Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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私たちが天主の子供であることの意味:「全被造物は切なるあこがれをもって、天主の子らの現れを待っている」(ローマ8:18)

2022年08月09日 | お説教・霊的講話

2022年7月3日(主日)聖霊降臨後第4主日のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。

今日は聖霊降臨後第4主日のミサを行なっています。
今日は午後3時からマーチ・フォー・ライフがあります。大阪市役所から出発します。どうぞ皆さん是非いらして下さい。

今日聖パウロはその書簡の中で「全被造物は切なるあこがれをもって、天主の子らの現れを待っている」(ローマ8:18)と言っています。そこで今日一緒に、「私たちが天主の子供である」ということについて、一緒に黙想しましょう。

⑴この意味は何なのか?「天主の子」というのは一体どういう意味なのか?
⑵そしてその次に、その結果は一体何なのか?
⑶私たちは何をしなければならないのか?
ということを黙想しましょう。

⑴「私たちは天主の子である」と言います。その意味は二つの意味があります。
一つは比喩的に、「それに似ている」という意味のことです。
もう一つは、本当に厳密の意味で、「家族に属する子供」という意味です。

どういうことかと言うと、比喩的な意味では、父親というのは家族の元であって、そこから家族が生まれますし、またその父親の元で家族が指導されて、一緒に生活をするという意味なので、天主は全ての被造物を御創りになったその根源でありますし、また天主が全てのものを御摂理で指導しておられるので、比喩的な意味では、私たち全ての人間は天主を信じていようと信じていまいと、洗礼を受けていようといまいと、全ての人たちが兄弟、天の父である天主の元にある兄弟姉妹である、と言うことができます。

また比喩的な意味では、天主から創られた太陽や月も、言ってみれば兄弟である、と言うことができます。ですからアシジの聖フランシスコは、太陽のことを「兄弟」とも言っていました、比喩的な意味で。

ところがもっと厳密な意味で言うと、例えばたくさんの人間たちがいるけれども、でも特にこの子とこの子とこの子は、血がつながっているうちの子だ、うちの家族だ。だから他の子供は知らないけれども、この子とこの子は、このお父さんの家の全てを分かち合っている。だからこの子は家に自由に入ってもいいし、お父さんのものはこの子のものだし、全てはこのお父さんの持ち物は、全てこの遺産を譲る権利もあるし、この特別に親子関係があるから、特別な関係がある。親子関係がある、家族の関係がある、という意味で、厳密な意味で、天主は洗礼を受けた全ての人たちのお父さんであって、洗礼を受けると私たちは、特別に養子相続をされます。

ですからこの意味では、よく皆さんが聞くかもしれませんけれども、ペットも家族の一員だというのは全く嘘です。ペットも家族の一員ではありません。なぜかというと、ペットは相続することができないからです。

しかし、どんなに私たちが、天主と人間がどんなに無限に離れていたとしても、私たちは本当の意味で天主の家族になって、そして天主の三位一体の全ての富と、全ての栄光と、全ての財産を、全てそのまま私たちが受けることができるようになります。

「天主の子供・養子」、これこそが私たちが持っている特権でもあります。

⑵では次に、この天主の子供というのは一体どんな特権があるのでしょうか?どんな務めがあるのでしょうか?

はい、これは私たちは、天主を三位一体を父として、単なる天主のみならず、創造主のみならず、私たちのお父さんとして愛する、尊敬するという、そして父親として特別の親子関係がある、ということで、私たちは天主を、天主の御旨を果たそうとしなければなりません。でも子供にとってお父さんの、これほど愛してくれるお父さんを喜ばせるということは、何と幸せなことでしょうか。

また天主が、御父である天主が私たちの父であるということならば、養子であるということであれば、この天主の家の為に、家族の為に、私たちは一生懸命その名誉の為に働こうと思います。ですから、洗礼を受けた隣人たちも、天主御父の相続を受けた人々で、遺産相続を受ける本当の兄弟姉妹である、と理解できます。ですから同じ家族の一員であるということです。天国にいる諸聖人たちも、煉獄に苦しんでいる霊魂たちも、皆同じ家族のお父さんの元にいる兄弟姉妹で、家族である、ということです。

ですから諸聖人も、あるいは煉獄にいる、あるいは地上にいる全ての信者も、私たちの兄弟姉妹ですから、特別な愛情と兄弟愛を以って接しなければなりません。憐れみの心とか、理解をする心とか、助け合いの心とかです。

ですからここにおいて、フランス革命の博愛 fraterenite、あるいは兄弟愛といわれるのは、全く嘘だということが分かります。なぜかというと、真の天主、父として天主がおられないなら、天主を否定したところには、本当の兄弟愛があり得ないからです。ですからここに、カトリックの制度や、あるいは貴族制度と、他の貴族制度との決定的な違いがあります。

貴族というのは、同じ天主である御父の元にあって、特別な義務を持った人です。「弱い人を助ける」という義務を持った人々が貴族です。ですから有名な言葉に「ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)」というものがあります。これは「高貴であるということ、貴族であるということは、つまり義務があるということだ。特に弱者に対する、弱い者を守る義務がある」ということです。だから貴族というものは、剣を持ってでも弱い者を助けなければならない、教会を守らなければならない、キリストの為に命を捧げなければならない、その義務があるのです。

ですからカトリック世界にとって、貴族階級というのは、特別なお金持ちの特別クラブ、特権クラブではないのです。弱者の為に立ち上がって、その彼らを守る、その特別な義務を受けた人々、それが貴族です。これが父なる天主の元にある子供たち、兄弟姉妹の義務でした。

⑶では、私たちは一体どのような遷善の決心をしたら良いでしょうか?

まずこの世では、このあっという間に過ぎるこの世は、私たちが遂に天主の子供として、本当の栄光と本当の自由を受けるのを待ちに待っている、その解放を待っている、そして私たちが受ける栄光というのは、本当に想像も絶するほどの偉大なものである、ということをどうぞ知って下さい。

ですから今、この地上に生きる間に、私たちは天主の子供として、兄弟姉妹たちを、特に兄弟愛をもって愛し、そして天主御父を特別の孝愛を以て愛する、その御旨を果たす、ということが期待されているということです。それを助けてくれるのが聖霊の賜物の孝愛です。そしてこのもしもそれが辛いとか、あるいは苦しいということがあっても、この世の苦しみは、来たるべき栄光に比べれば全く取るに足らないと、どうぞ確信して下さい。それが今日聖パウロが私たちに教えていることです。

マリア様にお祈りしましょう。マリア様が私たちの母として、この真理を深く心に沁み通らせて下さいますように、お祈りしましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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