Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

「カトリック教会の外に救いなし」は変わることのない真理です。だからこそ隣人の霊魂についても、イエズス・キリストの十字架による永遠の救いを欲するのです。

2020年10月18日 | お説教・霊的講話

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、2020年10月18日は聖霊降臨後第二十主日です。

「テレワーク」方式ではありますが、皆様にYouTubeで「聖霊降臨後第二十主日の説教」の動画をご紹介いたします。

今日の主日を聖として良くお過ごしください。

この動画が気に入ったら、お友達にもご紹介くださいね。

天主様の祝福が豊にありますように!

トマス小野田圭志神父

【説教全文】

愛する兄弟姉妹の皆様、今日は2020年10月18日、聖霊降臨後第二十主日です。一緒に主日の福音を黙想をしましょう。

【1:天主の愛の招き】

天主は愛である。先週の主日には、天主の御子と人類との婚宴に私たちが招かれていることを黙想しました。この婚宴こそが、天主が目に見えるこの世界を創造した目的でした。

聖パウロは今日の書簡で私たちに訴えます。「兄弟たちよ、よく見なさい。お前たちがどのように注意深く歩んでいるかを。愚かな者のようではなく、知恵ある者として時を贖いつつ[歩め]。何故なら今の日々は悪いからである。これがために、思慮のないものとなるな、むしろ天主のみ旨が何であるかを理解するものとなれ。」

天主の御旨は、私たちが天主を愛し、天国に行くこと、救霊を全うすることです。

聖霊降臨後のミサの中で、唯一今日だけは、聖ヨハネの福音から取られています。カファルナウムの王官の子供の話です。

私たちの主はカナの婚姻で最初の奇跡を行いました。その奇跡を見て多くがイエズス・キリストを信じます。王官はカナの奇跡の話を聞いて信じて、カナにいるイエズスのもとにやってきたのでしょう。

今度は、二回目の奇跡として、主はカナにいながら、カファルナウムにいる子供に奇跡を行い、ご自分が真の天主であることを証明しようとします。オリゲネスは、この王官はユダヤ人だとは言われていないことを指摘しています。サマリア人だったのかもしれません。

マテオによる福音にも似た奇跡がありますが、今日の奇跡とは異なっています。マテオに出てくる百夫長もたしかに異邦人でした。しかしヨハネのこの王官は別の人物です。

何故なら、まず、キリストが家に行くと言うと百夫長はその必要はないと言います。ただ一言を言えばそれで十分だと。しかしこの王官はキリストが家に来てくれるように頼んでいるからです。

さらに、百夫長は、山からカファルナウムに行く途中のイエズスにあっています。しかしこの王官はカナでイエズスと会っているからです。また、百夫長のしもべは、てんかんでしたが、王官の子供は熱で死のうとしていたからです。

王官は、イエズス・キリストが直接来て子供に何かをしなければ癒すことができないと思っていました。聖グレゴリオによると、そのために彼の信仰は欠けていました。私たちの主は、ただ命じるだけで、どんな離れたところにも天主として力を及ぼすことができます。

イエズスの力で、午後一時(ラテン語では第七時)に子供の熱が去ります。罪の赦しが、七つの賜の聖霊の力によるからだとアルクインは言います。

オリゲネスは、イエズスの最初の二つの奇跡は、キリストが霊魂にもたらす二つの効果だと言います。最初はブドウ酒を霊的な宴会にもたらすこと(つまり超自然の恵みを与えること)、次に弱さや死を取り除くことです。

アンティオキアのテオフィルスはこの王官は人間を象徴している、と言います。何故なら人間は自然界の王官で、王の王である天主に仕えているからです。彼の子供とは自分の霊魂のことで、悪しき情念と欲情で熱を出し、死なんばかりです。人間はイエズスに会いに行き、憐んで自分の罪を赦してくださるように頼みます。すると私たちの主は「行きなさい!」つまり聖徳に進歩しなさい、愛のうちに生活しなさい、イエズスへの愛に生きるようにしなさい、そうすれば「あなたの子は生きている」霊魂は天主に生きる。これがテオフィルスによる解説です。

【2:イエズスの与える救い】

この第二の奇跡をもって、私たちの主はご自分が天主であるということと同時に、ご自分に対する信仰を教えようとしています。それは、永遠の救霊のためです。アンティオキアのテオフィルスが言うように、私たちの霊魂を死から救うためです。

