2022年5月29日 大阪の説教 御昇天後の主日
レネ神父様
私たちの主イエズス・キリストが天に昇られたのは、御父と共に聖霊を送ることをお見せになるためでした。「私はあなたたちに真実を言う、私が去るのはあなたたちにとって良いことである。私が去らぬなら、あなたたちには弁護者が来ないからである。しかし去れば、それを送る」(ヨハネ16章7節)。実際、聖霊は「父の霊」(マテオ10章20節)であり、また「キリストの霊」(ローマ8章9節。フィリッピ1章19節、ペトロ前書1章11節参照)でもあるのです。聖霊の派遣は、キリストの神性の(たくさんある)証拠のうちの一つですから、このことは非常に重要です。
さて、私たちの主イエズス・キリストは「至聖所」であり、主の霊は、聖性の霊である聖霊です。主は、私たちが聖なるものとなれるように、ご自分の霊を与えてくださいます。ですから、聖霊は聖化するお方、私たちに霊的な命を与えてくださる「命の与え主」なのです。この新しい命は、本質的には、天主の命にあずかることであり、天主を知って愛し、地上での愛に燃える信仰で始まり、天国での至福直観で完全な完成となる命です。
その新しい命は洗礼によって始まり、洗礼により、私たちは「霊によって生まれる」(ヨハネ3章6節)のです。それはちょうど、私たちの主イエズス・キリストが、「聖霊によって童貞マリアより人体を受け」(ニケーア信経)られたように、です。私たちが天国に行くためには、その新しい命が必要です。「まことにまことに私は言う。水と聖霊によって生まれぬ者は天の国に入れぬ」(ヨハネ3章5節)。なぜなら、天主の恩寵がなければ、私たちは「過ちと罪によって死んだ者」(エフェゾ2章1節)だったからです。
親愛なる兄弟の皆さん、皆さんは洗礼により、「聖霊によって生まれ」ましたが、そのとき受けた新しい命で、皆さんは何をしたのでしょうか。その命を、「世の心労と富と快楽」(ルカ8章14節)で、ふさがせてしまったのでしょうか。私たちは本当に、「罪に死んだ者、私たちの主キリスト・イエズスにおいて天主のために生き」(ローマ6章11節)たのでしょうか。聖パウロはガラツィア人に、それについての試験を出して、肉の実と聖霊の実を列挙しています。
「実に肉に望むことは霊に反し、霊の望むことは肉に反する。あなたたちが望みのままに行わぬように、それらは相反している」(ガラツィア5章17節)。彼はここで、私たち全員の中にある内なる戦いを指摘しています。少なくとも、私たちが善のために戦うのであれば、それは罪の傷、すなわち、これらの反逆への傾きのせいなのです。
聖パウロは続けます。「しかし、もしあなたたちが霊に導かれているのなら、律法の下にはいない」(ガラツィア5章18節)。つまり、聖霊の恩寵によって、私たちが、聖パウロがこれから以下に列挙する正しいことを行うなら、私たちは律法に押しつぶされることはなく(「律法の下にはいない」)、天主の律法はむしろ、私たちを天国に至る道へと導く友であり、それは、格言の書(箴言)が、「lex lux―律法は光である」(格言6章23節)と言うとおりです。
聖パウロは「私たちは律法の下にはいない」と言っています(多くの参照句あり。ローマ6章14、15節。コリント前書9章21節。ガラツィア3章23節。同4章5、21節。同5章18節)。プロテスタントはこれを、あたかも道徳律(十戒)さえも新約には適用されないかのように、もはや道徳律に従う義務はないかのように解釈することがよくあります。
聖アウグスティヌスは、さらに良い説明をしています。彼は、聖パウロが、コリント前書9章21節で、律法の下にいることと、律法と共にいることを対比して、自分は律法の下にいるのではなく、キリストの律法と共にいる、と言っていることを指摘します。そして、キリストの恩寵によって私たちが律法に従うため、律法は、もはや私たちを断罪するのではなく、むしろ私たちを承認し、したがって律法はもはや(重いものの下にいるように)「私たちを押しつぶす」のではなく、私たちと共に歩んで天国に至る道へと導く友になっていると説明します。つまり、「lex lux―律法は光である」。
