霊魂の生命なるキリスト
第1講 イエズス・キリストによって我等を養子となし給う天主の計画
二 天主は我等を聖ならしめ天国の至福に入らしめんがために御自分の生命に与らしめ給う。
これより使徒聖パウロのテキストに従って話を進めて行くが、中には重複する所があるかも知れない。しかし問題は我等の永遠の生死に関することなので、極めて重要、深遠である。また深い沈思、観想によらなければ、よく会得できない偉大、崇高なる教義であるので、幾度繰返されようとも無益ではないだろう。さればわが霊的生命を深め、これに豊かなる果を結ばせたいと望む人は、ここに充分な時間と智と意とを用いて教義の観想に深く入り行く必要がある。
基礎的知識の必要なること。何の研究にしてもまずぜひ持たなければならないものは、それに関する原理と基礎的知識である。それはある事物に関して原理と基礎的知識を持たないでは、どのような研究も健全なる成果は挙げられないからである。しかして基礎は、これが上に築かれこれによって実現されるべき結果が重大深遠なものであればあるほど、それだけ深い精密なる考究と注意を必要とする。しかるに純理論や基礎的な学問、観察、研究は一般に無味乾燥なために敬遠され易い。しかし、これを持つ者でなければ――たとえ外観上の進歩はあろうとも――真の確実な進歩はありえない。またたとえなんらかの結果は挙げえようとも、それには確固たる安定なく、危かしさは免れない。これがここで再び霊的生活の基礎的原理を取上げて述べるゆえんである。また実際について観るに、霊的な生命、実り、歓喜は真の教義(ドグマ)の基礎を持ち、これに固められた霊魂にこそ恵まれるものである。
天主の御計画の実現はイエズス・キリストによる。さて冒頭に引用した聖パウロの考によれば天主の御計画は、
(1)天主御自らの聖徳を我等に通ずるにある。「天主は我等を御前において聖にして汚れなき者たらしめんがために選み給えり」(エフェゾ1:4)。
(2)この聖德は恩寵を原理とし超自然的性質とする養子の生活より成立っている。
(3)また特に天主の御計画は、人の言には表わしがたき深い教義であり、すなわちキリスト・イエズスによらなければ実現されがたい。
以上の三点に要約される。天主は我等が聖であることを望み給う。これ天主の永遠の御意志であり、このためにこそ我等を選み給うたのだ。「天主は我等を御前において聖にして汚れなき者たらしめんがために選み給えり」(エフェゾ1:4) 「天主の御旨は汝等の聖たらんことに在り」(テサロニケ4:3)。これを我等に望み給うのは、御自ら聖に在しこれを我等にも通じて我等を望ならしめ、もって我等を御自分の御光栄に与からしめ、またこれをもって御自分の御喜びとも御光栄ともしようと欲し給うからである。「わが父の拠りてもって光栄を得給うは汝等がわが弟子とならんこと〔聖ならんこと〕これなり」(ヨハネ15:8)。
さらば聖とはどんなことであろう? 聖とは本性より完全無欠の状態を言う。しかるに本性より完全無欠なる者は天主以外にはない。故に聖は独り天主に在すのみである。「汝独りが聖に在す」。 天主の聖はこれを人間的に言えば、次の二つの要素、すなわち一つは、天主と被造物との間に横たわる無限距離と、他の一つは、天主は永遠に現在にして不変不動なる意欲的行いによって御自らの無限なる完全なる善に固着し給うことより成立っていると思われる。
御自らを完全に識り給う天主の叡智は、本性そのものがすべての行動の最上規範であって、天主はこれに適合することでなければ、望みも承認も行動もあえて起し給わない。この最上の規範である本性への意志の合致は――天主にあっては本性と意志とは本質的に一つなるが故に――完全にして、人間の想像などの及ぶ所ではない。言いかえれば、天主の聖とは天主が無限、不変不動の完全なる愛をもって自らを愛し給うことに帰着する。しかして天主の叡智は独り天主のみが必然的なる唯一の存在、全善に在し、他の万物、万事は天主御自身に帰着してその光栄を表わすものなることを我等に教える。
天主の聖すなわち完全無欠の状態こそは、天国における天使聖人等の永遠観想の的であるが、地上の人にして天国の光栄を見た者は極めて少ない。聖書によると地上の人にして天国を垣間見たのは旧約のイザヤ預言者と新約の聖ヨハネの二人である。彼等は無数の天使聖人が天主の玉座をとりかこみ永遠の讃美を歌い捧げている光景を見たのであるが、天国での讚美の的は天主の完全な美でもなく愛でも隣みでもなく正義、御威光でもなくただ聖のみである、と伝えている。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の天主なる主よ、全地はその光栄に充ち満てり(イザヤ6:3・黙4:8)。
これはあたかも「天主よ、御身は非常に高く聖に在し最上の叡智をあって相応しくも完全に自らを讃美し給うなり」とでも歌っているかのようであるが、またそれは被造物が天主に捧げることのできる当然の讃美と言わなければならない。それは、天主の聖は被造物の成聖の基礎、唯一の源泉、普遍的規範であり、無限完全なる愛をもって自らを愛し給う天主は、作品なる被造物もまた各々その分にとどまり、創造主への依存、法則の規範に合致して、天主が自らの中に見いだし給う御光栄と、創造の目的並びにこれを実現しようとするために立て給う御計画を表わすのを望み給い、被造物は創造主、天主が立て給える法則を離れては一瞬時たりとも生存出来ないものだからである。されば我等人間が自由意志をもって天主の創造目的に合致した生活、行をなすのは、これ天主に依存することをあらわし、御光栄を揚げ、天主を愛し奉るゆえんである。従って天主への依存、愛、我等の本来の目的(天主の御光栄を発揚すること) に自由意志をもって合致したいとの念が深ければ深い程、それだけ我等は被造物から離脱してただ天主に親密に固着する者となり、成聖はそれだけ高いものとなるわけである。
聖トマは成聖の要素として純潔(即ちすべての罪や不完全の汚れなく、すべての被造物よりの完全な離脱)と天主への確固不動の固着の二つを挙げて、この二要素は天主における無限、超絶、存在の全き完全と、その御意志が永遠に変りなく御自身に固着し給う不動性に相通ずるものであると述べている。