Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

私たちには天主が必要であり、私たちの主イエズス・キリストを通して、光の父なる天主から来る恩寵が必要である

2022年05月17日 | お説教・霊的講話

2022年5月15日 東京での説教 御復活後第四主日

レネ神父様

親愛なる兄弟の皆さん、

今日の書簡について、簡単な解説をしたいと思います。

天主のみ言葉は、いつも、私たちの霊魂のための、霊的な糧や恩寵に満ちています。ですから、聖ヤコボは、まず、教義と道徳に関する、美しく、非常に重要な原理を示すことから始めます。「すべてのよい贈り物と、すべての完全な贈り物は、変わることなく、変化の影さえもない光の父から、上からくだる」(ヤコボ1章17節)。

言い換えれば、すべての善は天主から来るものであり、天主はすべての善の第一の原因なのです。天主を第一の原理としない善は、あり得ません。自然の善と超自然の善の両方において、すべての善は天主から来るのです。私たちの存在も、私たちの内にあるあらゆる善も、すべて天主から来るのです。私たちは、まさに天主に依存することによって存在しており、私たちの行動は、天主に依存してのみ、善いものとなり得ます。私たちは、善の第二の原因にはなれますが、善の第一の原因にはなれません。私たちは、天主への依存を認めることによって、正しい謙遜(けんそん)の状態になり、それによって、霊魂は恩寵へと開かれるのです。「天主はおごる者に逆(さか)らい、へりくだる者を恵(めぐ)まれる」(ヤコボ4章6節)。

この原理は、私たちの本性が、善にして高潔(こうけつ)な人生を送るのに十分であり恩寵は必要ない、と主張するペラギウス主義に対する反駁(はんばく)です。これは、「私たちには天主は必要ない」と主張するすべての人々に対する反駁(はんばく)です。

私たちには天主が必要であり、私たちには、私たちの主イエズス・キリストを通して、光の父なる天主から来る恩寵が必要である、というのが真理です。私たちの主が、「私がいないとあなたたちには何一つできぬ」(ヨハネ15章5節)と言うことがおできになるのは、そのためです。

ですから、祈りは必要であり、祈りによって、私たちは、私たちが必要とするすべての恩寵を得るのです。さらに、天主は、私たちが求めるもの以上のものさえも、与えてくださるのです!

この聖ヤコボの一節の中の、次の部分に注意してください。天主は永遠に生きておられるのであり、私たち人間の時間の中で恩寵を与えてくださいますが、天主ご自身は、時間を超越(ちょうえつ)しておられます。「(天主は)、変わることなく、変化の影さえもない」(ヤコボ1章17節)。

聖ヤコボは続けて、父なる天主からの偉大な賜物(たまもの)を指摘しています。父なる天主は、洗礼によって、私たちを、キリストにおけるご自分の子とされました。「天主は、私たちを被造物の初穂(はつほ)とするために、み旨(むね)のままに、真理のみ言葉をもって私たちを生み出された」(ヤコボ1章18節)。

実際、私たちは洗礼を受け、「水を注(そそ)ぐことと、それに伴う(命の)み言葉によって清め」(エフェゾ5章26節)られるのです。この「真理のみ言葉」、「命のみ言葉」が、御父のみ言葉である私たちの主イエズス・キリストであり、洗礼の秘跡の言葉によって、私たちを清めてくださったのは、主イエズス・キリストです。すべての秘跡において、その形相(けいそう)はいくつかの聖なる言葉から成っていますが、洗礼(とご聖体)における言葉は、私たちの主イエズス・キリストご自身によって制定されたものです。

天主の恩寵は、自由に与えられることに注意してください。聖ヤコボは、「み旨(むね)のままに」、と言っています。それはつまり、天主からの最初の賜物(たまもの)は、常に、私たちが受けるに値(あたい)しないものである、ということです。この真理はまた、私たちが天の御父に対していつも謙遜(けんそん)で、感謝を忘れないための助けとなります。聖ヨハネが、「天主が、先に私たちを愛し給うた!」(ヨハネ第一書4章10、19節)と言うのも、このことです。

聖ヤコボが、「私たちを被造物の初穂(はつほ)とするために」(ヤコボ1章18節)と言うとき、聖ヤコボは、初期のキリスト教徒たち、特に聖ヤコボが司教であったエルザレムのキリスト教徒たちを指しています。