その後、聖パウロは、悪しき行いを列挙し続けます。「肉の行いは明白である。すなわち、私通(しつう)、不潔、猥褻(わいせつ)、邪淫(じゃいん)、偶像崇拝、魔術、怨恨(えんこん)、争闘(そうとう)、嫉妬(しっと)、憤怒(ふんぬ)、喧嘩(けんか)、争乱、異説、猜忌(さいき)、殺人、酩酊(めいてい)、遊蕩(ゆうとう)、そしてそれらに似たことなどである。私は前にも言ったように、またあらかじめ注意する。以上のようなことを行う者は、天主の国を継がない」(ガラツィア5章19-21節)。さて、これは非常に明確であり、説明は必要ないでしょう。
彼は続けます。「しかし、霊の実は、愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔であって、これらのことに反対する律法はない」(ガラツィア5章22-23節)。それは彼が前に言ったことです。霊によって導かれる者、すなわち聖霊に従順な者は、律法の下にはいません。それが真のキリスト教的生活です。「愛、喜び、平和、忍耐、寛容、親切、善意、柔和、信仰、節度、節制、貞潔」。これらは聖トマス・アクィナスによって、聖霊の実と呼ばれています。
「キリストにある者は、肉をその欲と望みとともに十字架につけた。私たちが霊によって生きているのなら、また霊によって歩もう」(ガラツィア5章24-25節)。このような聖霊の実を結ぶためには、肉とその悪しき欲望に対抗して戦うことが必要です。
聖霊は、私たちが、そのような霊的生活を送るために大いに助けてくださいます。善を行うためには、私たちの主イエズス・キリストの恩寵が必要であり、恩寵は、祈る者に豊かに与えられるのです。「求めよ、そうすれば与えられる。探せ、そうすれば見いだす。たたけ、そうすれば開かれる。求める人は受け、探す人は見いだし、たたく人は開かれる」(マテオ7章7-8節)。
聖霊は、預言者ザカリアによって、「恩寵と祈りの霊」と呼ばれています。「私は、ダヴィドの家とエルザレムに住む人たちの上に、恩寵と祈りの霊を注ぐ。彼らは、自分が刺した私を見る。そして、独り子のためにするような嘆きで、彼のために嘆き、初子(ういご)の死のために泣くように彼のために泣く」(ザカリア12章10節)。
私たちを祈りへと導き、特に私たちの主イエズス・キリストのご受難を観想させてくれるのは、この霊です。「自分が刺した者」、「独り子」、多くの兄弟たちの中の「初子」。真の霊的生活とは、絶え間ない祈りの生活です。「私たちは、うまずたゆまず祈り、失望してはならない」(ルカ18章1節)のです。
その熱心な祈りは、私たちを愛の火で燃え上がらせます。「私の心は中で燃え、思いに思って火は燃える」(詩篇38篇4節)。これは聖霊の火であり、私たちの主が全地上で燃え上がらせたいと願っておられる火です。「私は地上に火をつけに来た。その火がすでに燃え上がっているように、私はどんなに望みをかけていることか」(ルカ12章49節)。天主の愛の火です。
天主は私たちに、信仰や愛などの賜物を与えてくださいましたが、それは、私たち自身の救いのためだけでなく、私たちを通して他の多くの人が同じ賜物を受けることができるようにするためです。「私が羊たちに命を、豊かな命を与えるために来た」(ヨハネ10章10節)。主は命そのものです。聖ヨハネは書簡の中で、美しくこう言っています。「初めからあったこと、私たちの聞いたこと、目で見たこと、ながめて手で触れたこと、すなわち命のみ言葉について――そうだ、この命は現れた。私たちはそれを見て証明する。御父のみもとにあって今私たちに現れた永遠の命をあなたたちに告げる――、あなたたちを私たちに一致させるために、私たちは見たことを告げる。私たちのこの一致は、御父と御子イエズス・キリストのものである。私たちの喜びを全うするために、私はこれらのことを書き送る」(ヨハネ第一書1章1-4節)。ですから、聖ヨハネは、その「命」を受けただけでなく、他の人にも与えるように配慮していたのです。
天主の賜物に感謝すればするほど、私たちは、それを他の人に与えるべきだと、もっと気がつきます。そして、私たちがそれを与えれば与えるほど、私たちは、もっと多くのものを得るのです。私たちが、愛に燃える真の信仰を広めれば広めるほど、私たち自身の信仰がもっと強められ、愛はもっと燃え上がるのです。
聖霊降臨の前のこの時、高間の家で聖母の周りにいる使徒たちとともに祈りましょう。聖霊の賜物を豊かに受けることができ、それによって、私たちの救いと多くの人の救いのために、その霊的生活を本当に生き、自分の周りにそれを伝えていくことができますように。アーメン!