Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

主の御復活は私たちに本当の希望を与える。主は愛の憐みの天主だから。私たちに約束を守る方であって全てができる方だから。

2022年04月22日 | お説教・霊的講話

2022年4月16日(主日)復活祭のミサ
聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父 説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆様、私たちの主イエズス・キリストは、真(まこと)によみがえりました。御自分の天主の力を以って、死から肉体を伴ってよみがえりました。これは歴史的な事実です。今日はその日です。

弟子たちは、恐れて隠れて戸を閉めていたにも関わらず、主の復活を見て態度を全く変えました。御復活の前と後の弟子たちの態度、教会の全ての歴史が、主が真に復活した以外の説明がつけられないことを語っています。

この私たちの主の復活は私たちに教えていることがあります。たくさん教えていることがありますが、特に今日はその二つの点を黙想することを提案します。

一つは、イエズス・キリストは真の天主であって、御自分の力で死からよみがえることができる、不可能なことが全くない、ということです。全てがおできになる方である、ということです。

もう一つは、イエズス様は私たちに、弟子たちに、「三日後に復活する」と約束されました。その通り、言葉を守ってされました。つまり、私たちの主は、決して約束を違えることがない、裏切ることがない方です。ですから私たちの主に信頼する者は、決して裏切られることがない、ということです。なぜかというと、「私の名によって祈るものは、聖父が必ず叶えてくれる」と約束したからです。

主の復活は私たちに多くの聖徳を与えようとしますが、以上の二点から、今日は特に「希望の徳」について黙想したいと思っています。

なぜかというと、主は御自分の力で、もう人間的に見れば絶対絶命だ、全くもうこれで万事休す、もうやる術がない、もう負けた、もうこれで終わった、だめだ、もうやる術がない、と見えたにも関わらず、勝利を御自分でもたらしたからです。人間の力ではできないことでも、天主にとってはあまりにも簡単なことでした。ですから、イエズス・キリストには全てができます。私たちに希望を与えてくれます。イエズス・キリストは真の天主だからです。

また、もっと理由があります。主は御復活の今日、恐れている弟子たちに、壁を通って部屋の中に、閉め切っている部屋の中に入ってきて、「お前たちに平安あれ!」と言われました。叱るのではなくて、慰める為にやって来ました。なぜかというと、主が復活されたのは、私たちに永遠の命、天主の命を与える為であったからです。主の御復活は、私たちを慰める為、力づける為であったからです。私たちも同じような復活を受ける、ということを教える為だったからです。私たちに真の希望を与えてくれます。憐みの主は、決して約束を違えることがないからです。

カトリック教会の2000年の歴史を見ると、そのことがはっきりと分かります。

初代教会が受けた300年間の厳しいローマの迫害時代、教会は何百万という殉教者を生み出しました。ローマ帝国は、軍事力、経済力、政治力、全てを使ってキリスト教を抹殺しようとしました。教会を亡きものにしようとしました。圧迫しました。しかし、ローマ帝国のとてつもない権力を以ってでさえも、軍事力を以ってでさえも、諸国を征服したその力を以ってでさえも、それはできませんでした。却ってローマ帝国は迫害を終え「キリスト教を自分の国の宗教だ」と宣言さえしました。

アリウス派の時代、全世界はアリウス派の異端に落ちてしまったかのようでした。しかし司教たちが、「イエズス・キリストは真の天主である。ただの人間ではない」とアリウス派に反対して、結局アリウス派は排斥されて、正統な信仰が復活しました。

フランス革命の時には、革命家たちがカトリック教会を破壊し尽くそうとしました。教会は没収され、壊され、瓦礫となりました。司教様たちでさえも、裏切るように脅迫されたり、死刑を以って脅されたりしました。司教様たちは殉教し、司祭たちも殉教し、修道者たちも殉教し、シスターたちも殉教して、多くの血が流されました。「もう教会はこれで終わりだ」と思われたその時に、瓦礫の中から、昔のままの教会が復活しました。あたかも何もなかったかのように、全く変わらずに姿を現しました。これはフランス革命の時でした。

カトリック教会は日本でもそうでした。豊臣秀吉の時代から江戸幕府まで、七世代、250年に渡ってキリスト教を迫害して根絶しようとしました。江戸幕府が最高の知恵を尽くして、立札とか、五人組とか、踏絵とか、色々なことが考えられました。250年間司祭がなかった、日本からキリスト教を絶滅しようとしたにも関わらず、何万人というカトリック信者が七代に渡って信仰を続けて、そして遂には七世代後にキリシタンが復活しました。信仰は生き生きとしていました。

つい最近(2008年11月24日)188名の殉教者が長崎で列福されました。17世紀前半に殉教した日本の男女の信仰者たちです。その時の日本の首相はカトリック信者でした、フランシスコ麻生首相です。その時には、日本の国営放送であるNHKがその列福式を全て生中継しました。

キリシタンを迫害する為に島原は全く更地になってしまいましたが、それに代わる別の島原城がその後、その更地にした迫害者によって造られました。今、その島原城は、キリシタンの博物館になっています。

天主に逆らって戦いを挑むものは長く続きません、どんなに困難なことがあっても、イエズス・キリストは必ず勝利します。主は私たちにいつでもどんな時でも希望を与えます。イエズス・キリストは真の天主だからです。

これはカトリック教会の歴史だけではありません。私たちの個人でもそうです。私たちにもしも辛いこと、嫌なこと、苦しいこと、あぁもうダメだ、誰も助けがない、と思った時にこそ、イエズス様を信じて下さい。イエズス様に希望して下さい。主は私たちを助けることができます。今までこうだったと思ったものがガラッと状況を変えることができます。なぜならば主は、全てがおできになる、愛の憐みの天主であるからです。私たちに約束を守る方であって、全てができる方だからです。特に私たちには絶望する理由がありません。ただ一つ、それは私たちが全て地獄に落ちてしまった時だけです。それ以外は全て希望があります。

イエズス・キリストは私たちに御恵みと、幸せと、永遠の命を与える為に、復活されました。ですから、私たちはいつも主に希望を置くことにしましょう。私たちはこの世に生きるのではなくて、永遠の命に生きる、天主の命を生きる為にこの地上にいます。

私たちが恐れるべきものは、「他の人が何て言うかなぁ」とか、「あぁ、キリスト教だと言うと…」ではありません。私たちが恐れるべきは、イエズス・キリストを罪によって悲しませること、私たちが罪を犯すことによってイエズス・キリストの敵となることです。それだけが私たちにとって恐れるべきことです。イエズス様の憐みとその愛に信頼致しましょう。

最後に、私たちは聖母マリア様にお祈り致しましょう。なぜかというと、マリア様は決して主の復活の希望を失ったことがなかったからです。私たちにいつも希望を与えて下さっているからです。マリア様はどのようなことがあっても、十字架の足下で、そしてイエズス様の亡骸を抱きながらも、墓に葬りながらも、イエズス・キリストの復活を希望していました。

今日、マリア様に、その信頼を、その希望を、私たちもいつも失うことがないようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。



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