謙遜の態度を失わない。
 これは、いったい、どこからくるのだろうか。
 イエズスとの一致の生活から、くるのである。
 イエズスの全能にたいする、ゆるぎない信頼心からくるのである。
 これ以外の処に、その秘訣をさがしてはならぬ。
 これが、聖イグナチオをして、次のようにいわせたゆえんでもある。
 「もし、わたしの過失でなしに、イエズス会が、解散させられるようなことでもありましたら、天主様とおはなしするために、十五分間もございましたら、わたしはりっぱに、心の平静と深い平和をとりもどせましょう……」

 さらに、アルスの聖司祭も、これと同じようなことをいっている。
 「内的な人は、屈辱と苦悩のさなかにありましても、あたかも海底に沈んでいる厳石のように、心はすこしも動揺しません。」

 実際の話、使徒はさんざん苦労する。せっかくの努力も水泡に帰し、せっかくの事業も壊滅にひんするときがある。あげくの果ては、自分の司牧する信者の中から、教えを離れる者が続出する。これは真の使徒にとって、実に、はらわたを断つ悲しみだが、しかしかれは、いつまでも泣いてはいない。すぐに心をとりなおし、熱心をふるいおこして、また初めからやりなおすのである。
 かれは知っている――キリストがもたらされた人類救済の事業は、それが個々の霊魂に適用されて効果を生じるためには、どうしても、とりわけ苦しみによって行われねばならぬ大事業であることを。で、かれはけっして、くよくよしない。むしろ、よろこんで耐え忍んだ試練こそは、自分を善徳に進歩させてくれるのだ、また、天主にいっそう大きな光栄を帰せるのだ、との確信を、心にもっているのである。
 そして、この強い確信こそが、試練の日に、かれの有力な支柱となるのである。
 かれはまた知っている――自分はただ、それより成功をかりとるタネをまくだけでよい、これ以外には、なにも天主から要求されていないのだ、ということを。ほかの人たちがあとからきて、ゆたかな収穫をあげるだろう。そして、この人たちは、その収穫を、実は自分らのまかなったところからえたのにかかわらず、不当にもこれを、自分らの手柄に帰するでもあろう。
 しかし、「かくれたことを見ておられる天の御父」(マテオ6・4)は、ちゃんとコトの真相を知っておいでになる。ゆたかな収穫は、実は前任者のくるしい労作の成果だったのだ。どんなに働いても、いっこうに収穫のあがらない、ただ苦労だけして死んでいった前任者の、血と汗と涙のおかげだったのだ。涙のうちにタネをまいた者は、自分の事業が失敗だったと思ったろうが、それはただ表面の失敗にすぎなかったのである。
 「そこで、“ひとりがまき、ひとりが刈る“ということわざが、ほんとうのこととなる。わたしは、あなたがたをつかわして、あなたがたがそのために、労苦しなかったものを刈りとらせた。ほかの人びとが労苦し、あなたがたは、かれらの労苦の実にあずかっているのである」(ヨハネ4・37~38)

 聖霊降臨後、使徒たちに成功をかちえさせた者は、イエズス・キリストだった。
 このイエズスは、公生活ちゅう、なにをなされたろうか。
 ただ、タネをまくこと、ただ教訓と模範のタネをまくことだけだった。
 これ以外に、なにもお望みにならなかった。
 ご昇天後、使徒たちは、キリストのそれより、はるかに大きな事業をするだろう。
イエズスは、かれらにそういっておかれた。
 「よくよくあなたがたにいっておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが、御父のみもとに行くからである」(ヨハネ14・12)
 まことの使徒は、失敗しても、けっして落胆などしない。口先ばかりで、臆病者の使徒だったら、失敗すると、いろいろ愚痴をこぼす。まことの使徒は、そんな無駄話には、耳もかさない。かれの内的生活とイエズスへの信仰が、かれをしてそうさせるのだ。
 かれは、ちょうど、疲れを知らない蜜蜂のように、つれないあらしにさんざん痛めつけられた蜜箱を、元どおり建てなおすのである。
 よろこび、勇んで!

  (第三部 終了)

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