何故なら、イエズスはこう言われるからです。「永遠の命とは、唯一のまことの天主であるあなたと、あなたがお遣わしになったイエズス・キリストを知ること」(ヨハネ17章)であると。

「天主はおん独子をお与えになるほど、この世を愛された。それは、かれを信じる人々がみな亡びることなく、永遠の命をうけるためである。」(ヨハネ1章)

「御子を信じる人は永遠の命を有し、御子を信じようとしない人は、命を知らず、その人の上に天主のおんいかりがふりかかるのである。」(ヨハネ3章)

「私の父のみ旨とは、子を見て信じる人々にみな、永遠の命をうけさせ、終りの日に私がかれらを復活させることである。」(ヨハネ6章)

天主の御旨は、全てをキリストにおいて復興させること、立て直すことです。キリストを贖われた人類の頭(かしら)として、三位一体の真の天主の名前において洗礼を受け、天主の子供となることです。

天主への愛は、隣人への本当の愛に反映されます。天主がそう欲するように、隣人の本当の幸せ、霊魂の永遠の救いを欲することです。キリスト者の持つ隣人愛の最も深い表れとは、己のように隣人を愛することです。

私たちが天主から受けた最高の賜物、想像を超越する贈り物は、私たちが天主の子供となったこと、天国の遺産相続人、キリストと共に共同相続人となったことです。天の婚宴の幸せに連なることです。

もしも、隣人にこの最も高貴な幸福を伝えようとしないならば、私たちには本当の愛徳は無いことになります。隣人に対する敬意と優しさをこめて、祈りと犠牲とにおいて、私たちは隣人の本当の善を思いやるがゆえに、私たちの知っている真理を隠さずに、伝える愛徳の義務があります。

「唯一のまことの天主御父と、天主御父がお遣わしになったイエズス・キリストを知ること」なしには、永遠の命がないからです。

死の暗闇と陰から解放され、サタンと悪魔と情欲の奴隷状態から解放され、真理の光のうちに生きること、これこそが本当の自由です。(なんでも自分勝手に好きなことをするのは放埓であって、自由の乱用であり、本当の自由ではありません。)私たちの主は言われました。「真理はあなたたちを自由にするだろう」と。

私たちが、イエズス・キリストを信じて洗礼を受け、超自然の命に再び生まれ、罪を赦され、天主の子供となり、天主の愛に生きるなら、贖われた私たちは同じ共通の父なる天主のもとで兄弟姉妹となります。ですからこそ、私たちは主の祈りで「天にまします "われらの" 父よ」と祈るのです。聖霊の七つの賜物のうちの一つが「孝愛」です。天主をアッバ、父よ、と認めさせます。

「天主の霊によって導かれている全ての人、それが天主の子らである。あなたたちは、再び恐れにおちいるために、奴隷の霊を受けたのではなく、養子としての霊を受けた。これによって私たちは「アッバ、父よ」と叫ぶ。」(ローマ8章)

それと同時に、隣人を愛する兄弟姉妹と認識させます。天主を私たちの父として認めなければならない、愛すべき兄弟姉妹として。その時、私たちは同じ愛する兄弟姉妹を柔和に接することができるようになります。

「柔和な人はしあわせである。かれらは地をゆずりうけるであろうから。」(マテオ5章)

私たちは、天主への信仰と天主への愛に従って、私たちの愛について等しく裁かれます。私たちが(好き勝手に?)信じたいことを信じたか否かではなく、真の天主が立てた宗教、天主が唯一の真の宗教として明確な印をもって示した宗教を信じたか否かによって裁かれます。

教皇レオ十三世は、回勅インモルターレ・デイで「全ての人間の義務は、天主の立てた宗教、確実でもっとも明確な印が唯一の真の宗教であると示している宗教(つまりカトリック教会)を信じることである」と断言しています。

聖パウロは、この愛徳に燃えていました。テサロニケ人たちに対してこう書いています。「私たちは、さきにフィリッピで苦しみと侮辱とを受けたが、多くの苦闘のうちに、天主の福音をおそれなく告げる勇気を、天主から与えられた。

実に私たちの宣教は、誤りや、汚れや、偽りから出るのではない。私たちは、天主にみとめられて福音をゆだねられたものであって、人間におもねるのではなく、心を試す天主によろこばれようとして語っている。