このような美しい原理を示した後、聖ヤコボは、この原理を日々の道徳に当てはめます。
「人はすべて、聞くに早く、語るに遅く、怒るに遅い者でありなさい」(ヤコボ1章19節)。天主のみ言葉を「聞くに早く」とは、つまり、私たちの主イエズス・キリストに従順で、天の教理を学ぶことに熱心であることです。
「語るに遅く」とは、つまり、批判するのが遅いことです。天主のみ言葉をすぐに批判し、自分が理解しなかった内容を非難する人々がいます。そのような人々はむしろ、沈黙のうちに理解しようとすべきです。

この聖ヤコボの言葉は、私たちの隣人についても、当てはまります。私たちは、隣人の話を「聞くに早く」、その人を批判するのに遅くなければなりません。私たちは、しばしば、その人の本当の状況や、動機や、事情を知らないからです。ですから、私たちは、「怒るに遅く」あるべきなのです。この「遅く」という単純な言葉は、怒りを避けるのにとても良い言葉です。憤(いきどお)りや怒りで自分の心臓の鼓動(こどう)が速くなっていると感じたら、いつでも、「遅く」行動することにしましょう。遅く話し、遅く呼吸をしましょう。

話す前に、批判する前に、心の中で小さなお祈りをする時間を取りましょう。これは誰にでも有効なことですが、特に子どもに対しては、そうです。まず、子どもに罰を与える前に、皆さんが子どもに何を期待しているかを、子どもが理解していることを確認しましょう。そうしないと、皆さんの矯正(きょうせい)は、たいしてうまくいきません。それから、子どもに、自分の間違いを直す時間を与えましょう。私の知り合いに、「3まで数える」ということした人がいます。その人は、子どもが何か悪いことをしたら、まず自分の期待を口に出すのです。「これをしてはいけません、『イチ』――これをしてはいけません、『ニ』――…」と。子どもは、「これをしてはいけません、『サン』」になったら自分が罰を受けると分かっていたため、たいていはその前にやめるのです。さて、親が望んでいたのは、子どもが悪いことをするのをやめることです。遅く行うことによって、親は子どもの矯正(きょうせい)を成し遂(と)げたのです。「怒るに遅くあれ」、これを忘れないでください。

聖ヤコボは、こう説明します。「人の怒りは、天主の正義を実現させないからである」(ヤコボ1章20節)。怒りは、しばしば私的な復讐(ふくしゅう)を求めますが、それは天主のなさり方ではありません。天主のなさり方は、「悪に悪を返すことなく、…善をもって悪に勝て」(ローマ12章17、21節)です。聖パウロもまた、テサロニケ人にこう言っています。「誰も他の人に対して悪に悪を返さぬように気をつけよ。いつも互(たが)いに、すべての人に善をすることを目指せ」(テサロニケ前書5章15節)。また、聖ペトロはこう言っています。「悪には悪を、侮辱(ぶじょく)には侮辱(ぶじょく)を返すことなく、むしろ祝福せよ。あなたたちは祝福の世継(よつ)ぎとなるために、そう召(め)されたからである」(ペトロ前書3章9節)。これが、真の柔和(にゅうわ)です。

柔和(にゅうわ)は、弱さではなく、逆に、まず自己に対する勝利、次に、やがて善が打ち砕く悪に対する勝利です。私たちの主ご自身が、怒りを避けることは第五戒の完成である、と教えておられます(マテオ5章21-22節)。

次に、聖ヤコボは、すぐに第六戒について語ります。「だから、すべての汚(けが)れや、あふれる悪を捨て去り、あなたたちの心に植えつけられたみ言葉を、柔和(にゅうわ)に受け入れなさい。み言葉には、あなたたちの霊魂を救う力がある」(ヤコボ1章21節)。言い換えれば、肉体の快楽ではなく、霊魂の快楽を求めなさい、ということです。

