私たちの主イエズスがエルザレムのことで流された涙についての説教 — 「罪人の死」
ドモルネ神父
はじめに
今日の福音の中には、私たちの主イエズスの、次のみ言葉があります。「おまえの敵が周りに塁を築き、取り巻き、四方から迫る日が来る」(ルカ19章43節)。ここで、私たちの主イエズスは、紀元70年に、ローマ軍によって、エルザレムの街とその住民に、恐ろしい罰が下されることを、告知なさっていたのです。しかし、エルザレムは、私たちの霊魂のかたどりでもあります。私たちの主イエズスを自らの救い主として迎えることを拒んだエルザレムは、イエズス・キリストとその教会を信じることを拒んだ霊魂のかたどりでもあります。ですから、この言葉によって、私たちの主イエズスは、エルザレムに対する恐ろしい罰を告知されていただけでなく、罪人が死ぬ時の状態についても、述べておられたのです。死ぬ時、罪人は、過去の回想、自分の現在の状態の自覚、そして、未来への恐怖に、取り巻かれ、苛まれるのです。
1.過去の回想によって
罪人が死ぬ時には、過去の回想、つまり自分の生涯における様々な罪の回想に、取り巻かれ、苛まれるかのようです。罪人が生きている間は、娯楽、仕事、家庭生活、社交、スポーツなどに忙しくして、あたかも天主が存在しないかのように、生きていけたかもしれません。様々な罪は犯しましたが、罪人は、それらの罪について、考えたくはなかったのです。しかし、自分が死ぬ時、罪人は、自分の様々な罪や、罪の数や、罪の重さを思い出すのです。様々な罪とは、無信仰、不正、憎しみ、不潔、冒涜、躓きとなる行為、怒りなど、つまり、行い、言葉、思い、怠りによる罪です。
罪人はまた、自分の生涯において、多くの恩寵を軽んじた思いに、取り巻かれ、苛まれます。罪人は、イエズスの教理を学び、秘跡を受け、自分の悪徳を改め、聖徳を実践する機会があったことを、思い出します。罪人は、自分がこれらの恩寵をわざと無視したこと、そして、この世の雑事に時間を浪費したことを思い出します。そのため、自責の念が、罪人の心を、絶望で満たすのです。私たちの主イエズスは、罪人がこのように自責の念に苛まれることを、次のように表現されました。「もし、この日に平和をもたらすはずのものを、おまえが知っていたら」(ルカ19章42節)。
2.現在の状況の自覚によって
罪人が死ぬ時には、自分の現在の状況の自覚に、取り巻かれ、苛まれます。罪人は、一生涯ずっと非常に忙しくして、死については、真剣に考えないようにすることが、できたかもしれません。しかし、死ぬべき時が来ると、罪人は、死に直面しなければならず、そこから逃げることはできません。死がやってきて、自分の家族、財産、尊厳、この世の楽しみなど、罪人が好むものすべてを、取り上げるのです。罪人が、一生涯ずっと、天主のお怒りを招きながら得たものがすべて、取り去られるのです。このことが、罪人を、大きな苦悩に陥れます。おそらく、皆さんは、こうおっしゃるでしょう。罪人は、いつでも天主に立ち返り、心から天主にお赦しを請うことができるのではないか、と。厳密に言えば、その通りです。罪人は、そうすることができます。罪人がそうすれば、間違いなく、天主はその罪人を赦してくださいます。しかし、通常、私たちは、自分が生きたように、死ぬのです。もし、その罪人が、生きている間、天主のことを気にかけず、祈りもしなかったとすれば、死の苦悶と、この世でのすべてのものを失うという苦しみに苛まれたとき、そのようにすることは、ほぼ不可能でしょう。ですから、私たちの主イエズスは、こう言われるのです。「この日に平安をもたらすはずのものは、おまえの目に隠されている」(ルカ19章42節)。
3.未来への恐怖によって
罪人が死ぬ時には、遂に、未来への恐怖、苦悩、絶望に取り巻かれ、苛まれます。死んだ後、罪人はどうなるのでしょうか。罪人は、裁かれるのです。聖パウロはこう言いました。「人間は、一度だけ死んで、その後審判を受けると定められている」(ヘブライ9章27節)。そして、罪人は、自分自身がそのお怒りを招き、軽んじたイエズス・キリストによって、全能で、すべてを知っておられ、完全に公正でおられるイエズス・キリストによって、裁かれるのです。罪人が反論したり、裁判官であるイエズス・キリストをだましたりすることが、できるはずもありません。聖書のヨブ記には、こうあります。「天主が裁きに立ち上がられるとき、どうしよう。天主が調べられるとき、何と答えよう」(ヨブ31章14節)。
そしてまた、罪人は、裁きの後に、自分がどうなるだろうかという思いに、苛まれるのです。私たちの主イエズスは、こう言われました。「敵が…おまえ…を地に倒(す)」(ルカ19章44節)。罪人は、天国に上り天主の永遠の幸福に与るのではなく、地獄に投げ入れられるのです。地獄では、火の中で焼かれ、悪魔にひどく打ちのめされ、自分の存在のありとあらゆる部分において、苦しむことになります。私たちの主イエズスは、こう言われました。「敵は…石の上に一つの石さえ残さぬ」(ルカ19章44節)。
聖グレゴリオは、死の直前、自分をこれから地獄に連れて行こうとする悪魔たちを見て恐怖におののいた、クリサオリウスという名の罪人について、語っています(対話4巻38章)。
結論
親愛なる信者の皆さん、悪い死、つまり大罪の状態で死ぬことは、私たちに起こりうることのうちで、最悪のことです。天主は、私たちをお造りになったとき、私たちに自由という賜物をくださいました。聖書の中で、天主は、こう言われます。「人間の前には、生命と死が、善と悪がある、望みのままに、そのいずれかが与えられる」(集会書15章17節)。私たちの主イエズスは、人に与えられた、この自由を尊重なさいます。そして、主に従うことを拒む者は、死んだ後、自分に降りかかる恐ろしい罰に対して、泣くことしかできないのです。私たちは、生きたように、死ぬのです。ですから、このような状態のままで死にたくはない、と思うような状態に留まらないようにしましょう。自分の罪を悔い改めましょう。そして、悪い習慣を改めて、聖徳を実践するよう、真剣に努力するようにしましょう。