…乳母が子どもを育てやしなうように、私たちはあなたたちを愛し、天主の福音だけではなく、よろこんでいのちまでも与えたいと思うほどになった。それほどあなたたちを愛した。」(テサロニケ人前2章)

【3:教会の外に救いなし】

カトリック教会が不可謬権を行使して、発表したドグマ(教義)の一つに、「教会の外に救いなし」があります。カトリック教会は「カトリック教会のほかに救いはない」と常に繰り返し言ってきました。この教えは真理です。今でも有効な真理です。変わることができません。

「カトリック教会は救いの唯一の方舟です。」(フィレンツェ公会議(Dz 714))この教えは、人間が作ったものではありません。私たちに伝えられた教えです。教義は何も変わっていません。教皇様も公会議も、昨日そうだと宣言された教えを今日はそうではなくなったとは変えることができません。教会の教えは、変わることがあり得ません。(聖ピオ十世 Lamentabili, Dz 2021)

私たちの主はいくつもの教会を創ったわけではありません。私たちの主はたった一つの教会を創立しました。私たちを救うことのできるのは唯一、十字架です。キリストは全ての恩寵を、カトリック教会に、御自分の神秘的花嫁なる教会にお与えになりました。天主の救いの計画は、御自分の花嫁を通して、世界に、そして人類の歴史に恩寵を分配することです。

聖フランシスコ・ザビエルが日本に来た時も『カトリックの洗礼を受けなければ、みな地獄に行くのだ』と本気で伝えていました。それが本当だからです。「教会の外に救いはない」のですから、教会に入るには「罪の赦しとなる唯一の洗礼」を受けなければなりません。私たちはクレドでこう言います。Confiteor unum baptismum in remissionem peccatorum.

「唯一の洗礼」を受けるには三つの方法があります。水による洗礼、血による洗礼(水による洗礼を受けていなくても、キリストへの信仰のために殉教すること)それから望みの洗礼(「燃えるような望み」を火にたとえて「火による洗礼」とも言う)です。つまり、小教区の洗礼台帳に名前が書きこまれていなければ、天国には行くことができないということではありません。

「望みの洗礼」には、明示的な、明白な望みもありますし、暗黙のうちの望みもあり得ます。暗黙のうちの望みとは、全ての人々を全て完全に知っている天主は、彼らが天主の御旨を果たしたいという善意を持っていることをも御存じなので、私たちが今は知ることができない恵みを与えることができるということです。もしも、自分の過失ではなくイエズス・キリストについて無知であったなら、人々はそれを天主から咎められません。

ただし「望みの洗礼」(血の洗礼も同じですが)では、水の洗礼のような霊魂に霊的な刻印は刻まれません。しかし、罪の赦しを受けて、カトリック教会の一員となることができます。

プロテスタント信者、イスラム教徒、仏教徒、精霊信仰者、その他どのような宗教に属する人々でも、イエズス・キリストの憐みによって「望みの洗礼」の可能性があります。カトリック教会は、他の宗教の人たちが、他の宗教の中にいたとしてもそれにもかかわらず、キリストの制定した洗礼によって救われることができると教えています。

ここで、次の違いに注意してください。

「他の宗教の「中にいたとしてもそれにもかかわらず」救われることができる」ということと、

「他の宗教の人たちは彼らの宗教「によって」救われる」ということとは、意味が違います。

つまり「中にいたとしてもそれにもかかわらず」ということと「によって」とは別の意味です。他の宗教を信じる人々と、宗教体系としての他の宗教とは、別のことです。

カトリックの教えによれば、他の宗教の人たちは彼らの宗教「によって」それを「救いの手段」として、救われるのではありません。そうではなく、彼ら(人間たち)が、たとえ彼らの宗教の「中で」救われるとしても、しかしその宗教「によって」(教えの体系を救いの手段として)ではありません。

他の宗教の「中にいたとしてもそれにもかかわらず」です。例えば、たとえ他の宗教の指導者たちから他の宗教の教えの体系に従って、離婚はできるとか、一夫多妻も可能だとか、堕胎もできるとか、嘘も方便だとか、誤ったことを教えられていたとしても、それにもかかわらず、天主の特別な助けで悪を為すことを拒否することもできる、ということです。

どんなつらいことが予想されても、プレッシャーをどれほど受けても、罪のない胎児に死刑を課すことを拒否する立派なお母さんや、どんなにつらくても子供たちのために自分が犠牲になって、離婚をせずに結婚を守る方。