この世は、昔からあらゆる種類の汚(けが)れに満ちてきましたが、今日(こんにち)は、かつてないほどの状況です。そのようなものをすべて捨てない限り、誰も真のキリスト信者になることはできません。同じように、聖パウロはコロサイ人にこう言っています。「したがって、地上にあるあなたたちの肢体(したい)、淫行(いんこう)、汚(けが)れ、情欲(じょうよく)、邪欲(じゃよく)、貪欲(どんよく)を抑(おさ)えよ。これは、偶像崇拝(ぐうぞうすうはい)である。これらのことのために、天主の怒りが不信仰の子らの上に来るのである。その中に暮らしていたあなたたちも、しばらくはそのようにおこなっていた。しかし、今はすべてこれらのこと、怒り、憤(いきどお)り、悪意、冒涜(ぼうとく)、あなたたちの口から出る不潔(ふけつ)な言葉をすべて捨てよ。互いにうそを言うな。あなたたちは古い人間とその行いを脱(ぬ)ぎ、新しい人間をまとった。この新しい人間は、自分を造ったお方の姿に従い、ますます新しくなって深い知識に進む」(コロサイ3章5-10節)。そして、エフェゾ人に対してはこう書いています。「淫行(いんこう)の者、汚(けが)れた者、貪欲(どんよく)な者はみな、(これは偶像崇拝者(ぐうぞうすうはいしゃ)と同じであり)、キリストと天主の国を継(つ)がない。人のむなしい言葉にだまされるな。不従順な者の上に天主の怒りを呼ぶのは、それらの事柄(ことがら)である。だから、彼らと交わるな。もとあなたたちは闇(やみ)であったが、今は主において光である。したがって、光の子として歩め」(エフェゾ5章5-8節)。

聖パウロと聖ヤコボが対立している、という人々がいますが、これでお分かりの通り、この二人のいうことは、非常によく一致しています。聖ヤコボは、こう続けます。「ただみ言葉を聞くだけではなく、それを行うように努(つと)めよ。そうしなければ自分を欺(あざむ)くのである。み言葉を聞いてそれを行わぬ人は、鏡の中で生まれつきの自分の顔をながめる人に似ている。その人は自分を映(うつ)したが、去ってしまえば自分がどんな姿であったかすぐに忘れてしまう。しかし、自由の完全な法を一心(いっしん)に見つめて離れぬ人とは、聞いて忘れる人ではなく、実際に行う人であって、それを守れば幸せになる」(ヤコボ1章22-25節)。

ルターはこの一節に我慢できず、これが聖パウロのいうことと対立していると考えましたが、それは、間違っています。実際、聖パウロは、こう言っています。「天主のみ前に義とされるのは、律法を聞く人ではなく、律法を守る人である」(ローマ2章13節)。これでお分かりのように、両者のいうことは非常によく一致しています。どちらも、ルターの主張に反するものです!両者とも、天主の恩寵と、人間の行いの価値を、同時に肯定しています。ルターの異端(いたん)は、このふたつを対立させ、あたかも天主の恩寵が私たちの行いの価値をなくすかのように、そして、あたかも私たち人間の行いの価値を認めることが天主の恩寵に反するかのように、主張することにあるのです。 教会は、使徒ヤコボと使徒パウロの両者とともに、むしろ、私たちが善を行うには天主の恩寵が必要であり、天主の恩寵は私たち人間の行いに価値を与える、と教えています。

ですから、私たちが天主の掟(おきて)を忍耐強く守り続けるのを助けてくださるよう天主の恩寵を祈り求めつつ、天主のみ言葉に従順(じゅうじゅん)に、そして心をこめて、み言葉を忠実に実践しましょう。聖ヤコボが、「自分は宗教を行っていると考える人が、自分の舌(した)を抑(おさ)えず心を欺(あざむ)くなら、その宗教の行いはむなしい」(ヤコボ1章26節)と言うように、ルターの異端(いたん)は、まことに人を欺(あざむ)くものなのです。

「父なる天主のみ前に、清く汚(けが)れのない宗教とは、すなわち、貧(まず)しい孤児(こじ)や、やもめを見舞い、世の汚(けが)れに染まらないこと(である)」(ヤコボ1章27節)。悪を避け、善を行い、この世の腐敗(ふはい)を避け、あわれみを実践すること、これこそが真のキリスト教の道徳、真のカトリックの道徳であり、祈りの生活の実りなのです。

私たちが、使徒の元后(げんこう)たる童貞聖マリアが、聖ヤコボとすべての使徒たちとともに、この偉大な使徒聖ヤコボが今日私たちに語ったことを私たちが実践するのを助けてくださり、それによって、私たちがその実りを豊かに刈(か)り取ることができますように。アーメン。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。