人生のすべての選択において、誤った教えの中にいてプレッシャーを受けているにもかかわらず、それに染まらずに、正しい賢明な選択を死ぬまでやり続ける、そのような人も天主のお恵みでいらっしゃるかもしれません。

「えっ?でも、どうして焚火の燃え盛る火の中にいる人が、やけどをせずにすむことがあるんでしょうか?間違った教えの中にいたら、それに染まってしまうのではないですか?」たしかに、そうです。たとえイエズス・キリストの真理の教えを諭されて、秘蹟によって助けられたとしても、この世の誘惑に引きずられやすいのですから、そのような教えを知らずに秘蹟の助けもなければ、悪に染まらずにいるのは、私もほとんど奇跡に近いと思います。

だからこそ、真理と救いの手段を伝えるために、イエズス・キリストは弟子たちに全世界に行って教えを伝えることを命じました。彼らに水による洗礼を授けるように命じました。私たちのできるかぎりのことをして霊魂を救うようにせよ、と。

そして、イエズス・キリストを知らないで亡くなった先祖など、私たちの力の及ばない限りについては、私たちは天主の御憐みに委ねることにいたしましょう。

【4:現代の流行思想】

第二バチカン公会議は「友好的な呼びかけにほかならず」「教会は特別の教導権によって特別の教義を定義しませんでした」。さて第二バチカン公会議のエキュメニズムに関する教令3にはこうあります。「キリストの霊はこれらの(分かれた諸)教会と(諸)教団を救いの手段として使うことを拒否しない。」

しかし、これはカトリック教会がかつて教えてきた教えではありません。他の宗教は、「それによって」救われる「救いの手段」ではありません。「その誤謬の体系にもかかわらず」です。

天主が啓示した超自然の宗教を、その他の宗教的な価値と同じレベルに置くことはできません。信仰とは、天主の権威を信ずるがゆえに、信じることです。私たちの人間の理性が同意するから信じるのではありません。

ですから、もしも信仰箇条の一つでも信じるのを拒むのなら、それは天主の権威を信じないことです。従って、聖トマス・アクイナスが教えるように(神学大全II II, q5, a3)、異端を信じる人々においては、つまりプロテスタント(及びキリスト教以外の諸宗教)には、言葉の真の意味での信仰はありません。

カトリック教会は、本当の安らぎと本当の希望とを人類に与えることができる唯一の方を知っています。それを隠したり、その教えを歪曲させてはなりません。アシジの聖フランシスコもこう祈りました。「誤りのあるところに真理をもたらす道具とならせてください。」

もしも、カトリックの聖職者が、どの宗教でもよく、どんな宗教でも人間を救うなどと教えるとしたら、それはカトリック教会の使命を裏切ることです。それはカトリック教会内で、相対的価値が支配してしまうことです。もしもそうなってしまうなら、教会共同体はその存在の意味を失ってしまいます。

【5:遷善の決心】

天主は愛であり、私たちが真理を知るように、真の天主を知るように、導いておられます。

天主は、私たち全てに助力の聖寵を与えています。助力の恩寵とは、私たちが、あるいはついに成聖の恩寵の状態にたどり着くために、あるいはもしも成聖の恩寵の状態にすでにあるのならばそれを維持するために、必要な時に与えられるその時その時の聖寵です。

そして、天主は、特に成聖の状態にある霊魂、罪の赦しを受けた霊魂、天主の友であり子供となった霊魂たちを嘉し給います。成聖の状態にある霊魂が行った行為は、永遠の功徳を得ることができる価値があるからです。

「主よ、願わくは宥められ、御身の信者たちに、赦しと平和とを与え給え。彼らが全ての過ちから清められるとともに、落ち着いた心で御身に奉仕せんことを。」(ミサの集祷文)

願わくは、私たちの周りにいる隣人たちが、聖母の御取次で、真理に到達することができますように祈りましょう。

カトリック教会の聖職者の方々が、カトリック教会の信仰の真理を曲げることなく、伝えられたままを教え続けますように、ロザリオを祈りましょう。

イエズスは、「あなたの子は生きている。行きなさい!」とおおせられた。そこでかれが、イエズスのおことばを信じて去ると、その途中、かれの下男たちにであって、子どもは生きていると知らされた。



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